星の銀貨(7)
= 1月 4日(火)=
峻
『おはよう。必要な本があるので、大学の研究室に取りに行っています。ついでに三宮に寄る。帰りは夕方。なにか欲しいものある?』
Mitsuko
『心配して、警察に連絡しようかと思っていたところ。買い物はいいから、早く帰ってきなさい』
即座に来た母親からの返信に小さくタメイキを吐きつつ、ラインを送る。
峻
『せっかく研究室に来たから、ついでに "心理学研究" を読んでいくよ。だから夕方』
母親に嘘をつくことに、ためらいはない。もしこれが電話でも、平然とした声が出せる自信があった。
送信ボタンを押しつつ、ベッドの枕元に飾られている、小さなフレームをもう1度、見る。
やはり、知っている、と思う。
―――母親を憎むようになるずっと以前から、この男を憎んでいた。なぜ勝手に死んだのか、と―――
(いや、まさか、そんなはずはない)
峻は首を横に振り、ばかげた懸念を追い払う。
どれだけの確率だというのだろうか。
交通事故加害者の子と被害者の姪が、そうと知らず、よその街で出会うなど。
(あるとしたらドラマの中くらいだよな)
なぜか湧いてくる不安を、鼻で笑う。
小さなキッチンでごそごそしていた千景が、卵焼きと味噌汁の匂いがするお盆を運んできた。
「その写真、気になりますか?」
「うん。ちょっと千景さんに似てるかな」 千景につく小さな嘘の尖先が、峻の胸をちくりと突き刺す。
「朝食作ってくれたんだ。美味しそう」
「朝は簡単に済ませてるんですけど、これで足ります?」
「じゅうぶんだよ。ありがとう」
まだほのかに湯気が立ち上る、小さな俵型のお握りに、顔がほころんだ。
以前、大学と同じ路線バスを使う女子校の生徒たちが 「男は胃袋で掴め」 などと話し合っているのを聞いて腹の中で失笑したことがあったが、なるほど、千景が作ってくれたものはいつも、全てが消し飛ぶほど、嬉しい。
折り畳み式の簡易テーブルを挟んで、「いただきます」 と手を合わせる。
目が合う。
少し照れたような、彼女の顔。
この幸せに比べれば、と、峻は思った。
ありえないことがもし万が一あったとしても、それが何だというのだろう……と、思いたいのだが。
「写真とっていい?」
「どうぞ」
スマートフォンのレンズを向けると 「え、私ですか?」 と慌てたような声がし、画面の中の千景の顔が一気に緊張する。
シャッターボタンを連続で、押す。
「さっきの顔も、して。いただきます、の」
「そんなの無理です」
少し怒った顔を、3枚、撮る。
「いただきます、して」
「もう、早く食べてくださいよ」
また、3枚。
「どれだけ撮るんですか」
ふっと崩れた表情をすかさず、撮る。
お握りを手に持ち、千景の口に入れる。少しかさついた唇と前歯が指に、触れる。
うっかり食べてしまって、恥ずかしそうにもぐもぐと口を動かす顔をアップで写す。
「早く食べてくれないと、下げちゃいますよ」
言われて峻はようやく、スマートフォンをポケットにしまった。
「ごめん、千景さんがかわいいから、つい」
「ほめたって何も出ませんよ」
「ほんとうだよ」
「もう」
横を向いたところを撮ろうと、またポケットに伸ばした手を 「いいかげんにして下さい」 と抑えられた。
「ごめん」
そのまま腕を引き寄せて、キスをする。
今朝、写真に気づくまでは、こんな気持ちではなかったのに。
―――『星の銀貨』で、それぞれが抱える弱さゆえに、奪っていった者たちは、きっと、感謝し、祈ったに違いない。
与えてくれた者が、誰よりも、幸福になるように、と。
その祈りが天に届いたのだとすれば、あの話はやはり、美しい。―――
そう、感じていたのだ。
千景は、峻が心の外側に築いていた壁を、崩してくれた。
どこにも行き場の無かった、怒りと悲しみを、取り去ってくれた。
