四季語り
ピアノの個人レッスンが終わり、星冬美とは親子ほども年の離れた五十歳代の杉川明夫先生が、
「星さん、このあと、何か御用がございますか?」と、たずねた。
「いえ、特にありません」
「午後のレッスンの生徒さんが急にお休みを取られましたので、私、時間が空いたのですが、
よろしかったら、デートをしていただけませんか?」
「えっ、デート?……ですか」と、冬美。
「ハハハ、冗談、冗談」
杉川先生は愉快そうに笑った。
この春に入学してきた冬美の、柔らかな物腰、細身の容姿、涼しい目元、女らしく美しい所作、優しい話し方、小股で歩く日本女性特有の控えめな愛らしさなど、冬美のすべてを、明夫は気に入ってしまった。
杉川先生と冬美は、2人で音楽学校を出ると、駅前通りを抜け、お寺、そして、神社の左脇の 細い道を抜け静かな住宅街を歩いて行った、その先に小さな喫茶店「すずらん」があった。
先生が、
「この店に、渡すものがあるので」と、言ってドアを開けて入っていった。
中では、三十才前後の女性が、ひとりで、店を切り盛りしていた。
杉川先生が、その女性を、
「娘の波瑠恵です」と、冬美に紹介した。
先生のことは、結婚経験なしと聞いていたので、冗談だと思った。
どんな関係なのかしら?
先生は、一見、真面目そうにみえて、実は、プレイボーイなのでは? と、冬美は疑った。
すぐに、すずらんを出て、2人は池上本門寺にむかった。
長い階段を登り、山門をくぐり、本堂にお参りをし、常香楼の煙で体を浄め、おみくじを引き、山門を出ると、ふたりでゆっくりと参道や本門寺通り等を散策したあと、大きなお蕎麦屋さんの門をくぐった。
正面に粋な和風座敷の建物が見え、左側の建物の中には椅子とテーブルが並び、右の方には小さな離れが見えた。親切な女子店員さんに、左側の建物の、見通しの良い窓際の席に案内され、名物の天ざるを注文し、お茶を飲み、一息付くと、先生が、自ら、話はじめた。
「僕は、小学生の頃、学校で、勉強やら何やら、色々と目立ったので、いじめられたんです。それで作文に、ぼくは平凡な子供になりたい、試験で満点を取れなくても、スポーツで優勝しなくても、歌も絵も下手で良い、普通の人になりたい、と書きました。
すると、作文を読んだ母が、『お前は勉強で世界一を目指しなさい、スポーツで世界一を目指しなさい、歌や絵で世界一を目指しなさい、平凡な人間なんてつまらないよ、普通の人間なんてつまらないよ、明夫は神様から授かった素晴らしい才能が有る、まわりの人間が何と言おうと遠慮せずに、思い切り、それを生かし、自分の道を、自由に延び延びと、まっすぐ、個性的に、明夫にしか作れない、人生を歩いて行きなさい』と、僕の心を解放してくれたんですよ」
「お母さん、素晴らしい、お方ですね―」
冬美は診療内科看護師としての、専門的な立場で感想を述べた。
名物の蕎麦が来た、期待を裏切らない美味しさだった。ふたりは、無言で食べ、蕎麦湯を飲ん だあと、お茶を、ゆっくりと味わった。
冬美が、
「私、多分、先生は、ギフテッド、ではないかな、と思います」と、言った。
「ギフテッド?、初めて聞きます」と、明夫が答えた。
「そうでしょうね、日本では、まったく知られてませんから、ギフテッドというのは、生まれな がらに知能が特別に優れていて、その上、更に運動神経、芸術の素質も優れているという人の 事なんです」と、冬美。
明夫は、手を横に振り、
「僕は全然違いますよ」と、強く否定した。
「アメリカを始め外国にはギフテッド専門の学校がたくさん有り、普通の枠の中におさまらない 生徒達がレベルの高い特別な教育を受けているのです」と、冬美が説明した。
