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元ねこ桜ヶ池始末  作者: 在江
第六章 碰上記
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怪異

 新月の晩であった。


 草木も眠る丑三(うしみ)つ時、とは定石(じょうせき)であるが、まさにその折り、絹が身を投げた井戸の前に、美与は(たたず)んでいた。

 この時刻、この場であれば、美与を害する者は、ない。


 急に、生暖かい風が、さっと吹き過ぎたかと思うと、井戸の上に、白い着物の絹が、浮かんでいた。


 浮世絵や絵草紙(えぞうし)などで見る、おどろおどろしい姿を思い描いていたのだが、案に相違して、生前とさして変わらぬ見目かたちであった。

 輪郭のあたりがぼやけ、向こうが透けて見えるのが(はかな)げで、もはや衰えることのない美貌を、一層際立たせる。


 「お絹ちゃん、美与よ」


 しばし(ぼう)対峙(たいじ)したのち、呼びかけた美与に、ようやく絹は目を合わせた。

 うなじの毛が、ちりりと逆立つ心地を覚えたのも(ごう)の間で、すぐと懐かしさに代わる。


 「お、美与、ちゃん」


 「会えて嬉しい」


 美与は心から言った。


 「私、久音(ひさね)様に呼ばれたの」


 「え」


 戸惑う美与を前に、絹は続ける。


 「夜中に、()()()()って呼ばわりながら、廊下をお歩きなさって」


 「ああ、夜歩きの病ね」


 藤河の娘、久音は、ごく稀にであるが、寝ぼけて歩き回る癖があった。子どもにはよくみられることで、大方は成長につれて治る、と医師の見立てにより、投薬などもせずにいる。


 抜け出たことを知らず、夜中に出くわすと、目もぱっちりと開き、言葉も()()と喋るので、寝ているとは思えない。

 ただし、まともなやり取りは成立せず、朝起きたのちに覚えがまるきりないことで、やはり病と知れるのであった。


 その折も、知られず抜け出したと見え、そっと覗いた絹には目もくれず、己の心のうちに従って逍遥(しょうよう)する久音の周りには、誰も付き従っていなかった。


 絹は名を呼ばれたこともあり、後を追った。無理矢理起こすよりは、危ないことがなければ、自然に眠りにつくのを待つのが良い、とされていた。


 久音は絹に気付く素振りも、またその姿を探すこともなく、屋敷のうちを歩きつつ、自らの寝床へ戻るようであった。


 「(ひさ)


 名を呼ぶ声が、夜の庭に落ちる。何故か、庭へ続く雨戸が一枚開け放してあった。誰か閉め忘れたか、あるいは、童女の手には余りそうだが、よもや久音が開けたものか。久音は無論、耳を貸さずに歩を進める。


 「久や。また寝ぼけおるか」


 母の藤河である。今し方不在に気付いたばかりなのか、静かな声音であった。娘の肩をそっと抱き、廊下の奥へ消えた。


 絹はひとまず安堵した。すると尿意を催した。雪こそ積もらねど、明け方には薄氷も見られる季節である。板敷の廊下を踏むつま先が、ひどく冷たく感じられた。


 雨戸が開いて冷気が入り込んでいるせいもあろう。同時に、夜の光が差し込み、灯り代わりともなっている。

 絹はひとまず(かわや)を済ますことにした。人気のない場所に灯りは置かず、手燭(てしょく)も持ち合わせていなかった。


 用を済ませ、表へ出ると、乳母が立ち塞がっていた。


 「夜中に何処をうろついておる」


 「(かわや)へ参りました。失礼致します」


 いつかの(こうがい)を思い出した絹は、無理を承知で脇をすり抜けようとした。


 脇腹を、ひどく蹴られた。その勢いに、息が止まった。


 「っ、ぐふっ」


 開いた縁から、狙ったように転がり落ちる。絹は動けない。


 臓腑(ぞうふ)の奥まで強く入った一撃と、落ちた際に手水鉢(ちょうずばち)と庭石で頭と腰を打ち、いちどきに起こった痛みの激しさに耐えかねたのである。


 「久を連れ出したのは、お前であろう。きぬ、きぬと呼ばわるが証拠じゃ」


 上から乳母が断じるのにも、応えられない。ただうめき声が出るばかりである。


 「しばし、そこで己を(かえり)みよ」


 言い捨てて、立ち去る前に、障子を閉められた。絹には、雨戸に(かんぬき)をかけられたも同然の心地であった。


 体を動かす度に、鋭い痛みが走る。寒さで増した痛みに(うめ)く声も途切れがちに、絹はようやっと半身を起こした。


 近くの石に寄りかかると、星明かりに井戸が見えた。


 すぐ後ろに手水があるのに、絹の目は井戸から離れなかった。寄りかかる石は氷の如く冷たく絹の温もりを奪う。


 井戸の水は、冬にも凍らず手に(ぬく)い。屋敷内の豊富な井戸で仕事をしてきた絹の心に、井戸水の温もりが強く思い起こされた。


 絹はどうにか立ち上がり、痛む体を引きずるようにして、井戸を目指して進む。普段使われない井戸は、不便にも屋敷の建物より遠くあり、ようよう辿り着いたところで、木の(ふた)(かぶ)せてあった。


