グリム童話は夢を見せない(1)
夕方、看護師が待合室にやってきた。
母親の容態が安定したので、一般病室に移す、という。
点滴につながれ、ストレッチャーの上に乗せられて眠る母親は、思っていたよりずっと小さく、それが峻にはショックだった。
(昔、確かに、このひとを母だと思っていた時があった)
峻の脳裏に、久しく忘れていた思い出の断片が次々と甦る。
―――朝早く起きて忙しそうに弁当を作っていた母。
弁当を覗くと 「楽しみが無くなるでしょ」 と止められる。
「なんでもおいしいからいいの」 と答えると浮かぶ、嬉しそうな笑み。―――
―――家族で服を買いに行く。母が次々と峻の服や靴下を選んでいく。
「お母さんのは?」 と聞く峻に、母は 「要らない」 と寂しい微笑で応じた。
「峻のだけで、いいのよ。お母さんは、いいの」 ―――
―――「もう、熱くない? 気分は? 大丈夫?」
事故の翌日、1日ぶりに会った母親がまず、尋ねたのは、峻の体調のことだった。
「うん! へいき」 何も分かっていなかった、幼い峻に、母親は 「そう。良かった」 と応じながら、泣いていたのだ。―――
母親に対する憎悪が消えたわけではない。
しかし目の前で眠っているのは確かに、峻に愛情を注ぎ育ててくれた母であった。
(ただ、その方法が間違えていただけなんだよな……)
苦々しい思いを、峻は噛みしめていた。
『愛情の表し方を、間違える。』
それは決して珍しいことではなく、仕事でクライアントから相談を受けていても、しばしば見られることである。
その間違いに対する怒りも憎しみも、正当なものなのだ。
なぜなら、表し方を間違えた愛情というものは、それを向けられた人の心を、確実に傷つけるのだから。
結果、当の間違いを犯した人物を嫌悪し、憎悪し続けることになろうとも、仕方がない、と峻は考えている。
理想は 『罪を憎んで人を憎まず』 かもしれないが、現実には難しい。
……ちょうど今、ショックを受けるほどに小さく弱々しい母親を見てさえ、峻の心によぎる思いが、複雑なものであるように。
確かに母親からは、愛してもらい、懸命に育ててもらった。
――― だが、その愛情は、表し方を間違えていた。
間違えてほしくは、なかった。
傷つけられてきた子供は、峻の心の奥底で、まだ、怒り続けている。
許せない。
このひとのために、自分が失ったさまざまなものを振り返る。
許せない。
たとえ、このひとが亡くなったとしても、頭の中でささやき続ける、消えない声がある。
……可哀想に。
あなたにできるわけがない。
あなたが人から好かれるわけがない。
あなたには、何の価値もない。
だってあなたは、世の中で最低の、お母さんの子なのよ。……
その声に心を呑まれ、支配されてしまわないためには、怒り、憎んでいなければいけないのだ。 ―――
だが、それでも。
峻の目の前で眠っているのは、ただひたすら憎み続けるには、あまりに小さく、弱い人間だった。
恐ろしい魔女ではなく、救われるべき、1つの生命に過ぎなかった。
(もう、許さなければならない)
――― このひとは確かに、母だったのだから。
表し方が間違えていても、愛情は無かったわけではないのだから。
それでもう、良しとしなければ、ならないのだろう。―――
峻の中にまだ、傷ついて泣いたり怒ったりしている子供がいたとしても、峻自身はもう、子供ではない。
そして、知っている。
自分の中の怒れる子供を宥め、コントロールする術も。
母親からかけつづけられた、呪いのような言葉が、決して真実ではないと、自分に言い聞かせる術も。
(このひとは、僕に何の影響も与えはしない。
このひとの言葉は、僕を動かしたりしない。
愛する必要もないが、憎む必要もない……)
母親だからこそ、憎み上げ、その存在に異様なまでの苛立ちを感じていたのだ。
はっきりとそう、峻は思い知った。
誰よりも峻に影響を与え、支配し、峻を動かす存在であったからこそ、怒り、憎まざるを得なかったのだ。
――― 母親だけが峻に依存していたのではなかった。
峻もまた、母親にある意味で、依存していたのである。
母親と峻をつなぐ鎖が、なかなか断ち切れなかったのは、その鎖の端を峻もまた、しっかりと持っていたからだったのだ。―――
