構内封鎖
縊鬼は、鬼と書くが怨霊である。
中国では、昔、霊が成仏するため、同じ死に方をした、身代わりが必要と考えられていた。それで取り憑いた後、首吊りさせるのが、縊鬼である。
縊鬼と呼ばれる存在は、日本にも存在した記録がある。それが中国由来のものか、日本で独自に発生したのかは、不明だ。
康明の言うのは、桜ヶ池の元凶が女中の縊鬼ならば、殺し損ねた乳母の子孫である藤河孫を縊死させることで、成仏する、ということである。
俺の乏しい記憶にある縊鬼は、殺す相手ではなく、殺し方に執着する。
乳母の血筋にこだわる時点で、縊鬼とは違う、と思う。
「なるほど。縊鬼ではないかもしれない。だが、藤河斎君が取り込まれたと思われる時点で異変が起きたことを考えると、『女中説』自体は有効だ。いずれにしても、彼を放置できない」
俺の意見に、理加が同意した。康明が、ほっとしているのは、自説がまだ有効だからだ。その脇でも、久松が息を吐く。
友人が巻き込まれた事態が、想像の斜め上を行き、責任に押し潰されそうな様子だった。
「とはいえ、うちの学生を危険に晒すのも」
「僕、入れますよ。父の許可取ったんで」
律が入ってきた。大人しいと思っていたら、日置と一緒に外へ出ていたのだ。
「綾部先生、私も入ります」
鄭哉藍が言う。他の学生も、口々に入る入ると挙手をする。
この場には、律と鄭を除くと、四年生ばかりである。互いに譲り合う気はない。
「楓那ちゃんは、勘弁してくれないか」
風祭が口を挟んだ。彼は界島の伯父である。姪が抗議する前に、理加が制した。
「君たちの意欲は、ありがたく受け取る。実際、君たちの助力が必要だ。だが、池に入るのは、日置君だけにする。他の者は、周辺の警戒に当たって欲しい。日置君が見た時も、異変は池周辺だけだった?」
鄭が抗議しかけたところへ、律が被せるように説明を始めた。
「はい。力場が桜ヶ池周囲の植栽を含む一帯を、取り囲んで発生していた他、異常は見られませんでした。植物も、そのままです。でも、電話が通じず、父は事務棟まで足を運びました。今頃は、病院へ回っている筈です」
能見カミラが、スマホを取り出し、操作した。画面を見つめ、こちらへ向ける。
圏外表示が、見て取れた。俺も内線の受話器を取った。何も聞こえない。
「キャンパス外への退避は、どうなったの?」
「ダメでしょうね。あれ、普通の人には見えないし。事務長が言うには、数時間から早くて半日。病院は、別途指示が必要です」
「すると、竹野先生とは?」
「構内抜けたら繋がるんで、そこから連絡しました。もうすぐ、着くんじゃないですか」
理加は指折り数える。理加、俺、律、日置、風祭の爺さん、竹野の爺い。戦力として鄭も欲しい、と思ったら、理加と彼の目が合った。
「綾部助教授、私は」
「うん。今のところ、桜ヶ池の異変は限定的だけれど、前回は碰上キャンパス全体に及んだ。もし、異変が拡大した場合の対処を任せるために、外側にも、判断力と能力のある者を残したい。桐野君たちと、協力してくれるかな?」
「はい。わかりました」
鄭は、納得したようだった。不満そうだった界島も、それで落ち着いた。
「では、内側へ入るのは、私と理斗、日置君、風祭先生、間に合えば竹野先生と日置教授の六人。外側で待機及び異変の拡張が確認された際の対応は、桐野君、界島君、永木君、能見君、鄭君にお願いします」
次に理加は、久松を見た。
「久松君。あなたは、敷地から出て。藤河君を救出したら、連絡する。康明、彼の避難誘導を頼む。お前はその後、絹子叔母さんとお父さんに、事情を説明しておいて」
「わかりました」
理加は、ぱん、と手を打ち合わせた。
「では、各自準備を。出来次第、行動を始めます」
久松朝陽が、おかしな光の膜だか壁だかを目撃してから、二十分ばかり経っていた。
救助活動を始めるには遅過ぎる気もするし、災害への対処としては早い方とも思えた。
先導する康明は、先ほどの会話から推察された通り、綾部助教授の息子であった。
「綾部さん、も、碰上大学の学生なんですか」
「はい。僕は法文学部の方ですが」
「じゃあ、やっぱり代々決まって」
「僕も姉も碰上ですが、父も父方の祖父も違う大学でしたよ。学費は安いし、通学も楽なんです。進学も、進学先も、親から特に勧められたことはありません」
朝陽の場合、サークル費用こそバイトで賄っているが、受験費用から入学金、授業料、家賃に至るまで、全て親掛かりである。安いかどうかなんて、考えたこともなかった。
もしかして、祖父や父が碰上を勧めたのは、経済的な問題も、あったかもしれない。
進路を決めるに当たって、誰も、お金のことだけは言わなかった。ありがたいことなんだろうな、と朝陽は思った。
康明は建物を出ると、正門とは別の方へ歩き出す。
桜ヶ池はすぐ近くにあった。先ほどまで一緒だった、心霊学科の学生がいた。
綾部助教授たちの姿は見えない。既に、何かの内側へ入ったのか。
