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Binaco  作者: 水瀬いちか
19/20

19 あなたの命の価値

「あの監視員達、邪魔で仕方ないよ……。これじゃあ、通り過ぎていくしか出来ないじゃん」

 ルイは、俺にしか聞こえないくらい小さな声で、小言を洩らした。

「……でも、扉開けた瞬間警報鳴っても困るよね。いや、それより、そのブレスレットが勝手に反応して、最後の一回を使っちゃう方が怖いか……」

 あくまで、何かを探している素振りは見せず、横目で扉を確認しながら歩いて行く。

「ゼノ、俺が今思ってる事言っていい?」

「いいよ……」

 監視員に怪しまれないように、会話もボソボソと……あまり口を動かさずに喋る。

「……絶……望……的!」

「言うな、俺だって思ってる」

「はぁー……。怪しまれないように気を使ってたら、ちゃんと探せないよ……」

「まぁ、確かにそうだけど……。怪しまれて監獄に戻されてみろ、それこそ絶望的だ」

 ルイは、イラつきを隠せない様子で地団太を踏み、目についた扉に駆け寄った。

「おいっ!」

「だって! 散歩してるんじゃないんだから! 気になった場所は開けてみないと、一向に見つからないじゃん!」

「警報が鳴ったらどうするんだよ!」

 出せる限りの大声で、ルイを制止する。

「扉を開けただけじゃ鳴らない事に賭ける! ゼノは離れてて! そのブレスレットが反応したら、大変だか――」

「……どのブレスレットですか?」

「……っ!」

 思わぬ人の声に、俺達は身を凍らせた。

「……感心しませんね。こそこそと、何を企んでおられるのでしょうか」

 ――振り返ると、書類を抱えたルイスが険しい顔をして俺達を睨みつけている。

その視線は、ルイから俺へ……、そして、とっさにブレスレットを隠した手元へと向けられる。

「……」

「えっと、迷って……っ」

「……この施設の中で? 嫌と言う程、往復して来たのでは?」

「部屋が変わったから……っ」

「……」

「本当に……っ」

 息が詰まるような沈黙が流れる。

「……いいでしょう。部屋まで案内します」

 そう言って、ルイスが抱えていた書類を持ちなおそうとした瞬間、山積みになっていた書類の一部が床に落ちていった。

「――ゼノ、行こう!」

「おっ、おう……」

 ルイは、チャンスと言わんばかりに俺の手を取って駆け出す。

ところが――

「……っ」

「……ルイ?」

 散らばった書類の中で一瞬足を止め、ルイスの方を振り返る。

「ルイ、どうしたんだよ……っ」

「……行きなさい。私は、大事な書類を紛失していないか、確認しないといけません」

「今のって……」

「聞こえませんか? 行きなさい」

「……ゼノ、行こう!」

「……?」

 俺は、訳が分からないまま、ルイに連れられて元来た道を戻った。

「ルイ、何だ? 今のやりとり……」

「……わざと、かな……今の……」

「だから、何が?」

 ルイは、足を止め、俺の方へ向き直った。

「さっきの書類の中に、ID管理室の資料があった」

「え?」

「言ったよね? 俺、一度見た物の形は忘れないんだ。文字も、絵も、図も……。あの通りに行けば、ID管理室へ行ける!」

「まじかよ! じゃあ……っ!」

「……でも、地図だけじゃない。何時から監視がいなくなるとか、認証カメラとかメインPCの位置とか……。内部の人間が、あんな資料必要だと思う?」

「俺達をおびき寄せて……捕まえる為?」

「その可能性も、無くはないよね……。あの人なら、ブレスレットの存在知っててもおかしくないし……。命令なら、何だってするだろうし……」

「……」

「でもさ、ID管理室の場所は分かった。とりあえずは一歩前進……だよね?」

 そうは言いつつ、俺もルイも最悪の場合を考えずにはいられなかった。ID管理室の場所が分かった事も、手放しで喜べない。

「あぁ……」

「だよ……ね」


俺達は、すぐに部屋に戻り、ルイが見た書類の事をヴァロアとリノに報告した。

 ヴァロアは少しの間考え込み、やがて吹っ切れたように切り出した。

「計画は、変えたくない」

「でもっ、俺達を捕まえる為の餌だったらどうするの? 捕まったら、終わりだよ……」

「捕まらなければいい、それだけだ」

「どうやって!」

「……これを使う」

 ヴァロアは、部屋に隅に置かれたロッカーから、拳銃を取り出した。

「ヴァロア……! これは、もう誰も傷付けない方法だって……!」

「僕が……やります」

「リノ!」

「いや、俺がやる」

「……それは、使いたくない。ヴァロアにも、使って欲しくない……」

 ヴァロアは、俯く俺の頭をそっと撫で、笑って見せた。

「……ゼノン、ここに来なければ、ゼノンは明日何をしてた?」

「……儀礼祭に出てた……と、思う」

「ロマーノは?」

「たっけぇスーツ着て……、俺の儀礼祭を見に来てたと思う……。楽しみにしてたから……」

「……そうだ。当たり前に、そんな明日が来るはずだった。……ルイは、新しい大学生活の準備をして、リノだって、今とは違う人生があったはずだ。……でも俺は、きっと違った」

