いつも星の輝く空の下で
Ⅴ.
「どうだ? ここからなら停泊している特区がよく見えるだろ?」
ワイズは、そう言って自信ありげに後方にいるフィリオたちに笑いかけた。
「ほんまに、すごくよく見える」
そこは、北の湾口を高くから臨むことのできる住宅街の一画に位置し、雲海生物特区の停泊域を眺望できる場所──されど、湾側に向けて雑木が茂るほどに放置されてしまった悲しげな空き地でもある。
そんな雑木の木陰に立って、フィリオとハナヨ、そしてワイズの三人は、雲海に悠然と浮かぶ雲海生物を眺めやっていた。
「……やっぱり、サクラやったんやね」
肉眼でも停泊域に止まったハナビラガメが視認でき、フィリオにはそのハナビラガメがサクラであることが一目でわかった。ついにサクラを近くで見ることができたことで不意に込み上げそうになった感傷を、ゴクリとのどを鳴らしてつばと一緒に飲みこんだ。
この場所に来るまでの道すがら、ワイズから到着したハナビラガメがサクラで間違いないだろうとは聞いていたが、実物を見た感慨はそれとはまったく違った。
ワイズによれば、やはりサクラと港湾支局との間で回光信号による通信が行われ、その中で「特区第四〇六三号」と名乗ったことで、シンドアに寄港しようとしているハナビラガメがサクラだとわかったそうだ。
「やっぱり、自分の目で見て安心したかい?」
「そんなの当たり前やんか。もしかしたらワイズさんがウソついてるかもしれんのやし」
「おいおい、ひどい言われようだな」
いたずらっ子のように笑ったフィリオに苦笑で返したワイズは、彼女から受け取った改造魔導ランプを設置するために生い茂った雑木の中に潜りこんでいった。
フィリオはその背中を見つめながら、あの不可思議な手紙の内容──新たな同伴人警戒せよ、の言葉を思い出していた。
手紙が届いてから少し間をおいてフィリオたちが宿を出ると、ちょうど宿に入ろうとしていたワイズと出くわした。
鉢合わせた瞬間おおいに驚いたフィリオに比べて、ワイズはそう驚いた風には見えなかった。それは見ようによっては、まるで二人が出てくることを知っていたかのような現れ方にも思えた。
行動を共にしている者にそうした疑惑の念をもってしまうことは、どうしてもすべての選択や行動に不穏な陰を見て判断をにぶらせてしまう。ゆえに、疑念をもったまま行動することは非常に危険なことでもある。
短い時間とはいえ共に行動し見知ったワイズという人物は、ある程度信頼の置ける人だとフィリオは思っていた。そう思っていたからこそ、今も信頼と疑念の天秤がはげしく揺れた。そして、その天秤はまだ一方へと下がりきることがない。
「ところで、サクラと港湾支局の交信を見たっていうんもここからだったん?」
作業をつづけているワイズの後方から、フィリオが質問した。ワイズもその手を止めずに背中越しに答える。
「ちょうどこの場所ってわけじゃないけど、ここからちょっと下ったところにある建物の間から見たかな。そこから見た時点でサクラ側の回光信号しか見えなかったから、確実にこの角度なら死角になってこっちの信号は港湾支局側に見えないはずだ」
「それはすごく朗報やけど、それ以前に交信のあとサクラからもシンドアからもお互いに船が渡ることはなかったんやね?」
もしシンドアからサクラに渡った者がいれば、今からサクラに送る回光信号を見られる可能性がある。反対に、サクラからシンドアに渡った者がいれば、回光信号を送るような危険を冒す必要もなくなる。
「どちらもない、と思って良いと思う。フィリオちゃんたちと合流しに行った数分であの距離を渡りきることは現実的じゃない」
「そっか。それは安心でもあるし残念でもある話やね」
ワイズの話によるとサクラとシンドア間で交わされた信号のうち、サクラからの往信は三度だけ。
一度目は、停泊域からかなり離れた位置で行われ、内容は送話機の故障報告と寄港願い。
二度目は、自分たち特区番号の名乗り。
そして、三度目は「了解、停泊域、待機する」という単文だったという。
フィリオとしても、色々な都市にサクラで寄港することがあったため、こうして待機させられることは何度となく経験した。
だが、こうした不穏な状況下で、しかも回光信号による寄港など今までに経験したことがない。
そのため、あくまで想像でしかなかったが、サクラの出した「了解、停泊域、待機する」という返信は、おそらく港湾支局が中央港湾事務局に、この件の対応を確認するための待機命令だろうと推測した。
「それで、あちらさんに伝えたい内容っていうのは考えてあるの?」
Y字に枝分かれした木の谷間に魔導ランプを固定し終えたワイズが向きなおって口を開いた。
その表情にはこれといった陰りもなく、むしろ朗らかな優しささえ見てとれる微笑みが浮かんでいた。
「ドゥーレオ、フィリオ、健在。迎え不要。帰る」
すらすらとフィリオは考えていた内容を言葉にした。
「うん、そうだな。それぐらい簡潔な方がこういう時はいいと思う。だけど、ほんとにあっち側からの助力はまったく必要ない?」
「うん、あまり情報交換もできないのに、下手に共同なんてしたらきっと危険しかないと思うし」
「フィリオちゃんはよく状況判断をできているとは思う。ただ、渡航方法について何か考えがあったりするの?」
「まさか。そこはこの通信が終わってから考えないといけないけど」
フィリオは、嘘をついた。あの手紙の内容が本当ならば、きっと今夜にはサクラ行きの船が出される可能性がある。
しかし、今そのことをワイズに話すことはどうにもできなかった。
それはワイズを警戒してのことという以上に、差出人にその真意を質さねばフィリオの口から出しづらい内容だったからだ。そして、その躊躇こそが差出人の意図なのだろう。
「それより、うちらの回光信号をサクラが受け取った合図なんやけど」と自然に話を本題へと移したフィリオ。「まず初めに、信号応答不可って送った後に、副業願う、洗濯屋って反応あるまで送りつづけて」
「副業に、洗濯屋? なんだそれ?」
「こういうときって、最悪だれかに見られても良いように、暗号みたいな方が良いんと違うのん?」
「まぁ、そりゃあそうなんだけど。それでほんとに伝わるのか?」
「うん、たぶんだけど大丈夫だ思う」
もちろん確信なんてものはない。その話題は、たった一時の雑談なのだから。
けれど、きっとイバンならばそれでフィリオだと気づいてくれる。そう信じていた。
「フィリオちゃんそう言うなら、それで問題ないけど。それじゃあ、暗くなる前に早く始めようか」
すでに太陽は西の低い位置にまで下がりだしていた。暗くなってはせっかくの秘密裏の回光信号が周囲にばれてしまう危険性が高まる。
「そういやさ、話の流れでオレが信号を送る感じになったけど、二人とも回光信号はできないんだよな?」
「うん、そこはワイズさんにお願いする」
フィリオはそう言ってうなずき、背後で彼女を真似てハナヨもこくりとうなずいた。
「そっか、そういうことなら一丁やってみますか」
フィリオとハナヨが傍で見守る中、大きく息を吐き出してから固定された魔導ランプに手を伸ばし、ワイズが回光信号を送りはじめた……。
………。
……。
…。
一度目の回光信号を送ってから、三分ほどが経過したが反応がなかった。
停泊域でシンドアからの回光信号待ちの状態だけに、イバンたち関門にいる守衛も警戒してシンドア側の動向を注視しているはずである。それゆえどうも反応がにぶく思えた。
「あと二分くらいして何の反応もなかったら、もう一回信号を送ることにする」
「……うちの考えた合図の内容が悪かったんかな?」
望遠鏡で甲羅の前方にある関門上部や物見台を観察しながら、フィリオが不安げな声をあげた。
「それはまだ何とも言えないな。合図に準備がかかっているのかもしれないし」
「そうかもしれんけど──って、あっ出た! 出たよ、合図!」
フィリオたちが注目するなか、遠く関門の辺りに動きがあった。
そこは物見台の端、フィリオたちに相対する形で開け放された大窓に一枚の白いタオルが棒に掛かって干しだされた。
「なんか、あったのか?」
サクラに向けて目を細めていたワイズに、フィリオが望遠鏡を渡した。
