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Binaco  作者: 水瀬いちか
14/20

14 鎖

「ゼノン、ちょっといいか?」

「……?」

 翌朝、ヴァロアは俺を外へと誘い出した。

「ちょっと、ゼノンと昼食を調達して来るよ」

「はいはーい、行ってらっしゃーい」

「……?」

 俺は、言われるがままヴァロアと部屋を出て、ヒュッテの方へと歩いていた。

――正直、昨日も寝不足で、……奉仕の合図までは休んでいたかったんだけどな。

「寝不足か?」

「え? まぁ……少し、ね」

「眠れないのか? 最近、一番最後まで起きているみたいだが……」

「……!」

「ここの所、毎日クマも出来ている」

 ――もしかして、老いぼれと話している所を聞かれたのか……?

「何か、……聞いた?」

 俺は、恐る恐るヴァロアの反応を伺った。

「何か? いや、特に何も……。もしかしてゼノン、幻聴でも聞こえるのか?」

 ヴァロアは、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。――この反応からして、老いぼれの存在には気付いていないようだ。

「ははっ、そんなんじゃねーんだ。俺、疲れてる時寝言ひでーからさ。聞かれたかなーって思ってさ」

「いや、俺の方が先に寝てるからな……」

 ――起きていられたら困る。

誰かが起きている時は、老いぼれは絶対に話しかけてこない。

「ちょっと息抜きだ。屋上でも行かないか?」

「え? ああ、いいな……」

バゲットを買い終え、早々に部屋に戻ろうとした俺を、ヴァロアが引き留めた。

俺は、自然と込み上げてくる欠伸を抑えながら、必死に疲れを隠していた。

「……そういえば、何でヴァロアはいつも端っこで寝るんだ? 右に誰かがいるのは落ち着かないって言ってたよな? 俺と歩く時も、絶対右側に立つし……」

「……ああ、それか。別に大した理由は無いよ」

 ヴァロアは、いつも通りの笑顔を向けてそう答えた。

「ほら、今も。右側に座った」

「……」

「癖とか?」

 右側に腰かけたヴァロアは、俺の言葉に困ったように笑い、やがて溜息を洩らした。

「……少し、怖いんだ」

「怖い?」

「ああ、昔……な。人と歩いている時、嫌な事があった。それ以来トラウマのようになって、……誰かが自分の右側にいるのは落ち着かないんだ」

「ああ、……そうなんだ」

 ――何の事だか全く分かんねーけど、トラウマって言うならこれ以上詮索しない方がいい……か。

誰にだって、触れられたくない話の一つや二つ――

「聞かないのか?」

「え?」

「俺の事には興味ない?」

「いや、そうじゃねーけど……。無理に聞く必要もないかなって思っ……、ヴァロア?」

 ふいにヴァロアを見ると、さっきとは比べ物にならない程顔色が悪くなっていた。

困ったように笑っていた顔も、驚く程余裕のない顔に変わり、唇を噛みしめ俯いている。

「ヴァロア? ……大丈夫か?」

 ――ヴァロアの頬に手を当てると、ヴァロアは俺の手を取り、強く握りしめた。

「……俺、は――」

「――俺さ、昨日も眠れなくて寝不足なんだわ。奉仕までちょっと眠りたいんだよな。ちょうど今なら眠れそうだから、ちょっと眠ってもいいか?」

「え……? あ、あぁ構わないよ……」

 ヴァロアは、俺の手を握ったまま驚いた顔で俺の事を見た。

「その間の事は、多分覚えてねーと思うんだ。何聞いても全部忘れちまうだろうな……」

「……ゼノン」

「……そんじゃ、おやすみ」

「……」

 俺はそう言って、強引に目を閉じた。

――こうでもしないと、ヴァロアは自分の弱さを見せる事が出来ないんじゃないかと思ったからだ。……って言っても、このまま何も話して来なかったら、本当に寝てしまいそうだ……。

「……ゼノンは優しいな」

「……」

「……昔、な。俺も十五番区に住んでいたんだ。その時は何もかもが上手くいっていて、怖い位幸せな日々だった」

 ――ヴァロアも、昔は十五番区に……?

「それは、まだこの街がBIANCOとして設立してすぐ、……俺は十五とかそこらだったかな。俺達家族は、夏季休暇中一番区の海岸沿いにゲストハウスを借りて、一夏を過ごす事になっていた。……当時の二番区周辺はまだ罪人の街にはなっていなくて、危険な街として扱われる事も無かったよ。俺が初めてヒュッテを見たのも、あの時だったかな……」

 ――設立してすぐって事は、俺は七歳かそこらで、……まだ十五番区に住んでいた時だ。

「……多分、誰もが思う事だと思うが、十五番区は本当に便利な街だ。あの街に住んでいたら全ての事が足りるから、なかなか他の区へ行く事もないだろう。だから、当時の俺は一番区へ行けるのをとても楽しみにしていた。……両親にワガママを言って、少し手前の二番区で降りて、いろんな話をしながら一番区へと向かった。――両親の間を歩き、両手を繋いで……左手には母親、右手には父親……。ショーウィンドウに映る三人の姿は、まさに絵にかいたような幸せな瞬間だった。……だが、それは一瞬で崩れてしまったんだ」

「……」

 ――一体、二番区で何が……?

「ああ、今でも覚えているよ……。奇声を上げた浮浪者みたいな男がな、……急に襲いかかってきたんだ。それは一瞬の出来事で、まさか自分達に襲いかかってきたとは思わなかった。何故なら……どちらの手も、俺の手を握ったままだったからだ。何が起こったのかを把握出来たのは、俺の右手に居たはずの父親が、左腕を失くして血の海の中で倒れている姿が目に入ってきた時だ」

「……っ」

 俺は、驚いて声を出してしまいそうになった。

――この街で殺人……?

