125 記憶操作
ナナはエメラダとの連絡が可能となる青緑の花が安置された自宅の物置にやってきていた。
きょろきょろと視線を動かし、周囲に誰もいないことを確認しているナナは一人だった。
その手には蜂蜜が入っていた空瓶を握っている。
新しくやってきたナナの子分であるアカシャを始めとした少年少女達。
ナナは彼らに親分の太っ腹なところを見せるんだと蜂蜜プリンをご馳走したのだ。
その魅惑の甘味はアカシャ達にも大層喜ばれた。
ナナ本人も自分だけ特大サイズのプリンを平らげた。
そして当然のように蜂蜜は底をつきた。
あまりにも早すぎる蜂蜜の消費に、見つかったら怒られると考えたナナはこっそりとエメラダに追加を頼むつもりなのだ。
「ロッテにばれないようにこっそりと蜂蜜をメメララに頼むんだ。」
ナナはその企みを堂々と言葉にしながらも、こそこそと物置に侵入する。
「フフフフ…。スニーキングミッションだ。あたしの隠密行動に死角はない…。」
同時刻、王都にある大聖堂の奥の部屋では、白い修道服姿の輝く様な緑髪の女性がティーカップを傾けていた。
ベールを取り払い、素顔を晒したメルトことエメラダである。
「あら、お嬢ちゃんが一人なんて珍しいわね。何の用かしら?」
エメラダは青緑の花の向こうにいるナナを知覚していた。
少し集中すれば脳裏にナナの声が聞こえてくる。
「メメ花にお願いすればメメララがあたしに蜂蜜をくれるんだ。あたし兄ちゃんがやってるとこ、ちゃんと見てたんだ。」
真剣な表情でメメ花に向き合うナナ。
どうやら少し緊張しているようだ。
ぷぴっ。
ナナは屁をこいた。
「おっと、あたしとしたことが屁をこいちまったぜ。誰もいない時で助かったぞ。美少女は屁をこいたりしないからな。」
誰にも聞かれていないとナナは思っているが、大聖堂のエメラダは顔をしかめてティーカップを置いていた。
「下品なお嬢ちゃんね…。少しボーヤに言っておくべきかしら…。」
パンパン!
ナナはおもむろに両手を叩き合わせる。
「メメララ、あたしは良い子だから蜂蜜をよこすんだ。」
そしてそのお願いを青緑の花に向けて口にしていた。
「…、思わずお断りしたくなっちゃうような頼み方ね…。」
エメラダのそんな反応はもちろんナナには聞こえていない。
エメラダは一応、ナナの声を聞き届けたということで青緑の花を発光させた。
「おっ!メメ花が光ったぞ!そういえば兄ちゃんの時も光ってたな!」
ナナは前回セロが語り掛けた時の花の反応を憶えていた。
「よし、これでメメララはあたしに蜂蜜をくれるはずだぞ。お花が光ったのはお願いが成功したということに違いない。」
無事に目的を果たすことができたとして、ナナは上機嫌に物置を後にして行った。
「…。」
エメラダはナナが去って行ったのを確認した後、再度ティーカップを持ち上げる。
「蜂蜜を渡すのは別に構わないのだけど、対価はどうしましょうかしらね。」
考えるのはエメラダが求める物ではなく、何を要求するのが望ましいか。
エメラダはハンドベルを鳴らし、近くに待機している修道女を呼んだ。
「メルト様、何か御用でしょうか?」
枢機卿の赤い法衣ではなく、白い修道服に身を包んだエメラダをメルトと呼ぶ修道女。
この姿の時はグリンガル枢機卿と呼んではいけないと言われているのか、そもそも別人と捉えているのかは定かではない。
「手紙を書くわ。便箋とペンを用意してくれる?」
「すぐにご用意いたします。」
修道女はエメラダの要望を満たすべく、足早に立ち去った。
その頃、完全に住民がいなくなり無人となったビフレストでは、静寂の中、複数の人影が下層の大広間を訪れていた。
「どうだい?無人となったビフレストは?君にとっては見慣れぬ光景ではないかと思うが。」
問いかけたのは金髪の少年、サイン。
