【第4話】 船へ
港から出る船の時間は予め調べておいた。
二階の部屋の窓から屋根を伝って外に出られるように、カーテンを切って太い紐をつくっておいた。
夕食を終えると、頭痛がするからもう休みますと言ってすぐに部屋に引っ込む。
重い机の脚に紐を巻きつけてしっかりと結んだ。それから窓を開ける。
澄んだ虫の音と一緒に風が運んでくるのは、夏の終わりの匂い。
夜の空気は昼間よりも涼やかに感じた。
紐を身体に巻きつけると、窓の外の屋根に足をかける。
慎重に。音を立てないように。
ジュジュは紐で身体を支えて伝いながら、ゆっくりと地面に足をつけた。
心配して様子を見にきたジュリア。ジュジュの部屋をノックするも返事はない。
もう寝ているのかもしれない。そうも思ったものの、なにか胸騒ぎがする。
「ジュジュ。開けるわよ」
扉を開けたジュリアが目にしたものは、開け放たれた窓と、窓から降ろした太い紐だった。
ジュジュは港までの道を走っていた。
部屋にいないことに、いつ気づかれてしまうかわからない。
家を抜け出したことがわかったらすぐに探されて、連れもどされてしまう。
夜とはいってもまだそんなに遅い時間でもない。すれ違う人たちにぶつかりそうになりながら、ガス燈に照らされる石畳をひたすらに走る。
ものすごい勢いで駆けてゆくジュジュに驚いて振り返る人や、「ジュジュ?」と声をかけてくる知り合いもいた。
それでもジュジュは、わき目もふらずに港を目指した。
島に向かう船の夜便になんとかすべり込むと、甲板に出る。
はずむ息を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
船と港をつなぐタラップが上がろうとするころ、にわかに港が騒がしくなった。
甲板から見下ろすと、サラスとジュリア、それに兄のミラジの姿がタラップの乗降口付近にあった。なにかを船員に早口でまくしたてている。
もう見つかってしまった。
馬車で乗り付けたようだ。その騒ぎを聞きつけた人たちが集まってきていた。
兄のミラジがふと見上げる。覗き込んでいたジュジュと目が合った。ジュジュはとっさに欄干の陰に隠れるも、ひと足遅かった。
「ジュジュ! どこに行くんだ!」
ミラジの上げた大きな声は甲板にまではっきりと届いた。
お父様、お母様、お兄様、ごめんなさい。
わたし、どうしてもルーランに逢いたいの!
船の汽笛が上がる。出港まではもう少し。
どうか、どうか。
ジュジュは身を縮ませて、祈るように両手を合わせた。
腹の底に響く汽笛が鳴る。出港の合図だ。
ガタンと硬い音を立ててタラップが上がり始める。
サラスは港員に船を止めろと叫んでいる。ジュリアは両手を口に充てて座り込んでしまった。
ジュジュは……結婚をしたくないと言っていた。
それは結婚前の不安からくるものだと思っていたが、家出をするほどまでに嫌がっていたなんて。
船に乗ってどこへ行くつもりなのか。なにかあてがあるのか。
……それとも、まさか……!?
十五年前のあの日の午後。
海に落ちたジュジュ。
ジュジュがもう帰ってこないかもしれないと覚悟をしたとき。あの悲しみと喪失感をまた味わうのは……耐えられない。兄の自分でさえそうなのだ。父上と母上など自分以上にその気持ちが強い。
浜辺で保護されたジュジュは、なにも憶えていないと言った。
それでも……絶望に打ちひしがれていた家族のもとに、ジュジュは無事に帰ってきてくれたのだ。
さまざまな推測がなされた。
たまたま速い海流にのって運ばれてきたのでは? いやいや、人懐こいイルカが助けたのかもしれない。そんなことはない、これは神の奇跡だ、などと言い出す者もいた。
真相は今でもわからない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。ジュジュが生きてもどってきた。それ以外になにを望むものがあろうか。
ミラジは考えるよりも先に身体が動いた。
長い助走をつけて走り出す。上がりきる前のタラップに飛び移ろうとしているのに気がついた係員が制止しようとするのも無視して、おもいきり跳んだ。
タラップの端に手がかかる。なんとか掴むことができた。
船が動き出す。
欄干の陰から聞き耳を立てていたジュリアは、ミラジがタラップに上がったことを知った。
身を隠す場所を探すために、慌てて周囲を見回す。あの海域までは絶対に見つかるわけにはいかない。
「事情はわかりますが、あんな真似は困りますよ。二度としないでください」
船員に厳しい注意を受けながら甲板に上がってきたミラジは、「申し訳ありません」と深く頭を下げて謝罪した。視線は素早くジュジュの姿を探している。
しかし先ほどの欄干の影にもジュジュの姿はなかった。
どにに行ったんだ? 早く見つけてやらなければ。
甲板を探して歩くミラジの足は自然と速くなっていた。