現場突入
「僕、心霊学科の綾部助教授に呼ばれて来たんです」
と、康明は、学生証らしいものを示した。男性職員は、一目で態度を変えた。
親の立場を利用した嘘だが、朝陽は口を噤んでいた。下心あってのことである。
「どうぞ急いで中へ。そこの人は?」
康明は振り返った。朝陽はすかさず駆け寄った。
「わしも」
「連れです」
冷たく切り離されることも、覚悟していた。だが康明は、口添えしてくれた。そこで、朝陽は一緒に構内へ戻った。
背後でガシャン、と扉が閉まった。
俺たちが桜ヶ池の前まで来ると、竹野の爺いがタバコをふかしつつ、池を向いて立っていた。
定年から随分経つが、年齢の割にはしっかりして見える。前回会ったのは、数ヶ月前の四柱祭だ。
「皆、元気そうだな」
こちらから呼びかける前に、ゆっくりと振り向くと、盛大に煙を吐いた。
「先生、構内禁煙です」
理加が指摘する。
「前回のあれは、守りの力だったのかもな」
竹野は、直接応えなかったが、尻ポケットから携帯灰皿を出し、そこへタバコを突っ込んだ。
「植物の異常繁茂ですか」
風祭が会話を引き取った。
途中まで一緒に来ていた桐野たちが、いつの間にか散開して、俺たちの背後には、鄭哉藍だけが残っていた。
「竹野名誉教授、ご無沙汰しております」
竹野は笑顔を見せた。
「おお、セイラン。お前の活躍は、大貫からも聞いているぞ」
鄭も笑顔を返した。互いに手を差し出す。二人が握手すると、火花が散った気がした。
「光栄です。では、任務に戻ります。先生も、ご無事で」
「ありがとうな」
鄭を見送り、竹野が俺たちの方を向く。もう、真面目な顔に戻っていた。
「竹野先生、こんな時に」
律が、嗜めるような調子で言う。竹野が律に、手を差し出した。
「挨拶しただけだ。習慣だよ。律も、するか?」
「いいえ。止めておきます」
断られて、竹野はあっさりと手を引っ込めた。
「さて、と。純一郎君を待つ間に、先に我々が入れるかどうか、試してみようか」
桜ヶ池の周りに俺たちが張った結界は、跡形もなく消えていた。
代わりに、壁が立っている。ただし、心霊能力のある者にしか、見えない。だから、パニックにならずに済んでいるが、避難の説得も難しいのである。
半透明な壁が、池を包むように存在していた。
俺たちは連れ立って、池を一周してみた。
桐野たちが、それぞれ持ち場についているのは、確認できた。肝心の壁の切れ目は、確認できなかった。
元の場所へ戻ると、日置純一郎が自転車に跨ったまま、鄭と話していた。
「竹野先生も、風祭先生も、来てくださって、ありがとうございます」
俺たちに気付いた日置が、やってきた。その辺に乗り捨てた自転車を、鄭が几帳面に、建物の側へ移動した。俺は日置の代わりに、心の中で、鄭に礼を言った。
「爆発予告ということで、退避をお願いしました。警察も、桐野さんを通して連絡を入れたので、事情を飲み込んで警備してくれる筈です。ただ、病院からは入院患者を動かすのを拒否されて、外来を閉めただけです」
日置は自転車どころではなく、早口に状況を説明した。桐野というのは、壹夏の両親のどちらかだろう。どちらも警察関係者なのである。
「今回は仕方ないよ。病院は、桜ヶ池から距離もある。前回レベルの異変にならなければ、大丈夫」
風祭が言う。竹野は何も言わない。奴は元々医者だ。病院側の事情も理解している。最悪、どうなるかも見通しているに違いない。
「教授も揃ったことだし、行ってみましょう」
理加が催促した。何だかんだするうちに、異変が起きてから三十分以上は経っている。中へ入ったとされる普通の人間を救出するには、遅すぎる気もする。
変化がないのは吉兆だが、異変が起きた時点で、手遅れだった可能性もある。いずれにしても、行かねば始まらない。
「入れるのかな」
「入れるとは思う。出られんかもしらんけど」
俺の呟きに、日置が返す。
「元を断てば、出られるよね」
律が口を利いた。父親が戻って安堵した様子だ。能力も見込まれ、志願したとはいえ、一人だけ学生である。普段の彼からは想像もつかないが、緊張していたと見える。さっきも、竹野の爺いに突っかかっていた。
俺たちは、揃って壁と対面した。日置も言ったように、池を周回する間に、何となく結論を出していた。
「じゃあ、余命僅かな年寄りから」
一番乗りで手を伸ばしたのは、竹野である。すうっと手が飲み込まれ、こちらからは半透明で景色が見えるにもかかわらず、向こう側の手だけ消えた。
竹野は俺たちに手本を見せるように、足を差し入れ、頭、体と全てを壁に預けて、消えた。
壁を通して見える景色に、変化はない。
「すると、次は僕の番だね」
風祭が、平泳ぎするみたいに両手を差し込み、壁の向こうへ消えた。日置が律を見る。
「先に行く。間を空けるな。逸れるかもしれへん」
頭から突っ込んで、消えた。思い切ったことをする。
「理斗。律君を頼むね」
理加は足から入って行った。考えたら、それも大胆な入り方だ。踏み入れた先の足元が、地面とは限らない。
ここから見える景色に、理加は存在しない。早く、理加を追わねば。
俺は、律を見た。
「手、繋いで入ろうか」
「え。キモッ」
言いつつ、手を出す律。彼のことも、子供の頃から知っている。俺にとっては、萌衣や康明と同じである。
繋いだ手が、記憶にあるよりもがっしりとして、確かに違和感がある。彼もまた、成長したのだ。
俺たちは、並んで壁に、めり込んだ。
耳が、おかしくなったみたいだった。
藤河斎は、何度か唾を呑み込んでみたり、軽く耳の辺りを掌で叩いてみたりしたが、蝉の声も、自分の足音も聞こえないのは相変わらずだった。
普段はイライラするほどうるさい蝉の声も、急に、全く聞こえなくなると、不安になる。
音が途絶えたのは、木立の間に入った辺りだった。
池の周りには、椿や松といった常緑樹が多く植えられている。蝉の好みではないのかもしれない。松の樹液など、いかにも苦そうである。
不安を抱えつつも、斎は引き返そうとは思わなかった。不安の根底には、祖父の言葉がある。
桜ヶ池に近寄るな。
今のところ、少しばかり異様な静けさ以外に、おかしなことは起こっていない。そういえば、昔、正反対の言葉を聞いたような気もする。
斎には何かがついていて、桜が復活するとか何とか。記憶は曖昧だ。池の話と関係ないかもしれない。
久松がスクープを狙う埋蔵金の話は眉唾物だろうが、歴史ある碰上家の庭園は、散策するだけでも十分に価値を感じられた。普通に史跡として取材しても面白いだろうに。
やがて、前が拓けてきた。
池の周辺は土が見えて、飛び石の向こうに伝統的な日本家屋が見える。
立派な屋敷である。
濡れ縁と廊下を仕切る障子は開け放たれ、襖の模様が一続きになっているのがよくわかった。
全開の廊下の隅に、人がいた。