115 蜂蜜
テーブル上に広げられた地図は廃棄場の西側を中心として描かれている。
コーンウォールに沿うような形で、西側に膨らんだ三日月のような形になっているのが廃棄場の陸地だ。
ビフレストの南側を東西に走る亀裂と、虹獣の巣の北西の高山地帯を除けばその殆どが密林に覆われている。
「まず、この辺りが軍蜂のテリトリーね。」
ペンを手にしたエメラダは虹獣の巣を示している泉の周囲を丸で囲う。
「この領域には軍蜂以外の害獣は存在しないわ。みんな軍蜂の餌になったか逃げちゃったから。」
「そんなに危険な害獣なのか?その軍蜂ってのは。」
大型種の分布に興味を示したアランもいつの間にかテーブルを囲んでいた。
エメラダやフォボスの説明だけではアランには軍蜂の危険性は伝わらなかったようだ。
ロッテやジル、エトワールもセロやオルガンの背後から地図を覗き込んでいる。
「あら、どうしたの?お嬢ちゃん?」
そんな中、ナナは地図には興味を示さずにエメラダのローブをくいくいと引っ張っている。
「あたしはお勉強はイヤだぞ?」
お腹をぽっこりさせたままのナナだったが、少し楽になってきたようで勝手に動き回っていた。
皆がテーブル上の地図に注目していた為、エメラダに接近するナナに誰も気付かなかったのだ。
よく分からない話をしているからお勉強なのかと思い至ったナナだった。
そしてロッテは流れるような動きでナナを捕獲して連行する。
「ごめんなさい、エメラダさん。親分はこっちです!」
ナナの確保にすっかり手馴れてしまったロッテはエメラダに謝罪しつつセロの背後に戻ってきた。
「ぬぅ…。」
まだお腹が重いのか、ナナは抵抗せずにされるがままになっている。
しっかりとナナを抱きかかえたロッテがセロの後ろに戻ったところで説明が再開された。
「軍蜂のテリトリーとその周辺は廃棄場の地上部分でもっとも危険度の高い領域よ。今のボーヤ達には迂回を勧めるわ。」
セロやオルガンを除けば、軍蜂が単体であれば問題なく勝てるだろう。
しかし集団での襲撃が基本戦術である軍蜂との戦闘はあまりにも危険だ。
続けてエメラダは虹獣の巣の北西、高山地帯を丸で囲った。
「このあたりは雲鹿の領域ね。雲の中に入るくらいの標高まで登らないと出会うことはないけど。」
高山地帯を調査した記録はない。
当然、雲鹿という名称はセロもオルガンも初めて耳にする名前だった。
「どんな奴なの?そいつ。」
セロの質問に対し、雲鹿の詳細はフォボスの口から語られた。
「体表面が鏡のようになっていて周囲の景色を映し出す巨大な鹿だ。雲の中、しかも光の射さない環境にあっては視認は困難だ。」
さらに動きも素早く、巨大な角は鋭利でしかも自由に動かせるそうだ。
「狩りの獲物には向かないね。厄介そうだ。怪我人とかは出したくないから鹿はやめとこう。」
「うむ。それがよいであろうな。上位種の雷鹿の電撃は雲を伝導する。軍蜂であっても雲の中までは近付かないくらいだ。」
(ナナに電撃無効の障壁を付与して貰えば対処はできそうだけどリスクが大きいことには変わりないか…。)
セロは高山地帯を狩場候補から除外した。
「虹獣の巣の北は虎の領域、そして北東が獅子の領域になっているわ。」
エメラダはさらに地図上の二ヶ所を丸で囲った。
北の虎。
鋼虎の領域は上位種である凍虎の能力の影響が色濃く出ていて、とにかく気温が低いらしい。
「低気温に対処できるのであれば、大型種を狩りたいのならここが最も危険度が低いと思うわ。」
ただし、軍蜂によって北に追いやられた大型種はどの種も狭い領域に密集している傾向があるので、複数との戦闘を前提にする必要があるそうだ。
最後に北東の獅子。
こちらは焔獅子の領域だ。
「焔獅子は鋼虎と似たような害獣なのだが鋼虎のような守りに優れた体毛はない。だが鬣から可燃性の液体を分泌する。」
「液状の爆薬に近いわね。霧状に放出することも可能よ。火気に反応して爆発するわ。」
フォボスの解説をエメラダが補足する形で説明を受けた。
焔獅子の牙や爪は金属質で頻繁に火花が出る。
戦闘となれば爆発への対処が不可欠となるのだ。
「上位種である嵐獅子は翼を持ち、飛行すら可能だ。爆破能力も強化されている。」
「陸上の害獣では単体での能力で比較するなら最も強いと判断していいでしょうね。」
(狩り易い大型種を安全に一体ずつ、って都合のいい狩場は難しいか…。)
