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フヨフヨ  作者: 猫田一誠
08 死都
90/236

076 占領地

公爵領、南部開拓地。


ここは以前、両面宿儺を名乗る化物集団によって襲撃を受け、それ以来無人となっていた。



現在はそこを海都を素通りした連邦海軍と、陸路からそれに合流した連邦陸軍が制圧、支配下に置いている。



そのはずだった。


停戦交渉の前日、今日の時点で、南部開拓地は以前と同様に無人となっていた。


ここにいたはずの連邦軍と連邦民は何処に消えたのか。



地面には彼らの行方を示す痕跡が残されていた。


騎馬による蹄の痕、馬車の車輪による轍。それぞれが大量に一定の方角へと続いている。

連邦軍はとくに隠蔽などは行っていないようだ。



それは西に向けて伸びている。


連邦陸軍を統率するベアトリス陸将の提案による大移動だった。



「公爵領の次期領主であるシャルロッテは勇者セロの恋人であるとの情報があります。」


公爵領内の南部開拓地の支配は彼らとの関係を良好に保つというラスタバン議長の考えにそぐわないとして大移動を提案したのだ。



連邦軍はその支配地域を王都の南に広がる大平原に移していた。


大平原南東部の両面宿儺の襲撃によって壊滅した地域。

そしてそこから南方一帯に広がる古戦場跡。その中央部にあるドランメル要塞跡地。

さらに南の海岸付近にまでその支配領域は広がっていた。

これは、大平原の南側、ほぼ全域となる。かなり広範囲だ。


南の海岸には海軍の拠点となる港も、建設の準備が始まっている様だ。



「とりあえずは船団の接舷が可能になれば海都を経由せずとも本国への海上ルートが確保できる!急ぐのだ!」


コンラッド海将はここに桟橋を設置して、海都に待機している船団もこちらに呼び寄せる考えだった。


連邦軍の今後の補給や増援、そして一般民の追加。

それらは、今後は海上ルートでの搬送となるだろう。


勇者との敵対が禁じられている以上、いつまでも海都を通行するのは危険だと判断したのだ。


海兵達もコンラッド海将に従い、後に港となる接舷設備として、簡易桟橋の設置の為に汗を流していた。




コンラッド海将と一緒にいたヨーゼフ首長は、ドランメル要塞跡地の内部にある一室で一人の人物と向き合っていた。


その相手は、陸路を通ってきた陸軍を指揮する女傑、ベアトリス陸将だ。


コンラッド海将は毛皮を大量に使用した服を着用していたが、ベアトリス陸将は鎧姿。しかもその鎧は鮮やかな黄金色に輝いていた。

ベアトリスの金髪と同色の鎧。年齢も若く、現在26歳になるが、夫はいない。



連邦評議会において、絶対の権力を保有するラスタバン議長の信頼も厚い、とある有力議員がベアトリスの父親だ。


戦闘力を持たないベアトリスは、その派手な格好も手伝って陸将就任時には苦労も多かった。

親の七光り、成金陸将、お嬢様の道楽。様々な陰口を叩かれ、陸兵達は誰もベアトリスの命令に従わない。


実際にはベアトリスは軍略の恩恵を宿す有能な将軍であり、それを認めたラスタバン議長直々に乞われての陸将就任だった。


陸兵達はそんな事情を知らず、ベアトリスがその実力を見せる機会もなかった為、陸軍は統制がとれておらず、酷い状態だった。



そんな時に連邦東部の荒野の果て、東の大渓谷を住処とする蛮族の討伐命令が下る。


ただ、蛮族と呼ばれるリガン族は神出鬼没にして好戦的。しかも地の利は敵にこそある。

陸軍が万全であっても難しい任務になる。誰もが苦戦を予想していたが、ベアトリスはそれを覆した。


「貴方達は私の命令を聞かない。ならばそれでも構わない。貴方達は貴方達の思うやり方で任務を達成して見せなさい。」



ベアトリスは陸軍を放置して手勢だけで大渓谷に突入していく。


馬鹿な金ぴかお嬢様だ、あれはもう生還出来ない。陸軍を指揮する三人の陸長はそう思った。

そしてそれぞれが思う場所に軍を動かした。



結果だけを見れば、リガン族の討伐は、予想よりも遥かに短時間で完了した。

尚且つ犠牲はほとんど出ていない。多少の怪我人が出たくらいだ。


