呪いの源流
ところで、本来法要は、四十九日までの間、七日ごとに行わなければならない決まりである。その間、魂はこの世に留まり続ける。
絹や美与の家では、法要と呼ぶにはささやかに過ぎるものの、七日ごと僧侶を招いて一通りの経を上げてもらい、精一杯の供養を続けていた。
なお、その儀に関して、碰上家並びにその家に仕える者は、一切関わっていない。
碰上家における絹と美与の法要は、美与の初七日に行われたのみであった。
殿や奥方、藤河にも、女中の追善供養を幾度も行う考えなど、はなから浮かばなかった。
真の元凶たる藤河はともかく、主家としては当然の扱いである。
こうして知らぬ間に四十九日が経った。
その夜、藤河がふと目覚めると、寝床に久音の姿がない。
姫の寝床を確かめる。こちらは、すうすうと子供らしく眠っていた。お付きの奥女中も、白河夜船である。
いないのは、娘の久音のみである。
また、夜歩きの病が出たか、と藤河は寝所を忍び出た。
美与の首吊り騒ぎの後、法要までの間に立て続けに彷徨い出た他は、絹の死の前の晩が最後である。
考えを巡らせば、娘の病は、真にあれらのせいのように思われた。
「迷惑な」
人気のない夜の廊下に、本音が溢れる。
自らの美貌を鼻にかけ、出過ぎた真似をした下女と、武家の出の癖に農民の腰巾着を嬉々と務める下女が、ろくに摺らない墨でうっすら書いた駄文のせいで、殿のお手まで煩わせることとなった。
己は何もしていない。
下女らの不始末とて、覚えておらぬのに、何事か因縁をつけようもなかろう。
失態を知れば叱責し、指導するのは上の務めである。一つひとつ数え上げるほど暇ではない。
廊下の隅の雨戸が、一枚だけ開いていた。
ふと、嫌な気持ちが湧き上がる。
幼い久音が開け閉めしたとも思えず、下人が閉め忘れたものであろう。明けに注意せねばなるまい。
夜中のこととて、自ら閉めるのも憚られた。
襖や障子と異なり、雨戸の開け閉ては、なかなかの音がする。
障子まで隙間が空いている。
もしや、久音が出たのであろうか。
秋の風は涼しく、寝ぼけ眼の娘にも心地よさげである。
藤河は、障子を開けて、庭を見た。
手入れの行き届いた庭園は、月に照らされ、秋の風情に満ちている。
竜胆や薄が配された間に、求める童女の影は見当たらない。
安堵の息と共に戸へ手をかけた藤河の目の端を、異な物が横切った。
動きに釣られ、目を上げる。
遠く離れた場所に、あの井戸があった。
誰が手向けたか、蓋の上に菊の花が供えてあるのが見えた。
井戸を挟むように、二人の女が向き合っている。その間に。
「ひ」
藤河は、裸足で駆け降りた。日頃は足袋に守られた足裏が、庭の小石を踏みつけて痛むのも構わず、井戸まで走る。
釣瓶に隠れて見分けが遅れたが、間に立つのは久音であった。すなわち、娘は井戸の蓋の上にいた。
童女は、中腰で、前に置かれた菊に手を伸ばしていた。
「待て。待つのじゃ、久」
母の声は耳に入らない。夢に遊んでいる最中なのである。
「見よ、みよ。きれいな花じゃ」
「美与とな?」
藤河は、娘の傍に立つ女を見た。
まさしく美与であった。
白装束を纏い、髪をざんばらにした女は、それだけで十分に気味が悪いのに、口の端から血を流して顔色が尋常でなく青かったにも関わらず、微笑んでいた。
笑みに生者の温もりはなく、女の顔を凄まじく見せるだけであった。
では、もう一人の女は。
絹である。
これも、白装束にざんばら髪である。頭から流れ出したらしき血が、こめかみを伝って顎まで滴り落ちている。これも顔色が青い。美しい顔であるが故に、却って凄みを増して見える。
と、その顔がこちらを向いた。
藤河の全身が粟立つ。絹に笑みはない。生前、人々に褒めそやされた黒目がちの瞳が、今は底知れぬ空洞となって藤河を見つめる。絹の指先が持ち上がる。
「ほら、久音様。母君が、いらっしゃいましたよ」
声も陰々とした響きであった。
久音は、ぱっと歯を見せた。そこだけ明かりに照らされたように、白く見えた。
「おお、母上が来ぬ」
「きぬ」
何か思い出しそうな気がした。しかし、その思いは掻き消された。
ぱきり。
と乾いた、意外にも大きな音を立て、井戸のまだ新しい蓋が、真ん中から四つに割れた。