「日本では見た事も聞いた事もないですね」と、明夫。
冬美が、
「落ちこぼれの対義語で吹きこぼれとか、沸きこぼ れとかいうのですが、お湯が百度になる と沸騰して、そのまま何もしないで、放っておけば沸きこ ぼれてしまいますよね、どんな に優秀な人間も沸きこぼれたら幸せな人生を送れないので特別に大切に丁寧に育てているらし いです」と、言う。
明夫が感心したように
「素晴らしい制度ですね」と、言い。
冬美は、
「逆に、日本の学校教育は広く浅く、全生徒の能力を平等に開発する教育です」と、答えた。
「真逆ですね」と、明夫。
「日本では、ギフテッドを特別扱いしないので、ギフテッドも普通の小学校に入学するのです が、ギフテッドにとって、それは、まるで中学生が小学校に入学したようなもので、授業の内 容が簡単過ぎて、退屈で退屈で、同級生とも知的レベルが合わず、段々と学校も勉強も嫌いに なっていってしまうようです」
「それが本当なら、非常にまずいことですね」
「ギフテッドの中でも、右脳タイプは、タレンテッド、と呼ばれ、特にスポーツ・芸術等の素質 は超超一流、才能に満ち溢れ返っているんです」
「日本にはギフテッド専門校は無いのですね」
「残念ながら……、アメリカや多くの外国では政府が、ギフテッドを国の宝、人類の宝と考え、 埋もれてる才能の持主を、国を挙げて捜します、まず最初に、IQが高いのに、学業成績が悪 い生徒を捜し出すらしいです」
「国を挙げて捜すということを聞くだけで、ギフテッドの能力がいかに高いか分かりますね」
「そして、政府の担当部門が直接よびかけて、普通の学校から、学費無料でギフテッド専門の学 校に転校して貰い、国の教育政策の失敗で勉強嫌いにしてしまった、ギフテッドの子供達を、 改めて教育し直すと、驚くほどの能力を発揮するそうです」
「元々、持って生まれたものは、超優秀なんですもんね」
「ギフテッドの語源は、生まれつき神様から素晴らしい能力をプレゼントされ、贈り物をされて 生まれて来たという意味なのだそうです」
「なるほど、そういう意味だったのですか」
「日本の場合、特別に優秀に生まれて来た筈のギフテッドが(出る杭は打たれる)状態にされ、 廻りの大人達や同級生から、よってたかって(角を矯めて牛を殺す)状態にされ、自分は普通 より劣っていると錯覚させられてしまい、優秀な人間が普通の人間を目指すという、本末転倒 の不幸なことになっています」
「それが本当なら国が早く何とかしなければ」
「親や先生から、(お前は頭が良すぎるんだ、世の中は、もっと馬鹿になった方が得だぞ)とか 言われ、(親や先生の言う通りに)とか、(同級生から自分が浮き上がらない様に)とか、悩 みに悩んで、その結果、勉強は、出来ない振りをし、スポーツ・芸術も、下手な振りを、した り、ワザと負けたり、無理に普通のレベルの人間の振りをするんだそうです」
「えーっ、もったいない話しですね―――」
話は弾み、冬美は、この人となら、いつまででも会話を続けられると思った。
蕎麦屋を出て洗足池に行った、豊かに木々が生い茂り、溢れる程に自然がいっぱいで、大きな池が広がり、心が思い切り開かれる、明夫は、こんな美しい池の近くに住めたら、なんと素晴らしいことだろうと、羨望の思いで、しばらく眺めていた。
ふたりは、白鳥型のボートが浮かんでいる池を眺めながらボートハウスのテラスで珈琲を飲んだ。
そして、テラスを出て、池まで下ると、太鼓橋形の、池月橋を渡り、水面を眺めながら歩き、池の中に突き出た弁天島で神社を拝み、島を出て、水生植物園にたどりついた。
