ヘンゼルと森の魔女(4)
洋菓子店『Mon Ange』は、神戸の商店街によくあるスタイルの、販売スペースとイートインスペースを備えた店だった。
若者向けに価格を抑え、使い捨て容器でケーキなどのデザートと飲み物を提供する。
白大理石を模したタイルの内装に、赤が基調となった椅子がポップでオシャレな印象だ。
「元町の『ママの店』と同じスタイルですね」
休日のセンター街の人の多さに少々おののいていた千景は、店の中に入ると急に元気になった。
慣れた様子でクッキーを手に取り、アリスやウサギのアイシングを検分する。
「かわいいですね」
喜んでいることはわかるものの、その目付きは口調よりももう少し、シビアだ。
「気に入らない?」
「いえ、そうじゃなくて。どっちかというと悔しいです」
「そうなんだ」
「はい。私も朝練とか欠かしてないのに、プリント下地なしでこんなキレイな線、まだ描けないから」
話しつつ、かごをもって販売スペースをゆっくり、1周。
結局はアリスのクッキー以外何もかごに入れないまま、レジに向かう。
「こっちは包んでください。あと、イートインでコーヒー2つ。峻さん、何かケーキ要ります?」
「いや、いいよ」
峻はかぶりを振った。
母親への土産にアリスのクッキーを手にしているが、殊更甘いものが食べたいわけではない。
それよりも、ナチュラルにコーヒー2つ、と千景が言ったのが、気になる。
ここはどう考えても年上の自分がおごるべきではないか。
しかし、 「僕が出すよ」 というのも、下心があると勘違いされそうで腰が引ける……。
などと峻が考え込む間にも、千景はショーケースをさらっと一瞥して秒速でケーキを選んでいく。
「じゃその、シュークリームとショコラ・アンジェとフロマージュ・アンジェ、それから季節の果物のタルトでお願いします。
フォークとナイフ2つ、付けてくださいね。分けたいので」
「え?」 やはりここは、サッと財布を出して支払ってしまおう、と考えていた手が、ジャケットの内ポケットに入りかけたところで、止まった。
「僕も食べるの?」
「当たり前ですよ。こんなの1人で食べられるわけ、ないじゃないですか」 ここまで言っていったん切り、千景は峻に向かって頭を下げる。
「お願いします! 一緒に食べてください! あ、おいくらですか?」
あっけにとられてうなずくしかない峻を尻目に、ケーキを選ぶ以上の素早さで、会計は済んでしまった。
「……本当は甘いもの、お嫌いですか?」
きっちり等分に切られたケーキの載った紙皿を差し出しつつ、気まずそうに尋ねられ、峻は慌てて 「いや、むしろ好きな方」 と答える。
「ただ、こんなにたくさん1度に食べたことはないかな……これも、勉強?」
「はい。やはりこういうお店に入ると、4~5種類は気になりますよ。シュークリームは外せませんし」
シュークリームは店の実力を測るバロメーター。店の名前を冠した自信作は要チェック。
説明しつつ、千景はシュークリームを口に運ぶ。大きく開いた唇の間に、半分に切った塊のさらに1/3程度が吸い込まれていった。
丁寧に味わっているらしい口元は、美味しそうにほころんでいるのに、その目はやはり、真剣である。
感想を聞くかわりに、峻もシュークリームをかじった。
サクサクと固めの皮が破れると、滑らかなカスタードが舌を優しく撫でる。
強すぎないバニラと、ほのかな洋酒、卵・牛乳の香りがバランス良く甘みを引き立てている。
「悔しいなぁ」
千景が、失礼します、と膝の上に手帳を広げ、メモをする。
たぶん、感想なのだろう。
ケーキを切り分ける前にスマートフォンで写真を撮っていたのも、勉強のためなのかもしれない。
「悔しい?」
書き終わるのを待って、尋ねてみる。
「はい」 千景はうなずき、水を飲んだ。
「カスタードだけでホイップ使わない、ってところで、相当な自信だな、と思ったんですけど。正直、学校のレシピより断然こっちのが美味しくて」
「学校のレシピより?」
「学校のレシピで、良い材料を使って、丁寧に作っても追い付けないんじゃないかな……なのに私はまだ、そこでいっぱいいっぱいで」
「これからじゃないの?」
「確かにそうなんですけど」 千景が、タルトに底までぐっさりとフォークを刺す。
「これからだ、と思っていたら何もできない気がして」
「ああ」 フロマージュの柔らかな風味と食感を楽しみながら、峻はうなずいた。