「……ヴァロア」

「俺は、たった一人に報復する為だけにこの十年生きてきた。その目的を失って、一度は明日を生きる意味を失った。……でも、ゼノンやみんなのおかげで、もう一度その意味を取り戻したんだ。俺は、お前の明日を守りたいって。ゼノンだけじゃない。――ルイにも、リノにも……、ここじゃない明日が待ってるんだ。……俺は、それを守る為に生きたい。……何があってもここから出たいんだ。ゼノンを、儀礼祭に出してやりたい」

 再び、部屋に張り詰めた空気が流れる。

――ヴァロアの気持ちは、有難い。俺だって、この計画を無効にはしたくなかった。

だけど、その罪をヴァロアだけが引き受ける事は、計画が無効になるのと同じ位痛い。

「……もう、戻れないよね」

 沈黙を破ったのは、ルイだった。

「……この奉仕に参加した時点で、俺達は一生分の罪を背負ってるんだよね。自分達の保身の為に、他人の命をポイントに変えた――傲慢で、自分勝手な罪……。皆が助かる為の行為なら、ヴァロアだけの罪じゃない。俺も、一緒にその罪を受けるよ」

「ルイ……」

「ありがとう、ルイ。心強いよ。……ゼノン、リノ、いいか? 計画は……変えない」

 ――迷ってる時間は、もう無いんだ。

俺達に残された選択は、ここに残って更に罪を重ねるか、明日で全てを終わらすか……。

「……俺も、背負う。始めの夜に、杯を交わしたんだ。――俺達の明日を、取り戻そうって」

「異論は……ありません」

 リノがボソリと言う。しかしその言葉には決意のようなものが滲んでいた。

「決まりだな。――はぁ……良かったよ。全力で阻止されたら、どうしようかと思った」

 ヴァロアは、力が抜けたようにベッドに腰掛けて笑った。

「良くも悪くも……、明日全部の結果が出るんだね」

「……そうだ。でも、悪い方は絶対にない。……あってはいけないんだ」

「……そうだね」

「ルイ、監視がいなくなる時間は、九時って言ったな? 経路も、覚えてるか?」

「完璧だよ。絶対にそこまで案内してみせる」

「……それじゃあ、明日の九時だ。九時に、ルイ達の部屋でいいな?」

 全員が、顔を見合わせて頷く。

そして俺達は、明日の朝までは各々の時間を過ごす事で一致した。

――正直、話している間も緊張で喉がカラカラで……、明日の事を考えると、内臓が浮き上がる様な妙な感覚に襲われた。

失敗する心配はもちろんだが、幼い時から焦がれていた儀礼祭の事を考えると、冷静でいられない。父さんの為にも、ロマーノの為にも、俺自身の為にも……、このチャンスは、絶対に逃したくなかった。


