176 黒
白銀帝国の大部分を占める凍土にあって、他に類を見ない高い外壁に守られた帝都グレイシャル。
帝都中央にはその外壁よりもさらに高い城壁に囲われた区画がある。
城壁の内部に位置する皇宮パルネイは複数の宮殿が城壁内部を走る内壁によって連なるような構造になっている。
数ある宮殿の中でも一際大きい宮殿へと続く内壁の壁内通路に、コンコンと通路内の石畳を叩く足音が響く。
等間隔に開けられた外部監視用の開口部より入り込む冷風を意に介さず、そこを一人のドレス姿の女性が歩いていた。
「……。」
薄い笑みを浮かべながら無言で歩くその女性は、アランが尾行を断念したポワレだった。
ポワレが歩いている通路は、皇帝ガルシアを除いた皇族達の居住区画へと続く道。
皇帝の住まう区画はそこからさらに奥となる。
長い通路の終点には豪華な装飾が施された扉があり、その扉を見つめるポワレの瞳は訝し気に細められていた。
(ここにも衛兵はいないみたいね。)
ポワレは扉の前が無人になっていることに対し、満足そうに微笑んだ。
普段ならここには近衛騎士の中でも屈強な猛者が四六時中警護に立っているはずなのだ。
(監獄に入っていた期間は僅かなものだったけど、それでも懐かしいわね。)
皇族居住区画でのかつての暮らしを思い出しながらもポワレは扉へと歩いていく。
ポワレが扉に手をかけると、施錠もされていなかったようで音もなく簡単に開いた。
「フフ。待っててね、お父様……。」
ポワレは迷わず扉の中に入って行く。
より豪華な内装の皇族居住区を懐かしむように眺めるポワレ。
しかし視線を彷徨わせながらもその脚は歩みを止める気配はない。
辺りには全く人の気配はなく、静かなものだった。
皇帝を除いた皇族が大広間へ出払っているとはいえ、それは本来あり得ざること。
警備の近衛騎士も使用人もまったくおらず無人となっている今の状況は意図的に用意されたものだ。
静寂に包まれた皇族居住区の通路を歩くポワレは住み慣れた区画を迷いなく進んでいく。
やがて最奥となる皇帝の居住区の付近まで到達した。
(さて、ここからはさすがにお母様でも手出しが出来ない場所ね。)
この先に詰める護衛や使用人は、皇帝ガルシアが直々に認めた信頼のおける者達ばかりで構成されている。
その者達の配備については皇族であっても干渉できないのだ。
それが可能なのは皇帝本人か、次代の皇帝となる皇太女のみ。
誰にも知られずに皇帝の寝所へと向かうことが目的のポワレにとっては最大の難所となる。
ポワレは立ち止まり、辺りを見渡す。
「……。」
変わらず、人の気配はまったくない。
ここから先のプランについては、ポワレは誰にもその詳細を明かしてはいなかった。
母である第二皇妃ダリアからも、どうするのかと問われてはいたがはぐらかしていたのだ。
ここでポワレは誰にも伝えていなかった切り札を切る。
まずはラスティーヌとアヴィリウスに用意させた変装用の魔道具を解除する。
髪の色を変えている変色の魔道具。
そのまま続けて人相を変えている誤認の魔道具を解除した。
そこにいたのは白みがかった銀髪の目つきの鋭い女性だった。
それは監獄送りとなった第一皇女デボラの本来の姿だ。
「いるんでしょ?約束通り言われた時間に来たわよ?」
デボラは発言した瞬間、完全に無人だったはずの空間に突如人の気配が出現したかのような感覚を感じ取った。
「ええ~。時間通りですね~。」
間延びしたような返答と同時に暗がりから、赤と黒の二色に彩られた道化服を着込んだ小さな人影が現れる。
道化の声は女性のものではあるが、その顔は衣服と同色の赤と黒の仮面によって隠されている。
「まったく。本当にこんな場所に、よりにもよって帝都でも最悪のお尋ね者であるクラウンズが侵入可能とはね。目を疑うわ。」
「ノワールと~、お呼び下さいね~。」
片腕を前に、道化らしい礼を返すノワール。
着用している衣服や仮面は赤と黒の二色だが、主となる配色は黒だ。
「一人だけなの?もう一人の赤い子はいないのかしら?」
「ルージュは~、ちょっと別件がありまして~。」
本来、二人組であるはずのクラウンズが一人しかいない。
デボラはそのことに僅かな懸念を抱いたが、今は自分の目的を果たすことを優先した。
「まぁいいわ。やることをやってくれればこちらとしても文句はないわ。」
デボラはノワールに歩み寄り、目線で依頼の遂行を促した。
「準備は出来ていますよ~。障害は排除済みです~。」