その傍らには長身の少年、アベルが付き添っている。
「感慨深くはありますね。すぐに地上に残された者や新たな咎人で賑わうことになるでしょうが。」
返答したのはメラン大司教。
その顔はベールで隠され、表情を窺うことはできないが、特に感情を露わにするような様子はない。
「私の仕事も終わったようなものだしね。あとはここでの君の最後の仕事を鑑賞させてもらうとするよ。」
メラン大司教の最後の仕事、それはセロ達の楽園調査を問題なく終えること。
セロ達が何か問題事を起こすのでなければ、ただ見守るだけの簡単な仕事となる。
「サイン様、鬼達の記憶操作、ありがとうございました。」
「ああ、構わないよ、仕事のついでさ。でもよかったのかい?彼らを管理者としてその記憶から君の事を一時消去しては君が彼らに指令を下せないよ?」
「大丈夫です。必要な準備は終えておりますので。後は分けておいた資料の回収と最後の記憶操作だけお願いできれば。」
「分かっているよ。それも含めてきっちりと手伝わせてもらうさ。」
「それでも万が一私の存在を看破されたならその時は潔く姿を晒します。その場合はお手数ですが…。」
サイン少年はメラン大司教に頷いていた。
メラン大司教を知る人物としてはオルガンのみとなる。
しかし、狩り一辺倒だった当時のオルガンは直接メランと交流があった訳ではない。
どの程度知っているのかについてはオルガンがかつての仲間にメランについて聞いた内容だけ、ということになる。
メラン大司教からすれば、オルガンは下手をすればメランの名前すら知らないという可能性もあるのだ。
「メラン大司教にもしものことがあってはいけないからね。アベル、可能性は低いと思うがその時は頼むよ。」
「わかったよ。でも彼らが相手となると、私だけでは力不足かもしれないよ?」
アベルことアルベルトはレベル97の魔王の一柱ではあるが、セロやナナ、オルガンをまとめて相手取るとなれば不安が残るようだ。
「なら戦闘を避けられるよう念の為に応援を要請しておこうか。」
サインは小さな髑髏の形をした通話の魔道具を使って何処かへと連絡を始めた。
「私如きの為に骨を折って頂きありがとうございます。」
メラン大司教は二人の少年に対し、深く感謝のお辞儀をした。
ビフレスト商会、本店二階のオルガンの部屋では、セロ、ロッテ、オルガンの三人で明日からの楽園調査についての話し合いが行われている。
「調査の許可は下りたんですから、管理者を名乗っていた鬼達と戦ったりはしないんですよね?」
「うん。危険だし、それは避ける方向で。駄目って言われた場所に近づかなければ大丈夫だと思うよ。」
元々は楽園を管理していた教会関連の情報が拾えるかという目的だったが、現在はオルガンの知りたいことを調査するように変更されている。
「目的の情報については、楽園の調査だけでなく、情報を持った人物に聞き取りも行うべきじゃないかな?」
セロはその人物が喋るかどうかまでは分からないが、全ての情報を持った人物に心当たりがあった。
「先生は今も存命だ。その奥さんは今も生きているかは不明なんだよね?」
オルガンはエルンストの妻についてはその存在は耳にしていたが、顔も名前も分からないそうだ。
「先生は現在はヴォロスと名乗っているんだから、エルンストとしての役割は終わったってことなのかな?ならその奥さんは…。」
エルンストやその妻については分からない。
とりあえず今は情報を持ち、そして現在も確実に生きている者としてヴォロスの存在を考える。
「エメラダさんに連絡して先生と話せないか聞いてみようか?もしも会えたなら当時のことを聞いてみるとか。」
「駄目元って意味ではありだろうな。楽園の調査で何も出なければ最後の手段ってことにするか。」