俺は、多分一緒に過ごそうと提案しようとしたルイの誘いを断り、一人屋上へ来ていた。

「ここから、全てが始まった……」

――いや、俺の人生の初めての分岐点は……、父さんが死んだ事だろうか。信じていた十五番区にあっさり見捨てられて、この街の何処にも居場所が無くなった。

そして、あの少年と出会った……。

その瞬間から、俺の人生は大きく一変したんだ。

「あなたの命に、価値はありますか……か」

 ――今でも、鮮明に思い出す。

雨の中、十四番区との境で途方に暮れていた俺は、傘もささないびしょ濡れの少年に出会った。……ちょうど、俺が捕まった橋の近くだ……。

「……何処の誰だか知らねーけど、あったみたいだ……価値。じじぃと、ロマーノが守ってくれた命だから……」

 でもあの時は、……答えられなかった。

何より、俺と同じように――いや、俺以上に、世界から見捨てられたようなあの少年に、……声をかけずにはいられなかったんだ。

俺は、あの儚い灰色の目を、今でも忘れられないでいた。


『あなたの命に……価値はありますか?』

『え……?』

 ――振り向くと、その少年はいた。

その日は大雨で、俺は増水した川の流れを見ながら、行き場もなくただ立ち尽くしていた。

『両親は他界……家も追い出され……あなたは、この世界で独りぼっち……』

『うん……、そうみたい……』

 ――大雨の中傘もささずに、降りしきる雨に打たれ、今にもこの世界から消えてしまいそうなその少年は、……突然俺の前に現れた。

雨音が激しく響く中、ポツリポツリと、壊れた機械のように言葉を紡いでいく。

『もう誰も……この街も……あなたを助けてくれない。世界は……あなたを不要とした』

『……やっぱり、そうなのかな?』

 ――その言葉は、俺に向けられた言葉と言うよりも……、彼が、助けを求めるもう一人の自分に答えているようだった。

『あなたは……、ただ独りで生きていくしかない……。不要とされたあなたに……、この街は、這い上がるチャンスを与えない……。だから……、僕はここにいる。……あなたの命を、終わらせる……』

『……何を言っているの? 君は、僕を殺すの?』

 歩み寄ろうとした俺を、彼の全身が拒否する。一歩、また一歩と後退りしていく。

『もう一度聞きます……。M10775、あなたの命に……価値はありますか?』

『まだ、分からない』

『……それは、いつ分かる……?』

『それも、分からない』

 彼は、後退りしていた足を止め、俯いたままだった顔をゆっくり上げた。――濡れた前髪の奥から覗く、薄い灰色の目……。

その目は、降りしきる雨さえも映さず、俺だけを捕えて離さなかった。

『分からないのに、生かされているのは……苦しい……』

『……そうだね、今はちょっと苦しいかも。……でも、生かされているんじゃないよ。生きたいんだ』

『……どう、して……』

『僕の父さんが言ってた。『人生を恐れるな。人生には生きる価値があるのだ、との信念が価値ある人生を創造するのだ』って……。僕もまだよく分からないけど……、もっと大きくなったら、きっと分かると思うんだ』

『……ウィリアム……ジェームス……』

『知ってるんだ。……そう、だからね。価値があるかどうかは分からないけど……でも、そう信じていたいと思うよ。父さんから教えてもらった大切な言葉だから、僕も人生を恐れたくないよ。例え、独りぼっちでも……』

『……っ』

 ――薄い灰色の目が、酷く動揺していたように見えた。

『……君は?』

『僕……』

『何で傘もさしてないの?』

『……』

『君は何処から来たの?』

『……』

 後退りする事も忘れ、近付いていく俺の目から目を離さなかった。

『君の両親は? 父さんは、いる?』

『……殺した。僕が……この手で……』

『殺した?』

『そう……。だから、僕の手は……』

『冷たいね、手』

『……っ』

 その冷たい手に触れた瞬間、体が硬直するのを感じた。俺を捕えていた目は、大きく揺れながら、握った手元へと移されていく。

『傘もささないでいたら……風邪引くよ』

『……っ』

『よく分からないけど……、君は……苦しそうだ。君も行く所が無いの? 独りぼっちなの? さっきから、寂しそうな顔してる』

『寂しい……?』

『僕と一緒に来る?』

『一緒、に……』

『僕の命に価値があるなら、君にだってあるよ。僕は今独りだけど、君が一緒なら独りじゃない。君も、僕が一緒なら独りじゃない。そうでしょ?』

『……っ』

『こんなにびしょ濡れで、手も氷みたいに冷たいけど……、二人で傘に入って、こうやって手繋いでいれば、温かいよ』

『……』

『……どうしたの? 何処か痛い?』

 ――この言葉の続きを最後まで聞いていれば、何かが変わっていたのだろうか。

この少年の抱えていた孤独を、俺は分かってあげられたのだろうか……。

『僕は……、君を不幸にする……。僕の手を取った事を……君は必ず後悔する……。だって、僕の手は……、今君が独りぼっちなのは……全部、僕のせ……』

━遊びは終わりだ。何をしに来たか、忘れたわけではあるまいな━

『……っ』

『何? 君のIDブレスは、男性のガイドなの? この街は、女性ガイドで統一されてると思ってたんだけど……。僕の、聞く?』

━その少年と共に逃げ出す気か? ヤツを殺したお前が、その少年の手を取れるのか? そんな、罪に濡れた汚れた手で……━

『……!』

『わっ、どうしたの? ごめん、手握ったの嫌だった……?』

━ははは、それでいい。その汚れ手で、これ以上の犠牲を生むなど……神もさぞかしお嘆きになるだろう。私は何故、こんな罪深い子をこの世に落としたのだろう……と━

『……っ』

━貴様ごときが、一人前に人間らしい感情を持つなど反吐が出る。空っぽの貴様が、一体これ以上何を失えると言うのだ? 生きている事それ自体が、罪の塊のような貴様が……。いいか、あまり手間をかけさせるな。出来ないと言うなら、今すぐ他のヤツを向かわせる。貴様はもう、不要だ━

