ULTIMO
学校が終わって、家に戻る。それがこんなに憂鬱なのは久しぶりだった。最近の僕は服装だってごくごく普通で、同年代よりも少し背が高いくらいで特徴なんてあんまりなかった。嘘、髪だけは異様に長い。
みずほも全身真っ黒の喪中じゃなくて青や緑、紫なんかの色を好んできていた。髪もセミロングくらいまで伸びていて、きちんと手入れをしているためにキューティクルがツヤツヤだった。モデルをやっているからか、クラスのどの女の子よりも垢抜けていた。
みずほと一緒に学校を出たけれど、2人とも気分が重くて口数が少なくなっていた。出来れば母に会いたくないけど冷たく固くなった祖母をこれ以上待たせる訳にもいかなかった。死んだら燃やす。それがこの国のルールだからだ。
祖母のお墓なんて用意していないから生前の希望通りに樹木葬にするつもりだったけれど、母がどう出るかまったく想像がつかなかった。反対するのか、賛成するのか、母の機嫌次第だと思う。
僕たちの最寄駅から電車で15分のところにある納骨施設は出来たばかりで綺麗だし、費用も永代供養で50万円で普通のお墓よりはリーズナブルだった。
祖母の知り合いなんて知らないし近所付き合いはないのでお通夜もお葬式もやらないで火葬だけ立ち会って、お骨を家に持ち帰る。その後埋葬の日を決めて納骨施設に行って手続きをする。
僕たちだけでそれをするのは難しいので母にもいてもらうしかないけど不安でいっぱいだった。親戚付き合いも全くないから頼れないし、そもそも母は祖母の娘なので常識的に考えれば仕切るのは母なのだ。
重い足取りで家に辿り着くと僕たちはそっと玄関の扉を開けた。まだ来ていないようで拍子抜けした。そういえば母はしばらくこの家にいるんだろうか?それとも恋人の家に戻るのか、そういう部分も聞かないといけないなと思った。
冷蔵庫の中の麦茶が残り少なかったので僕たちは半分こして飲んだ。百均で買った蓋が黄緑の安っぽいプラスチック製のピッチャーを洗って水と麦茶パックを入れた。沸かすのが面倒なので僕はいつも水出しで作っている。
約束していた時間になっても母が来ないので僕たちの気は少し緩んでいた。みずほが冷蔵庫に何も食べ物が無いことに気付いて近くのスーパーに買いに行くと言った。僕は1人にしないで欲しかったけど留守にする訳にもいかないので渋々残ることにした。
15分ほど経ってガチャリと鍵の開く音がした。随分帰ってくるのが早いなと思ってそちらを見ると、母がいた。最後に会った時よりも髪が伸びていたけれど、それ以外は全く変わっていなかった。母は僕をみて不審な顔をした。
「なあに?みっちゃんの彼氏?あの子どこ行ったの?」
言葉が、出なかった。パクパクと口は動くけど声が全く出ない。息が出来ない。母は、僕のことを認識していなかった。
「あら、緊張してるの?わたし、みっちゃんのお母さんなの、初めまして」
そう言って笑う母は美しく、一見まともな人間に見えた。母が狂人だということを知っているのにもしかしたらまともになったのかもしれないと勘違いしてしまうくらい自然な言動だった。
僕は喉の奥に力を入れても全く声が出なくて、やっと一言だけ絞り出した。
「……みずほ、たすけて」
靴も脱がずに僕の元に駆け寄ったみずほが母を睨んだ。一緒に暮らしていた頃なら竹刀で殴られているであろう行動だった。でも、母はそれをしなかった。
「お母さん、ほずみに何をしたの?」
「えっ?何言ってるの?」
「だから、ほずみに何をしたのかって聞いてるの!顔が真っ青じゃん。アンタおかしいよ!」
「は?」
母の顔がみるみる歪んでいく。僕を見て、みずほを見て、また僕を見た。その手は震えてその顔は嫌悪感を抑えられないようだった。
「わたしのほーちゃんはこんなんじゃない!おかしいおかしいおかしいおかしい!!」
母は鬼のような形相で僕に飛びかかってきた。母よりも大きくなったのに長年のトラウマにより僕はそこから一歩も動けないまま咄嗟に頭を腕で庇った。
母はすごい力でみずほを突き飛ばすと僕の肩を机の上にあった筆箱で殴った。そんなに重いものじゃないけど手加減なしの打撃はかなり痛かった。やっぱり母は変わっていない、悪夢のようなこの国の女王は僕たちに無慈悲に暴力を振るった。
母は戸棚から散髪用の鋏を取り出して僕の方へ振りかぶった。命の危険を感じて、やっと僕の足は動いた。逃げないと死ぬ、今度こそ殺されると本能的にわかった。
「ほずみ、逃げてッ!」
「逃がすわけないでしょ、なんなの?みっともない」
みっともない。久々に会う母からの言葉としては最低だった。僕を見る母の目は爛々と輝き、口からは涎がだらだらと溢れていた。正気じゃない、と思った。そもそも母に正気な時なんてきっとなかった。さっきまでの面影は全くなく僕に向かって鋏を向けて近付いて来た。
