表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元ねこ桜ヶ池始末  作者: 在江
第六章 碰上記
19/27

乳母と女中

 廊下の隅で、女中が泣いている。


 綺麗な女だ。抜けるような白い肌のうなじを(さら)し、結い上げた艶やかな黒髪の下で、着物の袖から細い手首を出して顔を覆っている。その指は、細く良い形だったが、荒れ気味であった。


 すぐ前に、女が立ち塞がっていた。これもまた、浮世絵にありそうな端正な面立ちである。こちらの女は、着物からして身分の高い者と知れる。


 しかし、この女は、足を踏み鳴らし、怒っていた。


 「そのように泣いてみせても、(こうがい)は戻らぬわ。とく拾いやれ」


 女中は、涙に濡れた顔を上げた。目の(ふち)を赤くした様も、却って艶かしく見えるほど、顔の造作も整って美しかった。震える声を抑えつつ、


 「し、しかしながら藤河(ふじかわ)様、(かわや)の奥へ落ちましたものを、如何(いか)ようにして拾えばよろしいのでしょうか」


 と問えば、相手の女はまなじりを決した。


 「何と、生意気な。この娘、自らの顔を(たの)みにして、我をこき使おうと(たばか)るか」


 「いえ、決してそのようなことは、あっ」


 白い足袋(たび)が、女中の胸を蹴った。女中は堪らず仰けに倒れる。頭の先は、廊下の端を越えて、突き当たりの厠へ入り込んだ。


 「さあ、そのまま首を突っ込んで、よくご覧」


 「お、お許しを」


 厠の前に立つ女が、更に女中を押し込もうと、足を踏み出した時。


 「さあさあ、こちらにございますよ」


 玉砂利(たまじゃり)を踏みしだく大勢の足音と共に、高らかな声が庭に響いた。


 現れたのは、女中のなりではあるが、泣いていた娘より大分年嵩(としかさ)の、貫禄のある女である。背後に襷掛(たすきが)けの男衆(おとこしゅう)を幾人も引き連れている。


 「おや、乳母殿。いかがなされましたか。もしや()()()()様でしたら、あちらの方をお使いになられるようお願いいたします。こちらの厠は、これから肥溜(こえだ)めを汲み取りいたしますゆえ」


 「なっ。はばかりなどでは、ないわっ」


 端正な顔が、朱を散らしたように赤く染まる。その足元から、おどおどと先の女中が這い出してきた。顔色は青白く、全身を小刻みに震わせている。


 「おや。お(きぬ)。厠を塞いでおったのかえ。乳母殿のおみ足を汚さぬよう、早う退()け」


 後から来た貫禄のある女中は、相手の様子に全く気付かぬ風で、むしろ叱咤(しった)するように声をかけた。乳母が、言葉に釣られたように身を引くと、生じた隙間から、急いで這い出し、勢い余って廊下から転がり落ちた。


 そこへ、今までどこに隠れていたものやら、もう一人、若い女中が走り寄った。


 「これは良いところへ来合わせた。お美与(みよ)、絹を連れてお行き」


 一瞬だけ、年嵩の女中の表情に動きがあったが、すぐに平然と命令を下した。美与と呼ばれた女中は、絹を足袋のまま、抱えるようにして庭から厠の裏へ回って姿を消した。


 「出海(いずみ)殿、我は絹に用を言いつけておったのじゃ。勝手に取られては困る」


 女中たちが消えた後になって、顔色も落ち着けた藤河が文句をつける。出海は、


 「して、どのような?」


 と問う。


 「‥‥姫様が、厠へ誤って(こうがい)を落とされたのじゃ。高価な品で、気に入りでもあるゆえ、特に取り戻さねばならぬとて」


 「では、この者たちに、気をつけるよう、言いつけましょう。塗りや模様など、特色はございましょうか。他にも似たものが、紛れ込んでいることも、ありましょうから」


 躊躇いがちに事情を説くところへ、(かぶ)せるように問いを重ねた。話を(さえぎ)られたことに気分を害したか、再び藤河の顔が首元から紅潮した。


 「もう、良いわ。姫様には、我より言い聞かせる」


 言い捨てて、足音も高く立ち去った。



 女中が二人、薄暗い部屋に並んで座る。


 「お絹ちゃん、大変だったね」


 話しかけるのは、美与と呼ばれた女中である。先の女中には比ぶべくもないものの、こちらも醜女(しこめ)ではなく、美女の部類に入る。歳は絹より少しばかり上のようだ。


 「女中頭(じょちゅうがしら)様は、お絹ちゃんの味方だから、心配いらないよ。あたしが言いつけたら、すぐ(すけ)()連れて来てくださった。本当に、乳母様は意地の悪い。いくら姫様お気に入りの品だからって、厠へ落ちた物なんて、もう使わないでしょうに。笄なんて、そうそう落とさないものでしょう。あるかもわからない物を探させられる男衆が、気の毒だわ」


