096 観望
キュキュキュキュキュ!
大広間にマジックペンの走る音。
もう何度目の落書きになるだろうか。
諦めずに勝負を繰り返すナナの顔は落書きだらけになっていた。
「まだやるの?もう落書きするところがないよっ!?」
これまでのナナのあらゆる攻撃はただの一つもワンダー・リンリンには届かない。
そしてワンダー・リンリンの落書きもまったく防げていない。
それでもナナは吠えていた。
「あたしは負けないんだ!!」
「しょうがないなぁ…。」
なおも突っかかるナナに対し、ワンダー・リンリンは左手にステッキ、右手にマジックペンを握った状態で、左手のステッキを振り上げた。
ビクッ!!
ナナはワンダー・リンリンの動きに過敏に反応する。
「すっかり怖がっちゃってるねっ!!自分の弱っ子ぶりが理解できたなら、そろそろやめにしたいんだけどどうかなっ!?」
「ふぐぐ…、あたしは弱っ子じゃないっ!!」
半泣きになっているナナはそれでもワンダー・リンリンに向かっていく。
「あ~あ~。これ以上はもういじめになっちゃうよ…。でもまぁ、向かってくるんだから仕方ないかなっ!?」
結果の見えた不毛な争い。
ナナの繰り返される抵抗はしばらく続いた。
そしてそれなりの時間が経過した。
「もうそろそろよいのではないか?勝敗は明らかじゃろう?」
二人の勝負を終わらせたのはデアボリカの一言だった。
「そうだねっ!これ以上やるのは弱っ子ナナが可哀そうだからねっ!!」
「………。」
弱っ子と言われてもナナからは反論の声は聞こえてこない。
完全に動きを止めているナナは、どうやら反抗心を折られてしまったようだ。
「ナナ、上には上がいるってことを分かってくれたかなっ!?次に会う時はこの敗北を糧にしてすんごい成長しているのを期待しているからねっ!!」
ワンダー・リンリンはナナに背を向け、奥の扉の方へと去って行った。
「親分…。」
ロッテはナナを心配して声をかける。
ナナは両手で自分の顔を隠した状態で震えていた。
何をやってもワンダー・リンリンには通用せず、そしてその落書きを防ぐこともできない。
ナナに残されたのは顔を隠して落書きを防ぐという手段だけだった。
「悔しいんですね?親分。」
ロッテは悔しさに震えるナナを背後から抱きしめる。
ナナは振り向いて両手をロッテの腰に回し、そのおなかに顔を埋めていた。
「…ロッテ。親分負けた…。」
敗北を認めたナナはその顔をぐりぐりとロッテのおなかに押し付ける。
「ふぐぅ…、うぐぐ…。」
そのままナナは泣いていた。
「親分…。親分はとっても頑張りました。親分は凄い子です。」
ロッテはナナを強く抱きながら頭を撫でる。
「そんな…、ナナさんが負けるなんて…。」
密かにナナに勝つことを目標の一つとしていたエトワールはべそをかくナナの姿に驚いていた。
ティータ。
それにエメラダやフォボス。
他にもナナを上回る強者はそれなりに多くいる。
しかし先程の勝負は付与魔術に限定したもの。
エトワールはナナが付与魔術の勝負で敗北したことに驚愕していたのだ。
「ナナよ。先程の少女は付与魔術の技量に限定すれば組織内でも最強と言っていい。負けたからとて恥じることはないぞ?」
デアボリカはナナやエトワールの心情を酌んだ訳でもなくそんなことを口にしていた。
「……。よく頑張りました。」
やってきたメルトもナナの頭を撫でる。
いつの間にか、観戦していた皆がナナの周囲に集まっていた。
「このような薄暗い場所ではナナの気も滅入ろうというものじゃ。奥の扉の先は山の中腹、魔王の居城の前に続いておる。」
デアボリカは一度明るい場所に出て休息をとってはどうかと提案する。
特に反対する理由もない為、皆は奥へと歩き始めた。
「外に出るそうですから、親分を抱っこさせて下さいね。」
ロッテはしがみ付いているナナを抱き上げた。
ナナは液状化した石材の中に落ちているので、全身が泥んこだった。
当然、ロッテの綺麗なドレスも泥だらけになっている。
しかしロッテはドレスよりも落ち込むナナを抱きしめること方が重要だと言わんばかり。