大渓谷に突入して、死んだと思われていたベアトリスは、陸兵達の予想に反して素晴らしい働きを見せた。


少ない手勢で見事にリガン族を攪乱、誘導した。


適度に分散させたリガン族を三人の陸長の元へ。ベアトリスはリガン族の退路を断ち、陸兵達は確実にリガン族の数を減らしていく。



ベアトリス陸将は三人の陸長が動き出す前に大渓谷に飛び込んでいる。

しかし、三人が選択するであろう行動を完全に先読みしており、その様子を視認することがなくとも確実にリガン族を誘導した。



討伐任務を終え、安全な場所まで移動した後、三人の陸長はベアトリスに深く頭を下げる。



「我らの目は節穴でした。これまでの無礼、許してくれなどとはとても言えません。どのような処分も甘んじて受け入れます。」


対してベアトリスはにっこりと微笑み、三人に告げた。


「処分などありません。許しを求めるのであれば、戦えず、軍略しか持たない非力な私にその力を預けてはいただけませんか?」



この時から、連邦陸軍はベアトリスを筆頭とした一軍として完成し、現在に至るという訳だ。


ヨーゼフはその後の陸軍の強さをよく理解している。


ベアトリス陸将に完全に統率された陸兵達は、連邦軍屈指の精鋭達。

そんな者達が、ベアトリスに忠誠を尽くす三人の陸長に率いられ、一糸乱れぬ作戦行動を展開する。

その作戦内容は、軍略の恩恵を宿し、その能力を議長に認められし才女によるもの。


考えれば考える程、ヨーゼフには理解できない。


「ベアトリス陸将。連邦はまだ一度も戦ってはおらん。戦力は十分、そして連邦陸軍は連邦最強の軍勢。」

「どうなされたのですか?ヨーゼフ殿。」


「何故、今この時に停戦交渉を?事前の破壊工作のおかげで連邦軍はここまで無傷だ。これからが侵略の始まりではないのか?」



無傷の戦力を遊ばせるくらいなら、停戦などせずに更なる戦果をもぎ取る努力をすべき。

ヨーゼフはそのように力説するが、ベアトリス陸将はそれを否定した。


「それはやめた方がよろしいかと。」

「何故だ?奪える物を奪わずに見逃していては連邦で吉報を待っている者達に申し訳がたたん。」


「ではヨーゼフ殿、陸軍で何処を奪いますか?」

「何?」


ベアトリス陸将の問いに、ヨーゼフは答えることができないでいる。


「議長はビフレスト商会との敵対を禁じました。その理由からも、彼らと深く関わっている場所は侵略対象外とするべきです。」


本店のある王都。二号店のある海都。それと勇者の恋人が領主となる公爵領。


「つまり、残った大都市はエッフェ・バルテのみということになります。各地方の小都市ならまだまだありますが…。」


リスクに対して得られる成果が割に合わないとベアトリス陸将はヨーゼフを諭す。


「無理に侵略すれば、聖壁騎士団の反撃や勇者による鎮圧等の危険があり、さらにその間はせっかく確保したこの拠点が無防備になります。」

「確かに陸将の意見は正しいのかもしれない。だが…。」


「ヨーゼフ殿。私達は確かに王国の領土の切り取りに成功しておりますが、現状は私達が不利なのだとお考え下さい。」

「は!?我らが不利だと!?なぜそうなる!」


語気を荒げるヨーゼフに、ベアトリス陸将は分かり易く状況を説明する。



まず保有戦力。王都に待機している聖壁騎士団の打倒は容易い。が、ビフレスト商会の戦力はそれを容易にひっくり返す。

さらに、この古戦場の防衛以外の目的で陸軍を動かすことはせっかく切り取った領土が無防備になってしまう危険と隣り合わせ。


「現在の私達の補給ルートはコンラッド海将が準備している古戦場とレイシャダの直通航路のみです。」


つまり、南岸の確保を維持できなければ自分達は補給もなく、敵国内に孤立する。


現在の保有戦力は、侵攻ではなく、確保した領土を守る為に運用するべきだとベアトリス陸将は断言した。


そうなると、連邦海軍は南岸の防衛と補給。連邦陸軍は古戦場の防衛と治安維持、設備の復旧。とても侵攻に回す戦力は捻出できない。



「ビフレスト商会は遠隔地の監視魔術や転移魔術等、保有技能も多岐にわたります。陸軍を派遣した直後に勇者が転移で飛んでくるということも。」


「我々は、優勢に見えて実は追い詰められているということなのか…?」