『ねぇ、その人……何処かで僕達の事見てる? 何で、君が僕の手を振りほどいたことが分かるの?』

『認証……カメラ……』

 彼の意識は完全に俺から離れ、緊迫した面持ちで周囲を見渡していた。

『それに、何で君は何も言い返さないの? 許せないよ……君をバカにした! 君を軽んじた! 彼は間違ってるよ! 学校の授業で習ったんだ! 例え、どんな罪を犯しても、神は決して僕達を見放……っ!』

 ――その時だった。

『くっ……!』

突然、俺の視界に細長い……黒い筒状の物体が入り込んできた。

俺達の周りの時が動きを止め、全てがスローモーションに変わっていく。

『何、を……』

 そして彼は、握りしめた銃の引き金を、躊躇いもせず引いた。

 撃ち放たれた銃弾が、俺をめがけてゆっくりと飛んでくる。それは、徐々に加速しながら、俺の頬をかすめていった。 

――ウォーーーーーーン!!

━警告します。認証カメラの破損を確認しました。警告します。十五番区port8にて……━

『何……で……っ』 

 鳴り響く警報音のせいで、激しい雨音も、口を開いた彼の言葉も、自分の発する声さえも聞こえない。頭の中が真っ白になり、近付いてくる彼が、どんな顔をしているかも見る事が出来なかった。

『……ね』

 彼の冷たい手が、俺の体に触れる。

『……、ね……ゼノン……』

 ――ウォーーーーーーン!!

『……っ!』

次の瞬間、俺の体は大きくグラついた。

見開かれた目の中には、雨雲を被った灰色の空と、突き刺してくるような大量の雫だけが映る。

『え……?』

そして、何が起こっているのか脳が理解するより前に、……俺の体は川に落ちていった。

――目に、鼻に、濁った汚水が容赦なく入り込んでくる。


『……回収対象者……問題なく……回収しました……』

━認証カメラを潰したか、小賢しいガキめ……。嘘を吐くな、生存反応が出ている━

 ――俺は……このまま死ぬのか? もし死んだら、あんなに焦がれていた儀礼祭にも出られないのか……。


━回収対象者を何処へ逃がした━

『殺し……ました……。僕が……また、この手で……』

━あくまで白を切るつもりか。……まぁいい、貴様がヤツを逃がした所で、ヤツの運命は変わらんよ。いずれは、ここで回収されていた方が幸せだった人生を送ることになる━

 ――成人ナンバーも貰えずに死んでいくのか……。こんな惨めな死に方をする為に、俺は生まれてきたのか……?


━回収対象者を逃がしたペナルティだ。――貴様の今までの、全成功ポイントを剥奪する。加えて、今後のポイント加算率を……━

『いり……ません……』

━……貴様の意見など聞いておらん。これは命令だ━

 ――仮に、このまま命が助かったとしても、俺の人生に一体何が待っている……。

もう何処にも……俺を待っている人はいないんだから……。


『ポイントは……もう……いりません……。僕は……存在している事が……罪なんです……。また大事な人を……傷付けた……、この手で……殺したかもしれない……』

━ふはははっ、いいぞいいぞ……やっと分かったか。ああ、聞いてやろうとも。……教えてくれ、自分みたいな人間が生きている罪深さを認識した貴様は、一体何を想い、何を望むのだ?━

 ――だったら、あの子の言う通りだったかもしれないな……。俺の命に、価値なんて……――


『……IDを……放棄します……』

 ――無かったのかもしれない……。


━……なるほど、一生死人同然の生き方を選ぶわけか。貴様には相応しい生き方だ。生きていれば、その汚らわしい手で、存在で、他人を傷付ける。貴様が触れた人間は、皆不幸になっていく。……それなら、一生この施設で、生きる死人になる道を選ぶというわけか。いいだろう、ID放棄を許可しよう。それが、罪の塊のような貴様にも出来る、唯一の罪滅ぼしだからな━

『はい……ありがとうございます……』

 ――息が……苦しい。全身の力が入らない。

もう、意識を保っている事が出来ない……。


『……お迎えにあがりました。……車へ』

『……』

『一つ、聞かせてください……。あなたは、本当にそれで良かったのですか? ここから出れば、もう一度あの少年に会う事も出来るのですよ。叶わなかったあなたの願いを、彼との約束を……果たす事が――』

