15 一等星
施設に戻って案内されたのは、今まで収監されていた監獄ではなく、立派なベッドを備えた小奇麗な個室だった。
俺達に用意されていた部屋は三つ――ルイとリノで一部屋、ヴァロアが心配だからと、ロマーノとヴァロアで一部屋、そして俺が一人で一部屋使う事になった。
……正直、一人の部屋で良かった。
俺は、ずっと焦がれていたベッドには一度も横たわらず、いつもの癖で、壁に寄り掛かったまま朝を迎えた。
分かっているのに、充分理解しているのに、この壁の向こうに老いぼれが居るような気がして、……どうしてもここを離れる事が出来なかった。
……固くて冷たい壁が、老いぼれの死を何度も伝えてくる。もうどれだけ待っても、二度と老いぼれは現れないのだと気付かされ、どうしようもなく涙が溢れた。
――あと何度こんな夜を迎えれば、思い出して涙が出なくなるんだろう……。あと何度涙を流せば、老いぼれが居ない夜を受け入れる事が出来るんだろう……。
「じじぃ……」
泣きはらしたはずの目から、再び涙が零れる。
『……相変わらずわしの事が好きじゃなぁ、ゼノン』
「……遅せーっつーの……。ずっと……待ってたんだからな……」
『わしはずっとここにおったわ』
「……じゃあ、声掛けて……くれよ……。いつも……来てるのか……来てないのか……分かんねーんだよ……」
『……ちょっと考え事しておってな。いつでもお前さんの相手をする程、暇なじじぃじゃないのじゃよ』
「考え事って……何だよ……。じじぃ……本当に、もう俺の相手は出来ないのか……? どこにいるんだよ……じじぃ……」
『…………』
「……俺は、ここにいる……ここで……ずっと待ってる……じじぃは、どこにいる……?」
『…………』
「……何か言ってくれよ……。いるんだろ……本当はそこに……。じじぃの声、聞こえないんだ……」
『…………』
「……頼むよ、もう一度……もう一度だけでいいんだ……。呼んでくれよ……」
もう聞こえるはずのない老いぼれの声。
『ゼノン』と、俺の名前を呼ぶ声がどんどん薄れていく。
俺は、その場でうずくまり、声を押し殺して涙を流した。
「……ゼノン、ちょっといいか?」
――その時、扉の外から、聞き慣れた声が俺を呼んだ。
「ロマー……ノ……」
「話がしたい、入れてくれ」
「……」
――誰にも会いたくない……。ロマーノにも、こんな顔を見られたくない。
「……一人で……居たいんだ」
「……一人で居てどうする? じぃさんの事考えて、苦しくなって、泣くのか?」
「……っ」
「小さくなって、声押し殺して、一人で泣いて……。それで、いつか笑えるようになる?」
「そんなのっ……」
「それでお前が楽になるならいいよ。いつか、笑ってじぃさんとの話をしてくれるなら、今は放っておく」
「……」
「でも、そうじゃないなら……、そこで一人でただ苦しむだけなら……、この扉を破ってでもお前の隣に行く」
「……っ」
――この言葉……、確か昔にも……。
「……覚えてるか? お前を連れて帰った日の夜、お前はろくに話もせず、家に着くなり俺の部屋に閉じこもってよ。……お前、びしょ濡れのままだし、家に着くまでもガタガタ震えてたし……、俺どうしたらいいのか分からなくてさ」
「……」
――覚えてる……。
俺は、あの日に起きたいろんな事が整理できなくて……、ロマーノの家に着くなり、目についた部屋に籠って泣いていた。今と同じように、膝を抱えて、声を殺して……。
「これがまた強情なやつで……、何度呼んでも返事もしねぇ、扉も開けねぇ……。俺はタオルと飯を用意して、扉の外で待ってたけどさ……。一時間経っても二時間経っても、うんともすんとも言わねーから、てっきり中で寝ちまったのかと思ってよ」
「……」
――出て行けなかった……。
父さんの事や、その後出会った少年の事を思い出すと、涙が止まらなかったんだ……。 これからの事を考えると、怖くて、不安で……。『助けて、父さん』って、小さな声で何度も父さんの名前を呼んで……。もう二度と会えない人の名前を……、ちょうど今みたいに……。
