表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

最初で最後

作者: 渚 弥和子

「愛しています」

 わたしの目の前に跪く彼女は、荒れた唇で、今にも絶えそうな吐息で、しかしはっきりとそう言った。

 見る限りまだ若そうな女だったが、これまでの苦節や苦渋、辛酸を表すようにその顔は実年齢以上に老けて見え、落ち窪んだ瞳には青く濃い疲労が窺える。その中で黒黒冴え渡るまなこは黒瑪瑙のようであり、その美しさがだからこそもったいなく思われて仕方がなかった。

 女の声ははっきりとしていたが、細い肩や痩せぎすの身体はわなわなと震えていて、それはこの冬の寒さのせいだけではないだろう。手荒れのひどさは空風を思い起こさせ、小さな爪もガタガタ揃わずみすぼらしい。握り締めた十字架のペンダントが、その手の震えに合わせて銀鎖をちりちり鳴らせていた。

「愛しています」

 今にも泣きそうな声なのに、瞳は潤むだけで涙の粒を落とすことはありえなかった。長い睫毛が今にも朝露を落としてしまいそうなのに、涙は眼球のカーブに沿って湛えられるだけだった。或いは、泣いてなるものかと彼女自身が自制しているのかもしれない。


 わたしは彼女からの愛の告白に、物言わず、身動がず、ただその姿を見つめていた。彼女が俯くと脂も水分もないパサパサとした黒髪の哀れさがよく目立ち、どこもかしこも乾き切って枯渇している様は砂漠に似ている。

 なにも言わぬわたしに向けて深々と頭を下げた女は、磨かれた床に額を擦り付けそうな勢いでこう言った。

「主よ、どうかこの悩める心をお救いください」

 わたしはやはり物言わず、身動がず、ただその姿を見つめていた。



 女は日々丁寧にわたしの世話を行った。この教会に修道女として入り尼僧となってからというもの、質素素朴を至上とするから服装こそやはり地味な尼僧服ではあったが、これまでよりずっと整った衣食を確保されたからかみるみるうちにその肌は瑞々しさと弾力を取り戻し、黒髪は少なくとも艶を取り戻した。唇と手の荒れもいくらか改善されたようで、青黒い疲労と憔悴が払拭された今では、黒瑪瑙の瞳はより美しく洗練されて輝いた。

 女の世話はとにかく丁寧で、わたしの髪を優しく布で拭き取ると、動かぬ身体をそっとマッサージするかのように撫でていき、わたしが寒がらぬようにと気を利かせて燭台に火を入れた。レモンを絞った新鮮な水を毎日差し入れ、豊かでない食生活ながらもわたしには一等のものをと心を砕き、パンとブドウを皿の上に並べてくれる。


「愛しています」

 女は毎日必ずそう言った。その日の務めを終える夜になると、尼僧服から自身の寝巻きに着替えた姿でストールを肩に抱き、燭台片手にわたしの前までやってきて、必ず愛を口にした。

 黒い瞳は蝋燭の火を受けてきらきらと輝き、それこそ宝石のようだった。化粧っ気のない容貌でありながらそこそこに整った顔立ちをしているのだから、ここから出てもっと良い暮らしを経、きちんと手入れさえしていれば、もっと美しくなれるのだろう。富貴の花を想像させるような彼女の美貌を思い浮かべ、それに感嘆の思いを抱きながら、しかしわたしはなにも言わなかった。

 女は夜毎わたしに愛を囁き、わたしのことをじいっと見つめ、そうっと薄い瞼を閉ざして呼吸した。燭台の火だけが灯るこの教会での陰影は、彼女の睫毛を長々と頬に落とした。小さな鳥の翼のようで、首から下げた十字のペンダントを片手でぎゅうっと握りしめる。

 彼女はそうして暫く無言で静かな呼吸だけを残すと、やがてふうっと針のような呼吸でわたしの前の燭台の火を消し、自分の手持ちの燭台の火だけを揺らして教会を出て行った。するすると寝巻きのワンピースの衣擦れの音だけが最後まで残った。


 日夜問わず一心な女から愛の献身を受け続け、一体どれほどが経っただろう。

 ゴトン、という重い音は鈍く響いて、天井の高い教会によく反響した。地に伏したわたしの視界にはまず女の黒い靴が映り、その上に尼僧服の暗くて長い裾、その隙間から僅かに白い足首が覗いている。