この完全な理想都市でそんな事件があったなんて……、一度も耳にした事がなかった。 ただの噂話の一つとしても、聞いたことがない。

「父親は出血死、母親はその事件から気がおかしくなってしまってな……。今でも州立病院に入院しているよ。それからじゃないかな、二番区は危険な場所だ、という風評が定着したのは……。自然と罪人達が二番区へ集まり、危険な取引なども日常的に二番区で行われるようになって、今の二番区が出来上がった」

 ――それじゃあ、ヴァロアの父さんも亡くなっていたのか……。そんな話、これっぽっちも出そうとしなかった。

「……当の俺は、中等教育を終えるまでの間は十四番区の養護施設でお世話になったよ。高等教育に上がってからは、すぐに一人暮らしを始めて、……金を稼ぎながら必死に勉強した。それまでの目標は、トップクラスと言われる十四番区の大学を出て国際弁護士になる事だったんだけどな、……とてもじゃないけどそれを叶える事は出来なかったよ。働きながらの勉強には限界があったし、やりたい事も変わってしまったから」

 ――やりたい事って、……今の情報屋の仕事と何か関係があるんだろうか。

「……おかしな事に、その殺人者の情報が一切出なかったんだ。目撃者には、箝口令が下されたのかもしれない。……そうじゃなくとも、罪人と関わるだけで罰せられるんだ。殺人者の話なんか誰も出そうとしなかったよ。その後、そいつが何処に拘束されて、どんな風に裁かれたのか、……被害者家族の俺達には、何の報告もなかった。――それどころか、まるでそんな事件は無かったかのように扱われてね」

「……」

 ――確かに……、この街にとって都合の悪い事実は、隠蔽してもおかしくないだろう。 このBIANCOという街はそういう所だ。 純真で綺麗な物しか好まない、それ以外の汚い物は奥深くへ隠してしまう。俺達を二番区へ隠したように、ヴァロア達家族の事件も同じだろう。

「俺は、とにかく情報が欲しかった。……高等教育を終えると、奨学金で十三番区の大学へ入学し、同時に高等教育中に貯めた金ですぐに会社を設立したよ。まさに同時進行だな。大学では経営学とIDプログラミングを勉強しながら、情報屋としての仕事。……って言っても、俺自身はPCの前で情報を売り買いするだけだったがな。……どうしても、ダメだったんだ。あれ以来、二番区には行く事が出来なかった。それどころか、人が自分の右側にいるだけで鮮明に思い出しちまう……。だから、最初は従業員に資本金を握らせて、徹底的に二番区で情報を買わせてきた。その情報を必要としている人間に売り、更にその金でより多くの情報を買う。……株と似たようなもんだな。ただ、俺の扱う株は、この街が隠蔽してしまったお札付きの株だ」

「……」

 ――それで、情報屋の仕事を……。

大学から始めた仕事なら、ある程度核心に触れる情報を見付けていてもおかしくないけど……。

「だが、肝心な情報は出てこなかった。誰かが必要としているであろう情報は毎日のように湧いて出てくるのに、自分の探している情報だけは、どれだけ高額を積んでも出てこなかった。……そして、それを見付ける事が出来ないままこんな所に拘束された。……それが、俺の全てだよ」

「……っ」

――正直、思っていた話よりもずっと深くて、……何て答えていいのか分からない。

いや、俺は聞いてない事になってるんだから、何かを言うのはおかしいのか……。

「そんな所だ。……ゼノン、起きてくれ。そろそろ戻らないとルイ達が腹空かせてるだろうしな」

「……」

「おはよう、ゼノン。少しは疲れ取れたか?」

 ヴァロアは、ニッコリ笑って俺の顔を覗き込んだ。――さっきの余裕のない表情はすっかり消えている。

俺達は、部屋へ戻りながら少しの間作り話をした。

「……ああ、そうだな。夢でも見てた気がする」

「へー、どんな夢だい?」

「……普段は隙の無い完璧な男が、俺だけに弱さを見せてくれるっていう、なかなか嬉しい夢だったぜ」

「へぇ……。それはきっと……、夢だろうな」

「ああ、ただの夢だ。……それより、俺の寝言は聞けた?」

「ああ、それはそれは可愛い寝言を聞かせてもらったよ」

「……それは嘘だ」

「はははっ、そうだな。それは嘘だ」

 俺達は、クスクス笑いながら互いの顔を見た。ヴァロアとこういう風に笑い合って話す瞬間は、とても心が落ち着く……。

「……はぁ、ここを開けるとルイがまたうるさく問い詰めてくるぞ」

「はは、だろうな。適当に言うさ、帰り道で時計を持った兎さんを追いかけてた――、とかな」

「……適当過ぎ」

 部屋に戻ると、案の定ルイが遅くなった理由を問い詰めてきた。――ヴァロアが本当に兎の下りを話したもんんだから、皆顔色を変えてヴァロアの事を心配していたが……。


それから俺は、奉仕の合図が鳴るまでの間、ヴァロアに聞いたことを考えていた。

――情報屋、か……。

多量の情報を売り買いしている中に、本当にここの情報は一つも無かったんだろうか。 一番最初に情報屋と言われた時、苦虫でも噛み潰したような険しい顔で睨み返していたが、あの理由は何……?

「いや、そんな事より……」

 俺に出来る事は何もないのかな……。あのヴァロアが、俺だけにこんな話をしてくれたのに……。

でも、当の事件は俺がまだ幼い時の話で、更にこの街では無かった事になっている。

――ここにいる間は調べようもないわけだし……。一番有効的なのは、老いぼれに話を聞いてみる事くらいか……?

 

ウォーーーーーン!!

その時、けたたましい警報音が響き渡った。

「おでまし、か……」

「何かあれだな。この音にも慣れるもんだな」

 ロマーノの言う通り、この異常な程に危機感を誘発する警報音にもすっかり慣れていた。

俺達は、初日の奉仕以来、五人で回収に向かう準備をした。

――実は、昨日の時点でこっそり話し合って決めていた事だ。リノの暴走を防ぐ為、なるべく俺達四人でフォローしようと……。

そして、俺達を乗せた車は、今回も二番区のport17へ向かって走った。

――ヴァロアは、事件以降二番区へ行くことが出来ない、と言っていたけど、今度は自分が人を傷つける側として、この二番区へ立ち入らなきゃいけない。

奉仕に参加する事をあんなに拒否していた事も、リノが人を殺した時に血相変えて怒鳴りつけた事も、そういう事情があったんだと、今なら分かる気がした。

「それにしても……、侮辱罪だなんて横暴すぎるよな。この街の二分化主義について、廃止するべきだってやつらが、結束してスト起こしただけだろ? それで回収されんのかよ……」

「仕方ないよ。この街は、自分達にとって都合の悪い事は何だって隠してしまうんだ。それが事件や事故なら隠蔽するのが一番だが、人間の場合消してしまう事が何より手っ取り早い。……差し詰めそんな所だろう」