『会わない方が……いい……。あの子……僕の手を……握った……、冷たいねって……。でも僕は……またこの手で……傷付けた……』

『彼を守る為です。あなたは正しい事をした』

『死んだかも……しれない……』

『ですが……っ、じゃあその涙は――』

『これで……良かったんです……』

 ――そうか、俺はこのまま、二度と誰かに必要とされる事も無く、温もりに触れる事も無く、この冷たい川にのまれて死んでいくのか……。

……なんて惨めな終わり方だろう。


『だから……あなたは、ゼノン……』

それなら、こんな所で死んでしまうなら、あの少年のあの銃で……――


『……何処かで生きていて……』

 ――殺して欲しかったよ……。


「懐かしいな……」

 ――俺はあの時、薄れていく意識の中で、『殺してくれればよかった』って、ほんの一瞬、……本気で考えた。でも俺は、何故だか生きてて……。二番区に流れ着いた俺を、ロマーノが拾ってくれたんだ。俺を必要としてくれる人が、再び温もりを与えてくれる人が、確かにそこに居た。

「そう思うと、あの少年に感謝しなきゃだよな……」

 確かに俺の人生は、あの少年に出会った瞬間から、あの時川に落ちた瞬間から、本当に転落していった。俺に銃口を向けた理由も、川に突き落とした理由も分からず、理不尽な彼の行動を、心の何処かでずっと憎んでいた。

でも、それでも……、ロマーノと出会えた事だけは、感謝する事はあっても後悔した事は一度だってない。……そう思うと、あの少年とも、出会うべき運命だったように思える。

 懐かしい、思い出すとまだ少し胸が痛むこの記憶は、ずっと記憶の奥深くに閉まっていた。ロマーノにだって、一度だって全ての話をした事は無い。

 ――ちゃんと話せばよかった……。

そう、少し後悔していた。

ロマーノは、最後に俺と出会うまでの全てを話してくれた。そして、俺の事をどれ程愛しているかを伝えてくれた。

「俺も……、ちゃんと話したかったな」

 ――どれ程、ロマーノとの出会いに感謝していたか。必要だったのは、必要とされたかったのは、ロマーノだけじゃないんだって事を……。

「聞かせて……ください……」

 突然の声に、一瞬記憶が錯綜する。

「え……?」

 ぼーとしていた俺の脳が、再び十年前の記憶を取り寄せる。

――だって、この声……、この雰囲気……、あまりにも、十年前と似ている……。

まるで、十年前のあの場所に立っているかのような感覚に、俺は振り返られずにいた。

「聞かせて……ください……。ゼノン・バリオーニ……」

「何、を……?」

 ――嫌な予感がするんだ。

振り返ると、あの少年が立っているような気がしてしまうんだ。まるで、あの日に戻ってしまったかのように……。

「あなたの命に……価値はありましたか……?」

「……っ」

 ――何で……、この台詞を……。

一瞬で、喉の水分が奪われていく。飲み込んだはずの唾が、乾いた音を立てて消えていく。

俺の全身が『やめろ』と言っているのに……、ここから逃げ出せと言っているのに、やっぱり今回も……振り返ってしまうんだ。

そして――

「ごめん……なさい」

「……っ」

 そこに立っていた少年は、俺と同じくらいの背丈に成長した、変わらず薄い灰色の目をした……――

「リ……ノ……?」

「ごめんな……さい……」

 ……リノの姿だった。

あの時と同じように、俺の目を捕えて離さない。ただ一つ違う事は、その灰色の目が、大きな涙の雫を流していた……。

「リノ、今の言葉……どうして知ってる……?」

「僕は……ただあなたを……守りたかった……」

「何の、話……?」

「何処かで生きてて……あなたが幸せなら……それでよかった……。それなのに……、何でこんな所へ……。何で僕の前に……」

 リノは、栓が抜けたかのように、その場に崩れ落ちた。

「分かって……たんです……。僕は、あの時……アルドの手を取るべきじゃなかった……。全ては……僕のせいだった……」

「アルドって、まさか……」

「アルド……、アルド・バリオーニ……。あなたの……父親です……」

 ――沢山の記憶が、俺の脳の中で鮮明に再生されていく。それは、鮮やかに、残酷に――俺に、全ての真実を突きつけてくる。

『皮肉なものですね。絶望の元が、気まぐれに希望の光を与え、再び彼を絶望させる気ですか?』

 ――十年前、俺とリノは出会っていた?  あの橋の上で……。

『そんなリノの元へ、毎日通う馬鹿な男がおったんじゃ』

『……ウィリアム……ジェームズ……。僕の父も……好きだった……』

 ――リノを救おうとした職員って、まさか……。

『――リノ、この子の名前は?』

『……アルド……。大事な人の……名前』

 ――俺の、父さん……?