「あれがうちおすすめの衛兵の副業、洗濯屋さん」
「ああ、なるほど。これが洗濯屋ってことか」
そう言ってワイズは笑い、自分も見てみたそうに望遠鏡をじっと見つめていたハナヨへその望遠鏡を差し出した。ハナヨはそれをすこし嬉しそうに受け取った。
「ってことで本題の方を送ろうと思うけど、いいかな?」
「もちろんだよ。お願い」
かるく笑ったワイズは魔導ランプに手をかけ、再び回光信号を送る。
カシャ──カシャ、カシャ……カシャ。
高級住宅地といった街並みの一端、しかも雑木の中に隠れた場所はとても静かで、カシャカシャという 不規則なシャッターの開閉音だけがよく聞こえた。
フィリオはワイズのスイッチを操作する手を食い入るように見つめ、聞こえるシャッター音に注意を向けつづけた。
送られた回光信号は──ふぃりお、どぅーれお、けんざい。むかえふよう。かえる。
それは、たしかにフィリオがワイズに送るように願った言葉に他ならない。それを誤りなく、そして改ざんすることもなく、ワイズは実直にサクラへと知らせてくれた。
「そういや、向こうが了解したことを示す合図は何にするんだ?」
振りかえったワイズが眉を上げてフィリオにたずねた。心中の安堵と動揺をかくすように何気ない風をよそおって、フィリオはくちびるに指を当てて考える振りをした。
「……了承なら、閉店。そう伝えて」
「ははは。あくまでもそのノリで行くんだな」
「その方がうちらしくて良くない?」
「たしかにそれは言えてるな」
ワイズは笑いながら残りの回光信号を送りにかかった。
やはりこの信号も、フィリオの要望どおりにきちんと回光信号が送られた。
変な疑いをもって警戒していたことが馬鹿らしくなってしまうほどに、自分たちのためにワイズは誠実に行動してくれている。だからこそ、フィリオは手紙の内容と現実の差異に混乱せずにいられなかった。
「物見台に出ていた白い布が回収されました」
干されていたタオルが回収されたといことの意味を知ってか知らずか、望遠鏡をのぞいていたハナヨがどこか楽しげな声で報告してくれる。
「……ふぅぅ。これで一段落ついたって感じだな」
肩の荷が下りたとばかりに、ワイズは大きく息を吐き出して肩を回した。
「ワイズさん、お疲れさま。それと、ありがと。これでうちらが帰るまでは、たぶんサクラはシンドアにおってくれると思う」
本当はワイズのことを疑っていた。もしかしたら自分たちに不利になるようなことを発信するかもしれないとすら、正直なところ少し思っていた。それなのにこうして自分の願ったとおりに行動してくれた。
だからこそ、フィリオの信用と疑惑の是非を超えて、労いとお礼の言葉だけは言いたかった。
「どういたしまして。って言っても、これがオレの仕事だからね。フィリオちゃんは、まったくもって気にすることないよ、ほんとに」
そう言って笑ったワイズの屈託ない笑顔に、フィリオは疑っていた分だけ申し訳ない気持ちを持たずにはいられなかった。
「とは言え、だ。とりあえずこうしてフィリオちゃんたちの帰るべき特区を足止めすることができたのは良いとして、これからどうやってあっちに渡るかが問題になるわけだ」
木の谷間に固定していた魔導ランプを取り外しながら、ワイズが悩ましげに眉を寄せた。
「もし正式に渡ろうとしたら、絶対にシンドアの港湾事務局に届け出とか申請とかそのへんのことをしないとダメなんよね?」
フィリオも木に接続した固定具を取り外すのに協力しつつ口を開いた。
「そりゃあ、当たり前だな。こんな状況じゃなくても完全に自由な渡航や交易なんて、どこであれ認められるわけじゃないから」
「やっぱり、認められる可能性は低いんかな?」
「正直言って今すぐっていうのは絶対にないだろうな。この状況だから、それが一週間かかるのか、またはそれ以上なのかまるで読めないってところ」
「うちらは遭難者っていう身元不明の立場で、サクラはサクラで送話機を使わない怪しい居住区……しかもシンドアでは《混ざり者》に爆発事件の嫌疑までかけられてる」とそこまで言ってからフィリオは軽く首を振った。
「どう考えたって、サクラにすんなり帰してくれるわけないよな」
「くわえてシンドアのお偉方は、フィリオちゃんや特区側の言い分なんて聞いてくれることはまずないと見ていいだろうね。そんな中、どうやって雲海を渡るのか」
「……その言い方って、ワイズさんは密航を許してくれるん?」
そのときフィリオはその一歩を踏みこんだ。どう言葉を取り繕おうと、ワイズの真意を知るためにはその一歩が大切だったから。
そうフィリオが意気込んで話したにもかかわらず、ワイズはというと、自由になった魔導ランプをしげしげと遊ばせるように観察しつつ、ニカッと口辺を上げて笑った。
「この改造した魔導ランプ、ほんとよくできてるよ。あの短時間でこれだけの物を作っちゃうなんて、フィリオちゃんってけっこう凄い人だったりする?」
ワイズのその明らかな話のはぐらかし方に、フィリオは不満げな表情を向けた。そんなフィリオを前に苦笑して肩をすくめたワイズ。
「これでもお役人をしてる立場だったりするからさ、ここで言葉にしちゃえることと、しちゃえないことがあるわけだ」
「それって、うちの聞いたことの答えにぜんぜんなってないよ」
「とはいえ、お役人だからこそやるべき、やらなきゃいけないことも決められてるんだ。今回、局長からオレへの指示は、フィリオちゃんたち遭難者を無事帰還させること」
そう言ったワイズは、手にしていた魔導ランプをフィリオへぽんっと押しつけるように渡した。
「そして、そこに細かな方法の指示までは与えられなかった」
「たとえ、それが悪いことであっても?」
「良いか悪いかを決めるのは、オレじゃなくて法規が決めることだからな。残念ながらタンジ島の役人であるオレは、帝国の法規に詳しくない」
「それが言葉にしちゃえないことってわかってるのに?」
「……ほう。あいかわらず意地悪だね、フィリオちゃんは」
「これまでのお返しだよ」
フィリオがクスッと笑うと、ワイズもつられて笑った。笑い声につられたのか、雲海を眺めていたハナヨがそんな二人を望遠鏡でめずらしそうに眺めた。
このときになってやっと心の中の天秤が一方に定まったフィリオは、ポシェットからあの手紙を取り出した。
「ワイズさん、これを読んでみて」
唐突に差し出された封筒を見て、ふっと真剣な表情に切り替わったワイズはフィリオの顔をうかがった。フィリオはその目を見返して小さくうなずく。
受け取った封筒から便せんを取り出し、ワイズはしばらく紙面をにらみつけるように見つめつづけた。その眼光は、普段のワイズには絶対に見ることのない鋭さだった。
「……ありがとう、だいたいのところは想像がついた」
読み終わった手紙をフィリオに返し、ワイズは遠く雲海の方を眺めるように見つめて何かを考えているようだった。
「これだけで、どういうことか何かわかったんだ?」
「ん? 宿を出てから、どうしてフィリオちゃんが余所余所しかったのかがわかった」
「いや、まぁそれはそうなんやけど、ほかに何かわかった?」
もどかしげな様子でフィリオが問いかけた。そんな姿を前に、少しばかりあごに手を当てて考えていたワイズだったが、ふいと口を開いた。
「勝手なことを言って申し訳ないと思うけど、今から話すことに踏みこんだ質問はしないってことを約束してほしい。その上で、二人に話しておきたいことがあるんだ」
フィリオとハナヨは顔を見合せて首をかしげつつも、その言葉に二人してうなずいた。
「ありがとう。これは、ちょっとしたお願いってことにもなるけど……」
そうしてワイズが話しだしたことを、フィリオは眉を上げたり寄せたりしながら聞き入り、ハナヨも頭の中でいろいろと考えている様子で耳をかたむけた──このとき、フィリオたち二人は、ワイズの提案を受け入れて首をたてに振った。
* * *
その日は、月にまだらな筋雲がかかった、おぼろ月夜だった。
野犬だろう吠え声が、しずかに寝静まった街のどこかの片隅から上がった。そのか細い声は、ほのかな明かりだけのうす闇に沈んだ部屋にまで届いたが、すぐに静けさの中に飲みこまれて消えてしまった。
