僕の家の特殊な事情
僕の家は、変わっているのかな。
最初にそう思ったのは、いつだったろうか。
遅くとも、小学生の頃には意識していた。
例えば先生が、「家族の写真を持ってきてください」、と宿題を出す。みんな、普通に家族全員の集合写真を持ってくる。
僕の家には、母の写真がない。
母とは、物心ついた時から、一緒に住んでいる。幼い頃に、家族で出かけたこともある。
お出かけ先でも、家でも、シャッターを切るのは、いつも母だ。撮る人の写真が少なくなりがちなのは、よくあるだろうけど、父は、一度たりとも、撮影を代わろうとしたことがない。
父の気が利かない、というのではなく、幼い頃の僕や姉が、母と写真を撮りたがるのを、母と二人して宥めるのだ。
だから、学校には、父と姉と三人の写真を持って行く。するとクラスメートに、「お母さんいないの?」とか言われる。毎回、否定するのが面倒臭い。
母は大学で教えていて、出張も多いから、いない日は、多い。
また別の日。先生が、「お父さんお母さんの若い頃の写真を持ってきてください」と言う。
今だったら、それぞれ家庭の事情を考慮して、何十年前の写真を探してみよう、とか、範囲を広く取ってくれそうだけれど、僕が通っていた学校では当時、担任の先生にとっての普通が、全てだった。
家には、父の写真しかない。クラスメートは、嬉々として両親揃った写真を持ってくる。そして、毎度のやりとり。
写真は、まだ些細なことだった。
母との旅行は、もっと大変だった。
母が泊まりがけの旅行へ連れて行ってくれる時、必ず一緒に行ってくれるのが、理斗おじさんだ。
このおじは、絹子叔母さんの息子で、正確には母の従弟に当たる。
本当は絹子叔母さんも、大叔母さんである。おおおばさんって言いにくいし、母と父が叔母さんと呼ぶので、僕も姉もそう呼んでいる。
理斗おじさんも、変な人である。浮世離れしているというか、子供っぽいというか。
それでいて、大昔の老人みたいな言動をすることもある。
もっとも、絹子叔母さんも天然ボケみたいなところがある。見た目は全然違うけど、やっぱり親子なんだ、と思う。
酔っ払った父が言うには、母の若い頃にそっくりだとか。
母の若い頃だって?
理斗おじさんは、確かに若い。二人で外を歩けば、現在大学生である僕と、同じ年代に扱われることも多い。
絹子叔母さんの年齢を考えても、母とそんなに歳は離れていない筈だ。
母も、歳の割には、かなり若見えする方ではあるのだけど。これも遺伝なのだろうか。叔母さんは、年相応のお婆さんに見えるのに。
母の両親、僕の母方の祖父母は、母が若い頃に亡くなっていて、他に比べる人がいない。
話が逸れた。夏休みや春休みといった、学校が長期休みの間、母は理斗おじさんと一緒に、姉と僕を泊まりがけの旅行へ連れて行ってくれた。父は、同行しない。
父は弁護士の仕事が忙しい、と説明されたこともあったが、多分事実と違う。
理斗おじさんと行く旅行先では、必ず心霊現象に出くわした。
寂れたホテルなどではなく、こ綺麗な一戸建ての別荘へ泊まる。うちは別荘など持っていないから、借りたのだろう。初めて見る立派な家に、姉と僕は、大はしゃぎで、ベッドの上で跳ねたり、風呂で遊んだりする。
そして夜、寝たかどうかという頃になって、風もないのに物が落ちたり、ベッドから突き飛ばされたみたいに落ちたり、最悪な場合、飛ぶはずのない物が、宙を飛び回ったりした。
同じ部屋に理斗おじさんがいるのだけれど、大抵、僕が揺り起こすまで寝ている。あんまり役に立たない。
姉は母と同じ部屋に泊まる。そして朝までぐっすり寝ていた、というのが常のことだった。
だからと言って、姉の泊まる部屋だけ何もない訳ではなく、夜中に母の怒鳴り声が聞こえたりしたこともあった。
単に、姉が気付かないだけである。
ろくでもない体験も、過ぎれば、ネタになる。でも、僕らは、それもできなかった。
母からは、個人情報だから、と心霊旅行の話を、外でするのを禁じられていた。
だから、僕の夏休みの話は、いつもいまいち盛り上がらない。
クラスメートの話を聞くと、とても楽しそうで、僕と同じ体験を隠しているようには見えなかった。その感覚は、正しかったのだ。
今思えば、母は、姉と僕にも霊能力が発現するか、試していたのだろう。小学生低学年の僕には、ハード過ぎる体験だった。もしかしたら、その体験のせいで、能力が出なくなったのかもしれない、とすら思う。
母には霊が見えて、祓うこともできる。教鞭を執っているのも、その関係である。いわゆる心霊能力だ。
僕には、霊が見えない。霊が起こした物理的現象の影響を受けることはあるけれど、彼らを止めることも消すこともできない。
姉に至っては、完全にゼロレベルである。
例えば、片目をぶら下げた血まみれの男がテーブルから頭を突き出し、残る片目で顔を覗き込んでいても、平気でミートソーススパゲティを食べられる。イタズラされて、トマトソースまみれになることも、ない。