「そうなります。このドランメル要塞も過去の戦争で破壊されたままの部分がいくつもあり、ボロボロです。」


ベアトリス陸将は要塞の防衛能力の欠落を指摘しながら窓の方へと歩いていく。


「ヨーゼフ殿、外をご覧ください。そして我々がこの土地を確保できなくなれば国に逃げ帰るしかない。それを考えてみて下さい。」」



ヨーゼフは窓辺に立ち、眼下に広がる光景を眺め、連邦軍が確保しているドランメル要塞と古戦場、そしてその周辺地域を思う。




ドランメル要塞は王国建国前にこの辺りを支配していた勢力の城であり、防衛の要でもあった。

しかし、当時のこの辺りは戦火の絶えることのない激戦区だったと言われている。


現在のドランメル要塞は半ば廃墟に近い。要塞としての機能などとても期待できるものではない。


要塞の周囲には、規模は小さく、現在は殆どが廃屋だが当時の街並みが残っている。



そんな古戦場を多くの陸兵が走り回っている。

ベアトリス陸将の指示で、建物や壁の補修や修繕に従事しているのだ。


「古戦場は我々の最終防衛ラインです。しかしその設備は如何ともしがたい。修復には人手も物資もまるで足りない。」


「我々の侵略計画は失敗に終わるというのか…。」



「ヨーゼフ殿、我々に必要なのは防衛と補給の態勢を整える時間です。そして古戦場を守りつつその時間を得る為の停戦交渉です。」



表面上はまだまだ余力があるように見せて、連邦に有利な条件で停戦を実現させる。

当然、その条件には古戦場とその周辺の支配圏の確保維持も含まれる。

王国には、自分達が追い詰められてるんだと認識させ、こちらの状況は誤認させる。


「難しい交渉になりそうですね。」

「待ってくれ、ベアトリス陸将。その交渉、儂の手に余る。」


元々気が短く、単純な思考を示すヨーゼフには向いていない。それはベアトリス陸将にも理解できる。


「大丈夫です。交渉人は別の方が担当されますので、ヨーゼフ殿は交渉の補助をお願いすることになるかと思います。」

「交渉人?何者だ?」


「こちらへ。」



ベアトリス陸将はヨーゼフ首長を別室へと案内する。



その部屋には黒髪の男性が一人、窓から古戦場の光景を眺めていた。


「やあ、ヨーゼフ首長。どうだい?地上の楽園へ辿り着いた感想は。」


そう言って振り返った人物は、ヨーゼフ首長とベアトリス陸将にとっては見慣れた人物。

サミュール連邦評議会において議長を務める、事実上の連邦のトップ。ザミエル・ラスタバン議長本人だった。



「ラスタバン議長!?何故ここに!?」

「最初からいたよ?貴方がコンラッド海将と共に海路からやってきたように、私はベアトリス陸将に守られて陸路を来たということだ。」


「すみません、ヨーゼフ殿。議長より驚かせたいから内緒にしておいてくれと頼まれてしまいまして。」


申し訳なさそうにベアトリス陸将が謝罪する。


「まったく…。議長も人が悪い。でもよかった。議長ならば停戦交渉の成功も間違いない!」


ヨーゼフはすでに交渉の成功を確信しているかのようだ。


「無論、そうするつもりだよ。ありがとう、ヨーゼフ首長。」



そのまま、停戦交渉に関しての打ち合わせに入る。


「交渉に参加するのは私とヨーゼフ首長の二人だけだ。ベアトリス陸将とコンラッド海将には古戦場の防衛や兵の統率をやってもらわねばならん。」

「お任せください。お二人の留守はしっかりと守ってみせます。」



ラスタバン議長がテーブルの席につく。

それを見たヨーゼフ首長もまた、議長と向かい合うような位置に座る。



「さて、ヨーゼフ首長、それでは停戦交渉についての細かい部分や、落としどころについての対策を擦り合わせておこうか。」


ラスタバン議長は停戦交渉で必要になる可能性があるとされる知識をヨーゼフに伝え始めた。





同時に、城塞都市ラムドウル中央、アムドシア要塞の上層執務室においては、帝国民の悲願の一つを達成したことに思いを巡らせる者がいた。



「ラムドウルもかなり様変わりしたものですね。バルディア様。」

「そうですね。予想していたこととはいえ、帝国南端の国境が廃されたことの影響は大きかったということですね。」