そのとき、音もなく、部屋のドアが開いた。
フィリオとハナヨは、ベッドの端に座ったまま、その先を見つめた。
通路に座りこむ真っ暗な夜を背にして、そこにはドゥーレオが立っていた。
その姿は一目見ただけでも重く陰りのようなものを感じさせ、最後に見たドゥーレオとはまるで別人のように見えた。
そっとフィリオが口を開けようとしたところで、ドゥーレオの右手がそれを止めた。
フィリオたちに向けて、口元に人差し指を立てたドゥーレオ。
そして、そのまま流れるように人差し指は階段のある通路の先を指さし、あごをしゃくってフィリオのリュックサックを指し示した。フィリオがリュックサックを背負ったのを見届けてから、ドゥーレオは先行して通路の闇の中に消えた。
フィリオたちは目を合わせてうなずき合い、そのあとを追って歩き出した。
すべての照明が消えた通路は何も見えず、壁に手をついてゆっくりと進んでいく。
先に歩きだしたとはいえそこまで差はなかったはずなのに、ドゥーレオの背中はどこにもなく、足音も床板のきしむ音も聞こえてはこなかった。彼女たちの耳に届くのは、ちかくの部屋からもれ聞こえる宿泊客のいびきくらいである。
ゆっくりとした足取りで階下まで下りきったところで、壁の陰影に隠れるようにしてドゥーレオが待っていた。
二人が下りてきたことを確認し、ドゥーレオはまた先行して歩き出すと一片のきしみ音も立てずに正面扉を開いてしまった。
客足もなくなった真夜中だからだろう、帳場の明かりも消え、店主の姿はなかった。
ドゥーレオが開け放してくれている扉をくぐり、フィリオたちはやっとの思いで宿の外へと出てくることができた。二人の後ろでゆっくりと正面扉が閉じられた。
おぼろ月の下であれ、明かりの消えた屋内に比べれば外の方がよほど明るかった。
「……ついて来てくれ」
耳元を羽虫が通りすぎたのかと疑う程度の声でドゥーレオは二人に指示し、すぐに歩きだしてしまった。その歩みは思いのほか早く、後ろに伸びた影を踏むことさえ難しいと思えるほどだった。
フィリオは後方を歩くハナヨの手を取って自分に並ばせ、すこし駆けるように先を行くドゥーレオを追った。
消し忘れたのだろうか、ときおり住宅前に灯った魔導ランプの明かりがある以外は、ほのかに射してくる月光だけがシンドアの夜道を照らしていた。そんな微かな明かりからでさえ隠れようとするかのように、三人は細い路地を縫って歩いた。
途中、ふと何か違和感があって後方を振り向けば、いつのまにかフィリオとハナヨの後ろを二人の男が歩いていた。大きな身体に小さな角を生やした、おそらくは鬼人種の《混ざり者》であろう男たち。
「──ッ!」
あまりの驚きに声を出しそうになったのをどうにか抑え、すぐに顔を前に向けた。しかし、前を行くドゥーレオはそのことを知ってか知らずか、なおも歩調をゆるめることなく進んでいく。
ハナヨはそのことを知っていたのか、フィリオにならってちらりと後ろを振り返ったものの、特に変わった反応も見せずにまた前を向いた。
宿を出てからというもの、大通りを抜けることが一度あったきりで、その他はずっと人影一つない路地通りを歩きつづけた。あまり土地勘がない上に路地裏ばかりを進んでいるため、フィリオは自分が現在どこを歩いているのかわからず、どこに向かっているのかさえまるで検討がつかなかった。
お世辞にも清潔とはいえず、ときに悪臭すら漂う通りを進み、どんどんと廃れていくばかりの街並みがフィリオを少しずつ不安にさせた。
しかし、唯一見知ったものとして、歩きすぎていく建物同士の間隙に、丘の上の高級住宅地には不釣り合いに茂った雑木林が見えた。そこはフィリオたちがサクラに回光信号を送った場所に違いなく、見知らぬ道を歩きながらも少しだけフィリオは安心した。
そうして、ついにひらけた場所に出たと思ったとき、フィリオたちは雲海を正面に望んだシンドアの街の端に立っていた。
そこは峻嶺として険しい山際に面し、整地されることもなく凸凹に荒れた岩肌をさらす未開の地だった。ときおり吹き抜ける強風に流された雲海層が、そうした山際の岩塊に打ちつけられて周囲へと霧散した。
「……ここまで来れば、ある程度は安心だ」
ようやくドゥーレオがフィリオたちを振りかえった。
その顔は以前までのドゥーレオとまったく変わらないはずなのに、どうしても今までのドゥーレオと同じには見えなかった。
「これからフィリオがサクラに帰るための準備をするから、すこし待っていてくれ」
その言葉を受けてのことなのか、フィリオたちの後ろにいた男の一人が岸壁の方へと歩き出ていった。
そこに不意に気配もなく現れた別の男が合流し、岩陰に隠してあった小型の空泳船を雲海へと運び始める。手伝いに現われた男は、珍しい竜人種の《混ざり者》のようで、うすい月明かりにさえ黒光りする鱗が肌を覆っていた。
前に立っていたドゥーレオは道を開けて、二人に前へ進み出るように示した。
フィリオは、ぎゅっとハナヨの手を握ってゆっくりと進み出た。
「ねぇ。ドゥーレオさんも、サクラに帰るんよね?」
なんとなく答えはわかっていた。それでも言葉にして問う必要があった。
「……残念だが、私はサクラには帰らない。いや、帰れないというべきだろうな。だから皆には、君の口からよろしくと伝えておいてくれ」
淡い月明かりに照らされ、そう言って微笑んだその姿は、あの心配性で臆病なところのある若年寄りなどではなく、余裕に満ちた力ある者の悠然とした姿だった。
「……どうしてなんか、聞いても良い?」
立ち止まりドゥーレオの方を振り返って、フィリオは悲しげにそう問うた。
「フィリオ、君ももういい大人なんだ。言葉として耳にせずとも、飲みこまざるをえない物事があることくらい知っているだろう?」
「でも、うちは──」
フィリオがその一歩を踏み出そうとしたとき、それは起こった。
音もなく稲光のような閃光が暗闇を走ったその刹那──ほのかな光がパッと弾けた。
一閃の光が消えたと思うとドゥーレオの背後で、ドサッという砂袋を地面に叩きつけたような重たい音がした。
ドゥーレオが振りかえれば、先ほどまでフィリオたちの後ろに控えていた大男が、受け身も取らず地面に倒れ伏していた。そうして空に向けられた背中は焼けただれたように裂け、くすぶる煙をそこから上げていた。
「──くそっ、お前たちっ!」
ドゥーレオの叫声が上がると同時に、船を準備していた男たちが三人の盾になるように前方に走り出てきた。各々の手には、月光にきらめく鋭利な刃物が握られている。
「……ドゥーレオさんよぉ。信じてくれていた人を一方的に騙しておいて、それを飲みこめと強要するあんたは、いったい何様なんだろうなぁ」
シンドアの街側、くたびれて廃墟のような建物の影がじわりと月下に伸び出してきたようにワイズが細長い棒を手にその姿を現した。
「そうか。やはり、最後に出てくるのはお前だったか」
一歩ずつ近づいてくる濃密な影の主に、警戒感を隠すことなく相対するドゥーレオ。
「わるいね。キレーなお姉ちゃんじゃなくてよ」
対するワイズは左の口角をあげて笑い、相手を貫き通そうとしているかのように尖った視線を向けた。
「……貴様、どうやってこのことを知った」
「ははは。ドゥーレオさん、あんたもいい大人なんだ。言葉にしてもらわなくても、自分で飲みこまなきゃいけない物事があることくらい、わかってんでしょ?」
ゆっくりとだが歩みを止めることなく、ワイズは前進していく。ドゥーレオの問答にその足を止める素振りはまるでない。
対するは、鬼人種と竜人種の《混ざり者》が二人、そしてドゥーレオ。
その後ろには、突然の状況変化に困惑するフィリオとハナヨの二人がいた。
そんな彼らに対して前進する歩みを止めることのないワイズ──と、彼が足を上げた一瞬をついて鬼人種の《混ざり者》が襲いかかった。
走りだした男は、右手の短刀を正確に相手に向け投擲し、自身はその勢いを殺さずに猛烈に突進していく。
だが、その投擲を予期していたかのように、ワイズは投げつけられた短刀を最小限の挙動で避け、迫りくる巨躯に向けて手に持っていた棒を振るった。
その瞬間、男の胸元で光が散る──一瞬の閃光が走り抜けると、突撃していく姿勢そのままに男は地面に倒れてしまった。