久音は、まだ生え揃わぬ歯を見せたまま、落ちた。
水音が聞こえるまで、随分と間があった。
「久や」
藤河は井戸へ取り付いた。覗き込むと、暗がりに割れた井戸の蓋と何かが、ごた混ぜに落ちているのが、かろうじて見分けられた。
「己の番は、まだ先ぞ」
今にも落ちんとする藤河の頭を引き戻したのは、美与であった。
勢い余って後ろへ尻餅をついた。触れられた頭が痛む。
放した美与の青白い手には、引き抜かれた藤河の髪が、黒々と絡んでいた。
娘の死を目の前で見せられた乳母は、怒りに痛みを忘れた。
「お前、お前たち、よくも久を」
憤怒に満ち、崩れた髪で睨みつける。
生前の二人には恐ろしく見えたであろう乳母の様を、今や元女中たちは、平然と嘲笑う。
「すべてはお前の業ぞ」
「我らの先にも、泣かせた者がおるとな。己が忘るるとも、我ら忘るまじ」
白装束の女たちは、足音もなく、すうっと藤河の前まで迫った。
足がないのである。着物の裾は、闇の向こうに溶けていた。
藤河の顔から血の気が引いていく。がたがたと体を震わせた。
「己ら。殿が婢女を憐れみ供養されたを無碍にしおって。我も布施をしたというに。この恩知らずめが」
それでも口だけは強気である。
「殿と奥方の御心は、ありがたくいただいた。我らが親の供物もな」
絹が言う。近くへ寄ると、頭の形が歪だった。どこぞへ当たり、へこんだものか。
「己の出した金は、坊主の懐へ消えた。心なき物は、布施でなく、ただの金ぞ。その上一度きり。お前は幾度我らに害をなしたことか」
美与が言う。これも近くで見ると、人間の顔としてはあり得ない釣り合いに崩れていた。
藤河の歯が、かちかちと鳴った。尻餅をついたままである。腰が抜けている。
二人の女は、さらに側へ寄る。後退りしようとする乳母の体は、その場へ縫い付けられたように動かない。
顔と顔を寄せるようにして、女三人が対峙した。中で唯一の生きた女は、ひっ、と声を上げる。
涙を流していた。もはや言葉もない。
「七代末まで祟ろうぞ」
「子に先立たれた親の心根を以て、己が罪の深さを知れ」
亡者が口を大きく開けた。
乳母は、井戸の前で見つかった。
井戸の中には、壊れた蓋と、菊の花と、乳母の娘の遺骸があった。夜歩きの病で上に乗り、跳ねたか踏み場を誤ったかして、共に落ちたと思われた。
乳母には息があった。
医師が呼ばれ、懸命の治療の末、口が利けるまでに復したが、先に死んだ女中二人が娘を殺したなどと口走るので、屋敷でも持て余し、一旦、宿さがりとして夫に引き取らせた。
すると間もなく、乳母として上がるより先に産み落とした子九人のうち、八人までもが、次々と命を落としたのである。
病とは限らず、不慮の事故のものもあったが、いずれにしても奇異であり、不吉なことであった。
藤河の家からは、斯様な事情であるからして、乳母の職を辞したいと申し出た。夫からの申し立てである。当人は、未だ病の床にあった。
碰上家には渡りに船であった。
既に、姫には別の養育係をつけていた。乳を飲む歳は過ぎても、世話も修養も必要な年頃であった。
さらにその後、藤河家から、絹と美与の供養に、井戸を祀りたい、との申し入れがあった。
風の噂に、災いを払うため、高名な祈祷師や占い師、神職など、あらゆる伝手を求めた、と聞こえていた。
噂をする中には、災いではなく、呪いである、と声をひそめる者もあった。
屋敷では、縁の寺社にも諮り、了承した。
そこで藤河当主、すなわち乳母の夫が采配を取り、井戸の周りに池を作った。
井戸の縁は取り壊され、蓋の代わりに低木を植えて浮島とした。
周囲に桜を植えたのも、この夫である。
池の端には祠を作り、何やら貴重な物を埋めて封印となしたとか。
好奇の者が乳母の様子を尋ねた折りには、息災であると返した。一人残った息子の世話に、日々を費やしていると。
屋敷から隔てのある地のことで、真実かどうかは、分からない。巷では、座敷牢に押し込められている、とも囁かれた。
池を完成させた後、乳母の夫もまた、力尽きたように亡くなった。
その後の乳母と息子の消息は、知られていない。
当初の池は、無名であった。
時がたち、いつしか桜ヶ池と呼ばれるようになった。