バルディアは自らの護衛を務めている雪将軍アイシャの言葉に、感慨深そうに返答する。




白銀帝国、その西側はグランシア山脈が壁となっており、北端は切り立った崖になっている。その先は極寒の海だ。

仮に、この帝国から逃げ出したい、そう思った場合は東側の連邦との国境か、南端の王国への国境の二択となる。



連邦への亡命はさほど難しくはない。

元々、連邦の人間は帝国からの逃亡者か土着の原住民、そのどちらかがルーツになっていると言われている。

そういった背景からか、帝国からの逃亡者には寛容な態度を示すのだ。


ただし、脱出が容易な分、逃げた先もまた楽園ではないのだ。

帝国に比べればまだ暮らしやすい。それだけだ。


帝国程ではないが寒冷な気候。王国民からすればこちらも十分すぎる程に寒いと騒ぐことだろう。


そしてこちらも帝国程ではないが慢性的な食糧不足。連邦の人口は帝国と比較すれば四倍近い。

ただし、人間が多くともその国土はさらに大きい。

連邦の西端の一部では、ある程度品目を限定されてしまうが作物を育てられる土地もある。

連邦南東部にはレイシャダという港町があり、海産物の供給もある。

帝国より気温が低い分、野生動物の数も多い。たしかに食糧不足ではあるのだが、それでも帝国と比べればその自給率は雲泥の差だ。



少し生活が楽になる。代わりに故郷とそれに付随する人間関係を捨てることを選択する。東側への逃亡はこういうことだった。



では南への逃亡はどうなのか。


南端の国境を越えた先にあるグランシエル王国は気候は温暖で、広大な面積の肥沃な土地を持っている。

暮らしやすく、食糧は十分に行き渡っている。



南への逃亡を選択した者はまず、国境に近づくにつれて大幅に気温が上昇することに驚かされる。

白銀帝国で生きてきた人間のほとんどはその温暖な気候に感激し、王国への亡命を実行する。


そしてそのことごとくが国境を守る黒鋼騎士団によって切り捨てられるのだ。

北の蛮族が攻めて来た。そんな言葉と共に。



王国側からすれば、幾度追い返そうと南進を止めない北の蛮族。

遮二無二突撃を繰り返す帝国軍は、まさにそう呼ぶに相応しい者達。


ただしそれは、蛮族狩りと呼ばれた帝国民に対する殺戮行為に関わっていない者の理解であった。



暖かい場所で暮らしたい。餓死する子供を見るのはもう嫌だ。

そんな思いからか、南方遠征の軍には志願者も多く集まる傾向があった。


元々、軍属でない志願兵を多く含んだ南方遠征軍には複雑な戦術を選べない。


結局、兵力や物資に勝り、城壁を利用し、いざとなればアムドシア要塞に籠城することもできる王国側が常に有利に戦闘を進める。

帝国側は兵力に劣り、地の利に劣る。食糧不足もあって短期決戦の突撃戦術しか選べないのだ。


帝国の南方遠征軍は、楽園を前にして多くの命を散らしていた。



そしてそれは帝国兵に限定された話でもない。南を目指すのは何も軍隊ばかりではないのだ。

むしろ一般帝国民の方がその頻度は遥かに高いと言える。


軍勢では戦闘になるが、少数、もしくは個人。しかも一般民であれば、こっそり侵入するなどと言った方法も選べるかもしれない。

要は黒鋼騎士の眼を欺ければいいのだ。そう考える者達は決して少なくなかった。




王国と帝国の国境は、高い壁で仕切られている。国境に壁があるのはここだけだ。


王国建国前の戦乱期において北方へと追放した戦争の敗北者達がいた。

当時の王国民は、彼らの復讐を恐れてそこにだけ壁を建てたのだろうか。


生まれた理由が定かではないこの壁が両国間の国境となる。東はコーンウォールから西はグランシア山脈まで続いている。

壁の高さは約30メートル。厚みもあり、壁の上は監視人が歩くことが出来る。



この壁がそのまま国境監視所となり、その監視は黒鋼騎士団の最重要任務となる。蛮族は何をしでかすか分からないのだ。


広範囲の監視となるので、かなりの人数を動員しての任務となる。

何かを発見すればすぐに報告を伝達し、アムドシア要塞から騎士団が国境へ向けて派遣されるのだ。


壁には二ヶ所だけ大門があり、うち一つはラムドウルの北に位置している。

ここを王国側に抜ければすぐにラムドウルの北門が見えてくる。