「こっちへ行くんですか?」
康明が振り返った。
「はい。構内から最短で離脱できます。正門へ回りたいなら、出口を左へ塀沿いに進めば、そのうち見えます」
正門と比べれば、如何にも裏口へ通じそうな、暗い感じの坂道を下る。ただし、車が余裕で通れる道幅であった。
道端に、三毛猫の親子が佇んでいる。池の方を見ていたのが、人の気配に振り向いた。朝陽の足が止まった。
数歩先を行く、康明が気付き、戻ってきた。
「あれは、昔からあの辺りへ住み着いています。代替わりしているかもしれないけれど。猫、好きなんですか?」
「どちらでもありません。それより、綾部さんは、本当に帰るつもりですか?」
構内に留まる猫を見て、朝陽は、自分だけ安全圏に出されることに不満が募ってきた。自分は、当事者なのである。
誘った友人が、危険に晒されている。卑怯にも見捨てるようで嫌だった。
それに、異変を取材するのが、ジャーナリスト魂である。
挑発的な物言いをしたのは、一人で残っても、何もできないと自覚があったからだ。
構内の案内人としても、桜ヶ池の伝説を探る協力者としても、康明はうってつけだった。
「もちろん、帰りますよ」
康明は出口へ向かって歩き出した。なす術もなく、朝陽が後を追う。
「迷惑なんですよ。解決能力もない、自分を守ることもできないのに、感情だけで危険な場に留まるなんて」
朝陽がついてきていることを確認し、康明が言い切る。朝陽は内心を見透かされたように感じた。まだ、彼にはジャーナリストとしての誇りがある。
「しかし、真実を発信せんと」
「どうやって? 構内は通信が途絶えている、と言われましたよね? 久松さんは学生で、この取材は、依頼を受けたからではない。ここであなたが勝手に命を落としたら、逃がそうとした母や風祭先生の判断を無駄にした上に、あなたの死の責任まで負わせることになるんですよ。仕事として取材するなら、せめて責任を取る準備を終えてからにしてください」
先ほどまでとは別人の強い口調で指摘され、朝陽は反駁できなかった。
気付いたら、門から出ていた。康明の足が止まる。
「さあ。まずスマホを出して、ご家族に、今の状況を伝えてください」
「何じゃて?」
口で反抗しつつ、朝陽の手は素直にスマホを取り出していた。
「久松さんが、勝手に動くかもしれないので、僕としては、あなたがひとまず安全な構外に避難した、証拠が欲しいのです。説明文ぐらいは、考えられますよね?」
わざと挑発的に言うのは、仕返しだろうか。いや。康明も、焦っているのだ。
気付いた朝陽に、落ち着きが戻ってきた。これまで、自分の状態も、わかっていなかった。康明の言い分にも、一理ある。
まず、スマホの通信状況を確認する。問題ない。
ふと、すぐそこにある門の内側へ、スマホを差し入れたら、どうなるか、試してみたくなった。
だが、目の前で康明が頑張っている。朝陽はひとまず諦めて、祖父に電話を入れた。
「おう。風祭には会えたか?」
祖父は、すぐに出た。
進路では揉めたが、孫のために、仲介の労を取ってくれた。他にも、何かと世話になったことを思い出す。根から嫌いには、なれない。
今日に限って、やたら感謝の念が起きる。これは、死亡フラグというものでは?
朝陽は、自分がしようとしていることと関連付けて、喉が絞まる心持ちがした。
「うん。会えたけど、ちいと事情があって、話は後日になった。今、帰るところ」
「そうか。残念じゃったな。気いつけてお帰り」
切られそうになる。朝陽は、急いで口を開いた。
「爺ちゃん。それで今、桜ヶ池が異変を起こしたみたいなんじゃ。俺、もっぺん入って取材してくるけえ」
ガタゴト、とスマホの向こうで、大きな音がした。
「もっぺんって、われ、入れるんか?」
声も大きい。朝陽は、スマホを耳から離した。
「おおかた、入れる思う。実は、友達が出てこんようなってしもうて、心配で」
「つまらん、つまらん! 林先輩らも、それで帰ってこんかったんじゃ、死んでまう」
祖父の必死さが、声だけで伝わった。
「無理はせんけえ。父ちゃんたちにも伝えといて」
朝陽は通話を切った。すぐ祖父から着信したので、応答拒否した。急に、静かになった。
目の前の康明も、スマホを取り出している。通信文を打っていたようだった。
通話より、文字にすれば良かったんだ、と遅まきながら気が付いた。
ギイイイイッ。ガラガラガラガラ。
すぐ側で起きた大きな音に、飛び上がった。その横を、康明が駆け抜ける。
門の扉を、男性が閉めようとしていた。こんな大きな門に扉があったことにも、朝陽は気付いていなかった。見えていないことが多すぎる。
「待ってください、入ります」
「すみません。緊急事態で、これより立ち入り禁止になります」
男性は、汗まみれで、息を切らしていた。
首から下げたストラップの先が、胸ポケットに入っている。大学の事務職員らしかった。
背後に、自転車の置かれているのが見えた。あれで、ここまで飛ばしてきたのだ。