 ゼエゼエと肩を揺らして立つ女の肩越しに、首を喪った石像が見えていた。ひとびとの代わりに罪と罰を背負い磔にされた神の……、即ち「わたし」の姿であった。


 女は髪を乱し、息を乱し、綺麗になった両手からボトリと大きな斧を落とした。ここで生活するようになってからいくらかまともになったとはいえ、それでも小柄で細身の女がよくもまあ振るえたなと思ってしまう、重たそうな斧だった。

「愛しています。愛しているんです」

 わたしの首を落とした女は、荒い息のままでいつものような告白をした。両頬を覆い、わなわなと身体を震わせる姿はいつかの日を連想させたが、そこにはどうしようもない歓喜があった。

「愛しています、心から。ええ──、私からなにもかも奪い占めたあなたのことを、殺してやりたいくらいには」

 声色は恍惚として、陶酔している。今までで一番の愛を囁かれた心地だった。

 黒目にはたしかな愛情が揺らめいている。潤んだ瞳に恋する少女の姿が見えた。

 瞳には紛れもない憎悪が刻まれている。煉獄にあってもまだ赦さぬほどの強い業火の色だった。

「主よ、この悩める心を救いたもうたこと、心より感謝申し上げます」

 そのとき、初めて彼女が泣いた。

 最初の頃にも泣かなかった彼女が、これまでにもひとつの涙も見せずに居たひとが、ここで初めてたった一粒涙を落とした。


 わたしを愛し、わたしを憎んだ彼女が、わたしを壊したことでもうここに居る意味はなくなったのだろう。身を翻し、本懐を遂げた彼女は教会を飛び出した。バタンと閉じる重たい扉の音がうわんと響き、喧しく、その後の静寂が耳に痛くて、じんと冷たい身体に沁みていく。

 教会の中には、白白と燃える燭台の火と、その向こうに首を喪った無様な神の模造品があるだけだ。


 わたしは物言わず、身動がぬ、ただの石の彫像であった。誰かの神を模した偶像品に他ならなかった。皆わたしを「主」と呼び願う。祈る。求める。赦しを委ね、裁きをと請う。

 何十何百年前からそう在った。わたしはただ黙ってそこに居るだけで、人々は好き好きに自分の欲をわたしに吐露して満足する。足繁く通う者も居れば一度きりの者もいた。修道院の女や男が幾人も変わっていく様も見続けた。

 誰もがわたしを「主」と呼び、崇め奉り、希って様々な願いを口にする中で、「愛している」と言われたのは初めてだった。彼女のその声が、言葉が、いつぞやの磔刑の日の再現を永遠に留めるわたしに、初めて与えられたものだった。


 愛している、と彼女はこれまで毎日わたしに言った。

 愛していた、と、わたしはこんなところで気がついた。

 わたしもあなたを愛していたのだ。石が誰かを愛するわけなどないというのに、わたしは彼女を愛していたのだ。


 掘られた瞳孔もないわたしの目から、ほろりとなにかが一筋流れた。まさかそれは涙であろうか、石が泣くわけもないというのに。鼻梁を過ぎたそれはころりと床に落ちていく。黒瑪瑙のようなそれは、奇しくも彼女の瞳と同じ色をしていた。なんということだろうか、石の流す涙とは、好いた相手の瞳の色そのままを映すらしい。


 しかしわたしは誰かの神を模した偶像の石。石は泣かず、話さず、動かず、誰かを愛することもない。

 こんなことはこれっきり。明日にはきっと騒ぎになりながらもわたしの修復作業が取り計らわれ、いつの日にか斧で斬られた首は繋がる。杭を打たれ、荊の冠を頂戴し、首まで落とされた。なんと満身創痍な神だろう。偶像崇拝にしたところで、こんなことではお役御免になりかねない。そうなれば、きっとまた別の「わたし」がこの教会に磔にされ、わたしの代わりに人々の声を聴くのだろう。

 それまではせめてまたいつものわたしに戻るから。

 物言わず、身動がず、誰も愛さない石像に戻るから。


 ただ今だけ、そこに転がる黒瑪瑙が消えてしまうまでの間だけは、ただ一度のこの情動に想いを馳せることを赦してほしい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