「魔導砲杖とはな、厄介な得物を使う……」
小さく舌打ちしたドゥーレオに、ワイズはため息まじりに首を振る。
「べつにこれは、便利だから使っているだけで個人的に得意なわけじゃない。オレはよほど殴り合いのほうが得意なんだけどな」
そう言葉にしつつ、なおもワイズはその足を止めず距離を詰めていく。
「そういやさ、ドゥーレオさんは、すっぱいコーヒーがお好きなんですね」
唐突に、ワイズは緊張していくばかりの事態にはまったくそぐわない話を始めた。
「……なんの話をしている」
「あれ? なんの話って、ドゥーレオさんが船の中でコーヒーを出してくれたんじゃないですか。忘れちゃいました?」
その言葉を吐くと同時に、ワイズは足を止めた。そこに残された距離は、駆け出せば二秒とかからない。
「……何が言いたい」
「いやいや、あくまで謝罪です。あのとき、せっかく淹れてくれたのに飲まなくて、すいませんねっていう。ただ言い訳をさせてもらうなら、あのコーヒーはタンジ島の物にしてはちょっと酸味があって、飲めなかったっていうのもあるんですよ?」
ふっと鼻で息を抜くように笑い、ワイズはドゥーレオを見た。だが、そんな態度にもドゥーレオは表情も変えずに無反応だった。
「正直、あれって何か薬を入れちゃってましたよね?」
そうやってワイズが流暢に話している間、残った部下と思しき《混ざり者》は、息をしているのかさえ不思議に思うほどに身動き一つせず相手をにらんでいた。
「……いつから、私に目をつけていた」
その声はフィリオの知るドゥーレオと同じ人物とはとうてい思えないほど、重く濁った声音だった。
「残念。あんたって存外に有名人だよ。見る人が見たらすぐわかっちゃう程度には」
「なるほど……そうか。辺境の島だからとあまく見すぎていた、私の失態といったところか。貴様のような帝国公安の犬が、まさかあんな田舎に紛れていようとは」
「いやいや、なに言ってんすか。オレは辺境の島の、ただの地方役人ですよ」
ワイズとドゥーレオは互いの顔を見合う。二人とも口辺を上げて笑ったが、その視線はあまりにも鋭い。
──その刹那、ドゥーレオの前方に控えていた男が爆ぜるようにワイズへと跳んだ。
相手の緊張が弛緩した好機を狙った一撃だった。
相手の急所に最短で向かう鋭利な刃。しかし、それすらもまるで予期されていたかのように魔導砲杖の柄でかるく払らわれ──次の瞬間、態勢を崩した男に向かってワイズの前蹴りがとんだ。それは流れるように無駄のない動作だったが、その蹴りを襲撃者もすんでのところで身をひるがえし避けきってしまう。
地を蹴って互いに距離を取り、そこに即時の追撃はなかった。
「へぇ。やっぱ思ったとおり、あんただけはちょっと違うみたいだ」
どこか嬉しそうに笑いかけるワイズに対し、向かい合う竜人種の《混ざり者》の男も口角を微かに上げた。
「せっかくだし、あんたの名前聞いても良いか?」
「……名乗るほどの名もない」
相対する竜人種の《混ざり者》は静かに答えた。その答えにワイズが小さく笑ったのを合図に、互いの得物がぶつかり合う火花が散った。
周囲に満足な照明もなく、ほのかな月明かりだけが頼りの戦場。
それにもかかわらず、ワイズと襲撃者は互いの位置を完全に把握しているかのように武器を打ち合っていく。それは旋律に沿った舞踏のようだとさえ思えるほど、ある種の優雅さがあった。
だが、そんな状況を傍で見せられるフィリオは、当然ながら気が気ではない。当事者でない者からすれば、いくら優雅さがあろうとも、生命の取り合いの最中で微笑みながら得物をぶつけ合うなど理解できようはずもなかった。
「フィリオ、お前は早く船に乗ってサクラに帰るんだ」
そんな激しい戦闘を前にして、唐突にドゥーレオが背中でフィリオに語りかけた。
虚を衝かれたフィリオは、ただ訳もわからずその背を見つめる。華奢な痩身の背であるのに、飲みこまれそうになるほど黒く深い影が見えた。
「お前は、あの浮遊島のことを──いや、それ以降のことをすべて忘れて、サクラで生きろ。いつか近い将来に、お前たちが大手を振ってどんな街すら闊歩できる世界を、私たちの手で作ってみせる」
後ろに立つフィリオに、ドゥーレオの顔は見えない。彼がどんな顔をして、そのような言葉を口にしているのか、フィリオには想像さえできなかった。
「ごめん。ドゥーレオさん、うちは、そんなこと、ぜんぜん望んでないよ」
とつとつとしていたが、その声には彼女の意思が明確にやどっていた。
「たぶん、ドゥーレオさんがしようとしてることは、うちら《混ざり者》のためなんやと思う。でもな、うちらは……少なくとも、うちはそれをこんな形でドゥーレオさんにしてほしいなんてぜんぜん思ったことない」
「そうか。お前は、もっと強い子だと思っていたよ」
背中越しにドゥーレオは、呆れを含んだ深いため息をフィリオに向けた。
「今のこんな歪みきった世界を、飲みこんでしまうほど弱ってしまっていたとは」
「ちがうって、そういうことやない。うちは、そんなことをドゥーレオさんにしてほしくないだけなんやって」
「……フィリオ。これは望むか望まざるかにかかわらず、起きるべくして起きる必然の過程でしかない。それを体現する者が誰であるかなど問われるべき問題ですらない。そこには結果だけが必要なのだ。それは今わからずとも、いずれ必ずわかるときがくる」
そう言って振り返ったドゥーレオには、人の顔がなかった。
そこにあったのは、人の顔ではない何か。
ただ眼があり、鼻があり、口があるというだけで、人の顔を模してつくられた何か──それがじっと無機質にフィリオを見つめていた。
「さぁ。行くんだ、フィリオ」
人ではない何物かの手が、フィリオに向かって伸びた。
「ぜんぜんわかってないよ、ドゥーレオさん。うちの言葉をちゃんと聞いて!」
じっとその姿をにらむように見つめ、フィリオはその手を避けようとしない。
パシンッ──という軽快な音とともに、フィリオに近づいていた手が払い落された。
はっと見上げれば、そこにはハナヨの顔があった。
「ドゥーレオ氏の話す言葉は、虚偽の言葉ばかりです」
はっきりとした輪郭を持って、ハナヨの声が辺りに響いた。
「ほう、人形のお前が、私に説教をたれるか」
ぴくりと眉を動かし、ドゥーレオがハナヨを見据えた。
「浮遊島であったときから、ドゥーレオ氏の言葉は虚偽ばかりでした」
ハナヨはその身を守るように、フィリオを自分の元に引き寄せる。
「ハナヨは、ドゥーレオ氏が浮遊島を爆破したことを知っています」
その言葉に、ドゥーレオだけでなく、胸元に抱いたフィリオの動きも止まった。知られざる事実に触れ、フィリオはゆっくりとハナヨを見上げた。
「……ハナヨ。それって、どういうことなん?」
「浮遊島の崩壊は、ドゥーレオ氏の持っていた爆発物によって引き起こされたものであると、ハナヨは推察しています」
「何を言うかと思えば、よくそんな勝手なことを言えたものだな」
ドゥーレオは鼻で笑ったが、そんな嘲笑など意に介さずまっすぐな視線をドゥーレオに向けて、ハナヨがふたたび口を開いた。
「ハナヨが起動したとき、施設の備蓄動力の残余は、危機的状況ながら平常時ならば残り三日と十三時間は持つ状況にありました。ゆえに、動力の枯渇による崩壊とは考えられません。よって当該条件から施設の崩壊が起きるには、外的要因が最も想定しうることになります」
「それがどうして爆破の証拠となる」
「浮遊島でドゥーレオ氏が施設から帰還してきた際、身体から硫黄化合物の臭いがしました。そして、その後すぐに爆発をともなった崩壊が、施設を襲ったことの関連性は非常に高いと推察できます」
「……硫黄化合物の臭い」
「はい、ハナヨの臭覚の感受機能は、一般的な人間に比べて高い性能を有しています。臭気について分類し理解することは容易です。よって、ドゥーレオ氏がタンジ島からシンドアに爆薬を運んでいたことも、ハナヨは知っています」
そのとき少しばかり表に出ていたハナヨに対する嘲りの敵意までも消失し、ドゥーレオの表情はまたも仮面の中に沈んだ。
