9話
その夜は、上手に眠れなかった。
◆
宿屋経営を目指して購入したモリーンの家は五階建ての石造りの建物で、平民の所有する物件としては『翡翠のゆりかご亭』に継ぐ高層建築だ。
高級な、しかし華美すぎない調度品の並んだその建物は、街の中央よりやや西側に存在する。
王都にとって貴重な品を運んでくる西方よりの商人を受け入れる想定であり、市の多く立つシーズンで『翡翠のゆりかご亭』に入りきれなかったお客様を紹介してもらえるという手はずになっていた。
開業届さえ出せばすぐにでも経営を開始できるこの宿屋は、しかし、屋号も定まっておらず、開業予定日さえ決まっていない。
宿屋のコンシェルジュとして教育された『弟妹』たちは掃除を欠かさないし、いつだってお客様への応対ができるはずだ。
けれどその技能は発揮されることもなく、彼らは技術を腐らせているのが現状だった。
「まあ、姉ちゃんが望むようにしなよ。俺たちは俺たちでやっていけるし、『将来的にはうちで働かないか』って、ブリジットさんからもお誘いをもらってるんだから」
『弟妹』たちはそう言ってくれる。
けれどモリーンの気持ちは重い。
正直に言えば、朝早くから冒険者ギルドの端っこでぼんやり『後輩探し』をすることが多いのも、いつでも宿屋の従業員となれる技能を腐らせながら、それでも自分を責めないでいてくれる『弟妹』たちの優しさが、痛いからだ。
『そんなに気にするなら、さっさと屋号を決めて経営を始めてしまえばいい』。
そう言われたことが何度かある。モリーン自身もそう思う。
けれど、モリーンが彼女たちの意見をその通りだと認めつつも実行できないのは、『新しいこと』に対する恐怖があるからだ。
ようするに、自分に自信がない。
信じたものしか信じられないモリーンにとってもっとも難しいのは、『自分を信じる』ということなのだった。
◆
さすがに責任感を覚えたので、アレクに『修行を視察してもいいか』と、おうかがいをたてることにした。
ミシェラの仮想敵が自分である以上、自分が彼女の特訓を見るわけにはいかない。
その道理はわかる。けれど重要なのは生命の危機で――いや、生命はたぶん危機を気にするなら手遅れなのだけれど、精神のほうの生命というのか、心の耐久に対する危機について、ストッパーをやらなければならない気がするのだ。
モリーンはアレクに対する手紙をしたためて、『弟妹』の一人に持たせた。
いきなりおしかけてもよかったのだが、ミシェラが『絶対に特訓シーンを見せたくない』とか思っていたら困るので、いちおう、先触れを出したわけである。
モリーンの住居から『銀の狐亭』までの最短ルートは、一番街の外周をなぞるように進んで街の東側に行き、そこから路地裏に入る道だ。
道さえ知っていればそう時間がかかるものではない。
モリーンがそわそわしながら自室で待っていると、コンコンとノックの音がした。
手ずからドアを開けて迎え入れれば、使いに出した獣人の『妹』がそこにて、まだ幼い彼女は年齢に見合わないキリリとした表情で、アレクからの手紙を持ってきてくれた。
その頭をなでてねぎらってから、封筒に詰め込まれただけの手紙を抜き取る。
余談ではあるが、少し前までは『羊皮紙に封蝋』というのが『手紙』の普通のスタイルだった。
それは羊皮紙自体の値段の高さや、封蝋作業の地味に手間のかかるあたりから、こんな気軽に平民がやりとりできるものではなかった。
しかしここ数年でいきなりどこからか出回り始めた薄く白い『紙』の存在が、『手紙』の常識を変えた。
羊皮紙に比べてだいぶ安価であることや、同じく『紙』で作られた封筒におさめて糊付けすれば中身が読まれることもないというので、今や『手紙』としては主流となっている。
もっとも、秘匿性の高い手紙や貴族同士のやりとりなどでは未だ『羊皮紙封蝋スタイル』が主流なので、棲み分けができている、という感じだろうか。
そういえば『封筒』形式の手紙を最初に見たのは、『銀の狐亭』だった気がする。
『すぐにやらなければいけないこと』がなくなって世に目が向くようになってから、ますますアレクという存在がおそろしく、謎めいて見えるようになってしまった。
本人はまったく隠していないが普通に『嘘だ』とスルーされている数々の自称(異世界転生者である、とか)は、一歩引いた位置から見ると、ずいぶん真実味のある情報に思える。
ただ、アレクはやることが革新的すぎるのと、説明を簡潔にしすぎるクセがあるのと、『お前は理解しなくてもいい。成果は出す』という変な職人気質が合わさって、とても陣頭に立って大々的に変革を推し進める感じではなく、その活躍の多くが『暗躍』という感じになってしまうのが、なんともアレクという感じだった。
開けた封筒の中には二通の手紙が入っていて、片方はアレクからのものだった。
アレクの手紙の内容的は『自分は仮想敵であるモリーンにミシェラの修行を見せてしまうのには反対だけれど、ミシェラが決めることだと思うから、そちらの意見に合わせる』というものだ。
そしてもう一通の……やけに分厚い……手紙は、ミシェラからの返答なのだろう。
というか時間的にこんな分厚い手紙を書く余裕はあったのだろうか?
そもそも、最近は王都にぽつぽつできはじめている『下町学校』――貴族が貴族用の教育を受ける施設とは目的の違う教育機関だ――のおかげで、王都の識字率はかなりのものだが、ミシェラの故郷は字を教えてもらえるのだろうか?
疑問を覚えながら、モリーンはミシェラからの手紙を見る。
そこには文字を知らない彼女が精一杯書いた、『短い期間でこれだけは覚えました』と思われる一つのセンテンスが書かれていた。
『モリーン様は女神です』
便箋四枚ほどにわたって、その言葉だけがびっしり書かれている。
モリーンは便箋を折り直して封筒にしまった。
そうしてふう、とため息をついて、目を閉じ、決意する。
「わたくしが助けなければ」
昨日の今日でさっそくミシェラは壊れてしまったようだ。
今、彼女を救えるのは自分しかいない――モリーンは久方ぶりに、強い使命感に心がたぎるのを感じた。