オルガンにしてみれば答えが解らないので教えて下さいと出題側に問うような気まずさがあった。
「できれば先生と話す時は解答を聞く為じゃなくてせめて答え合わせくらいには持っていきたいね。」
セロの言葉にオルガンも同意する。
「なら、当時の出来事を脱出計画から、決行後にどうなったのか、全て詳しく聞いておきたいです。」
ロッテからは、まずは知らなければ話にならないという意見だ。
それを知らなければ、オルガンが何を知りたいのかもわからないのだ。
「そうだな。ま、いずれ話そうとは思っていたしな。少し長くなるが、構わねえな?」
セロとロッテは頷いた。
そしてそれと同時にセロの後ろに転移門が出現し、ナナがやってきた。
「兄ちゃん、お部屋にちっとも戻ってこないからあたし寂しくなったぞ?あたしを一人ぼっちにしたら駄目なんだぞ?」
ナナは物置から部屋に戻った後、自室で本を読んだりしていたのだが、セロが戻ってこないことで不安になったようだ。
「ナナ、兄ちゃんとロッテはこれからオルさんの昔話を聞かせて貰うんだ。ナナも聞く?」
「む、あたしは聞き上手だからな。よし!ロッテ、親分を抱っこするんだ!お話を聞くぞ!」
ナナはロッテの膝の上に座り、お話を聞く体勢になる。
そしてオルガンは、ビフレストでは簡単に説明するに留めていた当時の事を、改めて詳しく語り始めた。
「そうだな、脱出計画自体はガキの頃からあったんだけどな、それが明確に形になったのは仲間達がビフレスト下層に集合したあたりからだな。」
それはオルガンが20歳の頃。
今から十年以上前の話だ。
そしてオルガンが昔語りの冒頭部分を語り終えた時点でナナはロッテの膝の上で寝息を立て始める。
自称聞き上手のナナはそのままにしてオルガンは語り続けた。
一方、楽園の構内では壁に突き刺さった状態で気絶しているジードルは放置され、残った者達で今後の相談がされていた。
藍鬼エイワス、茶鬼ヴィクター。
そして橙鬼アキームと人狼ナナシの四名だ。
「さて、彼らの調査についてだが…。」
まずはアキームが口火を切る。
「光都教会へ通じる扉以外は全て許可だな。」
「情報の始末は済んでいるのだろう?」
(((…、情報?何の情報だ?)))
全員が同様の疑問に小さな懸念を抱くが、すぐに振り払う。
(((我らが知らぬ情報ならそれは知らぬままでよいということだ。)))
「ないとは思うがもしも彼らが刑洞、いや聖洞だったか。そちらの調査を始めたらどうする?」
「そちらは管轄外だ。それに聖堂教会には門番も配置してある。」
その門番は彼らが束になって襲い掛かったとしてもまるで相手にならない程の強さを誇る。
「うむ。そちらについては我らが気にする必要はない。」
簡単ではあるがセロ達の調査に対する対応についての話がまとまった。
「最後に、何らかの不測の事態が起こった場合は?」
「当然、報告して指示を仰ぐのがよいのではないか?」
ここで新参故に黙していたヴィクターが口を開いた。
「報告?誰にかね?」
全員が困惑したような表情を見せた。
「それは当然、廃棄場の管理者である…、ん?」
「廃棄場の管理者は私達だろう?」
「その通りだ。管理者は我々だ。」
そうは言いながらも、自分達の上位に誰かがいた、ような気がする。
何かがすっぽりと抜け落ちている、全員がそんな奇妙な気分を味わっていた。
「今はサイン殿、いや、サーレント枢機卿猊下が来訪されている。何かあれば猊下に指示を仰げばいいんじゃないか?」
結局、アキームのこの一言で話し合いは一応の決着を見せた。
新たな管理者となった鬼達は、全員が直前まで自分達の上位者であった真の管理者、メラン大司教のことを完全に忘れていた。
サインによって付与された偽りの記憶によって、彼らは自分達が廃棄場の管理者に任命された、と信じ込んでいた。




