星の銀貨(8)
眼下に広がる明石の街並み、向こうの海では眩しいほどに光が躍り、その上に澄みきった冬の青空が広がる。
少し遠くに、白く美しい明石海峡大橋。
360度ぐるりと見渡せる天文科学館の展望室で、峻は 『星の銀貨』 を朗読している。
どこまでも青く遠い空のせいか、声はいくら張り上げても、吸い込まれていってしまう気がする。
その分、腹に力を込めて遠くに音を飛ばす。
「―――さて、今の人たちは、神様が報いてくれる、とはなかなか思いにくいかもしれません。
それならば、今に生きているあなたたちは、どう考えますか?
貧しくても与えてくれる人に、どうしてあげたい、と思いますか?
ひとりの人の中にも、いろいろな心があります。
人から奪い取る弱さもあれば、人を傷つける暴れん坊な気持ちもあるし、一方で、与えたいと思う優しさもあれば、守りたいと願うこともあるでしょう。
どの心がいちばんに現れるかは、もしかしたら、誰が心の中にいつもいるか、ということに近いかもしれません。
この女の子の場合は、心の中にいつも神様がいたわけですが、神様でなくても、心の中に大切にしたい誰かがいる、というのはとても大事なことです。
―――皆さんの心の中には、誰が、いますか?」
読み終えると、拍手が起こった。
いつもの児童センターより、やや年齢層が高く大人の数も多いせいか、拍手もしっかりとしているようだ。
中でも熱心に手を叩いてくれている千景を目の端に入れつつ、峻は丁寧にお辞儀をした。
「良かったですよ」 今野が交代ざまに肩を叩いてくれる。
「彼女さんのおかげかな」
からかうというより、心底良かったと思っているらしい。
「ありがとうございます」
峻は微笑んで礼を述べる。
千景のおかげ。
それは間違いではないが、少々苦い。
『星の銀貨』の最後の文章を付け加えられたのは、千景のおかげだ。
そして、千景の心の中にいつもいる人、その人を死なせたのは、峻の母親が運転する車だった。
信じられないことだった。
確認するのは怖かったが、確認すれば、違うと知って安心できるだろうと、勇気を振り絞った結果が、これである。
同じだったのだ。
千景の部屋で見た写真の顔と、峻が机の奥にしまっていた古い新聞記事の写真とは。
幼かった峻が、恨みと憎しみのままに、ぐちゃぐちゃに落書きしたその顔は、何度見ても変わらなかった。
確認しなければ良かった、知らないままでいれば良かった、と後悔した。
……千景には、まだ言えていない。
言ったとしてもきっと、千景は峻も峻の母親も責めないだろう。
責めるような子ではない、と峻は考えた。
むしろ、許そうとするに違いない。
―――けれども千景が知ればきっと、また、子供の頃の自身の過ちに、傷つくだろう。
祖母に感じている罪の意識を、千景は、峻や母親に対してすら持ってしまうかも、しれない。
あるいは、尊敬する叔父と峻との間で板挟みになって、苦しむかもしれない。―――
フラれるのは仕方がないとしても、千景を苦しめたくは、ない。
そうした言い訳が、非常に自己都合に満ちた欺瞞であることを峻が感じていないわけではなかった。
けれども、つまり。
―――それを明かす理由はどこにもないが、秘める理由は、山ほどあるのだ。―――
「すごく良かったですよ」 千景のそばに戻ると、惜しみない賛辞が待っていた。
「最後、ジーンとしました」
「ありがとう」 峻は自身の狡さと、どうしようもない苦さを隠して、笑顔を作る。
「千景さんのお陰で、納得のいくものに仕上がったよ」
「えっ……そうなんですか」
私なにもしてないですよ、と目を丸くしている千景に、素早く耳打ちをする。
「千景さんが、僕の心の中に住んでくれたから」
それでなければ、『星の銀貨』は峻にとって、嘘臭いだけの話だったろう。
「何言ってるんですか、もう」
峻から視線を外して張りめぐらされたガラスの外を見る千景の横顔を、峻はスマートフォンで素早く撮った。
★★★★
= 1月15日(土)=
Mitsuko
『夕食すき焼きだけど、本当に泊まるの?』
峻
『うん。三宮でボランティア仲間とオールだから』
Mitsuko
『今までそんなことなかったじゃない』
峻
『だから、たまにはいいかな、って話になったんだって。説明しただろ』
Mitsuko
『わかった。皆さんによろしくね。ご迷惑かけるんじゃないのよ。少し残しとくから、気が変わったら帰ってらっしゃい』
未練がましげな母親のラインに 『ありがとう』 と短く返信して、峻はためいきをついた。
「どうしたんですか」
千景が気遣うのに、いや別に、と答える。
「母親から買い物頼まれて」
「じゃあ今から行きましょう」
「ちょっとしたものだし、明日でいいよ」
ふうん、と千景は言って、イイダコ煮が刺さった串を峻に差し出す。
