ヘンゼルと森の魔女(2)
峻にとって、6歳のその日が特別なのは、ハロウィンだったからだ。
保育園の英語クラスでパーティーがあり、紙で作った帽子やステッキ、マントなどで仮装して、おやつを食べた。
いつもは出ないチョコレートが出て、母親にあげようと、1つ、カバンにしまった。
その後、仮装したまま鬼ごっこをしていた時に急に気分が悪くなって吐き、わけがわからないまま、『先生の部屋』の片隅のベッドに寝かされた。
「お母さんに連絡したら、すぐ迎えに来られるって」
ニコニコと優しい先生にすっかり安心して、母親が来ることを信じきってウトウトと眠った。
目が覚めた時には辺りは暗くなりかけていて、急に不安になって、泣いた。
なぜ母親がまだ迎えにこないのかが、わからなかった。
だが、先生はやはり穏やかだった。確か、ごく普通の顔をして、こう言ったのだ。
「お母さんはご用ができてどうしても来られなくなったので、お父さんが来られるそうですよ。
もうしばらく、待っていましょうね」
ぬるま湯で割ったポカリが、妙に美味しかった。
しばらくして父親が迎えにきた。
今思えば、父親も峻のために、なるべく平静を装ってくれていたのだろう。
「車は?」 つないだ大きな手の温かさにほっとしながら尋ねると、当分使えないんだ、と返事があった。
「こわれちゃったの?」
「……まぁ、そんなところだ。バスに乗って帰ろう、そのあと病院だな」
しんどくないか? ときかれて、うん、とうなずく。
父親に手をつないでもらって歩くのが、照れくさいけれど嬉しい。
バスも滅多に乗らないから、ワクワクする。
遊園地気分で揺れを楽しみながら、今日あったことを報告する。
―――きもちわるくならなかったら、ぜったい、ぼくがいちばん強かったよ―――
うんうん、と聞いてくれていた父の、その時の心境はいかばかりだったろうか。
バスから降りた後で、父はぽつり、と言った。
「なぁ峻。これから、親子3人で頑張っていこうな」
「うん!」 熱があるのも忘れて、戦隊ヒーローのポーズをとる。
「わるものはみんな、ぼくがやっつけるからね!」
「……ありがとうな」
しばらく経って言われたお礼は、どうしてだか、くしゃくしゃに濡れていた。
―――幸せな子供時代の、最後の思い出だ。
あの後から母親は何かに取りつかれたかのように人が変わった。父の方は、表面上あまり変わらなかったが、酒を飲むようになった。
そして、たまに目が覚めると、両親が低く言い争そう声が聞こえる日が多くなった。
その度に、母親の泣き声が聞こえた。父が一緒に泣いてしまうこともあった。
そして、その日を境に、峻の家から車はなくなり、家族で遠出をしたり山登りに行ったり、ということもなくなった。
やがて、峻と両親は神戸に引っ越した。いつの頃からか、峻は、その日に何があったのかを知るようになった。
―――つまり、あの日だったのだ。
母親が、熱が出た子供を慌てて迎えに行って、人をはねてしまったのは。―――
★★★★
児童館を出た時に降り始めた雨は、すぐに激しくなった。そこここに彫刻のある煉瓦畳の歩道を、峻はやや早足で駅に向かう。
地下街へ降りる階段はすぐだが、そちらへは行かず、わざとそのまま、まっすぐ歩く。
濡れるのは嫌いだが、その間何も考えなくて済むのが有難い。束の間、自由を手に入れた気になる。
が、不意に雨が遮られた。
「……?」
振り返ると、知らない女の子がビニール傘を差しかけてくれていた。
20歳前後、といったところか。
生き生きとした黒目がちの瞳と、それによく似合うショートカット。
薄い唇が、緊張気味に動く。
「これ、使ってください」 しっかりとした口調だが、声は、かなり固い。
相当に緊張しているようだ。
「新しい傘、衝動買いしちゃったので! もう1本ちょっと邪魔で、困ってたんです! だから、返さなくてもいいので!」
「…………」 つい、まじまじと彼女がさしている傘を見れば、それはゴッホの『タンギー爺さん』だった。
色とりどりの浮世絵に囲まれて座る、目付きの鋭いオッサンの油彩画。
思わず小さく吹き出す。
「好きなの、それ?」
「背景がいいな、と思って」 少し照れたような色を瞳に浮かべつつ、傘を傾けて見せてくれる。
「けど、背景だけではつまらないんですよ。このオジサンが生きてますよね」
「モネの『睡蓮』や、同じゴッホでも『向日葵』の傘なら見かけたことがあるけれど」 いつの間にかビニール傘を受け取り、並んで歩き出していた。
「『タンギー爺さん』は珍しい気がするなぁ……絵をやってるの?」
「いえ、製菓です。絵は少しだけ。イラストケーキが作れるようになりたいので」
「子供が喜びそうだね」
「はい! 専門店ではフード用の写真プリントで作ることも多いんですけど、手描きでもできたらいいな、って」
「ああ、三宮にあるね。手描きアイシングのアリスのクッキー売ってる店」
駅に着くと、周囲に人がいない軒下を探し、傘を閉じる。
「その、アリスのクッキー、なんていうお店ですか?」
何気なく言ったことだったが、彼女にとっては要チェック事項だったらしい。
背負っていたリュックの中からスマートフォンを取り出し、メモする気満々である。
「なんだったかな」 峻もまた、財布を開けて溜まりに溜まったショップカードを順に探す。
あの店は、昔1度行ったきりだったが……
「ごめん、すぐにわからない。後でラインしていい?」
尋ねてから、しまった、と思った。
うっかり、友達のように気安く言ってしまったが、実質はさっき知り合ったばかり。
そんなことを聞かれたら、きっと気味が悪いに違いない。
他意はなかったと、謝らなければ。
しかし峻が口を開くより先に、彼女の顔が、ぱっと輝いた。
「いいんですか?」 そのままスマートフォンの先が峻に向かって、差し出される。
「じゃあ、ラインID教えてもらっていですか?」
「…………いいの?」 びっくりして彼女を見れば、不安そうな目が峻を迎え撃つ。
「あれ。私、何か変なこと、しましたか?」
「いや……大丈夫」
変と言えば傘をくれたことからして変だが、それはあえて言うまい。
イマドキの子の感覚はどうも、と年寄りじみた感想を内心で漏らしつつ、峻は内ポケットからスマートフォンを取り出したのだった。
三宮(神戸市中央区)にアリスのイラストクッキー売る店……いきなりですが、フィクションです(爆)
でも、ありそうなことは確か! うん。
ちなみに、児童館はありますよ!
『こべっこランド』 という名前です。
神戸駅から、アンパンマンやドキンちゃんの彫刻が並ぶ道をまっすぐ行くと 『こべっこランド』
さらに行くとハーバーランド。埋め立て地の上に立つショッピングモールです。飲食店多め。
入り口にアンパンマンランドがあります。
ここの本館には、地元ファミリーはほとんど行かない!
無料スペース(お土産・飲食店)だけでもけっこう楽しめます♪