星の銀貨(3)
「お帰りなさい」
母親の声で機嫌がわかる。その機嫌で、峻の振る舞い方が変わる。
それが家での日常だ。
「湊川神社、どうだった?」
「すごい人だった。何でも、並んで待つ時間の方が長い」
屋台で買った焼きそばが入ったビニール袋を渡しながら、峻は愚痴めいたことを言ってやった。
「だから、やめておきなさいって言ったでしょ」
少し、機嫌が回復したようだ。
棟方志功や福田眉仙らが描いた拝殿の天井画の、圧倒的な美しさについて語りたかったが、本当に話したいことを母親に話せたことなど、記憶にある限り1度もない。
必ず、否定されることがわかっているからだ。
家族が外で楽しんでくることに対して不安を感じてしまうことは、母親自身でもどうしようもないのだ、と学んでからは、より意識して気をつけるようになった。
「疲れたでしょう。お茶にしましょ」
焼きそばは後で夕食にするわ、と母親は、食卓に白い菓子皿を並べる。
皿に焼き付けられている 『おかあさんだいすき』 『おかあさんいつもありがとう』 などの幼い文字から目をそらし、峻はマグカップを3つ、取り出してカウンターに置いた。
「父さん呼んでくる」
常に食卓に家族全員が揃うのは、習慣というより、母親と2人で向き合うことに峻が耐えられないからだ。
父の部屋へ行く峻の背中に、母親の、感情を隠した言葉が突き刺さった。
「あなたの部屋にあったクッキー、もうダメになると思って、勝手に出したわよ」
しまった。
まず考えたのは、それだった。
なぜ、母親がそれに目をつけることを考えなかったのだろう。
なぜ、無邪気に飾ったりなど、してしまったのだろう。
振り返れば、母親が、腕を組んで考え込む猫の頭を割って、皿に載せているところだった。
心の奥底にいつも抑え込んでいる何かが爆発する感覚を、口の内側を噛み締めて、さらに抑え込む。
「あら、ダメだった?」 さりげなく、探ってくる声。
「大事なものだったのかしら」
(大事に決まっているだろ!)
叫び、暴れ狂いたいのに、母親を振り返った峻の表情はあくまで 『普通』 だった。
「いや、珍しいから飾っていただけ。そろそろ出すつもりだったんだ」
「そう。なら、良かったわ」
気遣わしげに微笑んでみせるこの女の顔に、皿を掴んで投げつけたい。
全て壊してやれば、どれほど、すっきりするだろう。
湧きあがる衝動を拳で握り潰し、峻は再度、「父さんを呼んでくるよ」 と、その場を離れた。
★★★★
「どうしよう……」
学生用マンションの狭い部屋。
造りつけのベッドに寝転がり、千景はスマートフォンを手に、ごくり、と唾を飲み込んだ。
帰宅して、軽く部屋を掃除し、明日の朝食の準備と学校の準備を終わらせた。
お風呂も入ってしまった。
夕食は、初詣の屋台で峻が、焼きそばだのイカ焼きだのタコ焼きだの、次々と買ってしまうのでお腹がいっぱいになってしまって、食べる気がしない。
で、これから、しなければならないことといえば。
「あぁぁぁぁ……!」 ベッドの上でゴロゴロとのたうち回る。
「なんで 『詳細は後程ラインします』 とか言っちゃったんだろ……」
その場でコソッとひとこと、言えば良かったのではないだろうか。
私も好きです。
と。
その時には、そんな勇気はとても出なかったくせに、後になるとそう思ってしまう。
「峻さんはちゃんと言ってくれたのになぁ……」
情けない、と枕に顔を埋める。
はっきりと言えないのは、これまでに千景が理想としていた自分の姿と、今の想いがあまりに違いすぎるからだ。
千景にとってのお手本は、祖母や母が度々語り、千景もおぼろげに覚えている、優しい叔父だ。時々夢で見る、誠実で正しい国王だ。
叔父のように立派な人にはなれなくても、できる限り見習おう。
命を助けられたことが、無駄にならないように。
もし将来、恋をすることがあっても同じように、いちばん、誠実に、優しくできる人、千景が正しい女の子でいられる人を好きになりたかった。
けれども実際には。
何を話しても、絶対に嫌われたりはしないだろう、という確信に、ほっとした。
受け入れられ、甘やかされて、安心した。
いつもは大人っぽいのに、時々見せる、不安そうな表情を、ほかの誰にも見せてほしくないと思った。
