001 常夜の国
太陽の光がほとんど届かない分厚い雲の下、その国はあった。
国の周囲を高い絶壁と汚染された海、虹海に囲まれ外界から隔離されたかのような土地。
空を覆う雲は年中晴れることはなく、雲粒には虹素と呼ばれる有害物質が溶け込んでいて、水面に浮かんだ油に似た不気味な光沢を放っている。
ただし、地上からはただの闇がそこにあるようにしか見えない。
虹水でできた雲は太陽の光を乱反射させ、地上に届くのはごく僅かなのだ。
そのため昼夜を問わず薄暗く、上空の闇からは毎日のように雨が降る。
虹素を取り込んで異常成長した植物は日光がほぼ皆無の環境で育ったせいか、葉をほとんどつけていない。
異様に長く成長した枝が絡み合うかのように密集しており、時折垂れ下がった花は弱々しい発光を見せていた。
そして、この土地に暮らす人々が用意したであろう各所に点々と灯る篝火の明かり。
発光植物と篝火の明かり。
これらが周囲を照らす僅かな光源となっていた。
もしもここに日光が降り注ぎ、光に照らされた地上を俯瞰することができたなら。
延々とそこに広がる異常植物の密林を視認することができただろう。
背の高い植物だと50メートルを超えるものも多く、それぞれが迷路を形成するかのように絡み合う。
そんな密林の中に巨大な石と金属で構成された建築物が点在している。
樹木が覆いかぶさっていたり木の根や枝が建物の内部に侵入していたりと、ほとんどの建物が植物に飲み込まれている。
この建築物は、実際は高層建築物であり、巨大な塔を思わせる形状をしていた。
地上に露出しているのはあくまで上層部分である。
多数の高層建築物で構成された街の廃墟が土中に埋まっており、その上に密林を被せたかのようなつくりになっているのだ。
埋没している建物は、現在は失われてしまった建築技術で建造されたもの。
強固ではあるのだが、長い年月による老朽化と土砂や植物の浸食で内部が埋まっていて通行できない建物ばかりだ。
その中の一つ。
数多くの篝火に照らされた周囲のものよりさらに大きい建物。
入口に【ビフレスト】と雑な手彫りで刻まれたそれは例外だった。
大きく堅牢で、窓が少ない特殊な構造のおかげか土砂や植物の影響をあまり受けず、地下の市街地への道となっていた。
ここが国の入り口。
常闇の牢獄に暮らす囚人たちの国だった。
彼らが地上でなく地下で生活しているのにはいくつかの理由があった。
国の西側にある大絶壁。
そこから地下街をかすめて虹海へ向けて大きな谷がある。
内壁面は全て高層建築物と土砂や岩で構成されていて、建物も壁面に合わせて損壊している。
都市が埋もれた後に何かに削り取られたかのような形状になっているのだ。
谷底の建築物の間には川が流れていて、この水は大絶壁の外から流れ込んでくる。
これは浄化さえしてしまえば豊かな水源として住民達に重宝されていた。
さらに、ここを吹き抜ける風が地下の換気を促し、地下であっても空気は清浄。
そもそも建物の中であるから、虹素を含んだ雨、虹雨の影響も小さい。
地下街は地上と比較すれば生活環境に天と地程の違いがあった。
そのため、この国では強者であるほどに下層での贅沢な暮らしが可能であり、弱者であるほどに上層に追いやられる。
個人の能力による階級社会が形成されていた。
そして上層にすら住まうことが許されない最弱の者達。
彼らは外民と呼ばれ、汚染された地上で虹雨と害獣の脅威にさらされていた。
死と隣り合わせの危険な環境の中、楽園からの配給という毎日の糧を得るために働き、無気力にただ生きていた。
外民たちの脅威となる虹素は浄化魔術で簡単に無害になる。
さらに、浄化できずに人体に取り込まれたとしても早急に解毒魔術をかけることで簡単に無力化できる。
しかしそれがかなわない場合、その毒性は強力である。
浄化手段もなく雨に打たれると、生物は一時間もしないうちに全身から血を噴き出して害獣へと変化するか、破裂してただの肉片となる。