「嫌んなるくらい父親にそっくり。あんたはいつか誰かを不幸にする。いや、今この瞬間もわたしを不幸にしてる」
目の前の母が恐ろしくて身体が震えた。涙も止まらないしもう、駄目だと思った。伸びてきた鋏が僕の顔の横を掠めて長い黒髪がぱらぱらと畳の上に落ちた。その瞬間、みずほが中華鍋を思い切り振り下ろした。ごん、と鈍い音がして、母は倒れた。その後大きないびきのような音がした。僕の目の前で小刻みに痙攣する母が怖かった。いつか思った通り、2人は殺し合った。いや、みずほは僕を助ける為に母を殴ったのだ。
「みずほ、どうしよう」
「大丈夫、ほずみは悪くない。落ち着いて」
みずほは僕の背中をさすって落ち着かせようとした。それから親指で僕の頬を拭った。
「血が、出てる。消毒しよう。救急箱取りにいこう」
「怖かった」
みずほはうん、と言ってから僕の手を引いて救急箱を取りに行った。そして慣れた手つきで消毒をしてから絆創膏を貼った。
「みずほ、これからどうしよう」
「……燃やそう。おばあちゃんには悪いけど、無理心中されそうになったってことにしよう」
「そんなの上手くいくかな…」
「やるしかないのよ。それにその怪我だって無理心中の証拠に出来るかも。兎に角大事なものだけ持って出るわよ。あと、カモフラージュのために髪も切ろう。寝てたらあいつに切られて殺されかかって、いや、それだと辻褄が合わないか」
「髪が長いと火事から逃げるのにあんまり良くないよね?」
「うん、一応火事から命からがら逃げたほうが良いからね。着の身着のままみたいな方がきっと疑われないはず。だから大事なものも小さいのだけだよ」
「みずほがいれば他のものは後から買い直しても良いよ。大事なものなんて僕たちには最初からそんなに多くないよ」
「そうね。スマホと財布と腕時計だけ持っていこうかな」
「あの時計、まだ使ってたんだ」
「ほずみからのプレゼントだからね。気に入ってるの」
昼間だとすぐに消火されてしまうかもしれないから深夜に火をつけることにした。僕たちは寝室に祖母と母を並べた。死んでいる人間は力が入っていないからとても重かった。母の持ち物の扱いに困ったけど、部屋の隅に置いた。
母の年下の恋人からメッセージが来ていたので、ごめんねと返信をしてから母の服のポケットに入れた。これならどんな意図にも取れるし死んだ時間を誤魔化せるんじゃないかと僕たちは考えた。
母の隣の祖母のことを見る。冷たく固くなった身体は人形のようだった。本当はちゃんと火葬してあげたかった。でも、僕たちには母の死の隠蔽と同時並行で祖母をきちんと弔うことが不可能だった。人を呼べばこの状況がバレてしまう。母は祖母が亡くなったショックで正気を失って僕たちと無理心中しようと家に火をつけるのだ。
「心が弱い人でした。でも、優しい母でした」
「はい、最近は離れて暮らしていたんですが僕たちは母のことを愛していました」
「昨日だって、僕の髪を切ってくれたんです。小さい頃みたいに」
「ホットケーキを焼いてくれました。小さい頃みたいに」
「もしかしたら母はその時にはもう計画していたのかもしれません、きっと、そうです」
僕たちは自然に、自然にと練習をする。シャキシャキと鋏の音がする。みずほが僕の髪を上手に切っていく。長年自分で切っていたからかみずほの散髪の腕はとても良かった。鏡の中には大人になりかけの少年がいた。その後ろから覗く顔も、もう僕とは全然似ていなかった。
「大丈夫、わたしたち二人なら絶対に上手くいく。明日はきっとバタバタするから明後日になったらいつもみたいにショッピングモールでお祝いしよう。チョコとバナナのパフェを半分こしよう」
「飲み物は?」
「もちろん水よ」
僕たちは顔を見合わせてにやりと笑った。それからみずほがさっき玄関に放り出したままのビニール袋からメロンパンとチョココロネとポテトチップスを取り出して食べて、まだ薄い麦茶を飲んだ。一度だけ、幼い頃のように寝室にいる母の寝息を確かめた。母はもう、呼吸をしていなかった。
そして僕たちは寝巻きに着替えて居間で少しだけ眠った。日付が変わる瞬間にハッピーバースデーと言いながら冬の余りの灯油を母たちのまわりに撒いて火をつけた。僕たちは火が充分に大きくなるのを確認してから裸足で外に飛び出した。
「誰か助けてください!火事です、誰か!」
「お母さん!おばあちゃん!」
普段関わらない近所の人たちもなんだなんだと出てきた。野次馬もたくさん集まってきた。電話をかけている人も何人かいたからきっと消防車を呼んでくれただろう。駄目なら自分たちで呼ぶつもりだったけど良識のある人がいて良かった。
僕たちはお互いの手をしっかりと繋いだまま、燃え盛るわが家を見つめた。遠くから小さくサイレンの音が聞こえた。
これにて完結です。読んでくださってありがとうございます。評価やブックマーク、感想などいただけるととても嬉しいです。