ヘンゼルと森の魔女(1)
へその下に力を込めて、声を前に出す。
1音1音、口をしっかり開ける。
抑揚をつけ、感情を形作る。
目はキョロキョロとさせるより、中程の誰かに向かって微笑ませた方が良い。
「……ヘンゼルとグレーテルは、それからお父さんと幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
峻が朗読を終えると、パチパチパチ……と小さな拍手が起こった。
手を叩いているのは主に、児童館のスタッフや、幼い子供を連れた母親たち。数名、6~7歳程度の子供たちもいる。
この『お話ボランティア』に峻が参加したのは、高校生の時のサークル活動からだった。
それを母親に話した時、遠い目で 『そういえば、あの人も姪御さんに絵本を読んであげる優しい人だったそうよ……』 と言われ、続けよう、と決意したのだ。
母親は、明らかにやめてほしそうだったが、峻はそれを、罪ほろぼし、と感じた。
峻と母親が殺してしまった青年の代わりに、多くの子供に絵本を読み聞かせよう。
その考えは、峻の頭をよぎる数々のモノの中では珍しく、色と温もりを持っていた。
(これにすがりついて、今日まで人間の形を保ってこれたのかもな)
にこやかに『お話を聞いてくれてありがとう』の拍手を幼い聴衆たちに返して、席を立ち、帰り支度をはじめる。
ボランティアを始めた頃はアンコールを想定して2、3冊を練習したりもしていたが、今ではそれはしない。
結局、絵本の読み聞かせが殊更に好きなのはごく一部の子供と大部分の大人たちだけであり、アンコールなどという事態は奇跡レベルで起こらないのである。
「ありがとうございました」
首に掛けていた入館証を返し、軽く会釈をしたところで、児童館スタッフが話しかけてきた。
顔が食べられる人気キャラクターがついたエプロンをかけた、いかにも子供好きそうな女性だ。
「ヘンゼルとグレーテルは、継母の設定の方が普通でしょう? なぜわざわざ、本当のお母さんの方にされたんです?」
含まれる軽い非難の響きに、内心、舌打ちする。
童話好きもさまざまで、『子供のために残酷描写は避けるべき』 と考える大人も当然、存在するのだ。
それは分かっているが、議論は大体平行線で終わることも、分かっている。
それでも峻はなるべく丁寧に答えた。
「『ヘンゼルとグレーテル』を心理学的に見るならば、母子分離の話と捉えられるんです。
この話の母親と魔女が、母親の二面性を表している、という考えがありまして。
母親は、以前は子供にとって偉大なる存在……『グレート・マザー』だったのですが、子捨てを決意し旦那を唆すことで、子供を殺す怖い存在……『テリブル・マザー』に変貌する。
そしてこの『テリブル・マザー』の最たる存在が、森の奥に住む魔女なのです。
つまり、ヘンゼル・グレーテルが魔女を殺す過程は、現代においては『子供を支配し心を食らいつくそうとする母親』を殺すことにつながるのですよ。
母親にとっても子供にとっても、これは重要なことでしょう?
お話の母親が継母では、心の奥に潜む『テリブル・マザー』を殺す、というカタルシスの効果が薄れてしまう、と思われませんか?」
「は、はぁ……」 峻の本職がカウンセラーの卵だとはスタッフには言っていないから、まさか心理学的見解から説明されると思っていなかったのだろう。
スタッフはあっけにとられた顔で、曖昧にうなずいた。
「そうかも……しれませんが……」
「僕の選択がお気に召さなければ、次回からほかのメンバーを指名されれば良いのですよ。もっと優しい話が好きな方もおられますから」
大人ぶって穏やかに言いつつ、もう1度軽く会釈し、その場を離れる。
早足で歩く背中に、背後から 「ありがとうございました」 ともう一度、慌てたように声がかけられた。
振り返らないのは、恥ずかしいからだ。
窓から垂れ込めた雲が見える、薄暗い廊下をエレベーターへ向かう。
(『テリブル・マザー』か……)
分かっていても、殺せない。
逃れたいのに、逃れられない。
あの事故があった日から、母親は当然のように峻を支配しだした。
峻の思考と精神に絡みついて絞め殺し、食らいつくそうとする女。
見捨てたいのに、見捨てられない。
深い森に棲む哀れな魔女。
その呪文はいつも、このように始まる。
『あの日に、あなたが熱を出して、慌てたりしなければ……』
思考を縛り心を眠らせる、後悔に満ちた口調。
それを、若干の憎しみと共に思い出しつつタイル張りの大きな建物を出れば、雨が降り始めていた。
雨は目の前の小さな噴水盤に賑やかな紋様を描きつつ、近くの海の匂いを鼻腔に届ける。
峻は深く息を吸い込み、僅かに残っていた自由を堪能した。