「これじゃ、らちがあかねぇと思ってよ……。あの時の言葉はちょっと強引だったけど、『いい加減にしろ! いつまでも閉じ籠って無視するなら、この扉を破ってでもお前の隣に行くぞ!』って、こじ開けて入ったんだよな。……そしたらお前、部屋の隅で小さくなって……いや、元々小さかったんだけどよ、その小さな体で膝抱えて、ガタガタ震えながら泣いてやがんだ……。てっきり寝ちまったのかと思ってたのに、俺が外で待ってる間もずっと……、一人で声殺して、絨毯の色が変わるほど涙零してよ……。俺もまだガキだったけど、俺よりもっと幼いはずのお前が、こんなにも静かに泣けるもんかと思った……。俺が抱きしめると、お前は声を上げて泣き出して……。……あぁ、不安で不安で仕方が無かったんだな、って思った。……俺は、あの時に決めたんだ。お前が一人で部屋に閉じ籠った時は、もう絶対に一人にさせない。お前が一人で泣いている時は、俺が抱きしめて大声で泣かせてやろうって……」
――そうだ……。
あの時、ロマーノが抱きしめてくれた時、全身の力がすーっと抜けて、自然と大声で泣くことが出来た。どの位の時間かは分からないけど、ロマーノは俺が泣き止むまで抱きしめてくれてたんだ……。
そして、泣き止んだ俺に温かいスープを飲ませてくれて、びしょびしょに濡れた俺の髪を拭いてくれた……。
「……その夜は、一緒に寝たよな。ベッドに入ってからもお前は気が付くと泣いてて……。でも、手を繋ぐと嘘みたいに静かに眠ったんだ。……それから、徐々に笑うようになっていくお前を見るのが、すっげー嬉しかった。どんどん強くなっていくお前を見るのが、誇らしかった。……だけど、どんな時でも、俺はお前にとって唯一大声で泣ける場所でありたい。……あの時みたいに、扉の外でお前が返事してくれるのを待つだけなのは嫌なんだ……。お前がこの中で、昔みたいに小さくなってると思うと、……今すぐこの扉を壊したくなる……」
「……ロマー……ノ」
「……なぁ、ゼノン。せめて、ほんの一瞬でいい、顔を見せてくれ……。俺の事が必要ないならそれでいいんだ。いや、そっちの方がいい。……だけど、苦しくて声を出せずにいるなら、必ず俺がまた大声で泣かせてやる」
俺は、気が付くと扉の方へ歩いていた。
――正直、歩く力が何処から湧いているのかも分からなかった。
「だから……、ゼ……ッ」
「……」
「……ははっ、そんなひでークマ作って……。せっかくのイケメンが台無しだ」
――ロマーノは、俺を見るなり優しく笑って抱きしめた。
「……良かったよ、また二時間もかかったらどうしようかと思った」
「……っ……」
「人間っつーのは弱い生き物なんだ。悲しければ涙が出るし、苦しければ体が震える。……何歳になったて、それは変わらねぇ。何も恥ずかしい事じゃない」
「うっ、うぅ……」
「……偉いじゃねぇか。ちゃんとじぃさんを楽してやる言葉言ってよ……。本当は、言いたくなかったんだろ?」
「……う……ん……」
「本当は、終わりを迎えたくなかった……それ程、大切な人だったんだろ?」
「……う……んっ……」
「……よく頑張ったよ、ゼノン。大丈夫だ、これだけは誓ってもいい。……悲しみは、ずっとは続かない。その人が大切な人であればある程、人は自然とその思い出を大切にするんだ。……どんな些細な言葉も、癖も、表情も、一生大切に生かし続ける。……いつかきっと、悲しさが愛しさに変わる。泣かなくていい日が来る」
「……本、当……?」
「……ああ、誓う」
――ああ、やっぱりだ……。
やっぱりロマーノは、いつだって俺が望んでいる答えをくれる。
「……ありがとう……」
「バーカ! 何年一緒にいると思ってんだ! お前が辛い時に、俺が傍に居なくてどうする」
「……うん」
「良かったよ、少し顔色が良くなった」
そしてロマーノは、俺の手を引いてベッドに腰かけた。
「……ここに来る前、リノとルイの部屋に寄ってきたんだ。……リノは、落ち着いてたよ。ルイの手を握ったまま、まだ眠ってた。ルイも、『リノの事は俺に任せて』ってさ……。――何だか、お前が来た日の夜を思い出したよ」
「……うん」
「……それで、ヴァロアなんだけどな……。昨日は何も話そうとしなくて、一睡もしていなかった。……心配だが、あの性格だろ? 多分、俺は居ない方がいい」
「……ヴァロア……」
――昨日は、俺も目の前の老いぼれの事に必死になって……ヴァロアの事を、これっぽっちも考えることが出来なかった。
刺し違えてでも、自らの手で十年の過去を終わらそうとしていたヴァロア……。