セロは現状での大型種の狩りを断念する方向で考えることにした。
「爆発ということはあたしと一緒だな?兄ちゃん、あたしの爆裂拳とどっちが強いか勝負しに行こう!」
「ん?ナナは焔獅子を狩りたいの?」
ナナは爆破という言葉に反応して焔獅子に興味を示している。
「親分、駄目ですよ?狩りは安全第一です。無理はいけません。」
「ロッテ、爆裂拳は一子相伝なんだ。そんであたしが伝承者だ。つまりあたしはその爆裂拳を使う害獣の拳を封じねばならないんだ。宿命だ。死あるもみだ。」
訳の分からないことを言い出したナナの周りにロッテとジル、エトワールが集まり、説得を開始する。
「ナナちゃん、めっ!」
「聞き分けのないナナさんはこうですわ!こうですわ!」
ロッテに抱き上げられているナナはジルに叱られ、エトワールにはぽっこりお腹をぺちぺちとはたかれている。
「ヒャッ!やめ…、くるくる!?ヒャフ!!」
ナナの様子を眺めていたエメラダはくすりと笑い、ナナに話しかけた。
「お嬢ちゃんが良い子にできるのなら私からプレゼントがあるわ。」
その言葉にナナは動きを止めてエメラダを凝視する。
「プレゼント?」
「ええ。食いしん坊なお嬢ちゃんは確実に喜ぶと思うわ。」
つまりプレゼントは食べ物である。
「廃棄場の密林で最高入手難度を誇る食材よ。お味は保証するわよ?」
「なっ、何っ!それはそんなにうまいのか…?」
「とっても甘くて美味しいわ。」
ごくりと喉を鳴らすナナ。
「ちゃんとお話が終わるまで良い子にしていたらお嬢ちゃんにプレゼントするわ。」
どうやらエメラダの言うプレゼントは完全にナナの興味を引いてしまったようだ。
ナナはそわそわと落ち着きが無くなり、その視線はエメラダとロッテを行ったり来たりしている。
「ロッテ、親分は良い子だ。つまりプレゼントは今すぐ貰えてここで食べてもいい、ということだな?」
「全然違います。親分がお話の邪魔をせずに大人しくしてないとプレゼントを貰えないかもしれない、ということです。」
エメラダはナナにプレゼントの内容を教えておくことにした。
「お嬢ちゃん、プレゼントはね、軍蜂の作る蜂蜜よ。だからこの機会を逃せば入手はできないと考えてね?」
それは軍蜂の巣の奥でしか手に入らない食材らしい。
「軍蜂に捕捉されずに蜜を回収できるのは私か、お嬢ちゃんのライバルでもあるリンリンくらいね。」
自力での入手はほぼ不可能ということだ。
「リンリンが採ってこれるのならあたしも採りに行くぞ?」
ナナはリンリンに出来る事なら自分も出来ると考えているようだ。
エメラダは少し呆れた様子でセロの方を見る。
「ボーヤ、絶対にやめさせてね?本当に危ないから。」
セロは苦笑しつつも頷いた。
「親分?良い子は危ない事をしたら駄目なんですからね?」
ナナはロッテに釘をさされ、ジルにはほっぺたを引っ張られている。
「ヒャッ!!ヒャッ!?」
そしてさらにエトワールは無言でナナのお腹をはたいていた。
エメラダはゆっくりと立ち上がり、ナナの元へ歩く。
「お嬢ちゃん、手を出して。」
「むん?」
収納魔術を使用し、とろりとした黄金の液体の入った瓶を取り出すと、ナナの手のひらに一滴の蜂蜜を落とした。
ぺろん。
ナナは何も考えず、まるで条件反射のように蜂蜜をぺろりと舐めた。
蜂蜜を味わったその瞬間、ナナは驚愕に目を見開いていた。
「何だこれは!?初めての甘さだぞ!?」
ぺろぺろぺろぺろ。
ナナは懸命に自分の手のひらを舐めている。
「おかわり。」
もっと蜂蜜を舐めたいナナは手を出してエメラダに追加を要求した。
「ちゃんと良い子にしてたら瓶ごとあげるわ。」
「瓶ごと!?全部あたしのものなのか!?」
エメラダはにっこりと微笑んだ。
条件を理解したナナは慌てて両手で自らの口を押えた。
蜂蜜を手に入れる為に頑張るつもりなのだ。
そんなナナの姿に満足してか、エメラダは話を続けた。
「これまでの話で大型種の領域の状況は伝わったと思うわ。私は貴方達の行動を強制するつもりはないけど、無駄な犠牲者は出ない方がいいでしょう?」
大型種の領域へ進出するなら与えた情報を用いてしっかりと対策をしてから実行すること。
ここ、大型広場での狩りを続行するなら、軍蜂の探知を密に行い、その接近を察知したならば即座に撤退すること。
結局、エメラダの話というのはセロ達のことを思っての忠告だった。