害獣は虹素を取り込んだ生物が変化したもので、元になった生物の特徴を継承しつつ強化され、性格も狂暴になる。
人間も捕食対象にする危険な獣ではあるが、捕食対象追跡時を除いて、浄化されている場所には近寄らないという習性がある。
虹雨、そして害獣の脅威から身を守るために、地上に暮らす外民は徒党を組む。
密林に点在する建築物を中心に小さな集落を作り、廃墟となった建物の残骸や地形をうまく利用し雨をしのぐのだ。
また、国から支給された浄化魔術が付与された魔導具を浄化具と呼び、それを使って害獣から身を守る。
多くの外民は、浄化された果実や木材等、密林で採れる物資を国に納めることを生業とする。
それらと引き換えに国からもらえる食糧のおかげでなんとか食べていける程度の暮らしができていた。
そんな外民たちの暮らすとある集落。
カンカンカンカン。
集落中に響き渡る大音量の鐘の音。
それと同時に駆け足でやってきた男達が大声で叫ぶ。
「雨天警報だ、雨が降るぞ!速やかに家に戻れ!」
彼らは国から派遣されてきた警備兵であり、外民を監視する者達。
害獣の革を素材にして造られた防具を身にまとい、腰には帯剣している。
同じことを叫びつつ移動していく彼らがいなくなった頃。
服とも呼べないようなボロボロの布を羽織った住民達はそれぞれ自分の家に戻っていく。
その様子を一人の少女が眺めていた。
他の住民と同じくボロ布を羽織っており、フードをかぶって顔を隠していた。
少女もまた、自宅に戻るべく歩いていく。
集落の中心から少し離れたところで、地面から7メートル四方くらいの箱型の石が斜めに据えられているのが見えてきた。
斜めになった石の壁面にはひとつだけ、地上近くに長方形の穴が開いていて、そこに木製の扉が取り付けられていた。
壁は石造りだが天井はない。壁の高さも3メートルくらいだ。
その上には樹木の枝が通っていて、それに厚手の布が張られて簡易の屋根となっている。
これには森で採れる樹液が塗られていて、雨水の侵入を防いでいた。
少女は扉を開けて、家に戻る。
そして中にいた老人に声をかけた。
「じいちゃん。」
老人はフードをかぶったままの少女を見た。
「なんじゃ?ナナ。」
返事をしながらテーブルの上の浄化灯を点ける。
これは、固形油を燃料としたランプに浄化の効果を付与された魔導具であり、光に照らされた室内を浄化する力がある。
この家は集落の中心に設置されている浄化具から離れているため、雨天時には万一の雨漏り等に備え、常に室内を浄化しておくのだ。
とは言っても、通常の外民は浄化灯のような魔術のかかった物品等は所持していない。
老人は技能としての浄化魔術を有しており、それが害獣対策に必須である為、外民達の中でもそれなりの立場にいた。
さらにビフレスト内部に伝手があり、浄化灯はそこから入手したものだった。
そんな老人に目線を向けたまま、ナナはテーブルの老人の向かい側の椅子に座り話し始める。
「あたしな、この集落、なんかイヤだ。」
「どうしたんじゃ?突然。」
「うまく言えないけどイヤなもんはイヤだ!」
ナナは座ったままで両手をぶんぶんと振り回している。
「困ったのぅ……。」
老人が反応に困っていると、ナナが続けて喋り始めた。
「ビフレストの周りには集落が他にもあるんだろ?」
「うむ、七つの集落が点在しておる。」
「他の集落もこんな感じなのか?」
「いや、他はもっと酷い。ナナのような女子は、たとえ幼くとも他の住民の嬲り者にされるじゃろう。」
「嬲り者?」
「まぁ、いじめられる……、よりも酷いことをされる。じゃから外では顔を隠せと言うておるんじゃ。」
「痛いのはイヤだ!」
ナナはまた両手をぶんぶんと振り回し始めた。
しばらくして、疲れたのか腕の動きを止めたナナが老人に問いかける。
