元ねこは管理人から告白される
朝食後、理加は桐野壹夏と永木蒼の二人を連れて、井湯夫妻に会いに行った。
俺の運転である。律と鄭はチェックアウトまで仮眠させ、留守中の仕切りは上級生の界島楓那に交代させた。
見た目は全然似てないが、界島は風祭元教授の姪である。
井湯夫妻は、当然のことながら、疲れていた。
約束もあったのだろうが、昨夜老婆を探した後で、今朝は孫を預かっていた。ほぼ徹夜だろう。
夫の母親というあの老婆は意識を取り戻し、今のところ普通に過ごしている。念の為、午前中にでもMRⅠを撮る予定だという。
「おばちゃんたち、どこから来たの?」
「東京から〜。お絵かきして、遊ぶ?」
幼児から、おばちゃんと呼ばれても華麗にスルーし、桐野が孫の相手を始める。井湯妻の表情が、こころもち緩んだ。自ら相手をするのと、側から見守るのとでは、エネルギー消費量が断然違う。
俺も猫の時分、子猫のしつこさに閉口したことは、しょっちゅうだった。
猫ならパンチ一発かませば済むが、人間の子供に同じ手は使えない。
理加の子どもたち、萌衣と康明の小さい頃を思い出した。振り返れば、子猫も人の子も、大きくなるのは、あっという間だ。
「井湯さんたちは、いつから、あそこの管理人をなさっていたのですか。前の持ち主はご存知ですか?」
前置きも何もなしに、理加が始める。
本当はもう帰る予定だったのだ。昨日のうちに聞いておけばよかったのだが、藤河孫の騒ぎで失念してしまったらしい。
「今のオーナー、藤河様が買い取られた時に、また頼む、とお願いされて、父が務めていたのを引き継いだのが、十年ほど前です」
ん?
「お父上が、前のオーナーに、お仕えされていた?」
「はい。売却された際に一旦辞めましたが、今のオーナーが」
当然のように頷く井湯夫。隣で妻が、居眠りを始めている。
「ええと。そうしたら、もしかして、根岸やゑさんを、ご存知でした?」
子供と折紙遊びを始めた桐野の手が、止まる。彼女の母は、碰上異変を解決した調査隊メンバーだった。何か、聞いているのかもしれない。
「もちろんです。父は、真実教の信者でしたから」
誰も何も突っ込まなかったが、多分、それぞれ心の中で驚いたに違いない。
藤河の別荘が、真実教教祖の晩年に関わる場所であることは、学生たちにも説明してあった。
真実教とは、碰上異変の頃、一時的に盛り上がった新興宗教である。
あくまでも、心霊現象に関する参考情報という位置付けであった。偶々、前の持ち主に何らかの関わりがあった、というのと、信者の縁者が出入りを続けている、というのでは、条件がまるで異なってくる。
井湯父は、前のオーナーの影響を受けて、真実教に帰依したという。ちなみにその妻も、息子つまり現在の管理人も、信者ではない。
前オーナーは、真実教教祖の宗教活動を支援するだけでなく、生活上の面倒も見ていた。あの別荘に住まわせ、説法や祈祷の場所として、地下室を提供したのだ。
教祖自身、もう布教よりも集う信者を相手に助言や祈祷をする方向で落ち着いていた。したがって、活動によって、苦情が入ったり、排斥運動が起きたりする心配はなかった。
そうして後継者も決めず、彼女は穏やかに天寿を全うしたのだった。
取り残された信者は、教祖の死後も、集まって祈りを捧げたり、教祖が生前に残した言葉を振り返ったりしていた。
ある時、信者の一人に、根岸やゑの霊が降臨した、らしい。
降霊する信者は決まっていなかったが、憑依された信者は、常に教祖の振る舞いや言葉を現したという。
「お父上にも、降りたのですか」
理加が尋ねる。話半分といったところである。
それはそうだ。長年の信者なら、教祖の模倣も無意識にできるだろう。無意識だから、照れもなくできる。
「そうなんです。私がお付き合いで連れて行かれた時にちょうど。予言というか託宣というか、『現在交流のある女が汝の妻となろう』なんて言われまして。親父には内緒にしていたのに。教祖様が降りられている間のことは、後で聞いても覚えていないんですよ。後日、交際している人がいる、と話した時に、驚いていました」
井湯は妻を見ながら、懐かしげに話す。その妻は、卓上に俯し、完全に寝入っていた。
孫は、桐野の手から繰り出される、折り紙の技に夢中である。組み合わせて繋げるとどんどん長くなる折り方を教わり、見よう見まねで作ろうとしている。
幼児が作るには難易度が高そうだが、当人は、やる気であった。
井湯は教祖の力を目の当たりにした後も入信に至らなかったが、父や信者たちは、教祖の霊を信じ、崇め続け、順番に鬼籍へ移っていった。昔からの信者ゆえ、高齢者ばかりだったのだ。
そして前オーナーも亡くなり、集う場所を失った信者たちは、自然解散となった。
筈だった。
数年後、藤河がその別荘を購入した。