 ――ヴァロア……。

「でも、絶対に自分達の手は汚さない、……でしょ? それで俺達が駒のように使われる事も、仕方ない?」

 ――ルイ……。

ここは、ルイの兄が亡くなった場所でもある。……ルイも、少しピリピリしていた。

「……どうだろうな。でも、これ以外の選択がなかったんだ。他に選べたとしたら……、あの場で死ぬ事だっただろう。俺は、それは出来ない……。あの夜に言っただろう? どうしても成したいことがある、って……」

「ああ、俺もそうだ……。ルイだってそうだろ? 俺も、ここを出て絶対に叶えたい約束がある。その為なら、どんな罪だって……」

「――おい、てめぇ……!」

 その時、突然ロマーノが後ろを振り返り、薄暗い道の先に向けて声を張り上げた。

「……ロマーノ? どうしたんだ?」

「こんな所まで何しに来た! てめぇの顔を見るだけで胸糞悪くなんだよ、失せろ!」

 前方を歩いていた俺とヴァロアは、立ち止まり、ロマーノの視線の先へと目を凝らした。

「……何だ、どうしたロマーノ?」

「誰かいるのか? 薄暗くてよく見えな……」

「――昨日振りじゃな、ゼノン」

「え……?」

 ――この声、まさか……。

暗闇の中から、薄っすらと小柄なシルエットが浮かび上がっている。

「また明日話そう、と言ったじゃろう?」

――一人は、見覚えのある黒服の男……。

そしてもう一人は、見慣れない顔だが、その声ですぐに誰だか分かった。

「案内感謝する、ルイス」

「じじぃ……!」

――それは、毎晩壁越しに話をしていた老いぼれの姿のだった……。

白髪交じりの髪と、深いシワが刻まれた優しそうな顔で、穏やかに笑っている。

「どうして……?」

「何故、わしがお前さん達の前に姿を現したかって? ……一言で言うなら、十年という長い時の鎖から解放される時が来た、という所じゃろうか」

「何だよそれ、一体どういう……」

「――これはどういう事だ、ゼノン……」

「いや、俺にも何の事か……」

 困惑したままヴァロアのことを見ると、ヴァロアの顔は恐怖に引き攣り、今まで見た事がない程に動揺していた。

「え……っ、ヴァロア……?」

「……懺悔の時間じゃな。――ヴァロア・ドルチェ、わしの事が分かるか?」

 老いぼれは、ヴァロアの前で足を止め、穏やかな顔でヴァロアを見た。

「忘れるわけがない……。あの日から、お前の事を忘れた日は一日だって無かった……!」

「えっ、ちょっと待って……! ヴァロア、一体どういう事なのか説明――」

「――説明するのはお前の方だっ、ゼノンッ!」

「……っ!」

 ヴァロアは、取り出した銃を老いぼれに突き付け、血走った目で俺の事を睨み付けた。

「え、何……何なのこれ……?」

「お、おい、ヴァロア……! どうしたんだよ、お前らしくない……!」

 ルイとロマーノは、困惑した目でヴァロアを見て、俺の方へと視線を移した。

「……っ」

 ――だが俺も、この状況が飲み込めないまま、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。

「説明しろ、ゼノン……! 何故殺人者と通じている?」

「殺人者って……?」

「……こいつは、俺の父親を殺した男だ」

「そんなっ……!」

「昼間のあれは何だ? 殺人者に肩入れしながら、被害者側の情報を聞き出すつもりだった? いつまでたっても過去から抜け出せない俺を、心の中で哀れみながら?」

「違っ、俺は何も知らなくて……! ……とにかく、その銃を下ろしてくれ、ヴァロア!」

「……っ! 何故庇う! 答えによっては、……いくらお前でも保証は出来ない、ゼノン」

「お前、って……」

 ――ダメだ……。

立っている足が、震えだす……。

こんな殺気立ったヴァロアは、見たことがなかった。おまけに、老いぼれがヴァロアの父親を殺した男だったなんて……。

そんな話、一度だって……。

「その銃でわしを撃つか?」

「……ああ、撃つさ。その為に、今日まで生きてきたんだ……」

 ――ヴァロアは、ゆっくりとトリガーに手をかけた。

「……情報屋。一体いくらでわしの情報を買った? ――正しくは、この施設の情報だ。わざわざ高額の金を積んで、uccisoleに自分のIDを売ったのじゃろう? その為に、妻と子供とも血縁関係を外し、わしを殺す為だけにこの施設に自ら捕まった」

「ヴァロア……、ここの施設の事は知らなかったって……」

「そんな訳がない。多量に扱う情報の中に、ID捜索届を出したらIDを抹消されていたという案件、加えて、二番区で罪人が奇怪な失踪を繰り返しているという案件……。その事から、早々にここの施設の存在に気付いていたはずだ。お前さんは、その施設の中にわしがいるという可能性に賭けた。――そして、頻繁に回収が行われている場所を突き止め、uccisoleに直接交渉を持ちかけた。……あの事件以来、二番区には立ち入ってなかったのじゃろう。お前さんのコンピューターから、二番区の地図をプリントアウトした形跡まで見させてもらったよ」

「……俺のコンピューターのアクセスブロックは、完璧だったはずだが?」

「……こっちはその道のプロの集まりじゃ。四年間大学でIDプログラミングを専修したくらいで、この施設のID管理班の技術には叶わんよ」 

 ――ヴァロアは、無言で老いぼれを睨み付けながら、握っている銃に力を込める。

……このままだと、いつトリガーを引いてもおかしくない。

「ヴァロア……、約束したよな……っ? ここから出て、成したい事があるんだろっ? 今その引き金を引いたら、ヴァロアは絶対に後悔する! ……頼む、止めてくれ!」

「……」

 だが、俺の声はヴァロアには届かず、静寂の中ただ虚しく響いただけだった。

――老いぼれは、一瞬だけ俺を見て、またヴァロアへ視線を戻す。

「ここから出て、……か。それは、お前さんの賭けが外れていた場合の話だ。お前さんは初めから、生きてこの施設を出る事なんて考えていなかった。そうじゃろ? ……お前さんほど人の死に敏感な人間が、人を殺して平気で生きていけるわけがない。今までは上手に回収を逃れてきたみたいじゃが、わしを見付けた時は、……わしを殺して己の命も経つ。それがお前さんの、『生きて成したい事』じゃ。……違うか?」