俺が、老いぼれの罪を赦すと言った時、ヴァロアはどんな気持ちで俺の言葉を聞いていたんだろう。穏やかな顔で逝った老いぼれを、ヴァロアはどんな顔で見ていたのだろう。
……俺は、それすら知らない。
俺に何かある時は、必ず気付いて気にかけてくれていたのに……。ヴァロアが傷付いている今、どんな事を考えているかさえ、分かってあげられないんだ。
「――それで、ゼノンはどうしたい?」
「……え?」
「いやな、とりあえず今日の奉仕は俺一人で行こうと思ってる。で、その後なんだけど……お前も一人で居たい? ヴァロアに対して思ってる事もあるだろうから、ヴァロアとの時間を取りたいか?」
「一人で奉仕って……」
「それはいいんだ。言っただろう? 俺はお前を守る為だったら、どんな覚悟だって出来てるんだ。それより、お前が夜一人に――」
「……止めてくれよ。どんな覚悟も出来てる、だなんて……。そんな事、言うな……」
「……ゼノン」
ロマーノは、俯いた俺を見て、呆れたように笑い俺の頭を撫でた。
「バーカ、そんなんじゃねーよ。俺がお前を残して死ぬわけねーだろ。何の為にたっけースーツ買ったと思ってるんだ! ……お前が成人を迎えるまでは、お前が何て言おうと、俺はお前の兄貴として見届ける責任があるんだ。同時に、兄貴として大切な弟を守る責任がある。その為の覚悟だ。犠牲になるとか、そういうんじゃない」
「……ずっと、居てくれよ。約束は……守ってくれ。……もう誰も、こんな狂った街の犠牲になって欲しくないんだ。……特にロマーノは、本当はこんな所に来る必要なかった……。俺を追っかけてきたせいで……それで何かあったら、俺……」
「――約束するよ。必ず、一緒にここから出よう」
ロマーノは、俺に向けて小指を出した。
「だから、ゼノンも約束してくれ。……俺に、見せてくれよ、……お前の儀礼祭」
「……必ず」
――小指に伝う……、ロマーノの指の温もりが、妙に胸を締め付ける。
この温もりに、俺は何度救われてきたんだろう。……父さんを失くして、行き場も無かった俺から、寂しさを奪ってくれた。帰る場所を作ってくれた。
……俺がロマーノに何か返せるとしたら、儀礼祭で成人ナンバーを貰う事だ……。
「……奉仕さ、俺も行く」
「え?」
「……ここを出るのは、皆の目標なんだ。……老いぼれがくれたポイントも、無駄にしたくない……」
ロマーノは、少しの間難しい顔をし、やがて小さな溜息を吐いた。
「……分かった、一緒に行こう。何としてでも、お前の儀礼祭に間に合わすからな」
「……ありがとう、ロマーノ」
「何だ、どうした? 急にそんな顔して」
「ごめん、俺……。本当は、ロマーノがここに来てくれてよかったって思ってるんだ。……もちろん、こんな事に巻き込んだ事は悪いと思ってるけど……、でも――」
「――何度も言わせんな。それがどこであっても、お前のいる場所が俺のいる場所なんだよ。ほらっ、顔上げろ。一緒に奉仕に行くってんなら、そんな心配になるような顔するな」
「……うん」
ロマーノの大きな手が、行き場が無く遊んでいた俺の手に触れた。
「……」
――十年前、ロマーノに連れて帰ってもらったあの夜のように……、ざわついた気持ちが穏やかになっていく。
それは、心の奥深くにゆっくりと入り込んで、不安や寂しさを溶かしてくれる……。
俺だけの、温かくて、優しい手……。
「……おやすみ、ゼノン」
ふと気が付くと、俺はロマーノの手を握ったまま眠ってしまっていた。ベッドに腰掛けたまま、ロマーノの肩に寄り掛かる形で。
「……俺、ごめっ――」
「眠れたか?」
「……ロマーノ、ずっとこのままで? 俺の事、どかせてくれてよかったのに……」
「いいんだよ、俺も久々にゆっくり考え事が出来た」
そう言ったロマーノは、窓から差し込む月明りに照らされて、いつもとは違った大人びた表情に見えた。
「……今、何時?」
「……もう夜だ」
「奉仕は?」
「いや、何の合図も無い。もしかしたら、今日は無いのかもしれないな……」
――今まで奉仕が無かった日は一日だってなかった。
もう、儀礼祭まで時間がないのに……。
「ゼノン、屋上行かないか?」
ロマーノは、思いついたかのようにそう提案した。
「……屋上?」
「ああ、久々にしたい事があるんだ」
――ここで、したい事?