ちなみに、もう一つの大門は東のコーンウォール付近にあり、そちらは公爵領が管理している。

ただし、大門の権限は公爵領にあるが、監視は黒鋼騎士団に委任している状態だ。


連邦の陸上戦力は、病魔付与によって監視任務に騎士を派遣できなくなった隙をついて、公爵領側を通過して王国領内に侵入したのだ。

当然、当時の管理者である前大公サーレントは大門を開放し、それは現在もそのままとなっている。



これまでの南を目指した帝国民は、どうしてもこの壁を越えることができなかった。

この壁を何らかの手段を用いてこっそり通過して王国側に抜ける。多くの者が、それは不可能だと断じた。

それでも、諦めなかった者達もまた、数多く存在した。



多くの者が、様々な方法を考え王国侵入を試みた。



東西の壁の端、そこに何らかの隙があると仮定し、調査と実験を繰り返す。


コーンウォールの形状を迷宮の壁のように加工する。

試練場の迷宮は人の手が造り出した物。であれば、とそこに脱出のチャンスを見出した石工職人がいた。


深夜、視界の悪さを利用し、知人に別の場所で陽動として騒ぎを起こさせ、監視人の注意をそちらに向ける。

その隙に壁に長尺の長梯子をかけて登り、高さが足りない分はフック付きロープを投げて補う。そんなアイデアを実行した男もいた。


脱出を諦めたが、それでもせめて暖かい場所で暮らしたい。

そんな願望を実行し、壁の近くに小屋を建ててそこで生活を始めた老人もいた。


軍隊の南方遠征のどさくさに紛れて、黒鋼騎士の死体から装備を剥ぎ取り騎士に成りすます。

そして黒鋼騎士団の一員のふりをして堂々と勝利の凱旋に参加して要塞に帰還。そんな計画を考えた若者もいた。


可能な限り確実な方法を選ぶとして、一度連邦に亡命し、南東のレイシャダの港まで移動する。

そこで貿易商人の見習いにでもなって海都との取引に同行してそこでとんずらする。その案を完璧だと自賛する自信家もいた。



挙げ始めるときりがないが、とにかく大勢の帝国民が楽園を夢見て国境にそれぞれ独自の方法で脱出を試みた。

その結果、多くの者が黒鋼騎士に殺害された。それでも諦めずに国境に訪れる者は後を絶たない。


ごく一部、陽動作戦とシンプルな脱出法の組み合わせを選択した男と、連邦周りで旅をして脱出を試みた自信家。

この二人は無事王国で幸せに暮らしているという噂が流れたが、真偽は定かではない。



バルディアは楽園を夢見て、それを目にすることなくその命を散らせた帝国民のことを想う。


終わってみれば簡単なことだった。


サブナク大司教の病魔によって大多数が動けなくなった黒鋼騎士団は、国境監視所に監視要員を送ることが出来なくなっていた。

バルディア率いる帝国の軍勢は、これまで一度も破ることのできなかった大門を開錠し、素通り。


そしてラムドウルの制圧を完了させた時点でバルディアが最初に行ったことは、大門の大扉を撤去し全ての帝国民に開放すること。

その吉報はすぐに白銀帝国本国へと届けられた。


その結果が眼下に広がる光景だった。



ラムドウルの街中には、所狭しと設置された大量のテントや馬車。

大勢の帝国民が移住のチャンスに飛びつき、こうして無事に新天地に辿り着けたことを喜んでいる。


バルディアは実際に街に出て、移民達のその歓喜の笑顔を眺めていた。



今回の王国侵略計画の為の各種工作、必要となる交渉や段取り、そして計画の実行。

それらがバルディアの行ったことであることは、皇室から国民にも告知されている。


加えて国境の大門を開放したバルディアはもはや英雄扱いだ。



「皇帝陛下のご威光があればこそです。私はただそれを実行しただけに過ぎません。」


こんなセリフも完全に無意味だった。


「そんな謙遜しなくてもいいですよ、バルディア様。帝国の民は皆、陛下ではなく貴方がしてくれたことに感謝しているんだ。」



これまで苦しむ国民を放置してきたガルシア皇帝からはバルディアの想像以上に民心が離れてしまっていた。

しかしそれはバルディアにとってはどうでもいい事だ。


(ガルシアはそう遠くないうちに消える。そして他の皇族も。生存を許される皇族は一人だけ。)