汚れを全く意に介さず、泥だらけのままナナを抱いて最後尾を歩き出した。
扉の奥は階段だった。
すこし長めの階段を無言で登っていく。
そして登った先にもまた扉。
その扉を開くと、外から強烈な光と少し強くなった風が吹き込んでくる。
これまでの砂塵まみれの風でなく、すこし冷たい山地の風だ。
外に出ると、前方に古びた城があった。
外壁の一部が損壊していて、その付近にも破壊の痕。
その直上の尖塔も壁に穴が開いている。
さらに正面の正門も大きく破壊されている。
ティータによって吹き飛ばされたこちらの破壊の痕はまだ真新しい。
「魔王の城って…。壊れてるね…。」
セロはぼそりとその感想を呟いた。
予想よりもその規模が小さく、破損もそのままになっている魔王の居城に対しての感想だった。
「この城はとある英傑の墓標なのじゃ。」
デアボリカは目の前のボロ城について語り始めた。
ブリーズランドを治める歴代の魔王達は、自らの同胞である氏族を優遇し他氏族を冷遇した。
言ってみれば、ブロアとベルフェン氏族による圧政という現状はブリーズランドの伝統でもあるのだとデアボリカは語る。
「刃の魔王ザンクンの時代、魔王ではないがとある英傑が立ち上がり、虐げられる他氏族の開放を求めて戦った。」
魔王を害するのは魔王だけ。
これは当時も存在したルールであり、英傑の行いは魔人族の掟に反すること。
しかしその英傑、サンドラはそれでもとザンクンに反旗を翻し、正面から正々堂々と魔都に攻め込んだ。
「サンドラという名前はそこから…。」
セロの呟きに皆が頷く。
現在のサンドラ。
その名乗りの元になった人物であろうことは容易に想像がついた。
「搦め手の類を嫌い、正面からぶつかることしか知らないサンドラは激闘の末にここまで辿り着いた。」
結果としてサンドラは刃の魔王ザンクンに敗北した。
城壁と尖塔を破壊された古城は、その時の戦闘が原因となっているらしい。
当時の魔王ザンクンはサンドラの健闘を称えて、この城の破壊痕をそのままにサンドラの墓標とした。
氷の魔王リブラは他氏族の反乱に対する教訓として。
炎の魔王ブロアは過去の魔王の判断にそう形で。
それぞれの考えから、こちらの破壊痕は修繕されずそのままになっているのだ。
「サンドラはザンクンと同じ氏族、つまり優遇される側の者じゃった。しかもザンクンとは親しい友人と言ってもいい。」
そのような人物が如何にして反乱を決断するに至ったのか。
デアボリカはサンドラが反乱を起こした当時はブリーズランドにいなかった為、詳しい事情については知らないそうだ。
「けれど負けはしましたが正々堂々な振る舞いには好感が持てますわ。」
エトワールはサンドラの行いを称賛する。
「エトワール王女よ。それではダスカールは報われんぞ?自らの末がそのような体たらくではな。」
対して、デアボリカの考えは逆のようだ。
「どういうことですの…?」
「ダスカールとサンドラの行いとその結果を考えればおのずとわかることじゃ。」
エトワールの問いかけに、デアボリカはその解答を口にしない。
そのくらいは自分で考えろということだろう。
「皆、ついてくるのじゃ。」
デアボリカは道を外れ、城の逆側となる上層区の城壁の上へと足を向ける。
「魔王との会談はいつでも可能じゃ。しかしいろいろと疲れておろう?しばしこちらで休息をとるとよい。」
そこは少し広くなっていて、座席等が設置してある。
東側に目を向ければ、真下には連なる上層区の城壁。
さらにその先には中層区の街並みとその向こうには下層区との境界となる外壁。
そして外壁の向こうには遥か遠方まで広がる大砂海が一望できた。
「凄い眺めだね。」
セロに続いて、皆がその光景に目を奪われる。
「ほら、親分、綺麗な景色ですよ?」
ロッテは自分にしがみ付いてめそめそしていたナナに声をかける。
真っ黒な顔をしたナナはしばらくの間、すっかり青くなった瞳でその光景を眺めていたが、それに飽きると再度ロッテの肩に顔を埋めていじけている。
「もう。親分ったらしょうがないですね…。」
ロッテはそんなナナを撫で続けている。
「とりあえずその状態では会談もままなるまい?湯浴みの用意が必要かの?」