よく分からないけど……、奉仕が無いなら、また長い夜になる。それなら、出来るだけ何かで気を紛らわしていたい。
そして、俺達は屋上に移動し、ベンチに腰を掛けた。
――冬の風に冷やされたベンチは、思わず声を上げる程冷たくて……。漏れた吐息は白く変わり、風に流されていった。
「さっむ……。……なぁ、ロマーノ……」
ふとロマーノを見ると、手すりに身を預け、精一杯背伸びをして両手を広げていた。
「……?」
立てらせたつま先はプルプル震え、伸ばした両手で、空気を掴むような動きを繰り返している。
「あー……、やっぱ今でも遠いなー……」
「何が?」
「……あれだよ、あれ」
ロマーノの指差した先には、深い闇の中で無数に輝く――
「……星?」
「ああ、特に冬の星は……一番遠いんだ」
「何で?」
ロマーノは、伸ばした手を下ろし、俺の方を振り返って言った。
「冬になると、どこも早く店を閉じるだろ? 街の灯りが消えた分、夏より輝いて見えるんだ。……でも、輝いて見える分、もっともっと遠く感じる。あいつらは、あそこでそっと輝くだけで……、俺達人間は、誰一人触れる事が出来ない。例え何でも手に入るmodelloのやつらだって、手に入らないんだ」
「……そういえば、昔から星見るの好きだったよなぁ、ロマーノ」
「だからよ、久々にあれやりたかったんだよ! ――一等星探し!」
「えぇー……やだよ。俺勝った事ねぇもん。いっつもロマーノが先に見付けて、俺は罰として朝食作りだったじゃねーかよ……」
ロマーノは、昔の事を思い出したのか、クックッと喉を鳴らし楽しそうに笑いだした。
「ああ、だったな……」
そして、手すりから離れ、俺の隣に腰を下ろす。
「つっめて!」
「そりゃ、真冬の夜ですからね」
「ははっ、そうだな。でも……冬は好きだ」
「まぁ……確かに、綺麗だな……」
空を見上げると、数えきれないほどの星達が、真っ暗な空を明るく光らせていた。
それは、いくら大金を積んでも手に入らない、最高級の宝石のように綺麗で……。
「……思い出すなぁ」
「……何を?」
俺達は、空を見上げたままゆっくり話し出した。――今この時間が、俺達二人だけの為に動いているように感じる。
「昔さぁ、お前が来るよりもっと昔、よくあの窓から、こうやって何時間も星見てたなぁ」
「へぇ……、俺が来るよりも前か……」
「……俺はさ、物心ついた頃から一人だったから、人間は皆一人で生きてるもんだと思ってたんだよ。朝起きて誰かに『おはよう』って言う事も、家に帰って誰かに『ただいま』って言う事も知らなかった。……まぁ、ずっと一人だったから、当然だよな」
「その話、初めて聞く……」
驚いてロマーノを見ると、ロマーノは空を見上げたまま、懐かしそうに笑った。
「ははっ、そうだったかな。……ずっと、知らないままだったら良かったんだ。知らないままだったら、自分が寂しい事にも気付かずに済んだはずだった。……でも、ある時期から少しずつ、周りの『普通』に気付きだした。……この街には模範生と呼ばれる人間がいて、十五番区なんていう恵まれた街があって、盗みをせずに生きていけるやつらがいて……。皆、家族ってもんと一緒に暮らしているって……」
「……あぁ……」
――ロマーノの言ったものは、俺が生まれた時から、当然のように持っていたものばかりだった。
「……模範生、十五番区、富、家族……俺には、絶対に手に入らないものばっかりだ。教育も受けていない俺には、それをどうやって手に入れればいいのかも分からなかった。……じゃあ、何で俺は持っていないんだろう……って思った瞬間、初めて『寂しい』って感じたんだ。朝一人で家を出て、食うもん探して二番区を彷徨って、やっと盗み出した食べ物持って帰って、誰も待っていない部屋で一人で食う。今まで普通だった全ての事が、惨めで孤独で仕方なくなった」
「……うん……」