「エメラダさんよ。貴重な情報をくれたことには感謝してるが、それをしてあんたにどんな得があるんだ?」
オルガンはそれが腑に落ちなかったらしく、エメラダにその行動の理由を問いかけていた。
「あら、私が貴方達に親切にしたらおかしいかしら?」
「俺にはそこまで親密な間柄でもなかったように思えるがな?」
オルガンの発言の後、場の雰囲気が緊迫したものに変化する。
エメラダは反応を見せないが、その傍らのフォボスの眼光は鋭くオルガンを見据えていた。
「オルガンさん!?」
ロッテは思わず声を上げる。
対峙しているエメラダとフォボスはこちらにとっては圧倒的な強者となる。
いざ戦闘となってしまえば確実な敗北が待っているのだ。
「オルさん、そんな言い方をしたら駄目だよ。せっかく教えてくれたんだから。でも理由は俺も気になるかも。」
セロがオルガンを窘めたことで、場の緊張が僅かに緩んだ気がした。
「ちゃんと私達にも利があっての行動よ。だから気にしなくてもいいわ。」
エメラダが言うには、この助言も闘争による変革計画の一環であるのだと言う。
「準備段階として今を生きる人々の能力の上昇を促すのであれば、高い能力を示した者達を保護することもそうじゃないかしら?」
中でも他者の恩恵を知覚できるナナは最優先保護対象となっているのだがエメラダもそこまでは口にしない。
「…。」
セロにはエメラダの淀みない回答がどこか前もって用意されていたように思えて仕方がなかった。
(何だろう?どこかしっくりこないような感じがする…。)
「話はこれで終わりよ。手に入れた情報を生かすも殺すも貴方達次第ね。」
エメラダは立ち上がり、ナナの所へやってくると、テーブルの上に蜂蜜の瓶を置いた。
「もう貰ってもいいのか!?舐めてもいいのか!?」
瞳を黄色に輝かせたナナは蜂蜜の瓶に顔を近づけて興奮している。
「お嬢ちゃんはプリンが好きなんでしょう?せっかくだからこれを使った蜂蜜プリンとか作ってもらったらどう?」
それはナナの興奮をさらに引き上げてしまう言葉だった。
「蜂蜜プリン!?そんなプリンがあるのか!?」
エメラダの提案にナナは完全にその気になっている。
蜂蜜の瓶をしっかりと握って、ロッテの服を引っ張っている。
本来は狩りの予定だったのだがナナの意識は蜂蜜プリンで埋め尽くされてしまっていた。
「ロッテ、親分はおやつの時間だ。ハンナに蜂蜜プリンを作ってもらうぞ!」
ナナはロッテの服をさらにぐいぐいと引っ張る。
狩猟服のズボンが脱げそうな勢いだ。
「お、親分、落ち着いて…。」
ズボンを押さえながらロッテは興奮しているナナを宥めようとしている。
「う~ん。ナナの様子だと今日はもう狩りにならなさそうだね。」
すでに今の時点で十分すぎる量の獲物は確保している。
少し早めの時間だが、今日の狩りはここまでとすることにした。
「それじゃあね、ボーヤ。伝えることは伝えたし、私達は戻るわね。」
「あ、待って、エメラダさん。一つお願いがあるんだけど…。」
セロのお願いは、エメラダとの連絡手段が欲しいというものだった。
「話したいことはたくさんあるんだ。でも今はナナがこんな状態だから…。」
「私は一応古参のメンバーなんだけど、情報を洩らしやすいように見えるということかしら?」
エメラダは窓口として自分を選んだ理由が気になるようだ。
ロッテの存在があることから、そのような役割は父親であるサーレントに求められると考えていたのだ。
「そんなことは考えてないよ。当然言えないことは言わなくてもいいし。教会の人間を捕まえて取り次ぎを頼むにしても時間がかかりそうだから。」
直接的な理由としては転移魔術の使えるエメラダであれば、都合もつけやすいのではないかと思った。
セロはそのように説明した。
エメラダは収納から鉢植えを取り出し、テーブルに置いた。
「私に用がある時はこれに語り掛けるといいわ。眠っていたり手が離せない時は無理だけど、そうでなければ私に伝わるから。」
ぴょこんと鉢植えに盛られた土から芽が飛び出す。
それはすくすくとみるみるうちに成長して青みがかった緑色の大輪の花を咲かせた。
「この花は聞くだけ。必要な返答は何らかの形で用意することにするわ。」
セロは受け取った花をナナに収納させ、エメラダとフォボス、アキームとナナシは転移で去って行った。
「兄ちゃん、あたし達も早く帰ろう?おやつの時間だ。兄ちゃんにも少しなら分けてやってもいいぞ?」