ちなみに、その場面を見てしまった霊能力持ちの子は、しばらくミートソーススパゲティが食べられなくなった。
そういう話を聞くと、霊能力がない方が、強いように思う。
母は、碰上大学の心霊学科で教えている。理斗おじさんも同じ職場で働いている。
母が写真を撮られると、心霊写真になってしまうそうである。きっと、理斗おじさんも、事情は同じだろう。旅行先で写される人物は、僕ら姉弟ばかりだった。それから、誰もいない建物も、母はよく撮っていた。
こういう母とおじを持つ僕ら姉弟に、同じ能力があると期待されるのも、無理はなかった。
何せ、身近に代々そういった能力を持つ家系があるのだから。
日置律は、僕と同い歳で、母の教える碰上大学理学部心霊学科に属している。
この律の父親が母の上司で、当然ながら能力を持っている。更に、律の祖父も霊を見る能力を持っていた。
心霊学科には、霊を見る能力を持つ学生しか、所属できない。ここには、他にも親に同じ能力を持つ子がいる。能力は遺伝するらしい。
しかし、常に遺伝する訳ではない、と、僕ら姉弟が身を以て証明している。母がそのことについて、どう思っているのか、面と向かって話したことは、ない。
母の勤める大学を受験すると伝えた時も、特に何も言われなかった。
心霊学科は、その特性上、他の学科とは独立した試験科目がある。碰上大学の中では偏差値も低く、倍率が低い割に、難関と言われている。努力も、カンニングも、偶然の幸運も、合否判定を揺るがすことはできない。
昔は独立した学部だったのだが、大学が独立行政法人になってポストと予算を削るために犠牲になった、と以前、母が愚痴っていた。
創設者の竹野名誉教授に比べると、母も日置教授も駆け引きが苦手そうだ。
その辺で、学内派閥闘争の割を食ったのだろう。霊能力で、脅しつければ良かったのに。バレたら、余計にマズイか。
この竹野教授とは、年に一回ぐらい顔を合わせる間柄である。母の師でもあり、理斗おじさん共々、世話になったとかで、姉も僕も小さい頃から知っている。
どういう訳か、いつも理斗おじさんのことを「ねこ」と呼ぶ。
おじさんも「ねこ」で普通に返事をするし、心霊学科の人たちには皆、それで通じる。
小学生の頃だったか、竹野教授に質問したことがあった。
「どうして理斗おじさんを、ねこって呼ぶの?」
教授は、メガネの奥から僕を見つめ、それから頭を撫でた。静電気でピリッとした。
「だって、猫だからね」
答えになっていなかった。僕は、それ以上の質問を諦めた。
僕には霊能力がなかったけれど、姉と違って霊能力や心霊学に関心は、ある。
姉の萌衣は、法文学部を卒業して法科大学院へ進んだ。父の後を継ぐため、弁護士になるつもりだ。元々姉に甘かった父は、今や姉を溺愛している。
対して母が僕を溺愛するかというと、そんなことはない。友人の話を聞くと、むしろ距離があるように感じる。
忙しいせいも、あるかもしれない。もしかしたら、霊能力がないからかも。
僕に限らず、母は、姉とも父とも、隔てがあるような気がする。日置教授や心霊学科の学生と話している時の方が、リラックスしているように見えたこともある。
僕が法文学部へ入ったのは、弁護士になるためではない。理学部と同じキャンパスにあって、入学できそうな学部を選んだのだ。家から通いやすい距離でもある。
そしてもう一つ、理由があった。
碰上大学構内に、桜ヶ池と呼ばれる池がある。
大学の敷地は江戸時代、碰上家の武家屋敷だった。その頃作られたものが、今でも残っているのだ。
この池には、怪しの物が封じ込められていて、以前、人死にが出るほどの怪異を引き起こした。
碰上異変、と呼ばれるそれを、二度と起こさないため、今でも毎年、封印の儀式を行なっている。
そんなに大騒ぎになって、毎年封印し直さなければならないほどの危険があるにもかかわらず、封じられたモノの正体は不明だという。
心霊現象に興味を持つ僕にとって、桜ヶ池は、身近にある心霊スポットだった。
毎年行われる封印の儀式には、母と理斗おじさんも参加する。小さい頃は、姉と共に、大学近くにある絹子叔母さんの住まいへ預けられたものだった。ここは、母が独身の頃に住んでいた家でもある。
もしも、桜ヶ池の謎を解くことができれば、封印ではなく、怪異の解消につながるかもしれない。
歴史のある場所である。心霊能力がなくても、原因を探ることは可能とみた。
桜ヶ池自体には、誰でも近寄ることができる。しかし、大学所蔵の資料を自由に漁るには、そこの学生になるのが手っ取り早い。
僕は、密かな野望を持って、碰上キャンパスに出入りするチケットをゲットしたのだった。
それに、僕の野望が達成されたら、もしかしたら、母は僕ら家族と、もっと打ち解けるかもしれない。