リノは、気付いていた……?

『……あなたの手は……やっぱり……』

『――え?』

『……やっぱり……温かい…』

『やっぱりって……?』

『……僕は……この手を……知っている……』

――あの時の相手が、俺だったって事を。

 集約した事実達が、俺の頭を更に混乱させていく。

「アルドは……僕を救うと……約束してくれました……、僕の家族に……なってくれるって……。……そして僕は……願ってしまったんです……。あなた達家族と……共に生きる事を……。ここから出て……あなた達と幸せに暮らす未来を……夢見てしまった……。それが……僕が最初に犯した……最大の罪です……」

「……っ」

 涙を流すリノに、何か言ってあげないといけない……。前みたいに、涙を拭ってあげないといけない……。

それなのに、どうして体が動かない……。

「あの時……僕がそんな望みを持たなければ……アルドの手を取らなければ……アルドは死ななかった……。僕が……あなたを……この世界で……独りぼっちにさせてしまった……。僕の欲深い願いのせいで……あなたの居場所を……奪ってしまった……。それが……僕の二つ目の罪です……」

「……っ」

 ――まるで、神に赦しを請う罪人のような絵だった。

涙を流し罪を告白していくリノが罪人だとしたら、何の言葉も掛けずにただ見下ろしているだけの俺は……、なんて残酷な神なんだろう。

「罪深い僕に下された罰は……あなたを回収する事でした……。この施設は……アルドが情報を漏洩した可能性を恐れていた……。でも僕は……独りぼっちになったあなたを……この街に敵と見なされてしまったあなたを……楽にしてあげたかった……。きっとあなたも……生きる望みを失って……生かされている事を苦しんで……死を望んでいると思ったから……。でも、同時に僕は……兄になるはずだったあなたに会える……僅かな期待を捨てきる事が出来なかった……。心の何処かで……まだあなたの弟になれる事を願っていた……。その甘さが、僕の三つ目の罪です……」

「あの時……そんな想いで……」

 ――知らなかった……。

何も知らなかったから俺は……、突然現れた見ず知らずの少年に、人生を狂わされたと憎んでいた……。

「でもあなたは……人生を恐れないと言った……。生かされているとすら……思っていなかった……。生きたいと言ったあなたを前に……僕は何も出来なかった……。それどころか……あなたは僕の手を握って……一緒に生きようと言ってくれたんです……。あの瞬間、僕の欲深い願いが……叶ってしまった……。あなたの手を握って……共に生きたいという願いが……。甘さを捨てきれなかった僕は……またあなたの手を取ろうとした……、アルドの時と同じように……。でも僕は……その罪の重さを知っています……。僕の手は……人を傷付けてしまうから……。……臆病な僕は……あなたの手を取る事も……あなたに銃口を向ける事も出来なかった……。……ただ願った事は……あなたに何処かで生きていて欲しい……アルドの言葉の答えを……見付けて欲しい……と……」

「それで……俺を突き落した……?」

「認証カメラは……全てを見ています……。僕があなたを殺さなければ……別の誰かが……あなたを回収したはずです……。……それなら僕は……最後にもう一度……大切な人を苦しめる罪人になろうと思いました……。この手で……あなたを殺した事にしようと……。あなたの小さな体を……苦しみへ突き落した罪……。それが……僕の四度目の罪です」

「守って……くれたのか、俺の事……?」

 ――不自然で、理不尽だった過去が……、十年たった今、一つ一つ溶かされていく。

俺の中にこびり付いていた恨みの感情が、涙となって溢れ出した。

「せめて……何処か遠くで……出来るだけ遠くで……あなたの命が続いている事を祈りました……。あの日、たった数分……あなたの前に現れた少年の事は忘れて……幸せに生きていてくれれば……それで良かった……。僕に出来る事は……せめてこの願いが叶うようにと……あなたの居ない所で願い続ける事……。この手で……二度とあなたから何かを奪わない為に……一生あなたの前に現れない事……。それが、あなたからアルドを奪った罪と……あの日あなたの前に現れた罪への……僕に出来る……唯一の罪滅ぼしでした……」