「はっ、良く調べたな。……正直、この数年間死に物狂いでお前を探している間に、この報復に何の意味があるのか――と、戸惑いが生まれていた。……ここで仲間と呼べる人間と出会って、明日を諦めず決して悲観しない彼らを見ていると、自分が後ろめたくて仕方がなかった。……彼等とここを出る未来を選ぶのも悪くない、とも思ったよ」

「ヴァロア……」

 ――そう言って俺達を見たヴァロアの目には、一瞬だけ、いつもの優しい笑みが戻った。

しかし、それは刹那に散り……、再び血走った目で老いぼれを睨み付ける。

「ここでこの銃を捨てて、皆との未来を取るか。――それとも、ここでこの引き金を引いて、過去との終焉を取るか。……どちらの賭けも悪くない。それ程、大切だと思ってしまうようになったんだ。いつ投げてもいいと思っていた自分の未来が……、彼らと出会ってしまってから……」

 ヴァロアの目には、微かに迷いがある。

今あの銃を奪い取れば、ヴァロアを助ける事が出来るかもしれない……。

「それでも、人間は欲望には勝てない。負の欲望には、尚勝てない。お前が俺の家族を殺してから、どうせ全ては止まったままなんだ。俺に用意されていた明日は、お前を殺す為だけに存在した。――仲間と出会い、共に杯を交わし、幸せな未来を焦がれた日々なんて、元は存在するはずがなかった道だ。……お前を殺して全てを終わらす事しか考えていなかった俺にとっては、仲間が与えてくれたまさに希望の道だった。……だけどダメだな。お前を前にすると、その大切な希望を守り抜く術をたった一つも持てない、……持てなくなる。――俺は……、これで全てが終わるなら、俺の明日は無くなっても構わない」

「……ヴァロアッ!」

「……弱い俺を許してくれるか、ゼノン。もう一緒にここを出るという約束は、守ってやる事が出来ない。……その前に、一緒に酒が飲めて良かったよ。……本当に良かった」

「……罪は悲劇を生み、悲劇は尚深い罪を生む――、か……」

 ――老いぼれは、俯いていた顔を上げ、ヴァロアの目をまっすぐ捕えた。 

「……その銃で人を殺めるという事は、どういう事か分かっておるのか? 決して赦されん罪を犯すという事じゃ。それでお前さんが目の前で命を絶ったら、残された仲間達はどうなる? 救えなかった己の罪に、再び苦しむ人間が生まれる。その悲劇が、更に罪を生む。……そうやって、罪と悲劇の鎖に沢山の人が縛られていく。……お前さんに、その覚悟はあるか?」

「……どんな罪でも背負う覚悟で、この十年お前を探していたんだ……」

「……違うな」

 老いぼれは、大きな溜息を吐いて、話を続けた。

「何がだ……!」

「……わしが自分で受け入れたよりも、わしの罪はもっと重かった、という事じゃ……。言葉を変えると、お前さんの傷は、わしが覚悟していた以上にもっと深かった。詫びても赦されんことは分かっておるがな……、本当にすまなかった、ヴァロア……」

「汚れたその口で俺の名前を呼ぶなっ! 例えお前が血を吐くまで詫びたとしても、俺はお前を決して許さないっ!」

 ヴァロアは、老いぼれの胸ぐらを掴み、銃口をこめかみに押し当てた。

――小柄な老いぼれの体が、大きくグラつく。

「……ああ、分かっておる。……分かっておるがな、これをお前さんに使わすわけにはいかんのじゃ。もうこれ以上、お前さんの明日を奪う訳にはいかん」

「お前、何をっ……」

 ――押し当てられた銃に手を触れ、いとも簡単ににそれを奪い取る。

「ふざけるなっ!」

「――ヴァロアッ!」

 ――銃を取り返そうと動いたヴァロアを、とっさに抱きしめた。

「く……っ!」

「……すまなかったよ。お前さんが笑って生きるはずだった十年間を、憎悪と煩悶に塗り替えてしまった。まだ親が必要だった少年から両親を奪い、最も忘れたかったはずのわしの事ばかりを考えながら生きさせてしまった。……これ以上、お前さんから何を奪うものがある?」

 老いぼれは、ヴァロアから奪った銃をルイスという男に手渡し、地面に跪いた。

「……否、そんな事は許されん」

「じじぃ、何をっ……!」

 そして、ゆっくりと両手を頭の後ろに回し、頭を地面に押し当てる。

「十年もかかってしもうた……。本当は、もっと早くお前さんを解放してやれればよかったのじゃが、勝手ながらわしにもそれが出来ん理由があってな。時が来るのを待っておったら、十年もかかってしもうたわ……。じゃが、ようやくその時が来た。何の偶然か、お前さんとゼノンが同じタイミングで収監され……、そして、やつも生きて……」

 老いぼれは、一瞬だけ顔を上げて俺達の足元を見たが、再びその顔を伏せた。

「――いや、それはいい。……許してくれとは言わん。ああ、赦されるわけもない。……じゃがな、お前さんは生きておくれ……。こんなに遅くなってしまったが、お前さんの十年を返そう……」

 ――何だよこれ……。

十年を返すって、何なんだよ……。

「じじぃっ……!」

「構わん、ルイス。引いてくれ」

「……っ」

「ちょっと待ってくれ! 頼むよ、じじぃ……、昨日のは何だったんだよ! 俺の事愛すって……たった一日の事かよっ! ……それに、じじぃの家族はどうなる! 後悔してるとか言って、こんな終わり方したら本当に弱くて、浅はかな父親に――」

「――充分じゃ、ゼノン。こんなどうしようもない老いぼれを引き留めてくれるだけで、充分じゃよ……。ああ、愛しているさ。昨日の言葉に誓って、もう一度言おう。……お前さんに出会えてよかった、ゼノン」

「頼む……。顔上げてくれよ……」

「……」

 ――老いぼれは、跪いて顔を伏せたまま動こうとしない。

「顔を上げろっ!」

「……」

 ――昨日だって、いつもと変わらず、また明日って別れたのに……。

こんな終わり方があってたまるか……!

「……俺は、ずっとじじぃに会いたかった! 直接会って、もっといろんな話がしたかった! それなのに……、やっと会えたのに、ろくに顔を見せずにいなくなろうだなんて、赦さねーぞ!」

「……引け」

「ですが……まだ、リ――」

「――ルイス、わしとお前さんはこの十年の間で慣れ合いが過ぎたようじゃな……。言ったじゃろう? わしは臆病者なのじゃ、と……。お前の事もこれで解放してやろう……。縛られておったのはわしだけではなかった。……未だ気にしておるのじゃろう? あいつの死を――」

 ――あいつの、死……?

