呼ばれる
銀座から碰上までは、地下鉄なら乗り換えなしで最寄駅まで行くことができる。正確には、構内の行き先により、最寄駅が変わるのである。
斎がそれを知っているのは、祖父か父が、会社を創立した際、そのことに拘った、と自慢げに話していたからである。
結果的に、地の利もあったが、母校との接続はあまり関係がないように思われて、違和感と共に記憶に残ったのだった。
久松と降りたのは、正門に近い方の最寄駅だった。同じ並びに、江戸時代大名屋敷だった頃の名残である、木製の門が建っている。
「今日は、桜ヶ池で異変が起きた時、爺さんと同じ新聞部におった人から、話を聞かせてもらう約束をしとる。ちいと時間が早いけえ、先に現場を見とこう思うてな。斎は、離れた場所で待っとったらええ」
何の感慨もなさそうに碰上の正門をくぐりながら、久松が言う。
「僕、一緒に行っていいの?」
「ええんじゃないか? 斎の爺さんも碰上出身じゃろ。ひょっとして知り合いかも」
久松の祖父と、その人が、どれほど親しい仲か知らないが、斎とは初対面である。
常識として、面会の約束を取り付けていない人間が、同席する理屈はなかろう。そのせいで、欲しい情報が取れない可能性もある。
しかしここまで来てしまった以上、顔を見た途端に立ち去るのも、また失礼である。落ち合う場所にもよるが、顔を合わせてしまった時には、簡単に挨拶した後、どこかで暇を潰すことにしよう、と斎は思った。
夏休み中なのに、構内は意外と人の行き来がある。よく見ると、バックパックを背負って手にガイドブックを持つ外国人や、薬の袋を提げた老人なども混じっていた。
敷地内には、病院もある。斎たちのように、学外の人間の方が、多いかもしれない。何せ、門が開けっ放しなのだ。出入りも通り抜けも、自由だった。
芦足大学へ進学して以来、碰上大学へ足を踏み入れるのは、初めてである。
進路を決める遥か以前、学園祭や講演会などで、父に連れ出された記憶がある程度だ。
構内の建物は、古きも新しきも煉瓦模様の壁である。古い方は、年月を経て、味わいのある変化を遂げている。比較的新しい建物の壁が、本物の煉瓦を積んで作ったものかどうか、見ただけでは判別がつかなかった。
建物の周囲には、通路沿いの植栽とは別に、大きく葉を茂らせた樹木が、あちこちに残されていた。
剪定が間に合っていないのではないか、と思わせるほど枝を張り出していた。葉に隠れて鳴く蝉の声も、喧しい。
そうした余分な空間は、斎のような不案内な人間が紛れ込んでも、許容する余地を作り出しているように思えた。
時間を潰すには、苦労しないだろう。
「あそこじゃ」
建物を回り、久松が指した先には、こんもりとした木々を寄せ集めた塊が、あった。
夏の日差しを背に、互いに重なり合う葉が、緑よりも濃く、黒々として見える。
「斎は、この辺で待っとりゃあええじゃろ」
「いや、行くよ」
「え。じゃけえ、爺さんの遺言で桜ヶ池には近付くな、て」
散々誘っておきながら、今になって久松が腰の引けた発言をするのが可笑しく、斎は先に立って歩き出す。
「祖父は存命だよ」
「すまん」
後から、久松がついてくる。足取りが怪しい。
構内の中だけでも、あちこちの方向に勾配が見えていた。彼は地味に体力を奪われたらしく、早くも息が上がっている。
目的の場所へ近付くにつれ、日差しを反射した水面のような煌めきが、暗い木々の間から溢れてきた。奥にある池の光が、透けて見えるようだった。
その眩い光は、池への道を示すように、斎に向かって、真っ直ぐ伸びているように思われた。
「呼ばれているみたいだ。本当に、池に埋められたモノは、僕にも権利があるのかもしれないね」
「え?」
「久松、君?」
知らない声が、久松を呼ぶのが聞こえた。直後、彼の重い足音が、ぶつりと途絶えた。一斉に、蝉の声も止む。
静けさで、気温が下がったように感じられた。
斎は、爽やかな心持ちで、前へ進んだ。