デアボリカはロッテとナナの状態を見ながら言った。
「いえ、大丈夫です。親分が落ち着いたら一度戻ります。」
「そうか。今日は他に予定もない。本日中に城に来てくれればよいからゆるりと休んでくるがよかろう。」
デアボリカ、ハクビ、メルトの三人は一足先に古城へと向かって行った。
「セロさん、私は一度王都に戻って親分をお風呂に入れてから着替えてきます。」
三人を見送った後、ナナとロッテは転移で王都に帰還する。
「うん。俺達はここで休んでいるから、ゆっくりしてきて。」
残された者達、セロ、エトワール、ルーシアは黙って眼下の光景を見つめている。
アランは暇なので筋トレ、腕立て伏せだ。
ジルはトラと一緒に走り回るミケとクルルを追いかけている。
「ルーシア。先程デアボリカさんがおっしゃった、ダスカールが報われないというのはどういうことですの?」
皆が黙する中、エトワールは隣に立っていたルーシアに話しかけている。
「そうですね。姫様はダスカール様を悪と断じておられるでしょう?」
「他国への侵略に卑劣な謀略。私にはその行いを正義とは認められませんわ。」
断言するエトワールは鼻息を荒くしている。
そんなエトワールに、ルーシアは問い返していた。
「侵略を受けた亡国の民にとってはそうですが、当時のグラン氏族国の民にとってはどうでしょう?」
乱世にあって自国領は全くと言っていいほどに戦火に晒されることはなく、平原統一という偉業は間違いなく自国民を救ったと言えるだろう。
他国への侵略は弱小勢力であったグラン氏族国を守る為の選択。
卑劣な謀略は祖国を守る為の方策として選択肢が限られていた為。
「ダスカール様がもし類まれなる善人であったと仮定すれば、このような解釈もできるのかもしれません。」
王国の祖王に対しての不敬な発言をお許しください。
そのように断ってから、ルーシアは発言を続ける。
「悪人であれば、全て自らの支配欲を満たす為の侵略であり、他者の犠牲を何とも思わない人間性が卑劣な謀略を決行させた。」
ダスカール善人説では、侵略行為や謀略は民を守る為のやむを得ない手段であった、となる。
対して悪人説では、それらの行為はエトワールの考える悪事そのまま。
「まだダスカールの善悪を断じるには情報不足であると言いたいのですか?」
「デアボリカさんはダスカール様が報われないと言いました。であればそのような可能性もあるかもしれないと思ったんです。」
ルーシアはエトワールの問いに可能性の返答を返していた。
「デアボリカさんが言いたかったのはそれだけじゃないと思う。」
ここでセロも会話に参加する。
「ダスカールの行動は悪。そしてサンドラの行動は善。エトワールはそのように受け取っているみたいだけど、その結果も踏まえて考えてみると…。」
ダスカールの悪行は敵対者を破滅させたが、何もしなければ大国に搾取されるだけだった自国民とその恭順者にとっては救いとなったはずだ。
対してサンドラの行った善行の結果はどうか?
サンドラが刃の魔王に敗北したことで、革命は失敗に終わっている。
当時の反乱では、敵味方含めて多くの命が失われたことだろう。
それでも結局、虐げられる他氏族の状況は変わらなかった。
現在の反抗勢力がサンドラと名乗っている事実から、成功したと言えるのは他氏族の心に反抗の意思を芽吹かせることだけ。
「極端な分け方をすれば、犠牲を出しただけで誰も救われない善行を成したサンドラと、少なくとも味方だけは救うことができたダスカールの悪行。」
正しいのはどちらだろうか?
セロはエトワールを試すように視線を向けた。
(結果だけを見ればダスカールが正しく、誰も救えなかったサンドラは間違っていると言いますの?ですがその為に選んだ方法は…。)
最終的には、結局勝った者が正しいということになってしまう。
エトワールはその考えに素直に頷くことを良しとせず、思い悩む。
そもそも、正しいか間違いかを決められることなのだろうか?
もたらした結果と選んだ方法は違えど、味方を救おうとしたのはどちらも同じ。
ならばどちらも正しい?