ハナヨを見上げていた頭を戻し、フィリオは相対するドゥーレオを見据えた。相手を責める思いと信じたい思いとの間で、だがその視線は微妙に揺らいでいた。
「ほんまに、ドゥーレオさんがやったん?」
その問いに対して何の反応も見せず、凝縮された闇のように光のない暗い瞳でフィリオをただじっと見つめるドゥーレオ。自分を抱き寄せるハナヨの手を、ぎゅっとフィリオは握りしめた。
「その爆発っていうの、絶対にそいつが関係してるよ」
静かな闇夜によく通る声は、ワイズの声に違いなかった。
しかし、その姿は山影に隠れてよく見えない。声だけの存在にもドゥーレオはすばやく身を引いて警戒し、声のした方向から距離を取るように即座に雲海側へと飛びのいた。
「港湾支局の爆破テロも、あんたの差し金だったことは概ね調べがついている。おそらく渡航時に取られた自分の情報を抹消するためだろうが、たったそれだけのために大それたことをしてくれたもんだよ、まったく」
そう言いながらフィリオたちに近づいてくるワイズはゆっくりと影の中から現れ、自身の血か返り血か、赤黒く染めた顔や服を月明かりの下にさらした。その後方の地面に横たわった黒い影はおそらくワイズに敗れた者なのだろう。
「あんたがここまで短絡的に行動するとは想定外すぎた。だが、オレの立場なら事前に阻止できた可能性は十分にあった。この件は本当に悔しさしかない」と苦渋し自戒するように眉をしかめたワイズ。「だからこそ、今ここであんたを捕まえることが、せめて今回の犠牲者たちにできる償いだ」
ワイズが魔導砲杖の先をまっすぐにドゥーレオへと向けた。
「もういいだろう、潔く投降しろ」
辺りの静けさに添えるように、それは静かな勧告だった。
ほのかな月光がドゥーレオの顔に射し、深い陰影を生んでいた。それだのに、そこには人らしい表情というものが映し出されてはいなかった。
ゆっくりとドゥーレオがフィリオの方を向いた。魔導砲杖を握ったワイズの手が一瞬ぴくりと動く。
「あれは、コルドを除するためだけの計画だった」
ぽつりとつぶやかれた告白に、息を飲んだフィリオは眼を見開いた。
「だが、オルトバンが一時の感情に流されてコルドの事をし損ねたのだ──ああ、そうだな。結局のところ、奴の卑しい怯懦な精神が、計画をここまで狂わせてしまったのか」
まぶたを閉じてそう述懐したドゥーレオは、自嘲するように笑って首を振った。
「どういうこと? みんなはぐるになって、コルドさんを殺そうとしてたってこと?」
ひとり納得した様子のドゥーレオに対し、フィリオは抗議するように言った。
「いや、モートレッドは同盟の徒ではない。だが、あの男はオルトバンと違って優秀な男だった。そう、あのような場所で散るべき才ではなかった」
そうやってドゥーレオの口から吐き出される、まるで他人事のような言葉の羅列に、フィリオはわななきそうになった下唇を噛んで抑えた。
「フィリオちゃん、そいつの言葉を正面から受けとる必要はない。だから、落ち着いてそいつの本性を見極めるんだ」
魔導砲杖の先を寸分も動かさず、ワイズはフィリオにかるく笑いかけた。それはその場にはけっして似つかわしくない笑顔だったが、おかげで昂りそうになっていた思いが少しだけ治まった。
「……やっぱり、あの浮遊島を爆発させたんは、ドゥーレオさんだったんやね?」
間を少しおいてからそう口を開き、自身を守るように抱いてくれていたハナヨの手をほどいたフィリオは、一歩前に踏み出した。ドゥーレオはそんなフィリオを見返して、かすかに口辺を上げる。
「フィリオ。ほんのすこし前、私が言ったことを覚えているかい?」
「わかりたくないけど、ドゥーレオさんが言おうとしてることはわかってるつもり」と言ってから、フィリオはドゥーレオを柔らかくにらみつけた。
「体現する者が、だれであるかなんて問題じゃない」
そう言いきったフィリオに、ドゥーレオは深く息を吐き、満足げに笑った。
「そうだ。やはり、フィリオは強くて、優秀な子だね」
このときのドゥーレオの笑顔は、まぎれもなくフィリオの知るドゥーレオだった。
フィリオがサクラに来た時から同じ角耳種の《混ざり者》として、いつも気にかけてくれていた優しく頼りになるドゥーレオが、そこにいた。それだからこそ、数刻前までフィリオに見せた、あの仮面のように感情のない姿が信じられなかった。
「フィリオ。これは、私個人の心の内の言葉として聞いてほしい」
そう言ったドゥーレオの顔には、やはり優しい人の情が明らかに見えた。フィリオはまっすぐにその眼を見返してうなずく。
「サクラに帰った時に、お前の口からみんなに伝えてほしいんだ。今まで、本当にありがとう、これからは君たちの時代だ、と」
言葉の切れたその次の瞬間、ドゥーレオは雲海に向かって駆けだした。
「──ドゥーレオさんっ!」
手を伸ばし追ったフィリオの叫びが、彼女よりも先にドゥーレオの背に届く。
だが、その動きを想定していたのか、ドゥーレオが走り出したと同時にワイズの魔導砲杖の先端から光が迸り、駆けだしたドゥーレオの右腿で輝いて爆ぜた──それだのに、ドゥーレオはなおも倒れることなく、むしろその光爆の勢いを借りたかのごとく雲海の向こうへと跳んだ。
駆け寄ったフィリオが地に手をついて見降ろした先には、かすかに裂けた白い雲海の切れ間しかなく、ドゥーレオの名残の一片すら見いだせなかった。
そうして見下ろした雲海の裂け目は、見下ろす者の思いなど知る由もなく、綿毛のように柔らかな雲を周囲から集めて、夜の陰の中で何事もなかったかのようにすぐ平穏な雲海の姿を取り戻してしまった。
「本当に、最悪の形の幕引きになっちまった」
うなだれたフィリオの隣まで歩み寄り、雲海を見下ろしたワイズは、苦々しく右の下唇を噛んだ。隣に立ったワイズを見上げることもなく、フィリオは力なく口を開いた。
「なぁ、ドゥーレオさんの救助って、どうやっても頼めんのよな?」
「そうだな。残念だけど諦めてくれ」
「……そっか」
簡素なワイズの返答に、フィリオはゆっくりと瞳を閉じた。
きっと陽が昇れば死体を探すための捜索隊が近辺の山肌をさらい、血種決起同盟の幹部の死を確認することに躍起になるだろう。そんな事実をこの場で言ってしまうほど、ワイズは物の道理を知らない人間ではなかった。
それからしばらく雲海を眺めていたフィリオだったが、不意にすっと立ち上がった。
「サクラに帰ろっか、ハナヨ」
一吹きのやわらかな風にも飛ばされそうなほどか細く弱々しい笑顔ではあったが、フィリオは後ろに控えていたハナヨに笑いかけた。
「はい。ハナヨは、フィと一緒にサクラに帰ります」
フィリオの笑顔に、ハナヨも安心したように口角を柔らかくゆるめた。
「どうしてワイズさんはうちらのことだけ、こんなに信じてくれるん?」
空泳船の縁に腰をおろし、フィリオが岸辺のワイズに問いかけた。
それは当然といえば当然の疑問。なんせ指名手配されるような人物と同じ遭難者として共に行動していたにもかかわらず、こうして自分たちだけは密航という形を取らせてまでサクラに帰そうとしてくれているのだ。当人たちですら怪しまれずにいられる理由がわからなかった。
「ああ、そのことか」と苦笑するように笑ったワイズは、岩礁に打ちつけてあるアンカーを外しつつ口を開いた。
「もちろん、組織としての調査もあったし、自分なりに見て考えた上での判断さ」
「でも、うちにもハナヨにも、直接はなんにも聞こうとはせんのやね」
「聞けば、答えてくれる?」
「答えられる範囲でなら」
「じゃあ聞いちゃうけど、二人とも今だれかと付きあってたりする?」
「……ほんとに、バカ」
フィリオは呆れたように笑う。ただその笑みこそが、きっと彼の望んでいることのはずだと思った。
短い時間とはいえ彼を見てきたフィリオには、なんとなくそれがわかった。
「ねぇ。茶化さないで、ほんとのことを教えて」
口元に浮かべた笑みをすっと消してフィリオは小さく口を開いた。その隣に座ったハナヨも、ワイズの言葉を待っているかのようにじっと相手を見つめていた。
アンカーを抜き終わりそんな二人の視線を正面から受けたワイズは、困ったようにこめかみを掻きながら眼を閉じた。
