乳母と女中
廊下の隅で、女中が泣いている。
綺麗な女だ。抜けるような白い肌のうなじを晒し、結い上げた艶やかな黒髪の下で、着物の袖から細い手首を出して顔を覆っている。その指は、細く良い形だったが、荒れ気味であった。
すぐ前に、女が立ち塞がっていた。これもまた、浮世絵にありそうな端正な面立ちである。こちらの女は、着物からして身分の高い者と知れる。
しかし、この女は、足を踏み鳴らし、怒っていた。
「そのように泣いてみせても、笄は戻らぬわ。とく拾いやれ」
女中は、涙に濡れた顔を上げた。目の縁を赤くした様も、却って艶かしく見えるほど、顔の造作も整って美しかった。震える声を抑えつつ、
「し、しかしながら藤河様、厠の奥へ落ちましたものを、如何ようにして拾えばよろしいのでしょうか」
と問えば、相手の女はまなじりを決した。
「何と、生意気な。この娘、自らの顔を恃みにして、我をこき使おうと謀るか」
「いえ、決してそのようなことは、あっ」
白い足袋が、女中の胸を蹴った。女中は堪らず仰けに倒れる。頭の先は、廊下の端を越えて、突き当たりの厠へ入り込んだ。
「さあ、そのまま首を突っ込んで、よくご覧」
「お、お許しを」
厠の前に立つ女が、更に女中を押し込もうと、足を踏み出した時。
「さあさあ、こちらにございますよ」
玉砂利を踏みしだく大勢の足音と共に、高らかな声が庭に響いた。
現れたのは、女中のなりではあるが、泣いていた娘より大分年嵩の、貫禄のある女である。背後に襷掛けの男衆を幾人も引き連れている。
「おや、乳母殿。いかがなされましたか。もしやはばかり様でしたら、あちらの方をお使いになられるようお願いいたします。こちらの厠は、これから肥溜めを汲み取りいたしますゆえ」
「なっ。はばかりなどでは、ないわっ」
端正な顔が、朱を散らしたように赤く染まる。その足元から、おどおどと先の女中が這い出してきた。顔色は青白く、全身を小刻みに震わせている。
「おや。お絹。厠を塞いでおったのかえ。乳母殿のおみ足を汚さぬよう、早う退け」
後から来た貫禄のある女中は、相手の様子に全く気付かぬ風で、むしろ叱咤するように声をかけた。乳母が、言葉に釣られたように身を引くと、生じた隙間から、急いで這い出し、勢い余って廊下から転がり落ちた。
そこへ、今までどこに隠れていたものやら、もう一人、若い女中が走り寄った。
「これは良いところへ来合わせた。お美与、絹を連れてお行き」
一瞬だけ、年嵩の女中の表情に動きがあったが、すぐに平然と命令を下した。美与と呼ばれた女中は、絹を足袋のまま、抱えるようにして庭から厠の裏へ回って姿を消した。
「出海殿、我は絹に用を言いつけておったのじゃ。勝手に取られては困る」
女中たちが消えた後になって、顔色も落ち着けた藤河が文句をつける。出海は、
「して、どのような?」
と問う。
「‥‥姫様が、厠へ誤って笄を落とされたのじゃ。高価な品で、気に入りでもあるゆえ、特に取り戻さねばならぬとて」
「では、この者たちに、気をつけるよう、言いつけましょう。塗りや模様など、特色はございましょうか。他にも似たものが、紛れ込んでいることも、ありましょうから」
躊躇いがちに事情を説くところへ、被せるように問いを重ねた。話を遮られたことに気分を害したか、再び藤河の顔が首元から紅潮した。
「もう、良いわ。姫様には、我より言い聞かせる」
言い捨てて、足音も高く立ち去った。
女中が二人、薄暗い部屋に並んで座る。
「お絹ちゃん、大変だったね」
話しかけるのは、美与と呼ばれた女中である。先の女中には比ぶべくもないものの、こちらも醜女ではなく、美女の部類に入る。歳は絹より少しばかり上のようだ。
「女中頭様は、お絹ちゃんの味方だから、心配いらないよ。あたしが言いつけたら、すぐ助っ人連れて来てくださった。本当に、乳母様は意地の悪い。いくら姫様お気に入りの品だからって、厠へ落ちた物なんて、もう使わないでしょうに。笄なんて、そうそう落とさないものでしょう。あるかもわからない物を探させられる男衆が、気の毒だわ」
「あるには、本当にあるのよ。藤河様が、落とされたのだもの」
「ええっ」
美与は、驚きで大声を上げてしまい、慌てて周囲を窺った。人の足音などは聞こえない。ふう、と胸を撫で下ろす。
「それは姫様の目の前で、ということよね」