「1コずつ、どうですか?」
天文科学館でのボランティアの後、峻と千景はJR明石駅近くの観光地、魚の棚商店街を訪れていた。
数メートル置きに歩き食べ用の串ものを売る店があるのが、千景には珍しかったのだろう。
「タコたまごとどっちにしようか迷ったんですけど、これなら峻さんと食べられるから」
声が、楽しそうに弾んでいる。
連れてきて良かった、と思いつつ、峻はイイダコの甘辛い味と柔らかい食感で口を満たした。
休日の魚の棚は人通りが絶えず、『昼網』の手書き札を掲げた魚屋から威勢のいい売り声が飛び交う中を峻と千景は手をつないで歩く。
「帰りにお刺身買いましょうか」
「いいね。あと、たなか商店でワインとチーズ。それから、ハセ蒲鉾で天ぷらいくつか、森谷商店のコロッケ」
千景がくすくす笑う。
「御馳走ですね」
「内定祝いだからね」
千景の就職先は、元町商店街の人気洋菓子店である。
バイトからそのまま正社員にスカウトされ、迷っていたが結局は、そこに決めたのだ。
そう聞かされた時には単純に喜んだ峻だが、気がかりなことが1つあった。
「東京に帰らなくて、良かったの」
「だって、峻さんがいるから」
「…………」
素直すぎる千景の台詞に、峻は言葉を失う。
これまで、自身にそこまで価値があると、思ったことがないのだ。
千景の気持ちが、嬉しくないわけではない。
いや、むしろ、物凄く、嬉しい。
が、人ひとりの人生を左右していると考えれば、恐ろしくもある。
考え直せ、と言った方がいいのかもしれないが……それも、嫌だ。
店の軒下でピチピチと跳ねる魚に妙な共感を覚えつつ、しばらく黙り込んだ後、峻はやっと、口を開いた。
「じゃあ……春から、一緒に暮らそうか」
その前に、言わなければならないことがある。
きっと、隠したままではいられないのだから。
けれども、まだ言えない。
いつか壊れてしまうにしても、今はまだ、壊したくない。
近いうちには言わなければならないだろうな、と思いながら、峻は言い訳した。
「ちょうどこの春から、ひとり暮らししようと思っていたんだ。
だから、その、もし、千景さんさえ、よければ」
「あの。えーと、その……」
えっ、と驚いた後、口ごもる千景を見て、急だったかな、と反省する。
そもそもが、大変なことを隠している状態で、守りたいとか、同棲しようなどと、虫が良すぎるのかもしれない。
その思いと、普通のカップルのように幸せを求めるのはそれほど悪いことなのか、という疑問が、交互に峻の頭を過った。
「もちろん、無理にじゃなくて……」 付け加えながら、しょんぼりと靴の先を見つめる。
「うん、無理だったら、かまわないんだ。急に変なこと言って、ごめん」
千景の沈黙に、責められているような気がした。
言うべきこともちゃんと言えないのに、同棲は、やはりない、のかもしれない。
息を吸い込み、「実は……」 と言いかけた時。
不意に、千景が 「峻さん、かわいい」 と、笑った。
「よろしくお願いします」 ラインの猫スタンプのような、丁寧なお辞儀に、峻の勇気は完全に挫かれてしまった。
戸惑う峻の様子を、千景は完全に 『照れている』 と解釈したらしい。
「また物件、探しに行きましょうね!」
峻と手をつなぎなおし、少し恥ずかしそうに、そう言ったのだった。
さて、星の銀貨の最終は、神戸から飛び出て、お隣の明石市です。
観光地としてはさほどメジャーではありませんが(たこフェリーもなくなったし!)、JR明石駅前に明石城跡(明石公園)、魚介類や玉子焼き(明石焼き)のお店で賑わう魚棚商店街などがあります。
少し離れて明石天文科学館(山陽人丸前駅)。この近くに柿本人麻呂を奉った人丸神社と、子午線標がひっそりと建っていますね。
メジャーでない分、ゆったり観光できる歴史の古い城下町兼漁師町、といった感じでしょうか。
内輪話ですが、以前オフ会のお土産にした『分大』は、地元では(たぶん)一番美味しい和菓子のお店。紅白の鯛最中は結婚式の引き出物としても人気で、神戸からわざわざ注文に行ったりしますねー。
さて、年始年末の更新予定ですが、ぼちぼち……upしたりしなかったり、になります。
最終章に入りますが、いろいろと書き込みが足りなくてup前の改稿が大作業になりそうなのと、家族さぁびす! のため纏まった時間が。ですわね。
そういうわけで、皆様お風邪と冷えにお気をつけて、良いお年をお迎えくださいませ~!
※ちなみに…… 前のなんだかスミマセン、な夜の流れが気になる方向けに、千景さん目線のR18スピンオフをupしています。
イメージ崩壊ばっちこい、な心の広い大人の方だけどうぞ。m(_ _)m
『清楚な彼女がニアミスだけで実はけっこうエロくなっていた件。』