「罪なんかじゃない……、頼むから……顔を上げてくれ、リノ……ッ」

「いいえ……、僕が生きている事は……罪です……。……何故なら……」

「違う……っ! 違うから……頼むよ……」

 小さく震えるリノの体が、自ら処した罪で雁字搦めになっている。コンクリートに落ちる雫の数が、その罪の重さを物語っている。

俺には、その震える体を抱きしめる以外の選択が、何一つ浮かばなかった。

「……っ」

「……罪なんかじゃない」

 抱きしめた腕の中で、リノの体に力が入っていくのを感じる。触れると、いつも冷たくて、緊張で張り詰めている。

十年前から、変わってないんだ……。

「……何故なら、僕はまた……あなたに出会ってしまった……。たった十年では……僕の罪は償えない……。まだ……何も償えていない……。それなのに……あなたはこんな所に来てしまった……。また僕の手を握って……こうやって今……僕はあなたの腕の中にいる……。あなたの前に……二度と姿を現さず……あなたが生きてくれている事を願う事こそが……僕に出来る唯一の……罪滅ぼしだったはずなのに……。僕は……またあなたに会えて……またあなたの手に触れて……嬉しいと感じている……。あなたとここから出る事を……願ってしまっている……。……その欲深さが、僕が懺悔するべき最後の罪です……」

「違う、リノ……。それをリノが罪だって言うなら……俺だって同じだ。あの時俺は、振りほどいたリノの手を意地でも離すべきじゃなかった……。落ちていく瞬間、リノの手を取って、あの場から連れ去ってやれば良かった……」

「……違う……」

「違わない……! だって俺は……、自分だけが傷付けられたって思ってた……。理不尽な出会いを、……心の中で恨んでた。……でも、俺はあの時、苦しみに落ちて行ったんじゃなかった。もっと深い苦しみから、リノが守ってくれたんだ……。それを、十年間も気付けないまま……リノだけに罪を押し付けて生きてきた」

 腕の中で震えるリノの細い体を……涙を零す薄い灰色の目を……どうして十年前に救ってあげられなかったんだろう。

リノの想いを何一つ理解せず、自分だけが被害者のように感じて……。これよりもっと細くて小さかった体を、罪の鎖で身動きが取れなくなるほど縛ってしまった。

 俺がロマーノと出会って、手を繋いで帰っていく間……、リノはただ一人、誰もこの手を握る事無く、あの暗い監獄の中に戻って行ったのだろうか。びしょ濡れだった体を、温めてくれる人はいたのだろうか。……どんな気持ちで、IDを放棄したのだろうか。

そう思うと、どうしようもなく涙が溢れ出てくるんだ……。

「十年間も……、この施設の中で……独りぼっちで……、何を想ってた……?」

「あなたを……想ってた……」

「苦しくないわけがないんだ……。IDを放棄しても、リノは人間だ……。心だってある……」

「あの日……あなたが僕の手を握ってくれたことだけは……忘れなかった……」

「それだけじゃ……、あまりにも薄すぎる……。ほんの数秒の記憶だけじゃ……、十年間の孤独には勝てない……」

「充分でした……僕にとっては……」

 俺が、ロマーノと喧嘩したり、星を見たり、消えない思い出を積み重ねていっている間、リノはたった数秒の記憶だけを頼りに十年を過ごしてきた。あの、暗くて……冷たい監獄の中で……来る日も来る日もあの角に座って……。消えないように、遠い過去にしがみ付いて……。

「リノ……。十年前の続きを……もう一度やらせて欲しい……」

「え……?」

 リノは、涙で濡れた顔をあげた。

「もう……、この街に翻弄されるだけの無知な子供じゃないんだ……。あの時リノが背負った罪を、俺が拭ってやれなかった孤独を、今なら突っぱねてやれる……」

「あの時の……続きを……」

「まずは、あの日の質問の答え……。俺の命は、すっげー価値があった。大切な人が繋いでくれた命だから、何があっても捨てる事は出来ないって思う。……だから、リノ。あの日、俺の前に現れて、俺を生かしてくれて、ありがとな……」

「ありがとう……だなんて……」

「それと、リノがまだ望んでくれるなら、もう一度聞きたい事があるんだ……」

「もう……一度……」

 十年前、リノ自身が放棄してしまった全てを、今もう一度取り戻したい。

二度と交わる事のないはずだった俺とリノの時間を、再び動かしたい。

「一緒に、生きて行こう……リノ。まだそれを望んでくれるなら、家族として、リノの傍にいたい。これから先、ずっと……」

「家族……」

「今度こそ、ここからリノを連れ出してやる。……今度は、一緒にだ。もう、リノだけを置いては行かない」

 繋いだその手に、二人の涙が零れ落ちていく。……確かに今、俺とリノは繋がっている。

「……もう一度……、望んでも……いいんですか……? あなたの手を取って……共に生きていく事を……」

「望んで欲しい。俺は、それを必ず叶えたい」

「僕の手で……あなたを……傷付けるかもしれない……。あなたは……僕の手を取った事を……後悔するかもしれない……」

「またこの手を離したら、俺はもっと後悔する。例え傷付く事があっても、俺はリノの前から絶対にいなくならない。約束する。だから……」

 どうか……リノが自分に処した罪を、赦す時を迎えて欲しい。苦しみ続けた十年間のリノを、鎖から外してあげたい。

 やっと、老いぼれが言った言葉の意味が分かったんだ。

『……どうか、見捨てないでやってくれんか。あいつは、充分その罪を償った。この十年間、何度も何度も自分を殺し、男が味わった苦しみを自らに与え続けた。どうか、終わらせてやってくれはせんか……』

