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フヨフヨ  作者: 猫田一誠
01 名無しの国
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007 脱獄

そもそもこの部屋は、形からして奇妙だった。


入って部屋を見渡すと、左側は山と積まれた物資。

右側には高い段差があり、そこを降りると二本の金属製の棒が敷設されている。



降りた先をよく観察すると、ここは通路のようだ。

片側は瓦礫と土砂で埋まっているが、逆側には延々と二本の棒が敷設されている。



斥侯の一人が床に耳をつけてじっとしている。

音を拾って周囲の状況を探っているのだ。


「足音ですね。かなり重量がある。数も多い。」

「鬼に率いられた人害の群れだな。おっと、害人だったか。まぁいい、出発を急ぐぞ。」


斥侯とオルガンの会話に、物資の収納を終えたナナが参加する。



「悪者が追いかけてきてるのか?爆発させて通路埋めるか?」

「鬼がここにいるなら、逃げ遅れた奴らはもう無理だしな。いい考えだ。」


「でも万が一ってこともあるかもですよ?」

「そうだな、爆破は最後の手段にしよう。もし奴らがこっちを追ってきたら埋めるってことにすっか。」


そう言うと、オルガンは皆に指示を飛ばす。


「先頭は攻撃隊、次は非戦闘員達。そして術士隊、弓隊だ。斥侯隊は分散して前後の警戒、俺とセロが殿だ。」



しばらく移動して、セロは足を止めることなく呟いた。


「あぁ、なるほど。」



ナナをおぶったオルガンも移動しながらそれに答える。


「あん?何がだ?」

「この足元を走る二本の棒、これ、案内役なんじゃないかって。」


ナナも会話に入ってきた。


「案内役?」


「うん、さっきの部屋、変な形だったろ?」

「あれ、部屋なのか?」


「部屋じゃないな。おそらくこの通路を運ばれてくる物資の受け取り場所。」


「集積場所じゃなくて受領場所ってことか?でも妙じゃねぇか?こんな歩きにくい通路、どう考えても運搬に向かねぇ。」

「だから案内役なのさ。運搬は人力じゃないんだよ。」


「ふむん?」


確かに歩きにくい通路だった。


壁はすべて石。しかもどういった石なのか、継ぎ目がまったくない。石積みではないのだ。


ビフレストをはじめとした、遥かな過去に栄えたとされる都市の建築物の素材となっている石。

それと同様の物のようだった。


そして歩きを阻害する原因は床にあった。



二本の棒、セロの言う案内役は、全面が床に接地している訳ではない。

等間隔に配置された台のようなもの、その上に固定して敷設されているようだ。


おかげで延々と同じ高さの段差が続いていて、おまけに明かりは薄く、頻繁に足をとられる。


通路の片側には人一人が通れる程度の道幅の、小さい通路があった。

そこは非戦闘員の皆を歩かせ、特隊の者やオルガンは大きい方の路面、段差続きで足場の悪い通路を進んでいた。


しかし、出発してからずっと、ひたすら登り勾配になっていたのも手伝ってか、進行速度は遅く皆の疲労も蓄積されていく。



そんな中、セロ達の会話は続く。


「人力じゃない。動力源とかはわ分からないけど、大量の物資を運搬する為の何かがあると思う。」

「あぁ、これが地下鉄ってやつか?」


ナナは気になる単語を聞き返す。


「地下鉄?」


「楽園は昔、地下鉄って呼び名だったんだよ。人や物資を運搬する施設だったんだと。」

「へぇ~。」



ここでセロが案内役の説明を再開させる。


「その施設で大量の運搬を可能にした設備は、おそらくこの二本の棒の上を移動するもの。」


「こんな細い棒の上を沢山の荷物を持って移動するのか?」


「間違いないと思うよ。この二本の棒、ずっとお互いの距離が変わらないんだ。狭くなったり広くなったりしていない。」

「確かにそうだ、よく見てんな。」


「さらに言うと、この棒は、その設備が壁にぶつかったりとかしないよう案内する役目も持っていたと思う。」

「むん?むん?」


ついてこれないナナをそのままに、オルガンはセロの推察がほぼ正解であろうことを確信し、その洞察に感心していた。



そして遠く背後から金属音が微かに届く。



「来やがったか。」


「悪者か!?」


「あぁ、そうだ。にしてもなんであいつら道が分かったんだろうな。痕跡は消しておいただろうに。」

「害人の能力はそれぞれ個体差がある。追跡の得意な奴がいたのかもね。」



オルガン達の会話に皆、歩く速度を速める。

特隊の面々は、真剣な顔つきになって指示を待つ。


「セロ、さっきの推察が合っているなら、前からその運搬設備がやってくるかもしれん、先頭に警戒するよう連絡だ。」