 「あるには、本当にあるのよ。藤河様が、落とされたのだもの」


 「ええっ」


 美与は、驚きで大声を上げてしまい、慌てて周囲を窺った。人の足音などは聞こえない。ふう、と胸を撫で下ろす。


 「それは姫様の目の前で、ということよね」


 再び声を潜めて問いかける。絹はゆるゆると頭を振った。


 「姫様は、久音(ひさね)様と遊んでいらして、お気付きにならなかったの」


 「それにしたって、他のお付きもいたでしょうに」


 「無理よ。皆、藤河様のお引きで奉公なさったのだもの。お気持ちがあったとしても、逆らえないわ」


 そういうことか、と美与が納得の面持ちで頷く。その顔はむしろ暗い。


 「そこな、暗きところで何をしおる」


 女中二人がぎょっとして振り返る。


 いつの間にか音もなく開いた障子の隙間から、童女が半分だけ顔を覗かせていた。上物の着物を見るまでもなく、二人は慌てて立ち上がり、駆け寄る。


 「久音様。母君はいずこに」


 「斯様(かよう)な下々の場所へ、いらしてはいけませんよ」


 「母上は、お呼ばれにて、お留守じゃ。(ひさ)は、隠れ鬼の鬼であるぞ。姫様はここにはいらせられぬとな。玉木や伊生(いお)()()と思うたのに」


 久音は、黒目がちの瞳をくりくりと動かし、薄暗い部屋を見回した。三方を白壁で区切られた狭い物置に、余人の隠れる隙間はない。絹と美与で既に満杯であった。


 「他にはどなたもおりません」


 「さ、久音様。お叱りを受ける前に、ここを離れましょう。お姿が見えないと、皆が心配いたします」


 手を引くようにして廊下へ出た絹は、そこではた、と立ち止まる。美与が、気を利かせた。


 「お絹ちゃんは、お仕事があったでしょう。久音様は、あたしが送り届けるから、そちらへ行ってちょうだい」


 「ありがとう」


 絹は、あからさまに安堵を顔に表し、頭を下げると、その場を去った。見送る美与を、久音が見上げる。


 「美与は、絹と親しいのう。姫様と久のようじゃ」


 「久音様と姫様ほどではありませんよ」


 美与の顔に戸惑いが浮かぶ。童女は女中の返答に構わず、廊下を駆け出す。


 「あ、久音様。走ると危のうございます」


 自らは走らぬよう、しかし急ぎ足で後を追う。広い屋敷に小さな童女は、見失うのも容易い。瞬時、姿を消したかに見えた後ろ姿を、すぐさま見出した時には、美与の息は焦りから荒くなっていた。


 「おや、お前。ここで何をしておる」


 「母上」


 童女が抱きついた先は、乳母の藤河であった。



 長い黒髪は、ひどく目立つ。麦の混じった飯粒の上にあっても、すぐに異物と知れた。


 美与は、黙って髪を取り除き、食事を進めた。


 上座の方から、くすくすと笑う声が聞こえる。


 飯粒に絡まっていない分、つまみ上げるのも楽だった。それだけなら、配膳の際、誤って落ちたとも考えられたが、今の反応からすると、わざと置いたのである。


 誤って落としたにしても、毎食続くとなると、病気で抜け毛がひどいのに加えて、注意力もよほど低下していることになる。そのような様子の女中は見当たらなかった。


 乳母の藤河と、女中頭の出海が厠の前で対峙してから、ひと月余りが経っていた。


 藤河の絹への当たりがきついのは、以前のままであるが、この間、美与に対しても当たりがキツくなっていた。

 どうやら、笄を厠へ落とした件の際、美与が姿を見せたのを、出海に言いつけた当人と見破ったのと、娘の久音から絹との仲を聞いたことが元であると思われた。


 久音は童子のことで、何心なく話したものであろうが、見つかった美与には災難なことである。

 男衆の尽力あって、姫の笄は肥溜めから引き上げられ、丁重に洗って乳母の元へ届けられた。


 「姫様は、新たな笄をお求め済みじゃ。肥臭(こえくさ)い笄などお(ぐし)に挿せぬ」


 大方の予想に違わず、藤河は触れもしなかった。


 漆塗(うるしぬ)りに金箔(きんぱく)を散らし、螺鈿(らでん)で飾った高価な品である。

 出海が、奥方へ伺いを立てた上で、当の笄は古道具屋へ引き取らせ、得た金子を男衆に分け与えた。


 乳母の藤河は、高貴の血筋である。

 詳しくは知られぬが、遠く辿れば公家の縁であるらしい。


 その上、碰上家の姫君に大層懐かれ、その姫君がまた殿に溺愛されているのである。

 後継男子の乳母でもないのに、強く振る舞うのには、そのような訳があった。


 年月を経るにつれ、かの贔屓(ひいき)で雇われる奉公人や、出入り商人の数も増え、初めはさほどでなかったとしても、今や止める者は、殿や奥方を除けば、女中頭の出海ばかりであった。


 出海は奥方の乳母の縁で、藤河よりも古株である。藤河にとっては目の上のこぶとも言うべき存在であり、絹や美与にとっては救いの神であった。


 ただ、出海も多忙の身、藤河が理不尽であっても、一部の者ばかりに目をかけることは立場上許されず、常に頼ることはできなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