「……それで、生まれて初めて寂しくて泣いた。でも、涙を流した所で、俺の世界は何一つ変わらないんだ。……やっぱり俺は独りぼっちで、この世界に俺を知っている人は何処にもいなくて、俺が知っている人も何処にもいなくて……。悲しくて、また泣いた。お前とよく一等星探ししたあの窓に座って、何時間も泣いてたよ」
空を見上げて笑うロマーノの目に、星の灯りが混ざり、涙を浮かべているように見えた。
「……でも、ある夜気付いたんだ。いつものようにあの窓で泣いている時、ふっと空を見たら……沢山の星が夜空を包んで輝いてた。……それは確か、昨日も一昨日もその前も、いつもそこにあった。きっと、明日も明後日もそこに居てくれる。……それに気付いたら、何だか急に嬉しくなってきてよ。――初めて、心が温かくなるって感覚を覚えたんだ。……俺は、確かにこの世界では独りぼっちだけど、夜が来たら独りじゃなくなる。いつもあの窓の向こうから、遠い夜空から、俺の事を見ててくれてる……、そんな風に思ったんだ」
「確かに、こうやって見てると……、向こうから見守ってくれているように感じる……」
「だろ? ……でも、遠いんだ。すっげー遠い」
ロマーノは、空に向けて手を伸ばして、何とも言えない寂しそうな顔をした。
「やっと出来た俺の大切な物は……、触れる事も出来ない。ずっと向こうの夜空で、そっと輝くだけなんだ。……やぱりちょっと、悲しかった」
そして、その手を大きく広げ、空気を一掴みし、……黙って手を下ろした。
「……街で見かけたやつらが、手を繋いで、顔を見合わせて、楽しそうに笑ってるのを見た。……だから、俺も真似してみたんだ。あの星に向かって、手を伸ばして、顔を上げて、微笑んでみた。……だけど、当然何も返ってこない。どうやってもやっぱり手に入らない。……手に入らないから尚、恋しくて恋しくて……、どうしようもなく綺麗に感じたんだ。それは、今も変わらない……」
「……だから、そんなに好きなのか……」
「いや、まだ続きがある」
「何?」
「……」
ロマーノは、空を見上げたまま少しの間沈黙し――
「……?」
やがて、嬉しそうにニッと笑った。
「……いつからか、寂しさは願いに変わったんだ。ほら、星に願いを……って言うだろ? どこでその話を耳にしたのかは覚えてねぇけど、俺は毎日願った。――『いつか僕も、大切な人と手を繋いで、顔を見合わせて、笑い合いたい』ってな。もちろんその時の願いは、俺が焦がれ続けてた星空に向けてだ。我ながら、無茶苦茶なガキだよ」
「……叶ったのか?」
……俺も、我ながらバカな質問をしていると思った。だけど、嬉しそうに笑うロマーノの横顔を見ていると、そんな無茶苦茶な願いが叶ったのか、とさえ思ってしまう。
「……ああ、叶ったさ」
「え……?」
「それは突然俺の前に現れて、俺の心から、一切の寂しさや孤独を奪っていった。……そうしてくれたのは、遠い空の星じゃない。俺が手を伸ばすと、握り返して……、俺が笑いかけると、微笑み返してくる距離にあったんだ」
「それって……」
ロマーノは、空を見上げたまま話を続けた。「……突然現れたそれは、気が付くと俺にとって何より大切な存在になってた。――模範生も、十五番区も、富も、あの星空も……焦がれ続けていた他の全てものに価値を感じなくなるほど、この世界で一番愛おしいものだと思えた。ただ一つ、俺に『家族』を与えてくれたんだ。それだけで充分さ。……ああ、俺の願いを叶えてくれたんだぁって……本当に感謝したんだ。今までは寂しさをぶつけていた空に、今度は何度も感謝の気持ちを伝えたよ」
「えっと、さ……」
「何だ?」
「いや……っ」
――そんな幸せそうな笑顔を向けられると、尚更恥ずかしくて聞けなくなる……。
「その……、突然現れた大切なものって……、もしかして……」
「うん?」
「……俺の事だったり?」
「え……」
ロマーノは、キョトンとした顔で俺の顔を見た。
「あっ、いやっ……何でもない! 何でも!」
――何自惚れてんだ恥ずかしい!
