元ねこは高速を走る
「じゃあ、康明。萌衣とパパによろしく言っておいてね」
「うんわかった。それから、理斗おじさんも、気をつけて運転してね」
息子と別れを惜しむ様子もなく、理加が車へ乗り込んできた。荷物は既に積み込み済みだ。
俺は、車を発進させた。
今や俺は、運転免許まで持っている。免許用写真を撮影するときには、色々小細工をしなければならないが、昨今のパソコン修正技術や、大学と警察との連携のおかげで、問題は起きていない。
普通にシャッターを切っても、人間と認識されず、まともに写らないのだ。
元々は、猫だから。
「康明、一緒に行かなくていいの?」
「もう大学生だからね。一人で留守番できるわよ。親をうざいと思う年頃だし」
「そうかなあ」
「たかが一泊。夜には、萌衣も秀章さんも帰ってくるのに、理斗が甘過ぎ」
確かに、萌衣が中高生の頃は酷かった。
口を開けば、クソババアだし、俺に対しても、髪が長くてキモいとか、いつまでも若ぶっているんじゃねえとか、言いたい放題だった。
その頃の記憶が強烈過ぎて、今の清楚な女子大学院生姿が、幻覚じゃないか、といまだに構えてしまう。
本人は、当時の記憶なぞ、すっかり忘れたみたいに振る舞っている。
姉に比べると、弟の康明は、一見何の問題もなさそうだった。現在彼は大学生で、中高生の頃から、もっと言えば小学生の頃から、大人しかった。
理加が、仕事で悪霊退治へ行くのに、預け先が見つからないからと現場へ同行させても、そしてその現場で心霊現象に出くわしても、驚いたり涙を流したりはするものの、帰りたいとか、次から行かないと駄々をこねるとか、そういう方向にはいかず、とにかく親を困らせなかった。
それはそれで、大人に都合が良すぎるだけに、警戒というか、構えてしまう。
俺も猫だったんで、人間の成長過程は専門外なんだが、萌衣と康明の姉弟は、まあ両極端に育ったものである。
途中経過はともかくも、康明もすくすくと育ち、家から近い碰上大学へ入学した。ただし、萌衣と同様、彼もまた心霊学科ではない。
霊能力がないからである。
竹野のじいさんによれば、俺が人間になるため、理加の能力を奪った時に、霊能力を発現するための素みたいなものも、一緒に取れてしまったのではないか、と言う。
改めて、理加には悪いことをした。そんなつもりではなかったのだが。
理加は、竹野の説を聞いても、俺を責めたりせず、淡々と、自分にできる仕事をしていた。
彼女もその後、美宇と言う猫妖怪と融合する形で霊能力が使えるようになったから、心霊学科に居ても不自由はしていない。
それに、結婚相手の成瀬秀章は、子供達に霊能力がなくて内心ほっとしていることを、俺は知っている。
彼は、俺がかつて理加の飼い猫だったことを、理解できていない。
絹子叔母が拾ってきた、家出少年か何かと思っている。
色々むかつくところはあるが、成瀬家には理加が親の代から世話になっている。
両親を早く亡くした理加の保護者的存在でもあったし、息子の秀章とは結婚することになった。
その上、俺の戸籍を作って絹子叔母の息子ということにしてくれたので、許してやっている。
「学生は現地集合なんだっけ?」
俺はひとまず理加の息子の話を止めて、当面の問題に切り替えた。
「そう。タクシー乗り合わせてくるんじゃないかしら」
「金なくて、バス仕立てられないものな」
俺たちが向かっているのは、例によって心霊現象の起こる場所である。
今回は、個人の別荘ということだった。
心霊学科では、心霊現象の解決を頼まれると、そのまま学生の実習に回すことがある。
今は夏休み中なので、希望者のみ参加である。休み明けに提出する課題として認められるから、自力で課題を見つける当てのない学生は、交通費自腹でも参加する。
今回の行き先は熱海で、東京から近い方である。ただ、個人の別荘だけに、駅からの道のりは車必須だ。住所を伝えてあるとはいえ、皆迷わず辿り着けるだろうか。
「純一郎は来なくて、律が来るんだっけ」
「うん。何か遠慮したみたい」
日置純一郎は、理加の大学同期だが、現在理加の上司である。
彼が教授として着任した後、当時も助教授だった理加が、萌衣や康明の関係で突発的に休んだり早退したりした時のフォローを随分してもらった。
前任者がフォローしなかった訳じゃないが、互いに気兼ねなく頼めるかどうか、という問題だろう。純一郎も、律の世話で休みを取ることが、結構あった。
理加が昇任せず、純一郎が外部から招聘されると知った時は、「マミートラック」とか、ぶつぶつ言っていたけれど、今は納得の上、仲良く仕事をこなしている。
確かに彼は強い。父親も息子も霊能力を持っていて、積み重ねた経験値も違う。
息子の律もまた、心霊学科に在籍している。通常、親子で教える側と教わる側を同じ教室にしないよう調整するらしいのだが、特殊な学問だから致し方ない。
車は、高速道を快調に進む。猫が自動車運転して高速を走るなんて、想像しただけで笑ってしまう。俺も随分進化したものだ。