好きと言い切るには不確かで、あやふやで、欲が入りすぎていて。
中学生の時以来、久々の恋は、千景が決して叔父のように立派には生きられないと見せつけられるような、狡くて汚いものであるらしい。
けれどももう、手放せなくなってきている。
「現実ってなんでいつも、こんなに難しいのか……」
ぶつぶつとぼやきつつ、千景は枕から顔を上げ、スマートフォンの画面をにらみつけた。
手放せないのなら、約束は守らなければ。きちんと、伝えなければならない。
けれども。
『私も好きです』
単純に文字に起こすと、シンプル過ぎて気持ちが伝わらない気がする。
『私も好きです♡』
『♡』 をつけてみたら、からかっているみたいになってしまった。
(うさぎがハートを抱えてぴょんぴょん跳び跳ねる)
(猫が投げキッスを飛ばす)
(すき、という文字が大小のハートに取り囲まれている)
スタンプだとどれを選んでも、なんだか手抜きに見えてしまいそうだ。
「……どーしよー……」
枕元の写真の叔父に、訴えかけた。
昔はとても大人に見えた叔父は、いつの間にか千景よりも年下になってしまって、困ったように微笑んでいる。
どんな時でも心のどこかにいる。ごく近くに感じることもある。
けれど、直接言葉を交わすことはできない。
「……私なんかの代わりに、死ぬことなかったのに……」
思わず漏れた呟きに、ぎょっとする。
それは、これまでずっと、千景が封印してきたものだったからだ。
私なんか、と、考えてしまっては、叔父にも周囲の人たちにも、申し訳ない。
私なんか、と思うのであれば、その分、もっと、皆の役に立てるような人にならなければ。
そう考えては気持ちを閉じ込めてきた箱の、蓋が、自分の発したひとことで音を立てて開いてしまったのを、千景は感じた。
目から自然に、涙が溢れてくる。
「死んでほしく、なかったよ」
気づけば、泣きながら、叔父に訴えかけていた。
「どうして死んじゃったの、どうして」
昔の話だよ、と、労るような温かな声が聞こえた気がした。
違う違う違う、と、かぶりを振る。
今、胸の奥にするどく蘇る痛みが、過去のものなんかであるはずが、なかった。
「ずっと、ずっと、寂しかったよ。ずっと、ずっと、悲しかったよ」
これまで、自分に言う資格はない、と思ってきた言葉が、口をついて出てくる。
千景はひとり、わんわん泣いた。
泣きながら、ああそうか、と思った。
パジャマの上からコートを羽織り、マフラーを巻く。バッグを掴んで、スマートフォンを手に持つ。
(もしも、ラインで伝えても、次に会えなくなってしまったら)
きっと、直接会って言わなかったことを、ずっと後悔するだろう。
後でいくら泣いて、いくら話しかけても、死んだ人に届くかは、定かではないのだから。
千景は学生マンションの暗い廊下を歩きながら、迷いに迷っていたラインの文面を打ち直し、送信した。
今回はストーリーに関係なく、三宮の北野についてお話してみましょう。
異人館街と呼ばれている観光地で、多分、明治期くらいに日本に招かれた外国人教授やら何やらが暮らしてきたところなのでしょう。
『ヨーロッパっぽい』街並みに、古い立派な洋館が立ち並んでいます。
『鱗の家』や『風見鶏の館』 などが有名ではないでしょうか。
大体の洋館は中を閲覧できたり、美術館やレストランなどになっていたりします。結婚式場もあったりします。
全部入っているとけっこうな時間がかかるので、2、3目星をしぼっておいて、後は街歩きを楽しむのがオススメですかね。
けっこう坂の上なので、いちばん高いところまで行くと眺めもなかなかよろしいのです。
ちなみに作者は昔ポスティングのバイトでここを割り当てられたことがあり、 『え? 普通の住民なんているの?』 と半信半疑で回ってみたら、いないことはなかった。
けど……大体のマンションは『チラシ投函お断り』みたいな張り紙があって、ないところはゴミ箱にチラシが溢れていたなぁ……
街歩き兼ねてのお仕事、楽しいっちゃ楽しかったものの、成果はイマイチという。
三宮から異人館街に上がる坂を北野坂といい、ここやその両隣の筋のあたりは、なかなか美味しいレストランがいろいろと並んでいます。
フレンチ、スイス料理、ハンガリー(?)のジビエ、インドカレーなど食べに行った記憶が。
国際色豊かですね。