「サイカに、頼まれたんだ。かならず──いや、絶対にフィリオちゃんたちを家に帰してあげてほしいって」
「……サイカさんが?」
「そ。何も知らないはずのサイカが、そう言ってオレをタンジ島から送りだしたんだ」
自嘲するように笑ったワイズは、そっと空泳船の縁に手をついた。
「あいつ、君たちを助けた漁夫のおっちゃんに頼まれたんだとよ。どうかあの子たちを助けてあげてくださいってさ」
「その話はうちもサイカさんから聞いたよ。サイカさんは漁師の家の生まれで、ゴロウさんの気持ちが何となくわかるんだって言ってた」
「もしかして、あいつが自分からその話をしたのか?」
「うん。タンジ島で最後に会ったとき、いろいろ話してくれた」
「……そうか。あのサイカが、ね」
どこか嬉しそうに笑ったワイズは、ぐっと腕に力を入れて空泳船を押した。押し出されていく船はゆっくりと雲海の上に乗りだしていった。
「でも、いくらサイカさんがお願いしたからって、どうしてワイズさんはそこまでうちらを信じてくれるんかは、やっぱりわからんのやけど?」
いくら気心の知れた者からのお願いだとはいえ、赤の他人をそこまで信じて助けようなどと思えるわけがない。ましてや素性の知れないフィリオたちである。疑ってかかる方が自然だ。だが、そんな疑問にもワイズは軽く笑った。
「オレにとっては、サイカが信じたっていうことが何より一番の信頼の証なんだよ」
「ごめん。ぜんぜんわかんない」
「ははは。そりゃそうだ。わかられても困るし」と声に出して笑ったワイズ。
「まぁ単純にさ、それだけあいつを信頼してるってことだよ」
納得がいかなそうに眉を寄せたフィリオを乗せて、力強く最後のひと押しが加えられた空泳船は雲海の上へとすべるようにして浮かんだ。
「……今さらやけど、なにからなにまで、ほんまにお世話になりました」
船の辺縁に手をついて雲海へ身を乗り出すようにして手を差し出したフィリオ。その手を握り返したワイズの手は想像以上に大きく、石を握ったかのように硬かった。
何も言わずワイズはもう片方の手もハナヨに向かって掲げ、ハナヨもおずおずといった様子でその手を握った。
「ありがとうございました」
ぽつりとつぶやかれたハナヨの言葉に、ワイズは口角をあげて少年のように笑った。風で沖の方へと徐々に流れていこうとする船を岸につなぎとめていた三人の手が解かれ、ゆっくりと離れていった。
「また、タンジ島に遊びに来てくれよ」
「うん。ぜったいにまた行くから!」
岸に立ったワイズに手を振るフィリオにならって、ハナヨも手を振った。だが、その声の大きさに苦笑して口元に人差し指を立てたワイズを見て、照れたようにフィリオも口元に指を立てた。
そうして遠ざかっていく月影の二人に、ワイズはしばらく手を振り返して応えた。
ひとしきり遠ざかっていくシンドアを眺めて別れを惜しみ、フィリオは空泳船の推進器を起動した。
船体がくしゃみをしたように微かに揺れ、うすく霧状に煙る雲海をなめるように進みだした。帝国製ではない粗雑な造りだったが、船は十分にその仕事を果たしてくれそうだった。
船頭が向く先には、夜の帳に黒く塗りつぶされたサクラの巨体──その甲羅の上部にある物見台に灯った常夜燈の明かりがぼんやりと見えた。
彼女たちを見下ろす中空の月に雲がうすくかかり、月光が弱く陰りはじめた。耳元を弱々しく吹き去っていく風がいやに大きく聞こえるほどに、寂寞とした音のない世界を空泳船がすべるように泳いでいく。
「サクラとは、どんなところですか?」
ふとしたハナヨの質問に、頭を巡らせてしまう。他人に説明するために、サクラがどんなところだなどと今まで考えたことがなかったから。
「お母さんのひざの上……っていうんが、一番近いかも」
フィリオとしては最もサクラを称するに適した表現だったが、ハナヨには上手く伝わらず数秒した後に小首を傾げさせてしまった。
それからしばらくの間、ハナヨにサクラについて話して聞かせた。
サクラという人を住まわせてくれる雲海生物のこと、彼女と言葉を交わすことのできるシズクのこと、大きな風車が目印の魔導具屋のこと、朝一番にサクラ中に焼きたてパンの香りを満たすミランダ食堂のこと、そこで賑わう住人たちのこと……。
語れば語るほど、サクラへの望郷の思いが強まっていった。まだ三日と経っていないはずなのに、それはまるで三年の時を経たかのように懐かしい。
「ハナヨは、早くサクラに行ってみたいと思います」
まるで読み聞かされる絵本に聞き入る少女のような目をして、ハナヨは語り部を見つめた。
「ふふ。楽しみにしといて。きっと期待を裏切らないと思うから」
そう言って見上げたサクラのあまりにも巨大な体躯に、あらためて呆れにも似た驚嘆を覚える。雲海から半分ほど額をのぞかせて、サクラは大きな瞳を閉じて眠っている。
「ただいま、サクラ」
こみ上げそうになる思いをのせて吐き出された言葉は、静謐として凪いだ雲間に飲みこまれて、すぐに消えてしまった……。
* * *
フィリオの帰還は、夜の明けぬ真夜中に迷いこんだ一筋の陽光のごとく、暗く深い闇に沈んでいたサクラの中のすべてに明かりを射した。
初めにフィリオの健在を目にしたシズクは、あふれ出る感情を抑えようともせず、フィリオに抱きついて声も絶え絶えに泣き崩れた。
そうして抱きつき涙を流すシズクの赤くはれた目元が、どれほど彼女に心配をかけていたのかを物言わずに語り、フィリオも強く抱き返しながらいつしか泣いていた。
「フィ、フィ……!」
フィリオを胸に抱くように両手をまわして、シズクは今このときに抱き止めている存在がフィリオであることを確認するかのように、ずっと相手の名前を呼びながら涙を流しつづけた。
「ごめん、ほんまにごめん。こんなに心配させて」
「だって、だってさ。みんなは死んだって……フィが死んだって言うんやもん」
どうしようもなく止まらない涙を流しながら、うす暗い操獣塔の中で抱き合うことでやっとお互いが生きていることを実感していた。
「ただいま」と「おかえり」を互いに言い合えるまでしばらく泣きつづけ、やっと言いあえたところで二人はおでこをぶつけて小さく笑い合った。
名残惜しげなシズクと操獣塔で別れ、戸口から見上げたフィリオを出迎えたのは、すでに関門の門戸を開いて室内の明かりを背にして立った守衛のイバンの姿だった。きっとサクラに近づく影にいつからか気がついていたのだろう。
関門までサクラの背を登りイバンの前に立ったフィリオは、笑顔で「ただいま」を言おうとした。
けれど、さっきあれほど泣いたはずなのにどうしてかうまく口から言葉が出てこなくて、二度三度と小さく口をぱくぱくと開けた。
そんなフィリオの頭に手をのせ、くしゃりと撫でつけたイバンは眼尻にしわを寄せた。
「おかえり。よく無事に帰ってきてくれた」
「ん……ただいま。イバンさん」
喉元に詰まっていた言葉をようやく吐き出し、照れたように笑ったフィリオ。そのしわの寄った眼尻から一筋の涙が流れて落ちた。
とつとつと生還者が自分ひとりになってしまったことを詫びるように話したフィリオの頭を、イバンは優しく撫でつけながらただ無言で首を横に振った。そうしてフィリオの後ろに立ったもう一人の人物へと視線を向けた。
ハナヨのことを人に造られた擬人という存在だとシズクに話したとき、どこか敵を見るような視線をハナヨに向けたことを思えば、なんと言えば良いのか疑問もあったが、フィリオはありのままをイバンに伝えてから、後ろのハナヨに笑いかけた。
「はじめまして。ハナヨと言います。よろしくお願いします」
律儀にお辞儀をしてあいさつをするハナヨに、イバンも微笑んで頭を下げた。そうした光景を見ていると心中の不安が杞憂であることを願うばかりだった。
イバンの話によれば、ヒースには内線の送話機によりすでにフィリオの帰還を知らせてくれているそうだった。
だからなのだろうか、まだ日の一片も見えない夜中だというのに、関門から見下ろした通りには明かり煌々と灯り、人の声がさわさわと聞こえてきた。
それは、生死も知れず行方不明だった者の帰りを心待ちにした光と声だった。
あのとき出立した一団の中、こうして帰ってきたのが自分たった一人であることを、フィリオはそこで改めて自覚してしまった。その瞬間に足が動かなくなっていた。