もしかしたら、峻もまた、千景にとっては、さもしく奪う者なのかもしれない。
けれども、と、峻は思った。
―――奪うだけではなく、与える者の幸福を祈り、彼女を守り、報いることのできる者になりたい、と―――
だが、もしかしたら、現実はそれを許さないかもしれない。
もし、母親の車がはねたのが、千景の叔父だったとしたら……
あり得ない、と思いつつも、不安が胸の底を渦巻く。
(……もし、万一、そうだとしたら、僕に残されるのは結局、写真だけだろう)
どくん、と心臓がいやな音を立てた気がした。
『あなたがひとに好かれるはずないでしょう。人殺しの子だもの。可哀想に』
魔女の呪いが、かつてないほどに強く、峻を縛りつける。
もし、20年前、母親の車がはねたのが、千景の叔父だったならば……
今は考えないようにしよう、と峻は思った。
真実があやふやなままの幸せな朝は、もう2度と来ないのかもしれないのだから。
その朝、峻は2度と、千景の叔父だというその男の写真の方へは顔を向けなかった。
★★★★★
午後から友達と待ち合わせしてumieで映画を見る予定だという千景と別れ、大学へ寄って、4時半に帰宅した。
「勉強熱心もいいけど、朝からはないわ。心配したんだから」
機嫌の良くない母親に生返事をしつつ、皿を出して土産を並べる。
大学最寄りの駅前にある、老舗のパン屋で買ったアップルパイだ。
「あら珍しいわね」
「今日は空いてたから」
いつもは小さな店内が近くの女子校の生徒でいっぱいになっているため遠慮してしまうが、学校がまだ始まっていない今日は、入りやすかったのだ。
アップルパイならパン屋でなくても、と全国的に有名な洋菓子チェーンの名を挙げる母親に、ここも美味いだろ、と返して峻は父を呼びに行く。
父は眠っていた。
眉根の間にやや皺の寄った、苦しそうな寝顔は、いつもより老いて見える。
「父さん」 呼ぶと、薄っすらと目が開き、峻を認める。
「ああ」 くぐもった、父親の声。
「帰っていたのか。お母さんが騒いで、朝5時半から起こされたんだ」
「心配する必要、ないのにな」
「それが母親というもんなんだろ。お前もあまり、心配かけるな」
「そういう年齢でもないんだけどな」
小さな苛立ちを感じ、峻は肩をすくめた。
「母親は、子供が何歳になっても心配なものらしいぞ」
父の言葉にますます募った苛立ちを、気づけば峻は、そのまま口にしていた。
「それは親の勝手だろ。いちいち押し付けるなよ」
「とは、言ってもな」 父の声が、なぜだか愉快そうな響きを帯びる。
「一緒に暮らしている以上は、仕方ないじゃないか」
その通りだ、と峻は思った。
一緒に暮らしているから、巻き込まれるのだ。
魔女の呪いを、断ち切りたい。
もうこれ以上、母親から奪われたくない。
あのひとの子供であるというだけで、自由を悪とされ、幸せを罪とされ、息をしている間は苦しまなければならない、とされるのは、もうじゅうぶんだった。
以前に父から言われた時から、ぼんやりと頭の隅にあったことが、急速にはっきりと形をとる。
「だから、家を出ようと思う。援助は要らない」
「わかった」
父が、峻の肩を叩いた。
お茶が冷めるわよ、と母の声がして、父子はゆっくりと、部屋を後にした。
さてー、確認を後回しにしたくて、珍しくせっせとママのお手伝いをする峻くんでしたww
えーと。峻くんの大学は、六甲の辺にある国立大学がモデルなのですが、あまり詳しくは書けません。
なぜなら作者は1回も足を踏み入れたことがないから……! かの大学……憧れておりましたが、入試、難しすぎるよ……orz
ちなみに峻くんの行ってる『臨床心理学研究科』はフィクションです(爆)
というわけで(どういうわけだ)、阪急六甲駅前のパン屋さん。実在します。
ずいぶん行ってませんが、調べたらまだあるもよう。
菓子パンが美味しかったです。クリームパン! あんぱん♪