現在の皇室、皇族に名を連ねる者達は何も成さず、ただ民の血肉を喰らうだけの存在。

一名の例外を除いて、ただの害悪でしかない。これはバルディアの正直な気持ちだった。


その害悪に対処するのは民の為か、そう問われれば、そんな気持ちは全くないと答えるだろう。


バルディアの記憶する過去。そこには皇族という愚物共のくだらない欲望を満たすためにその命を散らした一人の少女がいた。

その魂の安寧の為だけに、バルディアは皇族という一族の抹消を実行するだろう。


それは少し未来の出来事となる予定だ。そしてこの予定は確実に実現させる。

バルディアは皇室のことを考える度にこのことを脳裏に浮かべ、その決意を新たにしていた。



「おじさん、その火酒、フリージアっていうのかい?ここの特産品なんだろ?」


移民たちの楽しそうな声がバルディアの意識を現実へと引き戻してくれた。



「兄さん、白銀帝国ってのはものすごい寒い場所にあるんだろう?火酒なんざぁ慣れたもんじゃねえのかい?」

「帝国で酒を嗜むことが出来るのは貴族様だけさ。俺みたいな平民は毎日の食事のことでいっぱいいっぱいなんだ。」


帝国の侵略によって制圧されたラムドウルの住民は帝国民を恐れ、家に閉じこもっていた筈だったが、中には普通に会話している者もいる。


これなら時間をかければいずれお互いに歩み寄り、良き隣人となれるだろう。

バルディアは安心し、肩の力を抜いた。



帝国民の苦しみは、王国民の祖先が帝国民の祖先を北に追いやったことに端を発している。

だがそれはもはや過去の事。今現在それに対し責を負う者は、両国の為政者達であるとバルディアは考える。


苦しむ国民を放置したガルシア皇帝。そして助けを求める帝国民を蛮族として殺害してきた騎士団の咎は実行した者と、それを黙認した王国上層部だ。



だからこそ、大門解放時は移民達に対して告知を行った。



【これまでの帝国民の苦しみと王国民とのすれ違いは為政者がその責を負うべきものです。決して王国の民を傷つけぬようお願いします。】


新たな英雄となったバルディアの告知を蔑ろにするような者はいなかった。



「心配のしすぎだったかもしれません。」


バルディアは呟いて、大門に設置した告知を処分するべく街を後にする。

皇室批判や陛下への反逆などと曲解されて自分を糾弾するための材料にされてもつまらない。


今のバルディアは多大なる功績をあげた帝国の英雄だ。出る杭を叩きたい人間は少なくないだろう。



告知を処分したバルディアはラムドウルへと振り返る。


街中のテントや馬車はごく一部だ。ラムドウル外壁周辺には広範囲にわたって多くのテントで埋め尽くされている。



「やはりこの王国北部を楽園への玄関口として確実に手中に収めるには時間が必要です。一度停戦せねばなりませんか。」




バルディアはアムドシア要塞の執務室に戻り、主要メンバーを集合させていた。


バルディア、白銀帝国の三将軍、エイブラハム、ジェリド、アイシャ。

そしてもう一人。いつの間にか執務室の隅に立っていた、フード付きの黒いロングコートに全身をすっぽりと覆った人物だ。


フードの奥にはただの闇。その手には黒い皮手袋。とにかく身体の全てを黒い衣服や装飾で隠し、一切の露出がない。


「外戦顧問殿、こちらは?初めて目にする方のようですが…、あぁ、すみません、答えたくなければそれでも構いませんので。失礼しました。」


エイブラハムはバルディアが口外できないことを尋ねてしまったのかと思い、謝罪する。


「気にしておりませんから、大丈夫ですよ。問題のない範囲での回答だけしておきますね。」



この黒いロングコートの人物は、バルディアの本来の護衛であるとのことだ。

各地に移動して、交渉やら工作やらを行うのに護衛は必要である。その役目を本来こなしていたのがこの人物らしい。


「これまではアイシャ殿が付いてくれていましたから、彼には別の要件を頼んでおりました。」


その黒い護衛を戻したということは、アイシャを護衛から解除するということではないか。


「そんなバルディア殿。私が何か…?」


そのように考えたアイシャは、自分が何か失敗をしたのかとバルディアに問いかける。


「いえ、違います、アイシャ殿。貴方の仕事に私は満足しています。ですがこれからはさらに多くの仕事をお願いするつもりなのです。」


そしてその仕事は護衛である黒い人物には依頼できない。そこでアイシャにそちらに回ってもらうということだ。


「すでに察しておられるかとも思いますが、私の本来の護衛は、戦闘に関しては素晴らしい能力を持つのですがそれ以外となると…。」



三人共、バルディアの言わんとするところを分かってくれたようだ。


「明日の停戦交渉は、三人で参加します。メンバーは私とこの黒い護衛、バール。それと私の助手として一人連れて行きます。」

「助手で一人?その方は…?」


アイシャはその助手が自分の知らない人物であるのなら、識別の為に一度会っておきたいとバルディアに伝える。


「そうですね。簡単に紹介しておきましょう。リンリン、皆にご挨拶を。」



ポンッ!