戸口で立ち止まったフィリオの肩に、イバンがトンっと手を置く。振り返ったフィリオには何も言わず、ただ背を押すようにして歩きだした。
居住区へとつづく階段を一段一段と噛みしめるように下っていくフィリオたちの姿を見とがめて、眼下の人々から悲鳴にも近い歓声が上がった。
そうして耳に届く喧噪が大きくなるたびに、心がどんどんと凍っていくかのような痛さがあった。そんなとき不意にフィリオの手を後ろからハナヨが握った。それは人の温かさのない冷やかな手のひらなのに、凍えつきそうだった心を静かに温めてくれた。
イバンとハナヨに付き添われるような形で、フィリオは居住区へと下り立った。
フィリオたちの前には、彼女を出迎えたサクラのみんながいる。
それだのに、なおフィリオは足もとを見て視線を上げられずにいた。
「前を向きな、フィリオ!」
空のどこまでも突き抜けるほどに大きな声──それは、ミランダの声だった。
いたずらを怒られた子供のようにビクリと肩を震わせて、フィリオがゆっくりと視線を前に向けた。
そこにあったのは、見飽きるほどに見知ったサクラに住む人々の顔。
けれど、それらはすべて、初めて見る笑顔や泣き顔。
「フィリオさん!」
ミランダの隣に立っていたナサリンが駆けだしてフィリオに抱きついた。
「心配してたんですよ。みんな、ずっと、ずっと心配してたんですよ!」
胸に顔をうずめて泣き出したナサリンをぎゅっと抱きしめたフィリオ。
「ナサリン、ごめんな。みんな、ほんまにごめんな」
そう言ってフィリオは顔を上げ、いつのまにか彼女たちを囲むように集まった人たちの顔を涙にかすむ瞳で見つめた。
「こんなとき、みんなに言うんはごめんじゃないだろ?」
今にも大粒の涙を流して泣きだしそうなフィリオの頭にごわつく手のひらをのせて、ミランダが怒り笑いのような不思議な顔をした。それでも目尻にたまった涙はどうしようもなく隠せていなかった。
「みんな……みんな、ただいまぁぁー!」
──そして、フィリオは大声を上げて泣いた。
生還者であるフィリオを中心に、昂りつづけていた皆の感情がようようと治まりだしたころ、ヒースが事の次第を聞こうとフィリオに話しかけた。
だが、その瞬間に「こうして今やっと命からがら帰ってきた子に、今そんな話をさせる気かい!」と、怒号のごとくミランダの一喝がとぶ。
それでもフィリオは微かに笑顔を浮かべてミランダに首を振り、今からそれを話して聞かせたいと願い出た。そんなフィリオの笑顔と発言にため息混じりの呆れた表情を見せたミランダだったが、それならばせめて場所を移して腰くらい落ち着けてくれと逆に願い出るしかなかった。
そうして、けっして広いとは言えないミランダ食堂に、子供を除く主だったサクラの住人が集まった。
その中心となったテーブルにはフィリオとハナヨ、そして向かいにヒースが座った。
大勢のひといきれの中に、いつも嗅いでいた香ばしくもどこか甘やかなミランダの淹れてくれるコーヒーの香りが漂っていた。
本当にサクラに帰ってきたんだ、とその香りが物言わず帰還者の心に知らせた。
まぶたを閉じて小さく息を吸ったフィリオは、まっすぐな視線をヒースや周囲の人々に向けて、これまでのことを澱みなくとうとうと語りだした。
浮遊島の不思議な施設のこと、そこで出会ったハナヨのこと、そして、浮遊島の崩壊とコルドやモートレッドに起きた悲劇……。
フィリオの語る途上、モートレッドの死を示唆する言葉が発せられたところで、発したその場で消えてしまいそうなほどか細い悲鳴があがった。人垣の奥で重たくひざ元から倒れる音がした。すぐに人だかりの中から肩を貸され移動していくエスタの背を目にしたフィリオは、しばらく下唇を噛んで口にしようとしていたはずの言葉を飲みこんだ。
黙した語り手に、だが誰も無理に先を促すようなことはしなかった。
再開されたフィリオから語られる言葉は、ときおりざわめきを聴衆に与えながら、彼女を取り巻き過ぎ去っていった時系列に沿って紡がれていった。
タンジ島に漂着し、サクラを目指してシンドアへ渡ったあと、血種決起同盟の爆発テロが起こり、そこからどのように自分がサクラに帰ってこられたかの話しだしたおり──その段になって、ついに事の真相であるドゥーレオのことを話した。
ここで時をさかのぼり、ドゥーレオから語られた浮遊島崩壊の真実を話したとき、聞き入っていた者たちの動揺や驚嘆、憤怒や悲嘆の情がどよめきという形で起こった。
浮遊島の調査に乗じて決行されたコルドの非道なる暗殺。それに巻き込まれ崩れゆく塵芥と共に散ったモートレッドの非業の死。それに加え、自身の味方であるはずのオルトバンを容易に切り捨てた非情な制裁……。
周囲のどよめく中、シンドアの片隅で起きたドゥーレオの最後を言葉にして、フィリオは視線を落とした。その視線の先には、湯気立っていたはずのコーヒーカップがあった。けれど、そこからはもう温かな白い湯気が立つことはなかった。
フィリオが語り終えてなお暫時つづく喧騒と沈黙の狭間で、ヒースのよく通る声がその場に静けさを生んだ。
「フィリオさん。あなたは、本当によく生きて帰ってきてくれた」
それはとても柔らかで温かなのに、けれど同時にとても悲しげに沈んだ声だった。
その唐突なヒースの語りかけに、フィリオは下向いていた顔を上げた。そのとき視線を交わしたヒースは、フィリオの知る普段の彼からは想像できないほど情感ある人としての顔を持っていた。
「此度の悲劇の一端を──いや、悲劇の始まりを作ったという責を、私はあなたを含めた被害者の方々に謝罪せねばならないだろう」
貴族たるヒースが沈痛な表情で一介の平民、まして《混ざり者》たちに対して懺悔する様を前に、ざわめいていた周囲の声は瞬時にして消えた。
「自身の無力に抗わず、そこに安寧とあぐらをかいていた私がただ傀儡のごとく他者の声に従うだけの空け者だったせいで、与えられし領民の命を散らせ、不逞の者たちに意図せずとも加担してしまったその責は、ひとえに私の許にあると言わざるをえない。そのことだけをもってしても、本当に申し訳なく思う」
ヒースが瞑目し頭まで下げた姿を見た者たちは、ただ目を見張った。自分たちの知る貴族、なにより純人としての矜持に満ちて《混ざり者》を人とも見ないはずの領主たる地位にある者がその下々に頭を下げたのだから、それを驚愕せぬ者はいなかった。
「だが、此度のことでこの地に巣食う病巣がわかったことは幸いであると言わざるをえないだろう。かのオーバン翁、彼がすべての元凶であることをここに告白せねばならない」
決然として語られたヒースの言葉に、またも周囲は騒然とした。
「此度の浮遊島の捜索に際し、調査隊の編成における人選はオーバン翁の助言によるところが大きかった。なによりドゥーレオとオルトバンを推挙したのは彼の者である。おそらくその時点からすべての計画は始まっていたのだろう」
そこまでを語ったとき、ヒースは額に手をやって頭痛に耐えるように苦しげな表情で眉を寄せた。心中に生じるは自責か後悔か果たして何であるか、テーブルに落としたその視線は、遠く見えぬ何かをにらみつけるように一部も揺れることはなかった。
ヒースの発言を受け、その場に集まった者たちは図らずもオーバンの姿を探した。しかし、どこにもその姿は見あたらず、あまつさえフィリオの帰還を皆で迎えたあの場にいたのかさえ誰も知らずにいた。
どよめきだした周囲とは裏腹に、ただ沈痛な表情で考え込むように静まったヒースを見て、フィリオが声をかけようとしたとき、それは唐突な爆音によって遮られた。
ドンッ──という腹に響く爆発音。そして、彼らの立つ世界がぐらりと揺れた。
立っていた者は近くのものに寄りかかり、テーブルにのったカップからはコーヒーの飛沫が周囲に散った。その揺れを追うように、静かだった夜空へとサクラの重たく尾を引く叫声が響いた。
「──おい! オーバンさんちの方で爆発があったみたいだ!」
店の外にいた者が店内に走りこんできて大声をあげた。それを聞いた者たちの多くが、即座にミランダ食堂を飛び出すと現場に向かって駆けだしていった。