「わかったよ、オルさん。」


セロは素早く移動していく。

それを見たナナは、自分も何か役に立ちたい、そんな思いを言葉にしていた。


「おっちゃん、あたしは?あたしにも何かやらせろ!」


「ナナには祝福の付与だけでも十分貢献してもらっているんだがなぁ。まだなんかやる気なのか?」


「あたしはいつでもやる気いっぱいなんだ!できる子なんだぞ!」

「ならそのできるお子様は何ができるんだ?」


ナナは自分の鑑定結果をオルガンに見せた。



戻ってきたセロが目にしたもの。

それはオルガンに肩車してもらい移動しながら尻から赤い色のついた煙を出しまくるナナだった。


「ナナ、一応聞くけどそれは?」


「煙幕だ!これで攪乱するんだ!」


「なんでお尻から出してるの?」

「魔術はイメージだって本に書いてあった!」


少々あきれ顔になったオルガンが捕捉した。


「屁をこいてるイメージだそうだ。」

「なんかこれが一番強い気がするんだ!悪者が匂いで引き返すかも知れないぞ!?」


実際は魔術的な煙幕であって、屁ではないので匂いはない。



「ナナ…。」


セロはナナの将来が少し心配になった。

オルガンはそんなセロの肩を叩く。


「まぁ、方法はアレだが、足止めとしては効果はある。これは目くらましで本命は別だ。」


周囲には金属部分も多い。地形的にセロの電撃は使えない。

オルガンもまた、足場が悪く実力が発揮できないことが分かっていた。



「次はこれだ!」


ナナは煙を出しながら、召喚術を行使する。


燃焼する鱗粉を撒き散らす火焔蝶。その効果は実験済だった。


膨大な魔力に物を言わせ、ナナは通路を埋め尽くすかのように呼び出しまくる。

赤い煙の中に赤い蝶。そして通路の床面はどんどん黒い鱗粉で埋められていく。



背後からの追跡音が大きくなっていく。

距離を詰められているのだ。


「おし、ナナ、やるぞ。」

「おうよ!」


煙幕と火焔蝶の召喚を停止して、さらに荷重起爆の地雷型トラップを背後に仕掛ける。



普段の爆裂と違い、火焔蝶を併用すると大量の炎が発生する。

セロは酸欠を警戒して、背後に風壁を発動させる。



一団は脱兎のごとく前方に向かって逃走した。


「崩落させるの?」


走りながらセロはオルガンに尋ねる。


「仕方ねぇ、追いつかれたらやられる。対等の条件ならそこそこやれるかもしれんが、今は場所が悪い。」

「確かにそうだね。」


「それに害人の数も減らさにゃな。」



しばらくして、凄まじい轟音と振動、そして衝撃波が背後から襲ってきた。


距離があったおかげか、セロの風壁の効果もあってか、

吹き飛ばされる者こそいなかったが、体をぶつけたり振動で転んだりしている者はいた。


「うわっ!」

「いてぇ!」

「ひええぇ!」


様々な悲鳴が飛び交い、オルガンが叫ぶ。


「皆無事か!?怪我をした者はいるか!?」


声をかけた後、背後を振り返ったオルガンは、破壊され瓦礫に埋められた通路を見て呟いた。


「とんでもねぇ威力だな、こいつは。」


火焔蝶の運用には注意が必要。認識を新たにするオルガンだった。



「やっちまったあああぁぁぁ!」


オルガンの肩の上では、頭を抱えるナナがいた。



耳がバカになっていて、聞き取りにくかったが、何人か負傷を申告している。


数人が軽傷を負った程度で済んだようだ。

メリルが光魔術で治療し、ナナは必死に謝っている。


「ごめんな、じいちゃん。ちょうちょの数が多すぎた。」

「大丈夫じゃ、ちょっと擦りむいたくらいじゃよ。」


「痛い?」

「痛くないよ。」


フランクは泣きそうになっているナナを優しく撫でている。

ナナはお返しと言わんばかりに、フランクに園芸の恩恵を付与。



「移動するぞ!」


オルガンの声が聞こえる。


治療も終わったみたいだ。皆が歩き始める。

戻ってきたメリルがフランクに肩を貸して支える。


ナナはメリルにも医術の恩恵を付与してお願いしている。


「ばあちゃん、じいちゃんを治して。」


メリルは握り拳を作って、まかせろとポーズをとった。


「ナナは後ろに戻って。セロたちをサポートするんだよ。」


二人の老人はにっこりと微笑み、前へ歩いて行った。



「わかった!」


それを見送ったナナは、元気を取り戻した様子で兄の元へ駆けて行った。



皆がひたすら前進する中、セロとオルガンだけは、爆発地点まで戻り、状況を確認していた。


「完全に埋まっちまってるな。」


「鬼をやれたかはわかんないけど、これじゃあ少なくとも追っては来れないんじゃないかな?」

「かもしれねぇ。だが油断もしねぇ。背後への警戒はそのままで移動するぞ。」


オルガンは戻ってきたナナをまた自分の肩へ乗せる。


「ナナ、もう一度煙幕頼めるかい?」


