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3話

 その宿屋がある場所は、一言で言えば『イヤな空気が漂っている』場所だった。


 暗くジメジメした裏通りにあるさびれた雰囲気の宿屋で、もちろん門戸は開いているし、雰囲気はさびれていても、外装も、そして店内も清掃がいきとどいていて綺麗なのだけれど、どうにも入りがたさがある。


『この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ』


 そんなメッセージが聞こえてきそうな、それはそれは化け物の口も同然の、ながめるだけでイヤな動悸が始まる宿屋なのであった。


「どうしたんですかモリーン様?」


 少女はモリーンを見上げて首をかしげる。


 どうやら、あの宿屋に対する危機感は、宿屋経験者だけのものらしい。


 どんなダンジョンに入ろうがちっとも危機感を覚えないモリーンは、この宿屋に来た時だけすぐにでも逃げ出したくなるような危機感を覚えるのだった。

 中には知り合いもいるだろうし、入ってジンジャーレモンの一杯も飲めばこの危機感は霧散するのだけれど、『中に入る』というのがなかなか大変で、結構な心の準備がいる。


「……あなたは知らなくてもいいのですけれど、わたくしは、あの宿屋から濃い『死の気配』を感じるのです。声をあげることさえできずに死んでいった無数の自分と対面するような、そんな恐怖感を覚えるのです」

「超かっこいい」


 最近の子の感覚が全然わからない。


 モリーンは目を輝かせる少女――そういえば名前を聞いていない。こういう不手際のたび『わたくしなんか……』と沈んでしまう――を放置して、深呼吸をする。


 五回も吸って吐けば、ようやく一歩、宿屋に接近できた。


 宿屋まではあと四歩ぐらいなので、二十回も深呼吸を繰り返せば入れるだろう。


「あの、モリーン様、いったいなにを?」

「目の前にちらつく『死』を乗り越えているところです」

「クソかっこいい」


 なにか婉曲的な言い回しに受け取られている気がするが、モリーン的には直接的に自分の状況をあらわしたつもりだった。

 マジで自分が死んだ思い出が一歩ごとによみがえるのだ。

 特に最近はそうだ。冒険者として安定し、『弟妹』を養えるだけの稼ぎができるようになって、うだうだしてぼんやり生きるようになってからというもの、とみに過去がちらつき、自分をさいなむ。


 友人の一人である赤毛の貴族などはどんなに離れていてもすぐに『宿屋感覚』を思い出すようだが、モリーンはだめだった。

 一週間も常識的な世界に触れていると、宿屋でおこなったことがおそろしく、まぎれもなくそこでの修行は実体験なのだけれど、自分が経験したとは信じられない異常な事態に思えてたまらなくなる。


 そう、すべては、『修行』のせい。

 あれは経験しないでいられるならば、経験しないほうがいいものだと、モリーンは思う。



「……あっ、そうでした、あなた……」

「……名乗ってなかった!? あわわわ……し、失礼しました! わたし、ミシェラっていいます!」

「……ミシェラさん、宿屋に入ったあなたは、きっと、店主に『修行なさいますか?』とたずねられると思います。ですが……うなずいてはなりませんよ」

「なぜですか?」

「死ぬからです」

「……」


 ミシェラが息をのんだのがわかった。


 そもそも宿屋の修行ってなんだよ。宿屋の店主の修行に応じただけで死ぬなんて――そう笑い飛ばす者もいた。

 けれど、ミシェラには、モリーンが冗談でもなんでもなく、本気で言っていることが理解できたのだろう。


 モリーンは後悔していた。

 なぜ、『ちょっと話をするつもり』でこの宿屋に行こうなどと言ってしまったのか?


 仕方ない事情はあるのだ。

 モリーンは『一人でお店を開拓する』のが苦手だ。

 だから冒険者ギルドで話を続けるのはいたたまれず、家に呼ぶのもなんかなあという状況で、静かに彼女と話せる場所が、『銀の狐亭』しか思いつかなかったのである。


 しかし、こんな、一歩近づくごとに息ができなくなるような症状に悩まされるぐらいならば、無理にでも別な場所を提案すればよかった。

 このあいだ貴族の友人に連れていってもらった食事処など……は、ちょっと値段帯がモリーンの感覚に合わないのでダメだ。モリーンは節約と節制が骨の髄まで染みついている、貧乏な女性なのだった。その感覚は安定した高い収入を得られるようになった今でも変わらない。


 うだうだしながら深呼吸を繰り返すモリーンの背後から、



「あの」



 唐突に、男性の声が聞こえた。


 モリーンは「ひっ」と息を呑んで全身を固めたあと、ゆったりと振り返る。


 見つめた先には、黒髪の男性がいた。


 それは一見して食事処のウェイターか、あるいは商店の下働きかと思うような、特徴のない男性だ。

 服装はシャツとエプロンと長いズボンというものだし、両腕で大きな布袋を抱えた様子などは、買い出しから戻ってきた下っ端従業員と言われれば違和感なく受け入れることができるだろう。


 しかしモリーンは知っている――いや、修行を終え、宿屋を離れて一年以上活動したことで、否応なく、知ってしまっている。


 この存在が、ここまで世間に溶け込めるのは、一つの技術だ。

 異常な練度の技術なのだと――ちょっと世間で有名になって、それから冒険者ギルドにいまいち溶け込めずにいるモリーンは、嫌でもわかってしまった。


 かつて、この存在の異常さは、『命』に対する価値観の違いと、剣すら通さない丈夫さや、無限とも思える魔力や、視界から一瞬で消え失せるほどの速度だけだと思っていた。


 けれど今ならば、彼が目立たずにいることそのものが――それを可能にするコネクションや立ち振る舞いなどが――なにより異常なのだと、理解してしまえた。


「モリーンさん、お久しぶりです。俺に用事ですか? どうぞ、お入りください。お連れ様もどうぞ」


 目を細め、笑顔で宿屋の入口を示す彼の雰囲気は、『宿屋に入ると死にます(意訳)』と言われたミシェラをホッとさせるものだったらしい。

 こんなまともな従業員がいるならば、モリーンの言ったことは大げさだったのだろう――ミシェラがそう考えたことが、彼女のこわばりがとれたことからわかった。


 モリーンは油断するなと言いたかったけれど、のどがはりついて、言えない。


 ……おかしい。

 こんなにもおそれていなかったはずだ。どうして今の自分は、こんなにも彼をこわがってしまっているのだろう?

 ちょっとイカれているが、間違いなく彼は人類の味方のはずだし、自分を助けてくれた人だ。だというのに、なぜ……


 モリーンの胸中に去来した疑問は簡単には解けそうもない。


 恐怖の理由が解き明かせない。恐怖が、体を固めてしまう。


 だから油断しきったミシェラに対し、彼は誰に止められることもなく、いつもそうするように、名乗った。


「俺は『銀の狐亭』店主のアレクサンダーと申します。アレクでも、アレックスでも、好きなように呼んでください」

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