「壁の向こうには虹雨も降らない、害獣もいない別の世界があるんだ。あたし知ってるんだぞ?」
「うむ、西の密林を超えた先には雲よりも高い壁があり、虹雲は壁の向こうには存在しないらしいのぅ。」
外民はこの国で生まれ育った者ばかりではなく、外界で罪を犯し放逐された者や、何らかの事情で逃亡してきた者なども多くいる。
老人の言葉は、咎人と呼ばれる彼らから得た情報によるものだった。
ナナは頭までかぶったフードをとった。
左右に小さなお下げを結った赤毛の少女の顔が露わになり、若草色の瞳が老人を見据える。
「なんでみんなそこに行かないんだ?あたしはじいちゃんと一緒に壁の向こうに行きたいぞ?」
老人は自分の髭をいじりながら、ふむ。と一呼吸。
「ナナはまだ8歳、わしはやがて60になる年寄り。今の儂らにそんな力はない。」
思考しつつ続けて語る。
「力だけではない。困難を打破するための知識、技能。支えあう仲間、入念な準備。そして情報。儂らには何もかも足りんよ。」
先の言葉がよくわからなかったらしいナナは老人を見つめ、ムスっとした表情をつくりそのまま頬を膨らませている。
やがて堪えきれなくなったのか、騒ぎ始めた。
「やだ!行きたい!」
じたばたと手足を動かして、駄々っ子になっている。
老人は言葉を変えてみた。
「よいか、壁に辿り着くまでには汚染のひどい地域を通ったり、害獣に襲われたりするのじゃ。」
ナナは駄々っ子状態のまま反論する。
「浄化具あるから大丈夫だ!害獣もあたしがやっつけるぞ!」
さてどうするか、と老人は髭をさする。
「しょうがないのぅ……。じゃがそれがナナの望みならば……。」
老人は立ち上がり、部屋の奥から黒い石板を持ってきた。
「この石板は鑑定板と言って、鑑定魔術が付与されておる。持ってみなさい。」
ナナは鑑定板を受け取り、老人はそれに魔力を流した。
鑑定板に文字が浮かび上がり、それにはこう書かれていた。
ナナ(虹人)
レベル 3
恩恵 付与魔法:恩恵
技能 なし
効果 浄化
解毒
「?」
ナナの目が老人に説明しろ、と訴えている。
「これは……。」
老人から語られた鑑定板の内容は以下の通り。
レベル…対象の現時点での総合的な能力を数値化したもの。
赤子で0、平均的な大人で10くらい。訓練された国の警備兵で15くらい。
町の外に害獣を狩りに出る狩猟者で20くらい。
恩恵…世界より与えられし才能とされている。技能のように能動的に使用せずとも常に本人に影響を与え、効果を発揮し続ける。
技能…習得した戦技や魔術等が表示される。本人の意思で任意に使用できる。
効果…現在かかっている魔術効果。
この場合は、ナナの装備しているフード付きの外套に付与された浄化と、首飾りに付与された解毒の効果。
「まぁ、こんな感じじゃ。」
「3って……、あたし……、雑魚じゃね?」
がっくりと肩を落としたナナは溜め息を吐く。
同時にナナの瞳の色が青く変化した。
「たしかにレベルは基本的に数字が大きくなるほど強いと思ってよいがそれだけでは判断できん。」
「3は弱いのか?あたし弱いのか?」
「今のナナはまだ幼く力も弱いが、強力な恩恵や技能を持つ者は多少のレベル差をものともしない強さを持つ。」
ナナはそれを聞いたとたんに目を大きく見開いた。、
「あたし、恩恵あるぞ!強いんだな!?あたし強いんだな!?」
見開いた目の色は黄色になっている。
それを見た老人はにやりと笑った。
「まったく素直な虹眼じゃな。」
通常時は緑、悲しい気持ちになると青く、喜びの感情で黄色、恐怖は黒、そして怒りで赤く変化する瞳。
この特殊な瞳は虹眼と呼ばれ、この国の人間、その中でも極一部の高い魔力素養を持った者特有のものだった。
ここに暮らす者は、虹素の摂取を避けることができない。
呼吸や食事で、浄化された虹素を吸収する。
そのせいか、ここの人間は外界の者と比較して魔力の素養に優れていた。