「セロ?まだやんのか?」


「あぁ、油断はしない、だろ?赤い煙幕はこの爆発の後なら奴らに対して十分な牽制になる。」

「確かにな。また爆発するかもって思うだろうな。」


「火焔蝶をさっきより少なめで、地雷も再設置しておこう。こっちは追手の有無を確認する為。」



セロの提案に、オルガンは反論なく頷き、その発想に賛同していた。

そして思い出したかのように、脳裏に浮かんだ疑問を口にした。


「そういやあナナの爆弾な、距離を置いたら効果が消えたりしねぇのか?祝福みてぇに。」

「生物付与は距離制限があるけど、物品付与はかなりの距離をカバーするみたいだよ。ナナが爆弾のことを忘れなければ大丈夫。」


「ふふふふん。」


ナナはオルガンの上で偉そうにふんぞり返っている。


一団に追いつき、さらに足を進める。


数時間も進むと、最初の部屋、物資の受領場所と似たような部屋に出た。

ただし、こちらは段差の上に埃が堆積しており、使用されている形跡はない。


「地上へのルートが塞がっているんだろうな。」


セロは所見を述べる。


「なんにせよ丁度いい。ここで休息をとろう。俺ぁ腹がへっていかん。」


「そうだね、ナナ、食糧出して。」

「おうよ!あ、あたし焼いたお肉食べたい。」

「駄目だよ、今は風が吹き抜けない。空気が腐食するかもしれない。火はやめとこう、お肉は我慢だ。」


「うぐぐ。」


ナナのリクエストは却下され、残念そうにしている。


「あぁ、やめといたほうがいい。」


オルガンもセロの意見に賛成のようだった。


「仕方ねぇ!あたしはよい子だからな!我慢できる子なんだ!」

「偉いぞ。」


セロはそう言ってナナの頭を撫でてやる。


「うへへへ。」


嬉しそうにしているナナだったが、腹を空かせた皆がこちらを見ていることに気付いて、慌てて収納術を行使する。


「ナナちゃん、お肉ならうちの荷物に干し肉の備蓄が沢山あるから、それをお食べ。」

「それならうちには果実水があるから、それも飲んでおくれ。」

「じゃあうちは…。」


皆、ナナの魔術に救われたことを理解しているのか、ナナは人気者になっていた。


「おう、ナナ!俺には酒を頼む!」


「さ、酒!?まだ脱走中だよ!?オルさん!」

「固いこと言うなって。おう!おめぇらも飲むだろ?」


「「「うおおおっ!」」」


特隊の皆からは歓声があがる。


ナナが注文をさばききれずあたふたしていると、セロが援護してくれた。


「父さん、頼むよ。」

「ああ、任せてくれ。」


アーキンはビフレストで物資の管理等の業務を処理していた。

ナナが収納した、皆の物資もアーキンが代表で一括管理していたのだ。


アーキンが間に入ることで、ナナは必要な物資を手際よくぽんぽんと出していった。

そうして皆は食事と休息を取り、疲れを癒していた。



一部では酒盛りが始まっていた。


セロはそれを見なかったことにし、そこに参加しようとしていたナナを捕獲する。


「お酒は大人になってから。」


ナナを抱っこしてマーサのもとへ連行する。



「めっ。」


ナナはマーサに優しく窘められていた。



一方、爆発地点の手前側。

そこにはほとんどの害人を爆発で失い、怒りに肩を震わせる赤鬼。


「これではもう追えませんね。」


そして冷静に状況を判断する青鬼がいた。


二人が荷下ろし場所まで帰還するとそこには、いつか見た仮面の男が待っていた。



「やぁ、お二人ともお元気そうでなにより。かれこれ五年ぶりでしょうか?」


仮面の男の隣には、高級そうなローブを羽織り、フードで顔を隠した女が立っている。


鬼たちはその女から、尋常でない魔力を感じ取って身動きを取れずにいた。

何かすれば殺される。そう理解できる程にはその女との力量の差を把握していた。


その様子を見た仮面の男は、隣の女に向き直る。


「魔女殿。お力を抑えて下さいますか?鬼さんたちとお話しができません。」

「あら?怖がりさんなのかしら?」


そう言うと、その魔女から放たれていた重圧のようなものが消えていく。



「その女性が王ですか?」


少し楽になったアレクシオンが口を開く。


「いえいえ、この方は王ではなく、私の同志。とでも言いましょうか。今回は護衛目的でついてきてもらいました。」

「ならば俺たちに何の用だ?」


ラダマンティスが問いかける。


「いえね、お二人に紹介しようと思っていた王なんですがね、いつのまにか殺されていまして。はい。」

「はぁ?」


さらりと話されていたが、これには二人ともが驚愕の反応を示した。



聞かされた王の力。そんな力を持つ者が殺される?ありえない。



二人にかまわず仮面の男は続けた。


「この強大な力を持った加害者を、便宜上我々は簒奪者と呼ぶことにしました。」


簒奪?


