ウラ事情
藤河斎は、人生で初めて金に困っていた。
熱海行きのせいである。
芦足大学のインカレサークル代表である棚沢持矢の代わりに、入ったつもりだが、別荘宿泊が決定済みだったところを見ると、斎の参加は既定路線だった。
棚沢の欠席も、以前から決まっていたのではないか。彼の家は、不動産持ちである。熱海に別荘があってもおかしくない。
ただ今回は、平方大学の幹事企画であり、彼が敢えて貸し出す必要もなかった訳である。
ところが、彼の一サークル員に過ぎない斎が、別荘を宿泊所として提供する話を知った。話を持ちかけられた時点で、斎が棚沢へ伺いを立てるのが、普通であるのに、当人からは連絡もない。
実際は、本人抜きで進められた話である。
花頭が、どのように棚沢へ話をしたか知らないが、先輩から斎に参加の連絡が来た時点で、既に棚沢を含めた平方サークル幹部は、そのことに気付いていたに違いない。
何せ、幹事でもない大学の平メンバーが別荘を貸し出すと言うのに、当人が欠席予定なのだ。
しかし、芦足だけでなく、他大学も参加する企画で、引くに引けず、棚沢の面子を保つため、就職関連の口実を設けてドタキャンしたのだ。
斎の別荘泊が失敗に終われば当然、好評を博したとしても、棚沢には面白くなかろう。
芦足の幹部も巻き込まれたくなかったろうが、幹部全員欠席では、平方側から責任を押し付けられる可能性もあり、棚沢への報告も強いられ、不本意ながら参加したものと見える。
道理で、花頭のサプライズ発表の時、斎から殊更に目を逸らしていた。
一方、平方側も、本人抜きで、よく話を進めたものだ。
最初に、久松から情報を得たのは間違いない。しかし、人の別荘を黙って使うことは不可能である。
そう。あり得なかったのである。
平方大学の花頭柾は、ちゃんと事前に使用許可を得ていた。
ただし、斎の父から。
熱海の別荘を購入したのは祖父だったが、その後名義は父に変更され、実際に使うのも、ほぼ父だった。
とはいえ、花頭が斎にお願いし、斎が祖父や父に連絡し、許可を貰い、最終的に斎から花頭へ貸します、と言うのが正しい順番だと思うのだが。平サークル員に頼むのが、嫌だったのだろうか。
持ち主から許可を得るという意味では、間違ってはいない。これを機に、父や祖父と面識を得ようとしたのか。
祖父はコンサルタント業界で、それなりに有名である。父は祖父の会社で働いており、祖父との窓口でもある。
花頭も平方の経済学部である。あり得なくもない考えだ。
問題は、ちょうどその日に碰上大学が調査に入っていたことだった。
そもそも管理人の井湯が、父でなく祖父に怪異を訴えたのが、いけなかった。
井湯の立場で見れば、当初のオーナーは祖父であり、その後の名義変更について知らされていなかったとすれば、話の内容も内容であり、会社でなく直接オーナーに連絡したのも頷ける。
管理人の訴えを聞き入れた祖父は、母校の碰上大学へ調査を依頼したのだった。
ところで、祖父と父のスケジュールは、家族共用のアプリ上で見ることができる。本人入力なので、覚書程度ではあるが、家族同士で大体のところを把握できるようにしていた。
斎もこのメンバーに入っている。
後で確認したところ、祖父は当日の欄に、「大学熱海調査」と書き入れていた。祖父にとって、大学と言えば碰上大学と決まっている。
ここで斎が、インカレ熱海とでも書き入れようとしていれば、祖父と連絡が取れなくとも、事態に対する心構えは出来たし、マシな対応を取れたかもしれない。
実際には、直前の参加で動揺し、スケジュールアプリに入力するまで考えが及ばなかった。
父もまた、祖父の記入を見て、誤解したに違いない。花頭か斎が、祖父へ先に連絡して根回ししたとでも思ったのだろう。
父は、祖父に頭が上がらない。祖父の求める官僚になれなかっただけでなく、息子の斎が碰上大学に入れなかったからである。
入れなかったのではなく、入らなかったのであるが、父と祖父にその違いを理解する気はない。
斎もまた、自分がならなかった官僚を目指すよう父に強いた祖父と、その祖父に唯々諾々と従う父を理解する気は、ない。
そうして誤解や偶然が重なった末、別荘へ到着した斎の前に、先んじて彼らがいたのだった。
せめて斎が先に来ていれば、穏便に追い払えた。あるいは、相手が数人程度だったら、こちらの数を恃みに同宿を説得できたかもしれない。
だが、彼らはマイクロバスを仕立てて来た。玄関横付けのインパクトに、ただでさえ緊張の最中にあった斎は、パニック寸前だった。
そこへ現れた先客が、碰上大学の教員と学生だったのだ。とどめの一撃だった。
これだけでも十分に不運だったのに、その晩、おかしな老婆が乱入し、建物内では物が落ちて散乱するという異常現象が起こってしまった。まさに、祖父が調査を依頼した件である。
あの老婆は、井湯の係累らしい。突き飛ばした訳ではないのだが、斎は何となく気が咎めた。
宴会の片付けなど、とても頼めなかった。その後、死んだりしていないだろうか。