元々外界の住民だった咎人はこの環境に慣れてくると、虹人との違いからか劣等感に悩まされ、とある場所にある咎人のみの集落へと移動する。
価値観の違いもあってか、どうにも馴染めないと主張する者がほとんどだった。
廃棄場の住民の中でも得に魔力に高い素養を示す者、それが顕著な者に発現するのが虹眼である、とされている。
外界の一般人の魔力を10とするなら外界の平均的な魔術士で20から30。
この国の人間だと一般人で30から40、魔術士であれば100を超え、それが虹眼発現者ともなれば300以上。
しかしナナは8歳の現時点ですでに700を超えていたのだが、今はまだ、誰もその才能に気付いてはいなかった。
「ナナにとって最も重要な恩恵についての説明は簡単に済ませてしまったが、これは仕事の後でじっくり話そうかのぅ。」
座っていた老人はそう言って立ち上がる。
「雨が止んだ。外の浄化作業に行かねばな。」
いつの間にか雨音が消えていることに気付いた老人が外套を羽織る。当然ボロボロである。
ナナと同様にフードを頭までかぶり外に出る。
老人の手伝いをしようと、ナナも外へと歩き出した。
家を出た老人は、浄化魔術を発動させて、歩き始める。
ただ歩いているだけにしか見えないが、実際は周囲を浄化しつつ移動しているらしい。
不気味な虹色の光沢を放っている足元の水溜まりから、水面の光沢が消えていく。
老人は歩みを止めずに口を開く。
「ナナはここを出て行きたいのかね?」
ナナは老人に駆け寄り、手を握ると笑顔で返答した。
「ここはつまんないぞ。じいちゃんに力がないのなら代わりにあたしが強くなるから一緒に行こうぜ!」
老人は優しく微笑む。
「ならばわしも約束を果たさねばな。」
「約束?」
「家族との約束でな、おぬしの選択を皆で手伝う。とな。」
しばらく集落の周囲、特に中央の浄化具でカバーできないであろう地域を重点的に歩く。
老人にとっては慣れた仕事だ。
浄化が完了したのを確認し、中央に戻ってきた。
「こんなものかのぅ。」
一仕事終えて休んでいた老人に、警備兵が声をかけてきた。
「じいさん、お疲れ。」
雨あがりは集落周辺は汚染されているので、浄化作業には警備兵が同行するようになっていた。
本当に害獣が襲ってきた場合は、時間稼ぎ程度にしかならないのだが、この警備兵はそれをわかって真面目に仕事をこなすタイプだった。
ナナはまったく気付いていなかったが、実は後ろから追従していたらしい。
「ほれじいさん。今日の分だ。」
警備兵が手渡してきた木片を利用した割符を、老人は笑顔で受け取る。
「ありがとうございます。」
「食糧はいつものでいいかい?」
「ええ、明日伺います。」
この割符が労働の証明となり、後日食糧と引き換えることができる。
ナナは老人と手を繋いだまま、帰宅の途についた。
「骨~付き~肉~♪うっう~うまうま~♪」
ナナは珍妙な歌を口ずさみ、上機嫌に歩く。
ここでは大した娯楽はない。
外界から入ってくる僅かな書物くらいだ。
しかしそれも、通常であれば外民には手にする機会はない。
ナナは老人の伝手からいくつか所持してはいたのだが、それでもその数は少なく、何度も読み返した書物はすでにボロボロだ。
そんな事情もあって、ナナにとって食事は数少ない楽しみの一つなのだ。
帰宅後、ナナは水を用意して椅子に腰かける。
老人は何冊かの書物をテーブルに乗せつつ、自分も椅子に座った。
「まずはナナの家族の話からはじめようかの。」
ナナは驚いた顔になる。
「あたしに家族いるのか!?じいちゃん以外に!?」
これまで家族のことなど聞いたことがなかったナナは、当然それに食いついてきた。
「うむ、父と母、それと兄がおるよ。皆生きておる。」
老人が語る。
「どこに!?どこに行けば会えるんだ!?」
ナナはすっかり興奮してしまっていた。
「それもこれから話すから、落ち着きなさい。」
そう言って老人は水を口に含むと、さらに語り始めた。