アレクシオンはその名称に微かな引っかかりを感じた。


「簒奪者の調査はこちらで行います。お二人には新たな王としてこの地に君臨していただきたい。」


「てめぇらの操り人形としての王か。冗談じゃねぇな。」

「王の殺害を簒奪とするのなら、新たな王はその簒奪者ではないのですか?」



二人の鬼から放たれた言葉に対し、再び魔女から重圧が放たれる。


「魔女殿。落ち着いて下さい。」


仮面の男が言うと、再度重圧が消えていく。


「我々からお二人に何らかの指令が飛ぶ。そのようなことはありません。」


まずはラダマンティスの言葉に応える。


「そして簒奪者が王から奪い取ったのは王位ではなく、その身に宿す王の力。」


続けてアレクシオンの疑問にも解答を示した。



その後、二人に提示された条件は、以下のようなものだった。



人間たちを殺さず、繁殖させること。

高い才能を持ったものを楽園に寄越すこと。

二人の鬼は楽園に住まい、逃亡者を出さないこと。


「この三点のみです。これを守って頂けるのであれば、勇者との再戦を約束しましょう。」


これには二人も目の色を変えた。

勇者との再戦は鬼と成り果てる以前より持ち続けた唯一の望みなのだ。



「まるでいつかの焼き直しみてぇだが、それなら是非もねぇ。」

「えぇ、そうですね。あの時は勇者を捻り潰す力。今回は再戦の機会ですか。」


「おやおや、たしかにそうですね。実に懐かしい。」



仮面の男も相槌を打つ。



「こちらからもひとつ、お願いがあります。」


アレクシオンは仮面の男を見据え、言い放った。


「仮面殿。あなたとの連絡手段を確立したい。」

「そういえばそうですね、確かに必要でしょう。わかりました。」


アレクシオンは続ける。


「そして、あなた方が我々と呼ぶ組織の末端に私を加えていただきたい。」


ラダマンティスはアレクシオンに目を見開く。アレクシオンはラダマンティスを見て言った。


「仮面殿が言うことです。再戦は不動のものとなった。そう考えていいと思います。」

「あぁ、それは俺も疑ってねぇ。」


「ならば復讐を果たした後です。仮面殿の組織でのし上がっていくのも面白いかと思いまして。」



間をおいて、ラダマンティスは噴き出していた。


「ぶはははははっ!ああ!いいかもしれねぇな!」

「フフフ、でしょう?」


「仮面殿!俺も頼む!さっきはああ言ったが、人形でもかまわねぇ。何だってやるぜ!」



二人の会話を眺めていた仮面の男は、満足そうに言った。


「いずれは、と考えていたことをそちらから提案されるとはね。実に愉快です。」

「フン。」


逆に魔女の方はつまらなさそうにしている。

そして二人の鬼と仮面の男の目線が交差する。


「よいでしょう。私のことはヴォロスとお呼び下さい。連絡手段については、楽園に人を寄越します。」


「ありがとう、ヴォロス殿。」

「よろしく頼む、ヴォロス殿。」



返答に頷いたヴォロスは、


「組織へようこそ。赤鬼殿、青鬼殿。我々は、この世界を愛し、変革を促す救世者達。」


仰々しく両手を広げるヴォロス。



「組織の名は…。」





一方その頃、地下街にて右往左往していた逃げ遅れた者達。

彼らは、地底から響いた突然の爆音に恐れおののき、結局ビフレストの自室に戻り、ただ震えていた。


いつまでそうしていただろうか?