再び声を潜めて問いかける。絹はゆるゆると頭を振った。
「姫様は、久音様と遊んでいらして、お気付きにならなかったの」
「それにしたって、他のお付きもいたでしょうに」
「無理よ。皆、藤河様のお引きで奉公なさったのだもの。お気持ちがあったとしても、逆らえないわ」
そういうことか、と美与が納得の面持ちで頷く。その顔はむしろ暗い。
「そこな、暗きところで何をしおる」
女中二人がぎょっとして振り返る。
いつの間にか音もなく開いた障子の隙間から、童女が半分だけ顔を覗かせていた。上物の着物を見るまでもなく、二人は慌てて立ち上がり、駆け寄る。
「久音様。母君はいずこに」
「斯様な下々の場所へ、いらしてはいけませんよ」
「母上は、お呼ばれにて、お留守じゃ。久は、隠れ鬼の鬼であるぞ。姫様はここにはいらせられぬとな。玉木や伊生が来ぬと思うたのに」
久音は、黒目がちの瞳をくりくりと動かし、薄暗い部屋を見回した。三方を白壁で区切られた狭い物置に、余人の隠れる隙間はない。絹と美与で既に満杯であった。
「他にはどなたもおりません」
「さ、久音様。お叱りを受ける前に、ここを離れましょう。お姿が見えないと、皆が心配いたします」
手を引くようにして廊下へ出た絹は、そこではた、と立ち止まる。美与が、気を利かせた。
「お絹ちゃんは、お仕事があったでしょう。久音様は、あたしが送り届けるから、そちらへ行ってちょうだい」
「ありがとう」
絹は、あからさまに安堵を顔に表し、頭を下げると、その場を去った。見送る美与を、久音が見上げる。
「美与は、絹と親しいのう。姫様と久のようじゃ」
「久音様と姫様ほどではありませんよ」
美与の顔に戸惑いが浮かぶ。童女は女中の返答に構わず、廊下を駆け出す。
「あ、久音様。走ると危のうございます」
自らは走らぬよう、しかし急ぎ足で後を追う。広い屋敷に小さな童女は、見失うのも容易い。瞬時、姿を消したかに見えた後ろ姿を、すぐさま見出した時には、美与の息は焦りから荒くなっていた。
「おや、お前。ここで何をしておる」
「母上」
童女が抱きついた先は、乳母の藤河であった。
長い黒髪は、ひどく目立つ。麦の混じった飯粒の上にあっても、すぐに異物と知れた。
美与は、黙って髪を取り除き、食事を進めた。
上座の方から、くすくすと笑う声が聞こえる。
飯粒に絡まっていない分、つまみ上げるのも楽だった。それだけなら、配膳の際、誤って落ちたとも考えられたが、今の反応からすると、わざと置いたのである。
誤って落としたにしても、毎食続くとなると、病気で抜け毛がひどいのに加えて、注意力もよほど低下していることになる。そのような様子の女中は見当たらなかった。
乳母の藤河と、女中頭の出海が厠の前で対峙してから、ひと月余りが経っていた。
藤河の絹への当たりがきついのは、以前のままであるが、この間、美与に対しても当たりがキツくなっていた。
どうやら、笄を厠へ落とした件の際、美与が姿を見せたのを、出海に言いつけた当人と見破ったのと、娘の久音から絹との仲を聞いたことが元であると思われた。
久音は童子のことで、何心なく話したものであろうが、見つかった美与には災難なことである。
男衆の尽力あって、姫の笄は肥溜めから引き上げられ、丁重に洗って乳母の元へ届けられた。
「姫様は、新たな笄をお求め済みじゃ。肥臭い笄などお髪に挿せぬ」
大方の予想に違わず、藤河は触れもしなかった。
漆塗りに金箔を散らし、螺鈿で飾った高価な品である。
出海が、奥方へ伺いを立てた上で、当の笄は古道具屋へ引き取らせ、得た金子を男衆に分け与えた。
乳母の藤河は、高貴の血筋である。
詳しくは知られぬが、遠く辿れば公家の縁であるらしい。
その上、碰上家の姫君に大層懐かれ、その姫君がまた殿に溺愛されているのである。
後継男子の乳母でもないのに、強く振る舞うのには、そのような訳があった。
年月を経るにつれ、かの贔屓で雇われる奉公人や、出入り商人の数も増え、初めはさほどでなかったとしても、今や止める者は、殿や奥方を除けば、女中頭の出海ばかりであった。
出海は奥方の乳母の縁で、藤河よりも古株である。藤河にとっては目の上のこぶとも言うべき存在であり、絹や美与にとっては救いの神であった。
ただ、出海も多忙の身、藤河が理不尽であっても、一部の者ばかりに目をかけることは立場上許されず、常に頼ることはできなかった。