軽い破裂音とスモークと共に、執務室の中央、天井付近に子供の胴回りくらいの大きさのくす玉が現れた。


それは浮かんだままで、落下する様子はない。

そしてその位置でブルブルと震え始めたと思ったら、小さく破裂音。


同時にくす玉が割れ、その中から大量のハンカチ。大きさも生地も色も様々だ。

大量のハンカチは執務室中央に配置された応接用のテーブルの上に山積みになっている。


そして山積みのハンカチの中から手が飛び出した。そのまま飛び上がり、ハンカチの中から全身を晒す。



「ふあ~ふぁ~ふぁ~!!」


テーブルの上に着地したのは少女だった。年齢は12~13くらいに見える。子供だ。



「私はさすらいの旅芸人!ワンダー・リンリンだよっ!よろしくねっ!将軍様達!」



挨拶した自称旅芸人の少女は、衣服の色、装飾、帽子、メイク。とにかく全てが派手だった。


将軍達は開口したまま反応を返せないでいる。


「すみません、皆様。彼女、リンリンはその時その時に扮する役どころに入り込んでしまって人格が変貌してしまうというクセがあるのです。」


バルディアはワンダー・リンリンの奇行をフォローする。


「あっ、ああ!すまない、どう反応していいかわからず思考を停止させてしまっていたようだ。」

「芸人の変装をした子供…、にしか見えないが、バルディア殿の部下であればそうではないのだろうな。」

「よ、よろしくね、リンリン。」


そしてここでようやく将軍達が反応を見せた。



「リンリンはこのような少女ですが、私の部下の中では最も優れた能力を有しています。」



「「「!?」」」


またもや将軍達は驚いておかしな表情になっている。



「そうですね、現時点で私と同等の能力を持つとお考え下さい。私に何かあれば、その後継者となるのは間違いなく彼女です。」


「えっへん!!ワンダー・リンリンは優秀なのだっ!」



「信じられん…。」

「見かけや言動では計れないということか。」

「やっぱりただの子供にしか見えない…。」



「それでいいのさっ!今の私は旅芸人の少女!ワンダー・リンリンなんだからねっ!」



無事紹介を済ませたということにして、ワンダー・リンリンはてくてくと黒の護衛、バールの元へ。

もぞもぞとそのロングコートの中に下から潜り込む。


「ワン!ツー!スリー!!」



ぽむっという音がして、護衛の黒いロングコートの、ワンダー・リンリンが潜り込んだ辺りが少し膨らむ。

それと同時に、コートの中にあった少女の気配は完全に消え失せる。

実際に、コートの中にその姿もないのだろうと将軍達も考えていた。



「それでは、将軍様方の今後について、いくつかお願いがあります。」


それは次の命令であるということになる。三人は気持ちを切り替えた。



「これから、王国北部一帯が完全にこちらのものとなるには少々時間がかかります。」


その為の時間稼ぎとして、停戦を考えている。停戦にどのような条件が付随するかは交渉の結果次第となる。


「エイブラハム将軍は北部一帯、ラムドウル、それと国境の防衛です。常に確保しておかねばなりませんから。」



「あの、バルディア様、こちらの戦力は無傷で健在なんです。防衛はむしろ失敗することがありえないというか…。」

「アイシャ殿。それは油断が過ぎますよ?」


バルディアはアイシャの考えを油断と評した。



「現在の私達の北部占領は、薄氷の上にあるということを忘れてはなりません。ビフレスト商会が動けば簡単に帝国戦力は敗走し、全てを失います。」


昨晩、ロマリアでの騒乱が終結し、今日の時点で商会は自由に動ける状態にある。