 その時、黙ったまま突っ立っていたリノが老いぼれの前に歩き出し、耳を疑う言葉を口にした。

「……父さ……ん?」

「父さん……?」

 ――誰が、誰の父さんだって……? 

「……何の事じゃ」

 老いぼれは、ほんの僅かに顔を上げ、絞り出すような声で答えた。

「僕の……、父さ……ん?」

「父さんって……、じじぃがリノの……?」

「……人違いじゃよ。わしに息子はおらん」

 そして、再びその顔を地面に伏せる。

「……C20459、ジュイド・パルヴィス。そうだよね、おじさん……?」

「……ルイ?」

「――ゼノンが持ってたあのグシャグシャの紙……。俺破いちゃったけどさ、一度見た形は絶対に忘れない。ID登録情報や、十年以上消息不明だとか、最後の目撃地は二番区だとか、……そういう事書いてあったけど。……必要なら全部言うよ」

「ジュイド・パルヴィス……。リノ・パルヴィス……。リノの父親って、何だよそれ……」

「ヴァロア……」

 ヴァロアは、地面に跪いている老いぼれと、老いぼれの前で立ち尽くしているリノを、引き攣った顔で見比べた。

そして、手で顔を覆い、泣き出しそうな顔で笑ってみせた。

「……はは、あの時から神なんていないとは思ってたがな、。……どうやら、本当に見捨てられちまったみたいだ……」

 ――痛々しい笑い方に、胸が痛くなる。

「……こいつが俺の父親を殺して、次は俺がリノの父親を殺そうとしているって? ……そんな皮肉な話があるかよ……」

 俺は、今にも泣き出しそうな顔で笑うヴァロアの顔を、ちゃんと見る事が出来なかった。

握りしめている拳は爪で真っ赤にうっ血し、その拳は小刻みに震えている。

「……俺は、あんな絶望を誰かに与える事は出来ない……。それがどれ程苦しいものか、嫌と言う程分かっているんだ……。だけど……、それじゃあ俺は、一体何の為に……」

「……」

 ……誰も、何も言ってやる事が出来なかった。絶望に打ちひしがれるヴァロアの前で、誰も掛ける言葉を見付けられずにいた。

そんな中、やがて老いぼれがその口を開く。

「……いいか小僧、お前さんも聞いたじゃろ? わしはお前さんの父親ではない。……この手で人を殺めた、どうしようもない殺人者じゃ」

「それじゃあ……、僕と一緒……。僕の手も……人を、殺す手……」

「……お前さんは違う。お前さんの手は、誰かを殺める手ではない」

「何の、手……?」

「……生きていれば分かるさ。大切な人に触れたいと思った時、その手があれば何だって、何度だって叶える事が出来る。……わしのように汚れた手では、大切な人を抱きしめる事も出来んようになる……。そうじゃ、ただ一言、名乗る事さえも……」

「生きていれば……分かる……」

 ――そう一言呟いて、リノは老いぼれの前に座り、恐る恐る手を差し出した。

リノの細い指が、戸惑いながら伸びていく。

 そして、その手は老いぼれの体に触れ――

「……こういう、事……? ……大切な人に、触れる……」

「……!」

 その瞬間、老いぼれの体がびくっと揺れる。

「……こんな汚れた老いぼれに触れてどうする……。何も感じんじゃろう……」

「……感じる……」

「戯言じゃ……」

「だって……、あなたは……僕の……」

「何じゃ……」

「……父さん……だから」

 老いぼれは、跪いたまま小さな体を震わせた。

「違う、……間違いじゃ」

「……顔を……上げて、父……さん」

「……」

「……十年も……待ったんだ……」

「……」

「……父さん……お願い……」

「……るのか、……う一度……」

「じじぃ……?」

「……もう一度、その名前で呼んでくれるのか……?」

 そう言って、ゆっくり顔を上げた老いぼれは――顔をグシャグシャにして、涙を流していた。

「こんなどうしようもない老いぼれを……もう一度父さんと呼んでくれるのか、リノ……」

「……父、さん……」

 リノの目元に、涙が溜まっていく。

「……ずっと、会いたかった……」

「リノ……」

 ……リノの二度目の涙は、やっぱり綺麗で上品に流れていく。

「……すまかった……。本当にすまなかった……。お前が隣の房に収監されて、……わしはここにいると……わしはお前の父親じゃと、何度も声を掛けようと思った。――じゃが、……どうしてもそれが出来んかった……。当然じゃ……。わしが殺人など犯したせいで、母親は自殺……、行き場の無くなったお前は、こんな所に収監されてしまった……」

「……生きてただけで……いい」

 リノは、涙で汚れた老いぼれの顔に触れた。

「お前を十年間も一人にしてしまったのは、あの壁のせいではない……。乗り越えようと思えば、乗り越える事が出来た。どんな事をしてでも、お前の手を引いてあそこから逃げ出す事も出来た。じゃが……この汚れた手では、たった一人の大切な息子を守ってやることも……抱きしめてやる事も……父親だと名乗る事さえ出来んかった……。すぐ隣にいながら、十年間もじゃ……。こんな情けないわしを恨んでおるじゃろう、リノ……? お前を救おうとした職員に、己の息子を預けようとした最低の父親じゃ……」

「……アルドも、ジュイドも……僕の……大切な家族だから……」

 そう言って、リノは老いぼれの手を握った。「あぁ……、十年の月日がこんなにも長いものだとはな……。――大きくなったな、リノ……。本当に、十年見ない間に……こんなに大きく……」 

