フラッシュバック
斎の仕事は、想像以上に大変だった。
宴会が終わって風呂へ入るのに、お湯を浴槽へ貯めることから、タオルや足拭きマットの準備、使うべき枕や布団を探し出し、それぞれにカバーとシーツをかけて敷くところまで、彼がしなければならなかった。
布団を出すのはともかく、敷くのは自分でして欲しかったが、頼まれればやらざるを得ない。かなりな重労働だった。
これも久松が手伝ってくれなかったら、冗談抜きで、倒れたかもしれない。
酒盛りと寝る部屋を別にして本当に良かった。とても宴会の片付けまで手が回らない。斎は早々に諦め、井湯夫妻に頼むことに決めた。
別荘の浴室は、部屋数の割には狭かった。
家族で来た時には、広々として見えた記憶があったのに、今見ると、一度に入れるのは、大人四人が限度である。
椅子と桶が、予備込みで四セットあったのも、斎の考えを裏付けた。
とは言え、四人で入れば、窮屈感は否めない。
せめて二人ずつ入ってくれればまだしも、人の入浴時間にまで気を回すメンバーはおらず、序列順に一人ずつ入ったので、最後に斎の順番が回ってきた時には、真夜中を過ぎていた。
疲労で寝落ちしそうになりながら体を洗い、頭を洗う視界の端で、何かが動いた。
虫? にしては、シルエットが大きかった。コウモリでも入り込んだか。
両手を泡だらけの頭に突っ込んだまま、浴室内を見回す。オレンジ色の照明に照らされた壁にも天井にも、特におかしなものは見えない。
気のせいか。
斎は泡を洗い流した。浴槽に蓋をしようとして、動くものを見つけた。
浴室は窓を広くとった設計で、海が見えるようになっていた。今は深夜のこととて、海は真っ暗である。
下の方には、広い別荘の敷地も見える。つまりは、外からもばっちり見られるのだ。それゆえ、一部すりガラスとなっている。
その、浴槽に浸かっている時には見えない辺りに、人影があった。
踊っている。
斎は、急いで浴室から出た。
酔っ払ったサークルの誰かが、外へ出たに違いない。
広い敷地は、道路から離れれば、暗い場所も多い。海側の、急斜面になった箇所で足を踏み外したら、ただでは済むまい。あるいは、道路まで出て事故に遭ったりしたら、それこそ大変なことになる。
体を拭くのももどかしく、湿った体に無理矢理服を着て、玄関まで駆けた。入り口の鍵を開けて外へ出ると、建物に沿って回り込む。
角を曲がって見えたのは、知らない年寄りだった。短い白髪頭を振り振り、無言で一心に踊っている。
年寄りらしい、緩慢な動きだった。夜目に加えて遠目には、年齢の見分けがつかなかった。
この年寄りも、飲み会で酔い過ぎて、戻る家を間違えたのかもしれない。
どっちにしても、放ってはおけない。不法侵入である。
「あのう。家を間違えていますよ」
最初、斎は遠慮がちに声をかけた。年寄りは、全く聞こえなかったかのように、踊り続ける。耳が遠いのか。
「おい、そこで何やっているんだ」
思い切って強気の声を出すと、ぴたりと踊りが止んだ。
その瞬間、首筋がゾゾっと粟立った。
年寄りが、走って逃げた。建物の方向である。追いかける斎。
あの緩慢な踊りからは、想像もつかない速さだった。本当に、年寄りだったろうか。いや、確かに老いていた。白髪だけでなく、顔もシワだらけだった気がする。
次に見えたのは、扉の陰に逃げ込む姿だった。誰だ、地下室への扉を開け放した奴は。
地下は防音室になっていて、屋内からはもちろんのこと、屋外から直接出入りすることも可能な作りであった。
「おい、出てこ」
扉を開け放ち、中へ怒鳴りかけた斎の口が、固まった。
扉のすぐ内側に、相手がこちらを向いて、立っていた。
白っぽい着物のようなパジャマのような、くたびれた上下を着て、短く刈り上げた白髪の中に見える瞳は、濁って焦点が合わない。遠目に爺と思っていたが、間近で見れば、服の感じからしても、どうも婆のようである。
口の端に、よだれの流れた跡が、白い線と化しているのが、夜目にもはっきりと分かった。
斎と相対した老婆の口が、動いた。
「‥‥お、お前は、いけ」
思ったより低い、男のような声だった。その声を聞いた途端、斎の脳裏に、ある場面が閃いた。
窓のない室内。輪になって座る男女。斎の前に立ち、見下ろす男の口が動く。
『この子供は‥‥』
そこで、我に返った。
「お前こそ、出ていけ!」
斎は老婆の腕を掴み、引っ張り出そうと、した。
「いやだあああ。やゑ様のお側にいるんだああっ」
突然、体に似合わぬ大声を上げた老婆が、扉へしがみついた。
同時に、別荘の玄関の方から不穏な音が聞こえてきた。地震? しかし、地面は揺れていない。
老婆を掴む手に力が入る。しかし、老婆の力も強かった。年寄りとは思えない。
引っ張り合う間にも、邸内の音は、ますます酷くなる。
遂に、斎の指が布を滑った。
斎は尻餅をつき、老婆は勢い余って扉ごと内側へ消えていった。扉が閉まった後、大きな音が立て続けに起こり、止まる。
いつの間にか玄関の方の音も消え、異様なほどの静けさに包まれた。
「け、警察。いや、その前に、救急車?」
目の前の閉まった扉を、もう一度開く勇気は、なかった。
あれは、まともな人間ではない。助けるにしても、まず電話で警察か誰かを呼んでからにすべきだ。
斎は、自分に言い聞かせる。しかし並行して、白髪頭の老婆が、踊りながら襲いかかってくる映像が、脳裏に浮かぶのであった。
助けるよりも、助けてもらいたい心境である。
すぐそこに、玄関へ通じる扉があった。そこから入った方が、建物の外側を回り込んで出てきた入り口まで戻るよりも、早い。
家へ入って電話をかけた後、久松も起こそう。二人がかりなら、老婆が暴れても、何とか押さえられるのではないか。
斎はポケットに手を入れ、鍵を取り出した。一緒に白い紙片が落ちた。反射的に拾い上げる。
碰上大学理学部助教授 綾部 理加
急に、尻ポケットにスマホが入っていたことを、思い出した。
斎は、名刺に印刷された番号を打ち込んだ。