この情報を告げたことで、将軍達の顔に危機感が浮かび上がる。



「おそらくですが、連邦も停戦の方向で動くでしょう。こちらがそれを求めていることは悟らせず、条件次第では停戦に応じる。そんな要望を王国に突き付けることでしょう。」


そしてそれは帝国側も大きく違わない。さらに言えばバルディアは停戦が実現できなければ奪い取った王国北部の維持は不可能と考えている。


「防衛に失敗すれば私達は終わりです。例えば、商会の少数戦力で国境を押さえられるだけでも私達は補給を断たれ、ここに孤立してしまいます。」


我々は彼らの一刺しで瓦解する。そんな儚い支配しかできていない。

それを強固なものに変えるには、どうしても時間が必要になるのだという。


「停戦の目的はその時間稼ぎ。ではあるのですが、停戦に合意することでビフレスト商会の攻撃対象から逸脱することが最も重要な目的になりますね。」



バルディアはさらに指示を続ける。


まず最初に、停戦交渉が終わるまでは本国への報告は止める。


「これは、現状を理解せずにさらなる侵攻などといった愚かな命令を抑止する為です。皇族の誰かがそのようなことをなされば此度の侵略は徒労に終わる。」



次は移民への対策。住居、食糧。そしてこの土地での仕事に従事させること。


「ジェリド殿の軍勢を本国へと走らせ、大量の物資を輸送してもらいます。これを移民達の食糧に。住居は資材を渡してあとは自分達で。」


できれば物資の輸送元は、可能な限り地方都市から行う。住民がある程度もしくはすべて移民した都市などが望ましい。

また、地方都市に移住を希望する者がいれば、人員の輸送も同時に行う。


帝都の物資には基本的に手を出さない。帝都の産業を妨害しない為、そして情報の漏洩を防ぐ為の措置だ。



「現在のラムドウル周辺の状態では支えられる人数にも限界があります。本国の人間は帝都にしばらく支えて貰わないといけません。」



そして彼らの仕事については、当面はこのラムドウルを生活のできる場所へと変革することを目標に、そのためのあらゆる活動に従事させる。


「こちらはアイシャ殿に。適材適所で仕事を与えて下さい。それと、内政に関しての業務に適正を持っている者がいたら、アムドシア要塞に招聘を。これは本国からでも構いません。」


要塞を一時的に都市機能全般の管理施設として運用する。これには移民に関しての対処等も含む。

招聘した内政担当者には、ラムドウルを大きく拡張する必要があることを伝え、対応してもらう。


「労働力はいくらでも余っている状態ですからね。都市拡張に関連する工事や物品の製造等、仕事を移民にどんどん提供して下さい。」



懸念材料としては、ジェリドの物資輸送の際に、本国の者達に怪しまれ、余計な横槍を入れられないとも限らない。


「念の為、今日の内に出来る限りの対処はしておきます。」


バルディアの行う対処とは、ガルシア皇帝にのみ全ての状況を伝え、こちらの味方となってもらうこと。

帝国で最も強い発言権を持つ皇帝をこちらに付けて、決定的な妨害を封じる、という作戦だ。



「とりあえずはこのくらいです。追加の指示はまた後でお知らせします。


三人の将軍達はバルディアに頷くと一斉に動き出した。



「あとは今日中に皇帝陛下への根回しを済ませること、そして明日の停戦交渉でよりよい条件での停戦を勝ち取ること。」



バルディアは自身の方針も決定し、それを実現する為の行動を開始した。

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