俺は、顔が熱くなってくるのを感じて、慌ててベンチから立ち上がった。
「……おい、ゼノン」
「何でもないってば! ほらっ、一等星探しするんだろ! 探してさっさと戻ろうぜ! いい加減風邪ひくっつー……」
「ゼーノン!」
「わっ……」
ロマーノは、急に俺の手を掴み、後ろへ引っ張った。――くるっと向きを変えられた俺の目の前にはロマーノの胸があり、そのまますっぽり抱きしめられた。
「……何だよ」
「お前はバカか。……何もかも捨ててもいいと思う程大切なものが、そうあってたまるかよ。……お前以外になんてありえねーだろ」
「……へぇ」
「『へぇ』じゃない。それに……ははっ、自分で聞いといて顔真っ赤にするとか、……可愛すぎるだろお前っ。――はははっ……面白れぇっ」
「なっ、……うるさい! 笑うなら離せ!」
――腕の中から離れようと力を入れたが、ロマーノは更に強く俺を抱きしめた。
「……ずっと居てくれよ、ゼノン」
「え……?」
突然変わった声のトーンに、心臓がドクンと跳ね上がる。
驚いて顔を上げると、ロマーノは愛おしそうな目で俺を見て微笑んでいた。
そして――
「よっ!」
俺の脇を持ち、勢いよく抱き上げた。
「うわっ……!」
――俺は、とっさにロマーノの首に手を回し、両足でロマーノの体にしがみつく。
「いきなり何っ!」
「ちゃんと持ってるから、手伸ばして!」
「はぁ……? こう……?」
俺は、片手をロマーノの首に回したまま、もう片方の手を空に突き上げた。
「もっと、こう……、ぐーーーっと!」
「ぐーーーっ!」
「もっと全身を伸ばす!」
「ぐーーーーーっ……」
「……うーん、やっぱダメだな……」
ロマーノは、肩をすくめて残念そうに溜息を吐いた。白んだ息を見ると、忘れていた寒さが戻ってくる。
「何が?」
「やっぱ届かねぇ……」
「何に?」
「星……」
「――当ったり前だろ! まだ言ってたのかよ!」
「ずっと言うさ! じぃさんになっても言う!」
「はぁ……」
「……それに、お前とだったら何でも出来そうな気がするんだよ。何でも叶いそうな気がするんだ」
一瞬、俺を抱いている手に力が入った。
やっと降ろすのかと思いきや……、俺を抱く手に力を入れ、ふらふらと回り始めた。
「あーあ……、大人二人でもやっぱ無理かぁー……」
「ちょっ、落ちっ……!」
「あー、お前はまだ大人じゃねぇかー……、成人ナンバーも貰ってないガキだもんなぁー」
「分かっ、分かったからっ! 怖いっって!」
「ははっ、この位で騒ぐようじゃ、お前もまだまだだなぁ」
そう言って、笑いながら俺の事を降ろした。
「……まだまだで悪かったな。……それに、もうすぐだ。もうすぐ俺も、成人ナンバーを貰える……、きっと……」
「……ああ、もちろんだ」
俺達は、どっちから戻ろと言ったわけじゃないが、自然と部屋に向かって歩き出していた。
「……その後、俺が成人ナンバー貰った後はさ、ロマーノは……」
――成人ナンバーを貰うという事は、もう一人前の大人として認められる。……職業も、住居も、親の承諾なしで決める事だって出来るようになる。
そうなったら、もう俺がロマーノに面倒見てもらう必要も……。
「何だ?」
「……いや。やっぱいいや。また今度でいい」
「ふーん? ……まぁいいか、またその時に話してくれよ」
「ああ……」
成人ナンバーを貰ったら、ロマーノを解放してやりたいと思っていた。身寄りのない俺を拾ったあの日から、ロマーノは俺の面倒を見る事への義務感に縛られていると思っていたからだ。
……でも、ロマーノの話を聞いた後じゃ、何故だか言いにくかった……。
成人ナンバーを貰った後も、俺はロマーノの家に帰っていいのだろうか。ロマーノに守られる弟のままでいいのだろうか。
……いや、俺が心配しているのは、弟を守る兄から解放されない、ロマーノの事だ……。
――『ずっと居てくれよ、ゼノン……』。
あの時の声があまりにも切実で、『出て行く』だなんて、言えなかった。
ここを出る事ばかり考えていたけど、ここを出た後……、成人ナンバーを貰った後の事も、ちゃんと考えななきゃいけないんだ…