ノワールは皇帝の居室の方角へと向き直り、デボラを先導するように歩き出す。
少し遅れてデボラは無言のままノワールについて行った。
皇帝の住まう区画、そこは皇宮内でも最も警備が厳重な場所。
そのはずが、周囲に人の気配はまったく存在せず、物音一つ聞こえない。
「この区画の~、ガルシア皇帝以外の人達には~、別の場所で眠って頂いてます~。」
先導するノワールは振り返らないまま、背後のデボラに説明する。
「そう。どうやったのかは聞かないけど、見事なものね?」
ノワールの背後のデボラはそっけなく答えつつも、その顔は歓喜の笑みを隠しきれていない。
目じりは下がり、その口元の両端は微かにつり上がっている。
「お褒めに預かり~、光栄です~。」
そのまま二人は足を止めることなく奥へと進む。
「ねぇ?確認したいんだけど、貴女達は今後も私の味方でいてくれるのよね?」
デボラが切り札として使用したクラウンズの力は想像以上だった。
人知れずデボラの獄舎に現れ、協力を持ちかけて来た二人組の道化に対しデボラは過度の期待を抱いてはいなかったのだ。
所詮はお尋ね者。
噂通りであればたしかにその有能さは疑うべくもないが、いつ裏切ってもおかしくはない。
だが逆に言えば、いつでも切り捨てることのできる有能な手駒という側面もある。
そう考えたデボラはクラウンズの提案を受け入れた。
そして実際にクラウンズの働きを目にした今では、その考えに拍車がかかっていた。
(この子達は使えるわ。私の考えていた以上にね。できれば、いえ、絶対に今の協力関係は継続しないとね。)
「デボラ殿下がそうお望みなら~、私達は今後も~、よいパートナーでいられると~、思います~。」
「ええ。望むわ。私の願いを叶えることができれば、私は貴女達の望む報酬を与えることが出来るようになるもの。」
それは互いに利のあること。
デボラはそう強調し、協力関係をより強固にするべくノワールに言って聞かせた。
「到着です~。」
ノワールの言葉にデボラは足を止める。
ちょっと会話に夢中になり過ぎたデボラは皇帝の居室の前に立ち、足元を見ながら深く呼吸する。
「お父様、今宵、私が貴方の全てを貰い受けます。」
顔を上げたデボラは鋭い眼差しで扉を睨みつけ、不敵に笑っていた。
「むん……、あたしここが何処だかわからなくなったぞ?」
姿が見えなくなったワンダー・リンリンを探して大広間を飛び出し、無作為に皇宮内を歩き回ったナナは唐突に言った。
「ニャニャ、このお城は広すぎるニャ。」
「迷子ニャ!迷子ニャ!」
ナナの両脇のミケとクルルがまくしたてる。
「ミケ、クルル。ここはラスボスの城なんだ。だから広いのは当たり前だ。もし宝箱とか見つけたらあたしに言うんだぞ?」
「ラスボスニャ?」
「誰ニャ?」
ナナとミケとクルルはしっかりと手を繋いで通路を歩いている。
リンリンを探し回っていたはずのナナは完全にそのことを忘れラスダンごっこに興じているようだ。
「ナナちゃん!?勝手に動き回ったら、めっ!!」
「何を考えていますの!?もう帰り道もわからなくなってしまったではありませんか!!」
トラを抱いたジルとエトワールはナナの背後から叱りつけているが、ナナにはまったく効果を示していない。
しかし仲間達は全員が道標が付与された魔道具を保有しており、ナナはそれぞれの位置への転移が可能だ。
その気になればいつでも合流は容易、そう考えているジルとエトワールは言うほど焦ってはいなかった。
「ニャニャ、アランの匂いがするニャ。」
ジルの腕の中からトラが声をかける。
「何っ!?そういえばアランの奴はいつの間にかいなくなってたぞ?」
ナナは言われるまでアランの存在を忘れていたようだ。
「あっ!ロッテもいないぞ!?あたしの子分のくせに親分をほったらかしにするとはなんて奴だ!!」
今度はぷんすかと怒り始めたナナ。
そんなナナの態度にエトワールはがっくりと肩を落とし呟いた。
「そもそもナナさんが勝手に広間を出て来たんですのよ?ここにシャルがいるはずがありませんわ……。」
「ナナちゃん、アランさんがいるのなら私達も合流しよう?」
そう言ってジルは抱いていたトラを床に降ろす。
「こっちニャ。」
そのままトラは案内を始めた。
「まったく、アランめ。迷子になるとはなんて駄目な奴なんだ。仕方ないからあたしが助けに行ってやるぞ。」
ナナは得意そうな顔になってトラの後について行った。