次々流れ落ちる老いぼれの涙が、リノの細くて長い綺麗な手を光らせる。

「僕は、これからも……多分、もっと大きく……なる。……ジュイド、これからは……見ててくれる……?」

「充分じゃ……もう充分、大切なものを守れるだけの手をしておる……。わしは、二度とこの手に触れる事が出来んと思っておった……」

 握りしめるリノの手を見つめながら、老いぼれは肩を震わせて呟いた。

「この手があれば……これからも……何度でも……。そうでしょ……?」

「……ああ、人は何度だって何時だって、歩むべき道に戻る事が出来る。……その希望さえ失わなければ……」

「……ジュイ、ド……?」

「……ゼノン。全てはお前さんのおかげじゃ。出会ってくれてありがとう……。本当に、本当に感謝しておる……」

 老いぼれは、頭を地面に押し当てながら何度も何度も礼を言った。

「俺は、何も……」

「……いや、お前さんが出会ってくれたから全てが動き出したのじゃ。わしと出会ってくれたおかげで、ヴァロアとリノと出会ってくれたおかげで、止まったままの十年が動き出した……。あの時、お前さんに間違って声をかけたのは、きっとこの日の為の必然じゃったのじゃ。……本当に感謝するぞ、ゼノン」

「……やめてくれよ。礼なら、帰ってから聞くよ。また話相手になってやるって言っただろっ? 俺がいないと、つまらないってっ――」

「――時間じゃ、ゼノン……」

 顔を伏せたまま、お決まりのセリフで俺の言葉を遮った。

今まで、別れ際に何度も聞いたこの言葉。

だけど、いくら俺でも分かる……。これが、最後の『時間』なのだ、と……。

「またそれかよ……! 毎回毎回勝手に終わらせて……、次は本当に終わらせようとしてるんじゃないだろうな!」

「……ジュイ、ド……?」

「……何を言うか、ゼノン。終わらせるのではない、始めるのじゃよ」

 そして、ゆっくりと顔を上げた老いぼれは、涙で濡れた頬を緩ませ、穏やかに笑っていた。

「……ああ、初めてあやつの気持ちが分かったよ。こういう時は、自然と笑顔になるもんじゃ……。己の身を以って、大切なものを守れるというのは、実に誇らしい……」

 老いぼれはニッコリ笑い、両手を顔の後ろに回した。

「……さぁ、やっと契約執行の日が来たな、ルイス」

「……」

「お前さんまでそんな顔をするな。……十年前、お前さんとわしで決めた契約ではないか。契約の期限は、ゼノン・バリオーニの儀礼祭の日までじゃったかの。……少々予定は早まったが、物事にはタイミングというものがある。……言ったじゃろう? 自分の散り際くらい、自分で決めさせてくれ、と……」

「俺の……儀礼祭の……?」

 ――一体どういう事だ……?

老いぼれは、俺がここに来る事を知っていたのか? それも、十年も前から……。

「……じじぃ、俺の事も知ってたのか? 十年前に決めた契約って何だよ……。それにっ――」

「――いいか、ゼノン」

 ――嫌だ、聞きたくない……。

そんな落ち着いた声で、こんな所に座り込んで、……一体何を言うつもりだよ。

……それじゃあ、まるで――

「……これが最後の言葉になるなら、聞きたくない……。俺は、聞かない……」

「……それじゃあ、老いぼれの最後の独り言じゃと思って聞いてくれ」

「……嫌だ、よ……」

「……ゼノンよ、わしの教えは間違いじゃった。人の罪を赦せば己の罪も赦される――と言ったがな、お前さんの罪を赦したくらいで、わしの罪は決して赦されん。ヴァロアに会って、己の考えの浅はかさに改めて気付かされたわ……。じゃが、お前さん達は違う。生きる希望さえ失わなければ、何度だって歩むべき道に戻れる。例えどれ程人の道から外れようと、お前さん達には戻るべき道が用意されておる。……その道を見失うでないぞ。お前さん達の明日は、誰かを恨む為でも、罪を重ねる為でも、その罪に苦しむ為の明日でもないのじゃ……」

「嫌だ……っ! ……そんな言葉、聞きたくない……!」

 ――次の一言で終わるかもしれないと思うと……、怖くて怖くて仕方がない。

 本当はもっと他に言いたい言葉があるのに……。老いぼれが俺に言ってくれたように、老いぼれが感じている罪から解放してやりたいのに……。その一言を言うと、全てが終わってしまう気がして……。

「わしに出来る事は、お前さん達が迷わず戻る為の道標を作ってやる事くらいじゃ。無責任で、罪深いわしを赦してくれ……」

「嫌……だ、じじぃ……」

 ――違うんだ……。

もしこれが本当に最後なら、もし本当に何一つ覆すことが出来ないなら、俺が言いたい言葉は、こんな言葉じゃない……。 

俺は……――

「――さぁ、十年越しの約束は果たしたぞ、アルド」

「……宜しいのですね?」

「ああ、構わん。……契約はしっかり守ってもらうぞ。リノ・パルヴィスのID放棄を無効にする事……。それと、わしがこの十年間で集めたポイントの全てを彼らに譲渡する事。彼らを忠誠者と同じとみなして対応する事。……それと、ヴァロア・ドルチェの件についてもじゃ。いいな? まず一番に、あの監獄から出してやれ」

「はい、必ず……」

 ――契約って……、俺達の為の契約……?

リノが奉仕に参加出来るようになった事も、じじぃのおかげだったなんて……。

そんな事、これっぽっちも……――

「……俺達の為に死んで、それで自分は赦されようってか……」

 ――違う……。

……こんな事が言いたいんじゃない。

「……そんなの、本当に赦される為の行為じゃねーだろ……。ただ目を背けて、逃げてるだけだ! ……本当に赦されたいならっ――」

 本当に言いたい言葉は、ただ一言なのに……。じじぃを楽にしてやれる言葉を、俺は分かっているのに……。

「――本当に赦されたいなら、生きて罪を償えっ!」

 ……どうして俺は、その一言が言ってやれないんだ……。

「……ゼノンよ」

「……嫌だっ……」

 じじぃを楽にして、笑顔で逝かれるのが怖いから……?