和の心を、そのまま形に表わした様な素朴で美しい木橋が、折れ線グラフのように池面を走っている、のんびりと木橋を歩いているうちに、冬美がフワッと柔らかに腕を組んで来て、明夫の横顔を覗き込みながら(ウフフフ)と悪戯っぽく笑った。
「先生、お若いですね」
「年の話しは止しましょう」
「すみません」
燕子花か花菖蒲か菖蒲か、紫の花が水面を覆って貴婦人の立姿で、来訪者を出迎えていた。
「先生は音楽以外には何がお好き?」
「スポーツとか絵画とか、色々ですね」
「やっぱり」
「何が?」
「何でもないです、先生、今度の日曜日、空いてますか?」
「はい、空いてます」
「この町の、まだ見ていない名所を、私に案内させて頂けませんか」
「僕は、青山なので、大田区のことは、良く分らないのですが、どんなところが有りますか?」
「JAⅬ工場、羽田空港、海浜公園、穴森稲荷、野鳥公園、平和の森,多摩川台古墳、桜坂、馬 込文士村跡、昭和のくらし博物館、大森貝塚、田園調布住宅街、池上梅園、大田スタジアム、 成田山園能寺、六郷用水遊歩道、竪穴時代の関東地方最大の集落久が原遺跡、勝海州記念館」
「詳しいですね――」
「遠い先の話しになりますが、私、看護師を退職したら、観光ボランティアガイドに応募するつ もりで、少しづつ勉強しているんです。その他、まだ名所がたくさん有りますので、たっぷり と御案内させて頂きます」
「ありがたい、是非お願いします」
「今日みたいに晴れると良いですね」
「イヤッ、僕は、雨にも感謝、風にも感謝、雪にも 夏の暑さにも感謝です」
「素敵!」
冬美は組んでいる腕に力をこめた。
次の日曜日、田園調布駅前広場で待ち合わせた。
冬美は初夏向きの涼しげな和服姿で現われた、その美貌は、更にいちだんと映え、明夫は、し ばし、我を忘れて、見惚れてしまい、
冬美に
「こんにちは」
と、声を掛けられて、我にかえった。
高級住宅街をのんびりと散策し、1時間程歩いて、著名な歌手や、プロ野球選手等の、素敵で美しい、豪華なお屋敷を見てまわり、駅前広場に戻ると、
「先生、お疲れになられましたでしょう」
と、冬美が明夫に聞いた。
明夫は、疲れたと、口には出さなかったが、洋風のおしゃれな喫茶店に向かって歩き出し、少し休みましうというシグナルを冬美に送った。
この街を代表するような、高級感漂う店内、街並みも店も来訪者に魔法をかけてくる、まか不思議な満足感を与え、地上天国にいるような幸せな感覚にしてくれる。
二階の喫茶室は、壁も椅子もテーブルも、ホワイト一色、珈琲もケーキも高級感があり、優雅な気持ちを益々高めてくれる、まるで自分も、超高級住宅街、田園調布の住民になっったような錯覚に陥る、冬美も、すっかり、雰囲気に酔っている。
一階で洋菓子を買い、店を出た瞬間、冬美が、そっと、明夫の手に触れてきた、甘い髪の香りが風に漂い、明夫の理性を壊した。明夫は、はっとして、手を離した、
「私のこと、お嫌いなの?」
冬美の目が妖しく潤んでる。いつもの慎ましい冬美ではなかった。
ふと、脳裏に、奈津恵の面影が浮かんだ、あわてて、記憶をふりはらい、冬美の手を握った。
「先生、変」
「先生、可愛い」
「僕の年、幾つだと思ってるんだ」
「だって可愛いんだもん」
可愛い、可愛い、と、何度も言いながら歩いた。
すれちがった中年の女性が振り返ったので、あわてて冬美の口を軽く押さえると、冬美は明夫の手の平に、やわらかな唇を、そっと押し付けてきた、明夫は混乱した。
やがて、逢う瀬を重ねた夏も過ぎ、秋も深まってきたころ、冬美が、ぽつりと言った、
「私たち、わかれるの?……、いつかは?」
