星の銀貨(6)
…………なんかもう、ほんとすみません……m(_ _)m
小さなコンロとシンク、その中で1つだけ場所をとっているオーブンレンジ、ぎちぎちに詰め込まれたような、ベッドと机。
いかにも1人暮らしの学生用らしい部屋で、目立つものはこれだけだった。
物珍しげに眺める峻に、コートを脱いでパジャマ姿になった千景が 「狭くてびっくりでしょ?」 と笑う。
「大学卒業して、周りの子はほとんど就職してるのに、また学生するのが申し訳なくて、できるだけ安い部屋を探したんです」
「へえ……偉いね」
手渡されたホットミルクのカップに口を近づけると、かすかにブランデーの甘い香りがした。
「これ、よく眠れるんですよ。ハチミツお好きなだけ、どうぞ」
テキパキと手渡され、峻は思わず苦笑する。
どうやら家に入る前の会話で、大人な案件については、すっかり安心されたらしい。
確かに、まだ早いと思っている。
それに、期待されても緊張するし、警戒されても悲しくなる。
だが、こうも油断されるのも、なんだか残念だった。
「ベッドに座って、壁にもたれるのがラクですよ。椅子でもいいけど」
言われるままにベッドに座って壁にもたれると、千景も横に腰を下ろした。
足を投げ出してホットミルクを飲み、リラックスした表情で窓の外を見上げる。
「オリオン、見えなくなっちゃいましたね」
神戸の街の明るい夜空でもはっきりと見える唯一の星座は、今おそらくアパートの真上あたりなのだろう。
「でも、おおいぬ座のシリウスがまだ、ぎりぎり見えてる……ほら」
峻は窓枠ぎりぎりに輝く白い星を指した。
「よくご存知ですね」
「明石の天文科学館で知って、父と探したからね。オリオン座とこれだけは、絶対に見つけられる」
母親に付き合うように山に登らなくなった父の、次の趣味は天文だったのだ。
―――神戸に引っ越してから、父は休日にさまざまな所へ峻を連れ出してくれた。
中でも良く行ったのが、天文科学館だ。
幼かった峻には、天文科学館よりは動物園や水族園の方が楽しかったが、父に星を教えてもらうのは、また別格だった。
一緒に星座盤を覗き、明るい夜空の中、一等星を探す。
それより暗い星はほとんど見えないが、父も峻もそれについては、言及しない。
得られないものを求めることの虚しさを、2人はよく知るようになっていたのだ―――
窓の外に行き来する車の灯や、夜空を照す街の灯、うっすらとした星を眺めつつ、言葉少なくカップを傾ける。
千景が、空になったカップを2つ、傍らの机に置いた。
「天文科学館は行ったことないです」
「行く? 『お話ボランティア』 こんど、天文科学館でするんだけど」
尋ねると、千景が嬉しそうにうなずいた。
「何読むんですか」
「まだ決まってない……今考えてるのは 『星の銀貨』 だけど、ちょっと難しくて」
簡単に、『星の銀貨』 のストーリーを説明する。
「ヒロインの優しいとことか……千景さんみたいで、惹かれるんだけど、どうにも共感しきれない」
「どうしてですか?」
「なぜ、奪っていくだけの人に、与えることができるんだろう?