それとも、救うと決めた対象を選別して、自らに従う者のみを救うという行為そのものは両者とも変わらない。
ならばどちらも間違っている?
エトワールの顔が徐々に紅潮していく。
どうやら答えを出せず、ついていけなくなってきているようだ。
「むむむむむむ……。」
エトワールは知恵熱によって頭部から白煙を立て始めた。
「エトワール、これは俺が思うに正解とかって無いんじゃないかな?少なくとも俺には分からない。」
セロの発言にエトワールは驚いた顔をしている。
「セロ様が分からないのに私に分かるはずがありませんわ!?」
「姫様、正しきことを成すというのはとても難しいことだと私は思います。」
騎士であるルーシアにとっては、正しくあることは常について回る問題なのだ。
「常に自らの行いが正しいのか問い続け、より正しい道を模索し続けること。」
ルーシアは先達の騎士よりそう学び、後続の騎士にもそう教えているのだという。
「ダスカールを判断するには情報不足かな?デアボリカさんにその辺を聞ければまた違ってくるかもしれないけどね。」
セロはそのように締めくくる。
エトワールはセロとルーシアの言葉を反芻し、大砂海の雄大な景色を見ながら考えていた。
「はい、親分、綺麗になりましたよ。」
ナナは自宅の浴室でロッテに体を洗われていた。
泡だらけになっていたナナはロッテにお湯をかけられて洗い流される。
身体と衣服は泥んこ、顔面は落書きが涙でぐしゃぐしゃになって真っ黒になっていたのだが、すっかり元通りになっていた。
ロッテは綺麗になったナナを抱き上げ、一緒に湯舟に入る。
「気持ちいいですね、親分。」
元気のないナナに話しかけるロッテ。
「ロッテ。親分は偽物の美少女だった…。親分は本当は可愛くないんだ…。」
ようやく言葉を発したナナのコメントは敗北の感想としてはおかしなものだったが、ロッテは真面目に返答する。
「そんなことはありません。親分はとっても可愛い子です。私は親分が可愛くて仕方がないくらいですから。」
ロッテはさらに力強くナナを抱きしめ、ナナは背後のロッテを見上げる。
「でも親分はリンリンに負けちゃったぞ?」
「そうですね。リンリンちゃんはこれからの親分のライバルですね。ほら、親分が変死狼さんでリンリンちゃんが珍さんみたいな…。」
ナナに分かり易いように、ロッテはナナの大好きな物語に例えた。
「むっ!それはつまり、あたしがここで執念付与を会得してパワーアップするんだな!?そしてリンリンより強くなるんだな!?」
「そうなれるように頑張りましょう。私も親分をお手伝いしますから。」
(なんだか親分が元気になってきたみたいです。例え話がよかったんでしょうか?)
もしも配役が逆だったらナナはさらに落ち込んでいただろうことをロッテは知らない。
「その場合、無理亜は誰になるんだ?ロッテか?ジルか?まさかくるくるはないだろう?」
(無理亜?何のことでしょうか…?研究不足です…。)
ナナは少しずつ元気を取り戻しつつあるようだ。
ロッテはさらにたたみかける。
「親分は言ってましたよね?変死狼さんは最初は珍さんに負けちゃうけど強くなってから珍さんを倒すんだって。」
「!!!?」
ナナは湯につかったまま衝撃を受けている。
「親分が強くなってリンリンちゃんに勝てるように、一緒に頑張りましょう。」
ロッテは両手をぐっと握ってガッツポーズ。
「執念だな?あたしもリンリンに執念だということだな?」
(執念?絶対に諦めないという意思の現れでしょうか?でも何でその言葉に拘っているんでしょう?)
ナナはさらに元気を取り戻していく。
「グッフフフフ!きっとチンチンの奴はおまえの付与魔術では死なんとか言い出すに違いない!あたしがチンチンの墓を作ってやるぞ!」
「親分!?名前が変わっています!!その名前だけはやめてあげて下さい!!!」
必死にナナの命名を修正しようとするロッテ。
「ほあぁ!!あちゃあ!!!」
そしてすっぽんぽんのナナは湯舟で大暴れしている。
「親分!?落ち着いて…、湯船で暴れたら駄目です!!」
完全に元気になったナナはすっかり興奮して湯面に向かってパンチを繰り返していた。