落ち着きを取り戻した者から、外を確認しようと各フロアの中央広間に人影がちらほら。


「あの轟音は何だったんだ?」

「地下街を走っていった化け物集団はどうなったんだ?」

「知るかよ!気になるんならてめぇで調べてこい!」


各所で似たような会話が始まっている。



そんな中、ビフレスト中層吹き抜け部最下層。過去にセロたち家族が暮らしていた階層の中央。

そこに、外傷のまったくない不思議な死体があった。


住民が地下街から逃亡してきた時にはそんな死体は存在していなかった。

つまり、この人物は、つい今しがた死体になった。ということになる。


その死体は、皆に先生と呼ばれ慕われていた書庫の主、エルンストのものであった。


この階層で何かを見たのか、眼を大きく見開き、何かに驚いたような表情だった。





そして、行方の知れぬもう一人。


廃棄孔に転落し、その衝撃で気絶していたらしいヨハンは、目覚めるなり大声で叫んでいた。


「くっせえええぇぇぇぇぇ!!」


あまりの悪臭に叫びながら鼻をつまむ。


あたりを見回すが、真っ暗で何も見えない。さらに体中が痛い。


適当にあたりをつけ、手探りで進んでみると、やがて壁にぶつかった。

なんかヌルヌルしている。おまけに臭い。



「くっそが!どこなんだよここは!」


周囲の闇に当たり散らすかの如く怒鳴りながら、壁づたいに足を進めていくとやがて梯子のようなものを発見した。

体の痛みに耐えつつそれを登るとすぐに踊り場になっていて、そこに扉があった。


悪臭から逃げるかのように、たまらず中に飛び込む。


すぐに扉を閉めると、そのままへたり込んで体を休める。



やがて体の痛みも多少ましになってきた頃、だんだんと目が慣れてきた。


うっすらと部屋の様子がわかる。

中央に簡易寝台。壁にはなにか工具のようなもの。

逆の壁には大きな棚、そして部屋の隅に机がある。

明かりを探すべく、ヨハンは室内を片っ端から物色していった。



目ぼしいものを発見出来なかったヨハンは、入ってきた時に使用したものではない、もう一つの扉から外に出る。


そこは大きな円筒状の通路。扉がいくつかあるようだ。


適当に選んだ扉に入ると、カツンと自らの足音が変化した。


金属製の足場だ。さらに前に進むと同じく金属製の柵がある。

いや、これは手摺か。光はか細く、ヨハンは手摺に沿ってさらに歩く。



やがて手摺の切れ目が見えてきた。ここからは下り階段のようだ。

進むしか選択肢がないヨハンはひたすら階段を降りてゆく。


いつしかそれも終わり、階段がヘドロのようなものに埋もれている。


おそるおそる足を踏み入れると膝下くらいまで埋没する。

引き返して別の扉を探索するか?そんなことを考えていると、遠くに明かりを視認した。



「お…、おおっ!」


べちゃべちゃと音を立てながら、明かりに向かって我武者羅に走る。


三十分もすると、だんだんとそれが見えてきた。

明かりしか見えていなかったヨハンは、地面がなくなっていることにまったく気付かなかった。


「うわっ!」


一瞬の浮遊感を感じるも、すぐに傾斜のついた地面に尻を打ちつける。

痛みに顔をしかめつつそのままそこを滑り降りて行った。



「なんだこりゃあ?」


地面は濡れていて、それが油の混ざったかのような液体でズルズル滑り、滑落を止められない。



ひたすら長い下り通路だった。


もう何時間もかなりのスピードで滑り降りている。

体感だとかなりの距離を移動しているはずだ。