「先の先まで目標があった方がいい?」
「はい。だから、悔しい、って感覚、すごく大事だと思うんです」
葡萄やリンゴの載った、いかにも秋らしいタルトが薄くリップを塗った口の中に消え、千景はまた、手帳に何か書き込む。
「タルトはどう?」
「どう思われます?」
「美味しいよ」
「……」 千景は水を飲み、手帳を峻に手渡す。
「いちばん、下のところです」
峻が見るとそこには細かな字で、『季節の果物のタルト:土台の甘味を控えた方が果実生きる。柿が強すぎる気がする⇒洋梨とリンゴ?』 と書かれていた。
一通りケーキを食べ終わってメモから解放されると、千景の表情がやっと、少し緩んだ。
コーヒーを飲みながらお喋りする。
実家は東京の方で、わざわざ神戸の製菓学校にきたのは、単に憧れていたのと1人暮しがしたかったから。
(いいな、と峻は言い、やってみると大変です、と返された。)
製菓学校では毎日朝練の時間があって、苦手な技術を自主練習する。
週に2~3回バイト。学校が終われば直行して、疲れて帰ってなにもせずに寝る。
バイトで稼いだお金で食べ歩きをする。
(センター街の方はなんだか怖くて行けなかったので、と改めて感謝された。)
空いている時間は授業の復習や資格の勉強、製菓情報のチェックに回す。
海外留学制度を使おうか迷っている。
千景の話に相づちをうちつつ、峻は簡単に大学の臨床心理学研究室で補助教員をしている、と自己紹介した。
「カウンセラーさんですか?」
「の卵、かな」
千景は、カウンセラーの先生なら、以前お世話になったことがあります、と明るく笑った。
話が意外と弾んだせいか、店を出た時にはすでに夕方だった。
アーケードの下に西日が差し込み、ひっきりなしに行き来する人々の影を長く伸ばしている。
「これから、どうするの?」
「運動がてら、元町まで歩いて電車に乗ります。峻さんは?」
「僕は、少し本屋に寄って帰るよ」
三宮から元町、元町から神戸へと続く商店街は峻も好きな場所ではあるが、一緒に行くよ、というのも馴れ馴れしい気がしたのだ。
知り合ったばかりであまり近づきすぎるのも、気持ち悪いと思われそうだ。
「じゃあそこまで、ですね」
2人は雑貨店やアクセサリーショップの並ぶ道を、連れ立って歩き出した。
センター街の中心地でも一際目立つ、ジュンク堂書店のエスカレーター前で峻は、足を止める。
「じゃあここで」
ありがとう、とか、楽しかったよ、などと言ってもいいものだろうか。
迷っていると、千景がにこっ、と笑った。
「ありがとうございます! 楽しかったです」
「あ、いや……」
逆に全部言われてしまった、と峻が戸惑っているうちに、千景はラインの猫スタンプよろしく、ぺこり、と頭を下げた。
「じゃあ、また」
颯爽と歩き出す、後ろ姿。
ああまた行ってしまう、と峻は思った。
嫌われ、蔑まれるのを恐れて、何も言えないうちに、誰もが行ってしまう。
(かわいそうに) 母親の声が脳裏に響く。
(あなたは、誰からも嫌われてしまうのよ。お母さんの子だもの。人を殺してしまった女の子供だもの。かわいそうに)
これまでの峻の人生を、うなだれ、小さくなり、ただ死を待ちながら過ごすためだけのものに変えた、魔女の呪い。
違う、と対抗する。
それは客観的事実ではない。
打ち破らなければ、食いつくされる。
「千景さん」 自身が叫んだ声の大きさに、心臓がますます縮こった。
彼女が、止まってくれる。
振り向いた顔は、困っても、怒っても、いないように見えた。
「またね」
手を振ると、千景の顔一面に、嬉しそうな笑みが広った。
手を振り返してくれた後ろ姿は、峻が見送る中、人混みに紛れて行ってしまった。
今度は不思議と、寂しいとは思わなかった。
三宮センター街は駅からすぐの商店街。
阪急三宮駅のあたりは昔は繊維街だったようで、今でもそんなお店が多くみられます。
(ちなみに阪急三宮駅の裏通りにあるパン屋が以前ケンミンショーで紹介されてました。
あん食パン……他県にはないのでしょうか?)
そんな土地柄なせいか、センター街も表通りは飲食店は少なめ、衣料品、雑貨店が多い印象です。
(地下に飲食街があります。穴場。)
本文中のジュンク堂書店はセンター街が発祥の地……だけどいつの間にセリア(百均)と文具店が同居したんだろう? 知らない。
地上2階~5階まで、神戸関連の書物も多く、けっこう1日楽しめるお店です。