女子更衣室
ある深夜のこと、私は女子更衣室の床に座り込んでいた。不法侵入などではない。私は自分の家に女子更衣室を持っているのだ。もちろんここで着替える女性はおろか男性さえ一人としておらず、誰も更衣をすることのない、まったくの名ばかり女子更衣室である。私は盛大なカミングアウトを放ったようで、結局のところは自分の家でくつろいでいるに過ぎないのである。
部屋の両脇には、壁に沿って縦長のロッカーが四つずつ並べられ、それらに挟まれるようにして中央には青いベンチが一台置かれている。実際の学校のように、いい加減な掃除しかしていないので綿埃が何ヶ所にも発見できる。そこで私はあえてベンチに腰をかけないで、冷たいコンクリートの床に座り、ただぼおっとしていた。
しかし女子更衣室に腰を降ろしてゆっくりと過ごすというのはいいものだ。まずここには電子機器の入る余地がない。時間を忘れて心からくつろぐには、まず電子機器を周りから撤廃することだ。懸念点といえば盗撮目的の隠しカメラの設置があるが、まさか私の家の女子更衣室にカメラを仕掛ける者はいないだろう。さっきも述べた通り、ここでは誰も着替えることがないのだ。
そして女子更衣室は、不思議と私を懐かしい気持ちにしてくれる。何が不思議かといえば、私は生まれてから今までずっと男として生きてきたことである。つまり女子更衣室での思い出というのは皆無であるはずなのに、私はなぜか女子更衣室を懐かしんでいるのである。もしかして、いつか覗きに熱をあげた時期があっただろうか、いやない。自分の性別が男でなく実は女であると悩んだことがあるだろうか、いやない。こう思い返してみると、私は男だけのくくりで見ても、さらにもう一歩だけ女子更衣室から離れた人生を送って来たらしかった。今までにまったく接点のなかった、いわば対岸の女子更衣室に思いを馳せてしまうような私はロマンチストなのかもしれない。あえて掃除をてきとうに済ませ、床に転がった綿埃に価値を見出そうとする陶酔ぶりはまさにそうといえる。
コンコン、とこの部屋をノックする音が聞こえた。
「はい。」
返事をすると、ノックをした人物が女子更衣室の扉を開け、中に入って来た。
「失礼します。着替えに来ました。」
「ああ、そうか。もうそんな時期か。ご苦労様です。」
彼女は、私が雇っているアルバイトである。月末に一度、こうして彼女に着替えに来てもらい、うちの女子更衣室の維持をお願いしているのだ。メンナンスみたいなものである。
「いつも思いますけど、玄関のカギ開いてるの危なくないですか。」
「うんまあ、大丈夫でしょ。」
「大丈夫じゃないでしょ。」彼女は呆れるように笑って言った。
「じゃあ、出てくから。」
女子更衣室に彼女を一人残し、私は扉から廊下に出て行った。
私はどうも、この待ち時間が苦手である。それは、もともと女子更衣室の維持のため彼女を呼んでいるというのに、むしろこの待ち時間のあいだには、うちの女子更衣室の虚構を意識してしまうからである。月に一度だけ、自分の嘘を突きつけられるというのは、つまり一ヶ月分の溜まりに溜まった嘘と一斉に対峙しなくてはいけないということで、それは都度々々その場で指摘されるよりもよっぽど苦しい仕打ちとなる。ではどんな女性でもいいから、毎日ここに着替えに来てもらおうとも思うが、現実問題、私にそこまでの金はない。
一ヶ月の間、毎晩のように女子更衣室で過ごして、自分の中の女子更衣室へのイメージが固まったというところで、本物の女子更衣室というものを教えに、金を払って雇った彼女が私の更衣室へ着替えに来る。その後、私は彼女の残していった女子更衣室の教えに従い、一か月間、再度女子更衣室へのイメージを固めるが、月末にはまたしても彼女がやって来て、さらに私の間違った女子更衣室像を正す。この、いくら一生懸命に創ろうとも一ヶ月後には破壊されてしまうという無残なループから抜け出すことは絶対に叶わない。なぜならば女子更衣室というのは女性が着替える場所であって、決して男性が座り込んで黄昏る場所ではないからである。
いっそのこと、彼女が着替えている今、本物の女子更衣室というものを覗くべきだろうか。説明をしたらここで着替えるのを引き受けてくれたような子だ。覗くことくらい、あるいはお金を多く払ったっていい。これは私の女子更衣室を守るための覗きで、そもそも、彼女の仕事内容というのは女子更衣室を維持することじゃないか。それを少し拡大解釈するだけだ。それに考えれば、見張りがいない分、着替えないでサボるのも容易である。だから着替えを覗かれるのも仕事のうちだし、第一、こんな怪しい仕事を続けている彼女の方だって悪い。そうだ私には何も責任はない。責任なんて負わなくていいんだ。怪しい雇い主らしく、好き勝手して最低な行為に及ぶがいいさ。
葛藤の末、私は女子更衣室の扉の前に立ち、銀色の取っ手部分へと手を伸ばした。各所から汗が吹き出し、このときばかりは取っ手までの距離が永遠にも感じられた。そしてとうとう、私の指先が取っ手にたどり着くことはなかった。それよりも早く、中から彼女が扉を開けたのである。思わぬ場所で立ちふさがる私に驚き、体を後ろへ跳ねさせた彼女のその服は、初めに着ていたものから変わっていた。つまりサボらずに、さっきまでこの女子更衣室で着替えていたということだ。
私はごまかすようにポケットから財布を取り出し、お札を二枚、彼女に突き出した。
「あ、えっと、お疲れ様です。これ、今日の分。」
「ありがとうございます。」
対して彼女は、案外すんなりと報酬を受け取った。そしてそのまま玄関へと向かい、少ししてから玄関の扉が開いて閉まる音がした。彼女が私の目的を分かっていなかったのか、あるいは分かったうえで私を怖いと思わなかったのか。どちらにせよ自分が情けないことに変わりはなかった。
それはともかくとして、女子更衣室のメンテナンスは終わり、バイトのあのこも帰ったことだ。また自分の女子更衣室へ戻るとしよう。誰も着替えに来ない、綿埃の残った、自分だけの女子更衣室でまた一か月という時間を過ごすのだ。本物の女子更衣室へどれだけ近づけるかというのはさして重要じゃない。大切なのは、どんなオリジナル女子更衣室をいかに楽しむかという一点のみである。月末にこの気付きを得てこそ、私に月初めがやって来るのだ。