人間になった最初は、喋るのも一苦労だった。
「遠慮って?」
運転に夢中になって、反応が遅れた。話に夢中になって、運転が疎かになるよりは、マシだ。
「渡会からの依頼だったからね。むしろ気を遣って、出張ってくれればいいのに」
「ああ渡会。相変わらず図々しい奴だな。元気だった?」
「ううん、メールのやり取りだけだから。定年前に天下って、何処かの顧問に収まっていたわ」
渡会は、理加の元亭主である。成瀬とは、再婚なのだ。渡会との間に、子供はいない。
奴は、無類の猫好きで、多分それで、猫妖怪に憑かれた理加に惹かれたのだ。
俺も、よく秋波を送られたり、無駄に触られたりした。その手つきがどうもいやらしくて、あんまり好きになれなかった。理加と結婚したせいではない、断じて。
猫憑き状態の理加を嫁にした渡会は、理想の結婚相手を手に入れた筈なのだが、奴はモフモフ愛好家でもあり、多情でもあった。
猫譲渡会を主催する獣医と、浮気している証拠を押さえられ、理加に離婚を申し渡されたのだ。証拠はないものの、その前から、他に複数の女とも浮気していたらしい。
その後、渡会が件の浮気相手と結婚したかどうか、俺は知らない。当時、奴は厚生労働省かどこかに勤めていたんだが、浮気して離婚されたぐらいではクビにならなかったようだ。
「え。じゃあ、渡会の別荘なの?」
「違う。誰だっけ」
と、理加は資料を漁る。これから俺たちそこへ行くんだが、名前を知らなくて大丈夫なのだろうか。
住所はナビに入れたけれど。
「ええと、藤‥‥河。藤河さんとかいう人」
「どういう人?」
猫好き仲間か?
「ポン大の先輩らしいよ。結構上の期の。だから断れなかった、とか書いてあった。プロフィール添付見たら、有名な人みたいね。どこかの大学で教えていて、本も出していて、テレビにも出ているって。コンサル? 経営コンサルタント、だそうよ」
と大学の先輩に対して、敬意の欠片もない紹介をする。ポン大とは、碰上大学のことだ。碰の字が中国語読みでポンだからで、しかも麻雀というゲームのポンと同じ漢字なのだ。
理加の興味の範囲外は、俺も同様だった。写真を見せようとしてきたので、断る。今、運転中だってば。
どうせ見覚えはない。コンサルタントがどんな職業かも、全く知らない。
「で、藤河って奴の別荘に何が出るって?」
俺は肝心の話を振った。車はまだ神奈川県内である。東京から熱海へ行くには、都内を抜けた後、横に長い神奈川県を突っ切らねばならない。熱海は静岡県である。先は長い。
「普通にポルターガイスト。熱海だから、最悪出なくても学科の親睦旅行になるし、実習向けかなと思って。律くんが来るなら、逆に多少悪くてもいける、と踏んだの」
「何か、ヤバい要素あるんだ」
律を保険にかける時点で、学生実習に向かない気もする。夏休み中の自主実習だからと、理加が少し無理をしたかもしれない。学科存続のために、色々な実績が必要、と聞いたことがある。
確かに、律は強いけれど。
どちらかといえば、理加が雑な性格なだけか。親睦旅行になるなら、バスを借りればよかったのに。
もっとも、理加の雑というか、人生投げやり的な部分のお陰で、俺が人間になった時も、大した混乱なく受け入れられたのである。何が幸いするか、わからんものだ。
俺の内心を知らず、理加が続ける。
「前の持ち主が、真実教のパトロンだったらしくて」
「パトロンて?」
「推し活みたいな。応援したい相手に、お金を出したり、物や場所を譲ったり貸したりして、活動しやすいよう、手助けする人」
単語の説明をするのに、推し活、という新たに意味不明な単語が出てきたが、パトロンは理解したので、スルーする。
「真実教って何?」
「それな」
理加は大学で教えるうちに、学生から言葉をうつされて、自分で使うことがある。タイムラグがあって、理加が使える頃には、流行が終わっているのが難点だ。定着すれば問題ないが、大概は一過性で終わる。
理加の説明によれば、真実教というのは、碰上異変と呼ばれる事件の際に盛り上がった新興宗教で、根岸やゑという女性を教祖とし、碰上周辺を中心に活動した団体である。
異変が解決した後は、急速に勢力を失い、最終的にどうなったのか、一般には知られていない。
「教祖の根岸やゑが、晩年を過ごした場所なんですって」
「じゃ、今でもそこに居るのかな」
「どうだろう。一応、都内にある墓を見に行ったんだけれど、そこにはいなかったわ」
「成仏していたら、基本的に、いないよね」
運転しながら考える。教祖って、強いんじゃないか。
「根岸って人が居座っていたら、ヤバいんじゃない?」
「まずいかなあ。調べた範囲では、インチキっぽかったから、大丈夫じゃないかしら」
呑気に海を眺める理加。
車はいつの間にか、静岡県に入っていた。県境の看板は、見落としがちだ。
目的地さえわかれば、問題ない。
窓を開けたら、潮の香りが入り込むかもしれない。俺は、魚が食べたくなった。