いつしかヨハンは目を閉じていた。

もうどうにでもなれ。そう考えて全身を弛緩させていると、突然ぬかるみの上に投げ出された。


軟らかい地面のおかげで怪我こそしなかったが、痛いものは痛かった。



「いってぇな!クソ!」


悪態をついて起き上がると、何か、湿った風を感じる。


ヨハンは風の吹いてくる方へ向き直り、歩いていく。



「あんだけ落ちて来たんだ、外ってことはないだろうが…。」



何時間もひたすら歩く。


かろうじてわかるのは、歩いているのが円筒状の丸い通路であること。

ただそれだけだった。



「いい加減、腹がへったぞ、畜生。」



風の吹く方へ、時折休んだり睡眠をとりつつ、五日程歩き続けた。


空腹と脱水で体はボロボロだ。考えるのは腹を満たすことばかり。

ヨハンは自身の死を予感していた。


朦朧としながらも歩いていると、何か空気が変わってきた気がする。



まるで空気自体が発光しているかのように、微かな光を七色に反射させて輝いているかに見える。これは一体?



自分はすでに死んでいる?ここは地獄か?

ヨハンはそんなことを考えながらも無意識に足を動かしていた。




本人はまったく気付いていなかったのだが、ここは虹海の底を走る海底トンネル。


僅かな光を反射しているのは濃厚な虹素だった。


その濃度は、地上の密林地帯の空気のおよそ七千倍。


浄化服を着用していなかったらとっくに血を吐いて害人となっていたであろう。

ヨハンは知らないうちに、虹素の発生源とされている何かに近づいていたのだった。



やがて大きな空洞に出た。


光が射している。大広間の壁や柱に、虹色のコケのような物体がびっしりと付着していて、それが発光しているようだ。

広間の中央には円形の段差があり、そこに虹色の髪の美しい少女が横たわっていた。


腰まで届く長い髪。年齢は15かそこらか。


肌は白く、幼さを残した顔つきながらも、その美しさはまるで物語に登場する女神を思わせる。


しかしその少女は眼を閉じたままピクリともしない。


生きているのか、死んでいるのか。人なのか、それとも化け物なのか。




「どうでもいい。」


ヨハンは思考を止めて、ひたすらに水や食料はないかと辺りを探していた。


そんな彼の背後で、音を立てずにむくりと少女が上体を起こす。


そのままヨハンの背に顔を向け、眼を開ける。ヨハンはまったく気付いた様子はない。

少女の瞳は、髪の色と同じく虹色だった。光に反射して、様々な色を見せる。


ヨハンに体を向け、立ち上がりゆっくりと歩いてくる。


お互いに手の届く距離まで近づくと、ヨハンが振り返る。少女と眼が合う。



ヨハンは衝撃のあまり声も出ない。


少女はヨハンに対し、にっこりと微笑んだ。

そのままヨハンの下腹部に指を這わせる。


ヨハンはチクっとした刺すような微かな痛みを感じた。



その瞬間、ぶつん、とスイッチを切られたかのようにヨハンの意識が飛んだ。



少女は、再び広間の中央に横たわり眼を閉じていた。


すぐ近くの柱に、一体の害人がまとわりついていた。


知性を持たず、グロテスクな姿へと変異したヨハンだ。


ヨハンは柱に付着した虹色のコケが分泌する蜜をおいしそうに舐めとっていた。

虹素を好む害人にとって、ここはご馳走の山だった。




空腹を満たしたい。


ヨハンのその願いだけは叶えられた。

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