 気力を使い果たした絹は、井戸の端に崩れ落ちる。腕と頭で押すようにして、木の蓋をずらす。少しばかり隙間ができた。中は暗い。しかし、立ち上る空気が周りの冷気よりも暖かい気がしたのは、幻であろうか。


 絹は仄かな暖気に勇気を得て、上半身を井戸の上まで乗り出す。けれども、蓋を持ち上げるほどの力までは回復しなかった。そのまま、蓋に被さるようにして、余り力の入らない腕と頭で蓋をずらす。


 うまく力が噛み合ったとみえ、大きく蓋が横へ滑った。

 絹の目の前に、暗い穴がぽっかりと空いた。



 「そうしたら、身を投げたのではなくて、誤って落ちてしまったのね」


 美与は、勝手に自死と決め込んだ申し訳なさと、絹の両親に偽りを伝えずに済んだ安堵がないまぜの心持ちで念を押す。


 「どうかしら。もうこれ以上のご奉公は嫌だとも思ったわ。まだ藤河様は威張っていなさるのね。私への仕打ちなど、お忘れになられたのかしら」


 そう言って美与を見る絹の目が、急にこの世のものとは思えぬ色を帯び、美与は背筋が冷たくなった。


 途端に、絹の姿が消えた。


 前には新たに作られた(ふた)(かぶ)さる井戸が、あるばかりである。



 美与は、翌早朝には見つかった。


 井戸の上に組まれる釣瓶(つるべ)用の()に紐をかけ、蓋を開けた井戸にぶら下がり、首を吊ったのである。


 偶々(たまたま)見つけた小姓(こしょう)が騒ぎ立てたことから、隠す間もなく、奥方や殿の耳にも入ってしまった。

 しかも、美与は(ふところ)に、乳母の藤河の(いじ)めにより絹が死んだこと、絹の死後は己が(いじ)められた、ゆえに自死を選ぶと薄墨で認めた書付けを忍ばせていた。


 美与は微禄(びろく)といえども一応、武家の出であった。主としては、その節は知らずにいたとはいえ、絹と同様に済ませる訳にいかなかった。


 事情を聞かれた乳母は、顔面蒼白となりながらも、決して苛めを認めようとはしなかった。通り一遍に聴取された女中たちも、未だ乳母とその麾下(きか)の女中による報復を恐れ、口を(つぐ)んでいた。


 証拠と言えば、美与の残した告発文のみである。

 また、乳母の藤河は公家に連なる出自であり、処罰を下すとなると、さまざま面倒な(すじ)があった。常であれば、罪を一等減じられる女人でもある。


 そして最も重要なこととして、罪人と断じられた場合、そのような者に(なつ)き、育てられた姫の評判が、大きく損なわれる恐れがあった。


 故を以て、碰上(ほうじょう)家では、今後の態度に十分留意するよう叱った後、藤河をお咎めなしとして、事を収めたのであった。


 代わりに、美与の実家には弔慰(ちょうい)の金品を手厚く下賜(かし)し、よろず言い含めて後顧(こうこ)の憂いを断った。

 また、折しも盆の時期であったため、招いていた僧侶を通じて日を選び、絹と美与の法要を行った。藤河は自ら申し出て、その費用の大半を(まかな)った。


 爾来(じらい)、屋敷内での人魂や影などの噂は、徐々に立ち消えとなった。


 藤河も、女中を選んで苛めることはせず、周りの女中も大人しく過ごした。(もっと)も、絹ほどの美貌の女中は、もはや屋敷にいなかった。


 屋敷には平穏が訪れた、ように見えた。


 噂は広まっていた。


 碰上のお屋敷では、女中が立て続けに変死したとか。

 何ぞ怪異があったとか。

 いや、ひどい扱いを受けて、(つい)には(いじ)め殺された、と聞いた。

 誰がそのような(むご)いことを。

 化けて出たとて、道理であろう。

 出たのか。

 知らぬ。

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