「……やはり、わしの罪は……ほんの少しも……赦されんじゃろうか……?」

「……っ」

 そう俺に問いかけた老いぼれは、一筋の涙を流し、穏やかに笑っていた。

――全てを受け入れた穏やかな顔……。

……胸が苦しくなる。

「違うんだ、俺……っ」

「……さぁ、独り言は終わりじゃ……」

「――待って……!」

 老いぼれの言葉と同時に、ルイスは目を閉じ、老いぼれの後頭部に銃を押し当てた。

「――待って! 俺はまだっ……、本当に言いたい言葉をまだ言ってないっ……!」

「……すまんな、ゼノン、リノ、ヴァロア……。こんな形でしか詫びる事が出来んわしを赦してくれ……。ルイとロマーノも……必ず、生きておくれよ」

 老いぼれの優しい目が、順々に俺達に向けられる。

「頼む、待ってくれっ!」

 そして、目を閉じ……ゆっくり顔を伏せた。「――じじぃ……っ!」

――もう、どうやっても変えられない。

もう二度と、老いぼれを待つ夜は訪れない。

……それなら、俺には言わなければいけない言葉がある。

「……俺が赦すぞっ……!」 

「……っ!」

「じじぃの罪は、俺が全部赦すから……! じじぃはもう、罪に縛られて苦しまなくていいんだっ……」

「……そう言って……、くれるのか……?」

「ああ、誓う……! もう全部、……全部置いていっていいんだっ……!」

「……そうか、いいのか……」

 ――俯いた老いぼれの顔から、大きな涙の粒がポタポタと地面に零れ落ちる。

「最後に……、わしの罪は少しでも赦されたのか……」

「ああ、神に誓う……」

「……そうか。それじゃあこんなわしも……、生まれてきてよかったのか……」

「……もちろんだっ……」

「……こんなわしも、この世に何か残せたじゃろうか……、誰かの心に残るじゃろうか……」

「……俺は、じじぃに救われたんだ……。ずっと救われてた……! 出会ったあの日から、ずっとっ……」

「……ああ、受け取ったとも……」

「だからっ……、俺の方こそっ……」

 くそっ……、こんな大事な時に、どうして涙が止まらなくなるんだ……。

「出会ってくれて、あり……がとう……じじぃ……」

 老いぼれは、返事の代わりに一粒涙を流し、ニッコリと微笑み返した。

「……さぁ、さよならの時間じゃ……」

「……じじぃっ……」

「……必ず、生きてここから出てくれよ、息子達よ……」

「じっ――」

 ――そして、俺の叫び声と同時に、……狭い小道に乾いた銃声が鳴り響いた。

弾は、直接老いぼれの後頭部を撃ち抜き、一滴も血を流さずに倒れている。

「……っ!」

「ジュイ……ド……」

 ルイが、今にも気を失いそうなリノを抱きしめる。

「じじぃ……っ」

 老いぼれは、最後の微笑んだ顔のまま地面に倒れ込んでいた。まるで、まだ生きているようにも見える……。

「契約、ですので……」

「……っ」

 ルイスは、老いぼれの姿から目を逸らし、未だ煙が立ち上がっている銃を胸ポケットにしまった。

「こんなの……」

 ……嘘だろ。

だって、まだ笑ってるじゃねーか……。

「絶対に……まだ……」

――頬に触れるとまだ温かくて、……まるで穏やかに眠っているようにも見えるのに……。

「なぁ、じじぃ。本当に、……もうあの部屋に来ないのか……?」

 もう二度と、あの部屋でじじぃを待つことが出来ないなんて、……どうしても信じられなかった。

「次は、……いつ会える?」

「ゼノン……」

「また話しかけてくれよ……。俺待ってるからさ。また……人間違いでもいいから……」

「ゼノンッ……」

「――分かってる! 分かってるんだ……」

 もう二度と、老いぼれが話しかけてくれる夜は訪れない。それが叶わない事は、少しずつ冷たくなっていく老いぼれの頬が、俺にそう伝えてくる……。

「昨日が最後だったなら……、俺はもっと伝えたい事沢山あったよ……。じじぃは、いつも勝手に話終わらしちまうから……、今日だって、言えてない事が山程あったのに……」

「きっと、聞いてるよ……」

 ロマーノは、俺の肩を抱いてそう言った。

「清掃班が来る前に、……ゼノン」

「……」

 俺は、流れ落ちてくる涙を拭い、震える声を落ち着かせながら言葉を紡いだ。

「……あの時、人間違いして俺に話しかけてくれてありがとな、じじぃ」

 笑顔のまま横たわる老いぼれは、まるで夢を見ながら眠っているようで――

「……俺さ、気付いたらじじぃと話す事が毎夜の楽しみになってて……。ささやかな楽しかった事も、どうしようもなく不安な事も、じじぃには何でも話せてたんだ……。父さんがいなくなってもう長いけど、久しぶりに父さんと話してるみたいな感覚で、俺にとっては何より大切な時間だった。……本当にありがとな」

 ――いつか、壁越しではなく、……こんな風に顔を見て話せる日を夢見てた。

「……だから、約束する。じじぃが守りたかったものは、必ず俺が守ってやる。……必ず、リノを連れてここから出る。……だからじじぃ、安心して逝ってくれよ……」

 ――それが、こんな形で叶ってしまうなんて……。

「いつか……、また何処かで話しような」

「ゼノン……」

 そして、俺が話終わると同時に、IDブレスが老いぼれからのポイント譲渡を受け取った。

「契約ですので……、ジュイド・パルヴィスの全所有ポイント譲渡の処理を致しました。現在の達成率を、79%に引き上げます。……先日も申し上げた通り、リノ・パルヴィスのID放棄は無効とし、今後あなた方五人は、忠誠者と同様の扱いを受ける事になります」

「……忠誠者と同様って、何がどう変わるの?」

「まず、監獄から通常の部屋へ移動となります。また、回収・ID操作の案件を優先的に送るようになります。――加えて、成功報酬のポイントも通常に比べて多く加算される為、解放される為の近道と言っても、過言ではありません」

「それが……、老いぼれの命の代わりの契約……。十年前に決めた契約って、……俺がここに収監されたのはつい最近だ。何で、十年も前からこの契約が決められていたんだ……?」

「……それは、いずれ分かります。経緯の説明は、契約内容にはありませんので」

 ルイスは、忙しそうに通信を始めながら、片手間に答えた。

「……相変わらずだな。他の職員とは少し違うのかも、って思ったけど……。相変わらず冷酷で、機械みたいに喋るんだ……こんな時でも」

「……」

 俺の言葉に反応して、少しの間手を止めたが、ルイスは何も答えず、再び通信を再開した。

「……直に清掃班が到着します。あなた方は車に向かって、施設に戻ってください」

 通信を終えたルイスは、老いぼれの亡骸を抱き上げ、俺達にそう指示をした。

「何をっ……」

「……最後は、あなた達の居ない所で……、という契約です」

「……ジュイ、ド……」

 リノは、独りぼっちにされた子犬のような目で老いぼれの姿を追った。

「リノ……、俺達がいるよ……」

「……頼む、じじぃをあの機械に入れるのだけは止めてくれ……! お前とじじぃは面識があるんだろ? だったら、あんな酷い最後を見て、平気なわけないよな……?」

 ――幾ら冷酷な人間だって、面識のある人間にあんな残酷な事は出来ないはずだ……。

「……『この世に形を残さずに終わりたい』。――そういう契約ですので……」

「……そればっかだな。『そういう契約ですので』……。――契約以外の事は選択肢にない。……それじゃあ、それがお前の家族や、お前の大切な人でもそう言えるのか? そういう契約だったら、自分の大切な人でも見殺しに出来んのか?」