 ――俺に終わらすことが出来るなら……。

「だから……、自分に罪を処すのは終わりにして欲しいんだ、リノ。もう、苦しまなくていい。今日、今ここで……もう一度俺の手を取って欲しい。俺は、それを絶対に離さないって、十年前とは違うんだって事を、これからの未来で証明していくって約束する」

「もし……赦されるなら……」

 リノは、躊躇いながら俺の手をぎゅっと握り返した。一瞬力を抜き、また強く握る。

繋いだ手の温もりを、刻み付けるように強く……。

「赦されるなら……僕は……この手を離したくない……。一緒にここを出て……人間として……あなたの家族として……僕も……生きたい……」

「あぁ、生きていける……」

 そう言ってリノを抱きしめると、リノは初めて俺を抱きしめ返した。

俺の背中に、リノの腕の温もりが伝わってくる。

「僕も……ここから……出たい……っ」

「あぁ、一緒に出よう。必ずだ……」

「あなたと……もう一度……」

「……ゼノンだ。俺はリノの兄になるんだから、ちゃんと名前で呼んで」

「……っ」

 リノは、涙で濡れた目を瞬かせ、俺の顔をじっと見つめた。

「ゼ……ノン……」

「うん……」

「ゼ、ノン……。……ゼノン……」

「ははっ、いいよそんな何度も呼ばなくても」

「……はは……っ」

 そして、初めてリノが――笑った。

その笑顔は、今まで見た何よりも尊く、綺麗なものに感じる。綺麗な白い肌が、透き通った薄い灰色の目が、夕日に照らされて、温かいオレンジ色に輝いていた。

リノの涙を初めて見た時以上に、その笑顔に魅了されていた。

「……天使の笑顔……」

「天、使……?」

「あーいたっ! こっちにいたよ、ヴァロア! 何処行ったかと思って心配してみれば、何抱き合ってイチャイチャしてんのさ、お二人さん」

屋上に繋がる階段から、ルイがひょこっと顔を出した。

――俺は、急いで涙を拭い、平然を装う。

「……何だよ、ルイ。今リノを口説き落としてたんだから、邪魔すんなって」

 泣いたせいで、声が鼻声になってる……。 せめて冗談でも言って、泣いてた事だけは悟られないようにしたい。

「おっ落とす……!? ゼノ……、俺は今、とんでもなく妬いてるよ……っ」

「勝手にしろ」

「……ははっ……」

「え……? リノが……笑った……」

 ルイとヴァロアは、この世の物ではない物を見たかのような顔で、リノの事を見た。

「リノ……笑った顔……天使みたい! 可愛いっ、可愛いよリノー!」

 ルイは、リノの元へ駆け寄って、勢いよくリノを抱きしめた。

「驚いた……」

 ヴァロアは、驚いた時も片手で顔を覆う癖があるらしい。口元を覆いながら、笑ったリノの顔から目を逸らせないといった感じだ。

「驚いたよ……。ルイの言う通り、この世のものとは思えない……まるで天使だな。……さすがだよ、ゼノン」

「うん、うんっ! 俺の弟は世界一可愛いよ! お兄ちゃん泣きそうだよ!」

「僕のお兄ちゃんは……ゼノン……」

「え……、俺でしょ……?」

「ゼノン……」

「……ゼノ酷い……、本当にリノの事口説き落としたでしょ! 何で俺、お兄ちゃんのポジション剥奪されてんの!」

 ルイは、リノの事を抱きしめながら、涙目で俺に訴えかけた。

「それは、まぁ……ずっと昔から決まってた事なんだよ。ははっ、残念だったな、ルイ」

「ちぇっ……そんなの納得出来ないや。じゃあ俺、真ん中に入るよ! ゼノの弟で、リノのお兄ちゃんでいいや」

「『いいや』じゃねーよ。断る」

「――ははっ、そろそろ戻ろう。もう夜になる。明日は朝早いし、俺達にとって大事な日だ。今日は早めに休んで、明日に備えよう」

 ――どうか、全員で……もう誰も欠ける事なく、無事にここから抜け出したい。

失った俺達の明日を、取り戻したい。

この笑顔に終わりが来ない事を祈って……俺達は、運命の明日を迎える。


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