「なぜ聞くの」、
と明夫が冬美のうつむいた横顔をのぞいた、
「だって」
「だって、なに?」
「言ってみたかっただけ」
「わかれたいの?」と、明夫が聞いた。
「う、んん」
冬美が頭を横に振った。
明夫との数か月で、冬美は輝くほどに美しさを増した、このままでは若い冬美の青春を奪ってしまう、明夫は密かに焦った、
「僕は、じき、おじいちゃんになってしまう、邪魔だったら遠慮せずに捨てて離れていいんだよ」
冬美は無言で、しばらく、ホテルの外を眺めていたが、明夫に見えないように、細く白い指で涙をすくった。
「奈津恵さんのことが忘れられないのね」
「えっ、誰に聞いたんだ」
明夫は、四国、高松の高校を出ると、東京の音大に進学し、音楽ひとすじの道を歩み、同級生の奈津恵と知り合い、恋をした。
やがて奈津恵は身ごもった、まだ学生だという理由で、両家の親から反対され、堕胎するように言われたが、誰にも相談せず、ふたりだけで話し合い、産むことに決めた。
お互いにアルバイトの経験もなく、親の仕送り以外は無収入だったので、未婚のまま、世間や、親から、隠れるように、子を産んだ。
元々、あまり丈夫ではなかった奈津恵は産後の肥立ちが悪く、二十歳という若さで、あっというまに、召されてしまった。
小さな喫茶店すずらんの、美しい女性波瑠恵は忘れ形見だった。
「波瑠惠に聞いたのか」
「忘れられないのね」
「もう、いない人だよ」
「一生、独身を通すのね」
「たまたま、縁が無かっただけさ」
「うそ」
「嫉妬してんのか」
と、明夫は、むきになった。
「どうして、結婚しようと、言ってくれないの?」
「馬鹿なことを言うな」
「なぜ?」
「君は不幸になりたいのか?」
「なんで?」
「まだ二十歳だ、若い男性を見つけなさい」
「いやっ!」
明夫からは、連絡が途絶え、ピアノ教室は別の若い教師に代わった。音楽教室の事務所に聞いても、個人情報は教えられないと断られた。冬美も意地を張り、音信不通で二か月ほどが過ぎた頃、レッスン開始前のピアノ教室に、突然、波瑠恵が訪ねてきた。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
「何か?」
冬美は不吉な予感がした。
「父のこと、聞いてますか」
冬美は、明夫のことは、独身ということ以外、ほとんど知らない、
波瑠恵が唯一の情報源だったが、意地を張ってる手前、身内の娘さんには、聞きにいけなかった。
「いえ、何も」
「そうですか」
「お元気ですか?」
「実は……」
やめて、と心が叫んだ、
「膵臓癌で急逝しました」
全身が凍りついた。
「そんなの嘘です」
「本当なの」
「いやだ、いやだ、いやだ」、
冬美は、ふたりだけの教室で激しく泣き崩れた。
「父から、あなたにお渡しするようにと手紙を預かってます」
封筒を置くと、波瑠恵は、深々とお辞儀をして、教室を出ていった。
『 僕は、痩せてやつれてしまった、
こんな惨めな姿を、絶対に君には見られたくない、
健康だった頃の記憶だけを残して逝きます。
本当にごめんなさい。
冬美と結婚しなかった理由は年の差以外に、
私たち親子は、結婚して1人目の子を授かると、
愛する人が消えました。
娘の波瑠恵も、僕と同様に、初めての子供が生
まれると、すぐに、ご主人が事故で亡くなりました。
その因縁が、とても怖かった。
冬美を絶対に不幸にしたくなかったんだ。
幸福な結婚をして下さい。
夢のような、1年間を、ありがとう。
僕の妖精さんへ 明夫より 』
さらさら、と、雪の舞い初め(ぞめ)を知らせる、かすかな音色を、遥か彼方で、誰かが奏でている…………ような気がした。
了