斎はせめてもの償いに、別荘にこれ以上おかしなことが起きないようにする呪いとやらを手伝ったが、彼らは片付けまではしてくれなかった。
仕方なく、斎は徹夜でシャンデリアまでは片付けたのだが、そこで花頭たちが起きてきてしまったのだった。
「えー。何これひどいなあ。俺たち、そんなに暴れていないよね?」
「ええ、まあ」
「ところで朝食は?」
当然のように要求され、斎は寝不足で片付けもそのままに、彼らの朝食を用意する羽目になったのだった。
彼らが二日酔い気味で食欲不振なのは、不幸中の幸いだった。
さすがに、一緒に帰る気になれず、片付けがあると断って、タクシーだけ呼んで彼らだけで帰ってもらった時には、ほっとしたものだった。
久松は残ると言ってくれたが、斎の方で断った。
散々な二日間だった。
それで、終わりには、ならなかった。
熱海から帰って数日後、斎は祖父に呼び出された。
実際に対面したのは、父である。これはいつものことだ。
祖父の意向を父が伝える。
「熱海の件だが、一応、事情を聞こうか」
父なりの気遣いなのだろう。斎の主張で決定がひっくり返ったことはない。むしろ父がそう切り出したことにより、この先自分に下される処分が、斎にとって重いことを予想させた。
斎はことの次第を説明した。聞き入る父の表情が、くるくる変わる。概ね同情されている様子だった。話し終えた斎も、少しすっきりした心持ちであった。
「すると、平方大学の久松君が、お前の了解を得たと決め込んで、サークル代表に別荘貸し出しの話を持ちかけたのに加えて、代表の花頭君がお前を通さず、直接私から借りる許可を得たことが、問題だったということかな?」
そうです、と返事をしかけて、踏み留まる。その伝で行くと、花頭から連絡を受けた父も斎、あるいは祖父に確認を取らなかった責任を問うことになる。
父は、普段祖父に抑えられているせいか、責められることに敏感であった。
せっかく斎に同情したところへ、自分が責められたと感じさせたら、更に斎の立場が悪くなる。
祖父の決定を軽くすることはできないが、父が独自の罰を加えて重くすることは、可能だった。
「まず、酒席で僕が、別荘の話を安易に持ち出したのが、失敗だった」
「うん。今後、気をつけないといけないね」
父が頷いたので、斎はほっと息をついた。
「お前が同じ碰上に通っていれば、何とかなっただろうが」
斎の顔が強張った。父は、卓上のモニターを見ている。
「シャンデリアや大瓶が破損したのは、異常現象が原因として」
家財の弁償を免れたとて、斎の体は弛まなかった。斎が壊した訳でもない。
つい今しがた、裏切られたばかりでもある。
「飾り棚にあった酒を、全部空けた」
「はい」
斎は全く飲んでいない。高い酒だったのだろう。変わった瓶に入っていたし、匂いだけでも嗅いでおけば良かった。ホールの片付けで力尽き、結局宴会の方を忘れたまま帰ってしまっていた。
井湯が片付け、報告したのだろう。
「飾り棚のグラスも、使った」
「はい」
酒が変わる度に新しいグラスを求められ、手近なところから持って行った。最後には酔いが回って、そのまま飲んでいた気もする。
「ひびが入った物があった。バカラなのに」
「すみませんでした」
少なくとも、斎が割ったのではない。
「特殊コンパニオンを呼んだそうだな。オプションはつけなかったようだが。二人?」
「はい。二名です」
カッと顔が火照る。あれも、斎は堪能できなかった。行き来の合間に声をかけられ、絡まれた時は興奮したが、それだけである。しかも、あの後、平方大学から何がしか支払われるという連絡もない。
「お前が、二十歳になっていたから良かったものの、警察に摘発される可能性も、あった」
今度こそ、肝が冷えた。
参加メンバーの中に、ギリギリ二十歳未満の者もいたかもしれない。
ピンクコンパニオンとオプションで盛り上がっている最中に踏み込まれでもしたら、祖父や父の仕事にも何かしら影響が及んだだろう。
大学教員の別荘で未成年が酒池肉林、と脳裏でネットニュースの見出しが踊る。
幹事校でもなく、急に参加した斎には、参加者の顔ぶれを確認する手段がなかった。それも、警察相手には言い訳にならない。
「グラスは、新しく買い換えれば済む。酒は、もう手に入らない品もあるが、いずれ飲まれて消える物だった。評判は、簡単には取り戻せない。世代をまたぐこともある」
「はい」
そんなに高い酒もあったのか、と斎はますます味見しなかったことを後悔した。
コンパニオンの件は、記事にならなかったという意味で未遂である。もう別荘を貸すことはないし、二度と起こる心配もない。断れれば。
何としても、断らなければならない。
「今回の一件に鑑み、お前のカード専用に限度額を設けることにした。更新は毎月末日となる。特に今月は、残額に注意して使うように。以上」
父は、斎が立ったままでいることに気付くと、
「以上だ」
と繰り返した。斎は一礼して、部屋を出た。