俺たちも見たように、一軒家としては大きすぎる建物に、管理人は必須だった。
そこで、建物をよく知る井湯父に声がかかったという訳だ。
既に高齢だった井湯父を手伝うべく、自営業で融通の利く息子が付き添い、後に跡を継いだ。
「地下室へ入った時、また憑いてしまったんですよ」
言わずと知れた、根岸やゑである。
教祖となった井湯父は、その場に信者が一人、実は信者でもない息子しかいないことに戸惑っていた。
「それでも私の顔を見て、『近々家族が増える』と言ってくれましたよ」
「当たりましたか」
と聞いたのは、永木である。彼は許可を得て、井湯の話を録音し、メモを取っていた。理加が聞きそうにないので、気を利かせたのだ。
「はい。当たりました」
井湯は嬉しそうに答えた。わかっていた。だから理加は聞かなかった。永木もわかっていた。いわば合いの手である。彼は、地元で公務員になる予定である。
根岸やゑが去った後、井湯は父に憑依の話をした。
それを信じた井湯父が、藤河に頼んで、地下室を使わせてもらうことにしたのだ。
もう、残った信者は、片手で数えるほどだ。
教祖の憑依もなかなか起きず、ただ集まって思い出話に耽る時がほとんどであったようだ。
そんなある日。
藤河が、孫を連れて、地下室の集いに顔を出した。
もちろん藤河は信者ではない。これまで信仰に興味を示したこともなかった。
何故孫まで連れてきたのか、単なる気まぐれなのかはわからない。
とにかく彼らが参加した日、久々に根岸やゑが降りたのだった。
憑いた先は井湯父ではない。別の信者である。
だからこそ、井湯に経緯が知れたのだ。
憑依された信者は、孫の前に立ち、藤河に向かって言った。
「この子供には印が付いている。お前にも」
「桜。うう。お前たちの力で、蘇るかもしれぬ」
藤河が孫を抱き上げて立ち上がるのと、教祖がお帰りになるのとは、ほぼ同時であったという。
そこで信者がくず折れなかったら、一悶着あったかも知れない。
藤河はそのまま孫と共に出ていき。井湯父たちは信者を介抱した。
その信者も高齢だったのだが、翌日から入院し、まもなく亡くなったとか。
井湯父は次の日、藤河から、今後地下室を使わせない、と言い渡された。
もう、信者は井湯父ともう一人が残るだけだったので、以後二人は互いの家を行き来して交流した。根岸やゑは二度と現れなかった。
「お父上が亡くなるまでの間、一度も?」
「私自身、見聞きしませんでしたし、周囲からそれらしい話も、聞きませんでした」
理加は俯き、少しだけ考えた。
「お母上は、真実教の信者ではなかったのですね?」
「はい。父だけです」
「その、もう一人残った信者さんとは、家族ぐるみのご交流を?」
「いいえ。父が個人的にお付き合いする形でした。その方が亡くなった後は、父も出かけなくなりましたので、あちらのご家族との交流もなかったと思います」
「お母上が徘徊されるようになったのは、お父上が亡くなる何年前からですか」
「いえ。母が認知症と診断されたのは、父が亡くなった後のことで、徘徊はもっと最近のことです」
井湯の答えは明快だった。理加は、口を開く前に、少し間を置いた。
「お気付きかと思いますが、別荘で起きた不審な現象は、お母上の徘徊と関連しているようです。会わせてもらえませんか。それから、できれば介護記録、徘徊の日時がわかる資料を見せてもらえると、根本的な解決に役立つと思います」
「午後に行く予定ですので、一緒に来ていただくことは可能です。介護記録は施設の書類で難しいですが、徘徊のたびに施設から連絡が来ます。私の方で、備忘録をつけております。それをお見せしましょう」
「わかりました。それでお願いします。記録のコピーを取らせてもらっても、よろしいですか?」
「もちろんです」
井湯の孫が、幼児なりに作り上げた折り紙の紐を、祖父母の前へ投げ出した。
「ばあば、見て見て〜」
折り紙の端を頭に当てられた井湯妻が、はっと顔を上げた。皆、見て見ぬふりをした。
「午後かあ。どうするかな」
一旦引き上げる車の中、スマホに収めた井湯母の徘徊記録を眺めつつ、理加が悩む。
「僕は、今日一日大丈夫です」
「私も」
後部座席から、永木と界島が応じる。予定がありそうなのは、岩動と鄭ぐらいだ。それなら当初の予定人数と変わらない。
「いや、帰りが遅くなると危ない」
律の心配である。運転手が彼しかいないのだ。無理をさせて、事故を起こされたら、目も当てられない。
「それに、お婆さんに会ったところで、その場で解決はできないんだよね。皆で見に行っても、しょうがないというか、無駄ではないんだけれど」
「どう言うこと?」
「チェックアウトぎりぎりまで居座って、向こうで説明する」
理加は、スマホで電話をかけ始めた。