それを認めるのは、なかなかに、痛みを伴うことだった。
しかし、認めることでしか、母親と峻を縛っていた鎖を断ち切ることができない。
……ならば、認めなければ。
歯を食い縛るようにして、峻は考えた。
(このひともまた、救われなければならないんだ)
認めて、鎖を断ち切って、支配されることなく、ひとりの人間として、母親が救われるために尽力しよう。
……もっとも、そうした思いの底にはなお、ひやりとした憎しみが横たわっている。
どう足掻いても、そこから100%解放される日など、来ないのかもしれない。
それでも、これからは。
胸の奥に常に冷たいものを抱えつつも、人生の終盤を迎えている人間の幸福に関わる者として、責任を果たすことになるだろう。
――― きっと、生み育ててもらったことや、今その気持ちが思い出せなくても昔は大好きな母であった、という事実は、その対価としてじゅうぶんなものに、違いない。―――
峻は、苦いものを飲み込むように、そう考えた。
単純に、憎み続けられた方が、よほど、ラクだった。
★★★★
覚えている夢は、わずかしかない。
―――どこまでも細くなる道を、どこに着くのかも分からずに歩き続ける夢。
恐ろしい何かに追いかけられて、四角い池の周りを逃げ続ける夢。
誰もいない海に溺れる夢。助けを呼んでも誰も、こない。
誰かのために急いでいて、人を車ではねる夢。
ダメ、と止めても、車は走り続け、心臓が痛い程に早く打ち、声にならない悲鳴をあげる。―――
けれども、覚えていない夢の中には、もしかしたら、峻をはじめて抱っこした日のようなものもあったかもしれない……
……なぜかそう思える感触の夢の名残から浮上したくなくて、差し出された手にしがみつく。
そうして光子の意識がうっすらと目覚めかけた時、耳に聞こえていたのは若々しい女の子の声だった。
「―――『国王様に差し上げるのですか? ならばこれをどうぞ』
チェチーリア王女はお礼を言って、青い布を受け取りました。
光を受ければくるくると、空のようにも海のようにも変わる不思議な布。王女は嬉しくなって、飛ぶようにお城に帰ります―――」
読まれている内容はよくわからないが、窓にさす春の日のように、温かく柔らかなメゾソプラノ。
(ああ、生きていたんだ)
薬を飲む前は、もし助かってしまったら、どんな嘆きと絶望に苛まれるかと想像していた。
けれども、実際に戻ってきてみると、ほっとしている自分がいる。
ふと朗読がやみ、「母さん、わかる?」 と呼び掛けられた。
「母さん、峻だよ、わかる?」
峻が手を握ってくれているのに気づき、何か言おうとしたが、声が出なかった。
かわりに、しっかりと手を握り返す。
「母さん、力、強いね」
峻が、もう一方の腕を伸ばし、両手で母親の手を包み込む。
「……生きていてくれて、良かったよ」
呟くような峻の言葉が、すとん、と光子の胸に落ち、涙となって流れた。
ごめんなさい。
そう言おうとしたが、しばらく努力した末にやっと口から出たのは、「おーあー」 という、くぐもった響きでしか、なかった。
えーと終章です。
……ん? 『いばら姫』 が終章、とか言ってなかった?
……言ってました、ごめんなさい! (吐血)
改稿進めてるうちに、「こっから先はまたちょっと違うな」 と思えてきたので。
今度こそ、終章です!
これまで、読んでくださってありがとうございます。今しばらくお付き合いいただければ、幸いです。
よろしくお願いいたします m(_ _)m
さて、神戸案内。前回は桜の名所だったので、今回は梅の名所。
暖冬のせいか、この辺ではすでに梅が7分咲くらいです。
これはなんといっても、岡本梅林公園 (神戸市東灘区) ですね! 阪急岡本駅近くです。
規模はそこまで大きくありませんが (200本くらい)、なんでも古くから有名らしいのです。
それから、前にも紹介した須磨山上遊園 (山陽電鉄 須磨浦公園駅) にも梅林があります。
ちょっと寄ろうと思うなら岡本梅林公園、1日遊びたいなら須磨山上遊園、てところでしょうか。
でーはー!
※八刀皿 日音さまのアドバイスを参考に、前半部分を改稿しました。八刀皿さまありがとうございます!
そして、感想下さっている皆様。おかげでお話ができております。本当に本当に感謝ですー! m(_ _)m