見返りを期待しないとすれば、それは……寂しく、つらいだけじゃないのか?」
言っているうちに、峻はまぶたがじわり、と熱くなるのを感じた。
―――事故の後、変わってしまった、峻の母親。
最初は元気づけようと、いろいろなものを捧げた。
贈り物を作り、熱心に手伝いをした。
母親の言うことは何でもきいた。
それでも、母親は元の母親には戻らず、何も与えてくれることなく、ひたすら峻に要求した。
母親のためだけに生きることを。
峻がそうできなくなった時、残った道は、憎み、断罪するしかなかったのだ。―――
なのに、『星の銀貨』のヒロインは。千景は。
「……どうして、憎まず、自分を憐れまず、与え続けることができるんだろう?」
この世に神様などおらず、守られている実感もないのに。
教えてくれ、と峻は泣いた。
千景の前で恥ずかしい、と思っても、涙は止まらず、いつしか、彼女の柔らかな膝に突っ伏すようにして、泣いていた。
「…………」
千景は戸惑いながら、峻の背中を撫でた。
『星の銀貨』のヒロインとは、美化しすぎだ、と思う。
確かに困っている人が目の前にいたら、持てるものを差し出すかもしれない。
けれどそれは、正しい行いをできない自分と向き合うだけの強さを、千景が持っていないからだ。
―――叔父の代わりに生きている、その自分が、正しくなければ、なんのために存在するというのだろう?―――
正しくなくても生きていっていい、未来を夢見て笑って暮らして良いとは、千景には信じられなかった。
膝の上では、峻が、小さな子供のように泣いている。
理由はわからないが、きっと傷ついているのだろう、と千景は思った。
この泣き方は、知っている。
昔、叔父が亡くなった原因が自分だと思い出した後、何度も何度も、ひとりで泣いたから。
そのことがずっと隠されていたから、誰も千景を責めなかったから、千景は、ひとりで泣くしかなかったのだ。
誰も千景を許せる人はいなかったし、千景を慰められる人もいなかった。
(でも今、峻さんには私がいる)
(私がここにいて、よかった)
昔、誰かにそうしてほしいと思ったように、峻を抱きしめて頭に唇を寄せる。
シャンプーの匂いの下から、いつの間にか慣れた男の人の匂いがした。
峻が顔を上げた。
涙で濡れたその頬に、くちづける。
唇が唇を求め、むさぼられ、むさぼる。
峻の唇が首筋をなぞり、さらに胸へと降りるのを、千景は目を閉じて受け入れた。
好きな人が傷つき、救いを求めている時に、何を惜しむ必要が、あるだろうか。
(そうだよね?)
いつも心の奥にいる、千景だけの叔父に尋ねてみる。
しかし、過去に亡くなってしまった人は、常と同じように、遠い微笑みを返すだけだった。
★★★★
峻が甘やかな髪の香りと共に目覚めた時、まず思ったのが 「失敗った」 ということだった。
そのつもりはなかった。
むしろ 『大事にしている』 ことをじゅうぶんにアピールして、信頼してほしかった。
峻でなければダメだ、と信じさせてから、ことに及びたかったのだ。
(送り狼……と思われないためには、どうすればいいんだろう)
昨夜、千景の部屋に上がり込むまでの自分の深層心理が怖くて分析など絶対にできない、と思いながら、腕の中で眠る無垢な女の子の髪の毛を、片手でそっと、梳いてみる。
(とりあえず、わざとじゃない、とか遊びじゃない、とか、これからもよろしく、とか……その辺を……)
ぐるぐると悩むが、千景が目覚めた後、なんと言って良いかが分からない。
そんな時、目が合った。
枕元に置かれた、若い、男の写真。
(……誰だろう?)
覚えていないはずの人間だった。
なのに、強烈な既視感にとらわれる。
僕はこの男を知っている。
遥かな、昔から。
「峻……さ……ん?」
目覚めた千景の呼び声に、峻は振り返り、笑顔を作った。
「この人、誰……? 起きた瞬間に、睨まれた気がしたんだけど」
「ああ」 千景がくすくすと笑う。
「交通事故で、亡くなった叔父です」
この時ほど、カウンセラーになって良かった、と思った時はない。
裡で何を考えていても、外には出せない、職業病。
「でもきっと、私に彼氏ができたって知ったら、喜んでくれると思います」
恥ずかしそうにしつつ、そう言ってくれる恋人の声を、峻はどこか遠くで聞いていた。
ある可能性、ありえないほどのわずかな可能性が、その時、峻の心を捉えていた全てだった。
……さて。
……さて。
迂闊すぎる子たちのことはさておき。
(さておき!)
天文科学館は実は神戸市ではありません。
お隣の明石市です(え?)
というわけで、次回くらいで明石のお話をちょっとします。
神戸市にも、青少年科学館にプラネタリウムがありますが、明石の方が有名。
何しろ標準時子午線の下にある天文台!
何しろ日本最古!(だったはず)
大きな蟻のような形のプラネタリウム投影機は、それだけでも一見の価値がありますよ。
ちなみに、神戸のバンドー青少年科学館のプラネタリウムを調べ直したら 『星空デートにおすすめ』 とありました!
そうなのか!
なのでリア充の方々はぜひ、神戸の方へどうぞ。笑。