「……出来ますよ」

 振り返ったルイスの目は、俺の事を見てるようで見ていない……。俺よりもっと先にある、深い深い闇を映していた。

「……出来てしまったんです。――忠誠を誓い、歪んだ契約に従事する事しか出来ない……。そうやって自分の身を守る為なら、大切な人を見殺しにする事も出来てしまう……。私は、どうしようもなく弱い人間なのです」

「そんなんじゃ……お前はこれからも、誰も守れない」

「仰る通り……。――ですが、この手で誰かを守れるだなんて思ってもいません。……とっくの昔に……自分自身の非力さ故に……私にはそれが出来ないと、誰よりも理解しています」

 その目は、いつもと変わらない冷酷な目に見えるが……、その深い闇の奥は、何かを悔い……失意しているようにも見えた。

「分かってるならっ……」

「――分かっていても、どんなに悔いても、それでも……、自分の歩んできた道は何一つ変わりません。これから先、私の前に続く道もまた同じ物なのです」

 そして、ふっと今まで通りの目に戻り、老いぼれを抱いたまま再び通信を再開した。

「……質問は以上でしょうか? でしたら、車へ戻ってください。あなた方に居られては、作業が進みませんので」

「作業って……」

「――ゼノン、行こう……。それが本人の望みなら、叶えてやろう。……俺だって、万が一の事があった時に、あんな姿をお前に見られるのは……、死んだ後であっても辛い」

「……ああ、分かってる……」

「リノと、ルイも……」

「……リノ、行こう……。大丈夫だよ、ずっと一緒にいるから……」

 ルイは、呆然と立ち尽くしているリノの手を引き、ぴったり寄り添って歩いた。

「……ヴァロアもだ」

「……」

 ヴァロアもリノと同じく、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。いつもの冷静で頼れるヴァロアの面影はなく、その顔からは、一切の生気が失われている。

――ロマーノは、動こうとしないヴァロアの肩を抱き、車まで連れて行った。

 そして、帰りの車内では誰一人喋ろうとせず……、永遠に等しい時間が流れているように感じた。

 ――『……必ず、生きてここから出てくれよ、息子達よ……』。

老いぼれの最後の笑顔が、頭から離れない。

……いや、離れないように、あの笑顔にしがみ付いていたかった。

……その先の事を思い出すと、心が無くなるほど苦しくなる。痛みを感じなくなるほど空しくなる。

まるで、父さんが帰ってこなかったあの夜のように……、俺は、もう永遠に動くことのない老いぼれとの時の中で、老いぼれの笑顔だけを心に焼き付けていた。



「……あなたとこうやって話すのは、もう何年ぶりでしょうか……。最後の私の嘘を、どうか赦してくださいね……。『最後はあなた達の居ない所で』、だなんて……。そんな契約はしていない、と怒らないで下さい……」

「……十年経っても、あなたは本当に……最後まで、何一つ変わっていなかった……。人は、変わりますよ。……私は変わりました。知っているでしょう、こんな私を傍で見てきたのですから……」

「臆病な私は、ただただ命令に従事する事で、冷酷な自分を演じる事で、強くなったんだと信じていたんです。……あの時彼を救えなかったのは、己の弱さ故ではない、彼の甘さ故の結果なのだ、と……。そう思いたいが為に、私はこの十年、彼とは正反対の生き方をしてきました。……心を持たず、甘さを捨て、いつからかあなたの事も名前で呼ばなくなりましたね……」

 ルイスはジュイドの前に座り込み、独白を述べる。

「あなたは、そんな私の弱さを見抜いていた……。私が、彼を見捨てた責任を感じ続けている事を分かっていた。……だから、こんなめちゃくちゃな契約を私に突き付けた、そうでしょう? 彼の叶えられなかった望みを叶える事で、今度こそ彼の死から解放される為に……」

 ルイスの口元からは白い息が漏れる。

「……感謝しますよ、ジュイドさん……。……あなたの名前を呼ぶのは、何年ぶりでしょうか。昔は、他の職員の目を盗んでよく三人で話をしましたね。……変わっていく私を見て、あなたはどう思っていましたか……? 忠誠を誓った私は、滑稽に見えましたか……? ……本当は、今日という日が来なければいいと何度も願っていました……。あなたに銃を向けたその瞬間も、弾が入っていなければ……と、願わずにはいられませんでした。……あなたは残酷な人です。この私に、あなたの命を終わらせろだなんて……。例えそれがあなたの望みであっても、今日ほど己の存在を憎んだ日は、十年前のあの日以来です。……彼にも言われてしまいました、まるで機械のようだ……お前は何も守れない、……と」

 遠くを見ていた目が、ジュイドを捉える。

「……ですが、これであなたが全ての罪から解放されるというならば……、私はあなたを殺す非情な人間になりましょう……。あなたがそれで楽になるというのならば……、あなたの為にこの心など捨ててしまいましょう……。……あなたは笑いますか? どれだけ覚悟して今日の日を迎えても、やはり、情けない細涙が出てくるのです……。穏やかな顔をしたあなたを見れば見る程、私はちっとも強くなっていない自分に気付かされるのです……。ですが、あなたの顔は本当に……、穏やかで幸せそうな顔をしています……。この雪が止む頃には、そっちで彼と再会しているでしょうか……? …出来るなら、こうやってずっとあなたと話をしていたいのですが、もうここにはあなたはいないのですね……。そろそろ着いた頃でしょうか……?」

 ロイドの手がジュイドの冷たくなった頬に触れる。

「……はは、あなたという人は……本当に分かりやすい人です。……そうですか、アルドに会えましたか。やはりこの雪は、あなたを迎える為の祝福の雪だったかのように思えます。 ……この中にもうあなたが居ないと分かると、私も安心してこのボタンを押せます。……どうか安らかに……。いつかまた……、必ず再会を、……ジュイドさん」


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