フィリオとヒースも、その一報と同時に椅子を引いて立ちあがった。
しかし、いまにも駆けだそうとしていたフィリオとは反対に、すぐに見開いていた眼を閉じたヒースは、ドスンと椅子に腰を落として力なく下を向いてしまった。
横目にその姿を見ていたフィリオは足を止め、近くに立ったミランダに視線をやる。その視線に気づいたミランダは、大きくため息を吐いてから首を左右に振った。
「あんたが行ったところで何ができるっていうんだい。ここであったかいコーヒーでも飲んで待っとくんだね」
そう言って冷えてしまっていたコーヒーのカップをナサリンに下げさせ、ミランダは温かなコーヒーをフィリオの前に出した。
苦しげにミランダの顔を見返してもそこに返す言葉が見当たらず、フィリオは浮かしていた腰をふたたび落とした。隣に座るハナヨはそんな悲しげに沈んだ主の顔を不安げに見つめた。
人いきれの薄れた店内に、根深く停滞した沈黙が居座った。
店外は漸次その混迷を増していき、錯綜する言葉の是非さえもわからない。
やれ延焼は治まった、いやまだ煙を上げてくずぶっている。やれオーバンじーさんの死体があった、いやあれはオーバンじいでもなければ人ですらない。やれ爆発後に姿を見ていないやつらは同盟の連中だ、いや彼らはサクラ内を走り回って行方不明者を探してくれている……。
そうして右往左往と通りを騒ぎ立てる往来と、テーブルで静かに湯気を立てるコーヒーとは、たった一枚の壁を隔てただけなのにまるで別世界の存在だった。
「どうして、こんなことになっちゃうんやろ……」
カップを両手で包みこんで立ち昇る湯気を見つめるフィリオから、宛先のない言葉がぽつりとこぼされたが、そこに返される言葉はどこからも発せられなかった。
結局、爆発現場からオーバンの遺体は見つからなかった。そして、サクラ中を捜索してもその姿を見出すこともできなかった。その生死すらわからぬまま、すべては光の当たらない影の内に隠匿されてしまったかのように、漸うと昇る陽に抗うすべもなく、いつしか次の朝日が顔を見せ始めていた。
そうして空と雲海の境界、その東の線上に陽の光が射し始めたころ、シンドアから三隻の空泳船がサクラへとやってきた。
──上陸拒否あれば、如何問わず掃討する。
そんな不穏な回光信号を出航前に伝えてからやって来る彼らを、サクラ側が拒否できようはずもなかった。
船頭に帝国国旗を掲げて上陸してきた二十名を超える帝国兵を前に、ヒースを先頭にして出迎えた住人たちは一所に集まって身を寄せ合った。
手に手に武装した兵士たちが道をつくり、その中央を泰然と歩いてくる者の姿にフィリオは見覚えがあった。
色素の薄い黒髪に、フィリオと同じ碧色の眼をした女性──記憶に見る雰囲気とまるで正反対の毅然とした姿こそしているが、それはタンジ島の管理局長だったソラリオに違いなかった。
しかし、クラドオン王国下のタンジ島管理局にいたはずのソラリオが、こうして帝国軍服を着ていることに違和感を覚えるはずなのに、あまりにもそれが様になっていた。
軍靴から重たげな音を立てて歩き、ソラリオはヒースの前で立ち止まった。
「貴様が、雲海生物特区第四〇六三号特区長ヒース・ゴルドランで相違ないか?」
そう問うた声に否応もなく身を固くしたヒースは、ふるえる唇をどうにか動かした。
「はい、私がヒース・ゴルドランに相違ありません」
「貴様には、国家転覆罪および国家転覆幇助罪の嫌疑がかかっている。思う所の如何を問わず、我々に快く同行願えれば幸いである」
後方に控えていた兵士が一斉にヒースを凝視し、武器を握る手に力を入れる。
相手の心情など一顧だにせぬ威を持つ者の言葉に、身分ある貴族のヒースであれ従順にただ頭をたれた。住人たちの前で四方を兵士に囲まれて連行されていくヒースの背中は、ただのひ弱な初老の男のものだった。
その後は、ソラリオの厳然としてなお軽快な指揮の下、すべてに息もつかせぬほど速やかな流れの中で事が進められていった。
特区長邸の家宅捜査を皮切りに、全家屋の捜索や先の爆発現場の検証が行われ、それに同時並行して住人全員の身柄を一か所に抑えた上での個別聴取が行われた。
数十人といる住人たちの中、フィリオの聴取は最初に執り行われた。此度の重要参考人であるからだろう。
聴取に臨席したソラリオを前に、フィリオはすべての質疑に偽りなく答えた。
そうして偽りなく言葉にするがゆえに、ハナヨのことに関して、フィリオは自らの意志を伝えなければならなかった。
「擬人あるいは完全自律型人形と呼ばれる[No.0874]は、私が発見し保護しました。私には第一発見者として法規上彼女を得る権利があると愚考しております」
不遜と取られようとも、まっすぐにソラリオの眼を見つめて、フィリオはそう力強く口にした。
実直に訴える視線と言葉を正面から投げかけられ、しかしソラリオはその思いを叩き落とすことも受け止めることもなく「それを決定するのは、自分でなければ、貴様でもない」と、まるで壁に石を投げたかのような返答をした。
それでもフィリオは落胆した様子を見せず、その後もじっとソラリオの眼を見て聴取に答えつづけた。
こうして住人一人ひとりに行われた聴取は、日が昇りきらない早朝から行われ始めたにも関わらず、二度三度と呼ばれる者たちもおり、日が落ちようかというころになってもまだ一部が継続して行われるほどの長丁場となった。
ようやく全戸の家宅捜索も終わり、嫌疑なき者たちが解放されたときには、すでに戸前の灯が夕闇に明かりを点していた。
「ふあぁぁぁぁ……」
長く尾を引くため息をもらして、フィリオは座り慣れた椅子に腰を下ろす。
サクラに着いて半日以上が過ぎて、やっとの思いで自宅へと帰りついた。
およそ三日間にわたって心と体とに蓄積されつづけた疲労が抗いようもなく全身を侵していくのがわかった。実感の伴わぬまま、あまりにも色々なことがありすぎた。
「ここが、フィの自宅なのですね」
反してハナヨは初めて入ったフィリオの自宅兼店舗の様子に興味津々といった体で、うろうろと室内を見て回っている。目についた用途不明の魔導具を手にハナヨが質問してくることへ、疲れた体でもフィリオは微笑みながら答えを返した。
しばらくそうしてゆったりとした時間を二人で過ごしていると、不意にノックの音がした──かと思えば、間髪を容れず正面扉が外へと開かれた。
戸前には夕闇を背景にしたソラリオが立っていた。
「ソ──ソラリオさん!」
瞬間的に椅子から腰を浮かして驚愕するフィリオに、苦笑を口辺に浮かべたソラリオが手を軽く上げて制した。
先ほどと変わらず帝国を顕揚する軍服に身を包んでこそいたが、その目つきは、聴取のときに見せた何物をも貫き通すような鋭さはなく、タンジ島で見たときと同じ眠たげにぼやけたものに変わっていた。
「なかなかに、いい店じゃないか」
周囲を見渡しながら店に入ってくるソラリオに対し、事態を飲みこめないでいるフィリオは呆然として相手の出方を見るしかなかった。
「フィ君は、ここに住んでどれくらいになるんだ?」
なおもソラリオは普通の客であるかのように自然な調子で言葉をかけた。
「だいたい、五年になります」
「そうか。これからっていう大切な時期だな」
そう言って近くにあった商品の魔導具を手に取ったソラリオ。しげしげと興味深げに眺める姿はハナヨのそれとよく似ていた。
「こんなことがあっても変わらず、いまもこの特区は好きかい?」
「……はい、大好きです」
ソラリオの意図はわからない。けれど、フィリオは聴取の続きのようにはっきりと答えた。自分に向いた屈託ない眼を見つめ返して、ソラリオはすこし口角を上げた。
「今日は、この地に住む人たちの声をこれでもかと聞いた一日だった。みながフィ君のように、このサクラと呼ぶ場所を好いていることが嫌でもわかった。君たちの言葉を耳にするかぎり、ここはとても良いところなのだと思ったよ。なにより、昼に食べた女将さんの料理が旨かったのはよかった」
そこで一呼吸置いてから、ソラリオは二人のもとに歩き出した。
「不穏分子が取り除かれた今、ここは元の住みよい場所に戻ったことだろう。それこそ、君たちが信じ、愛していた場所だ。実のところ、私はこの特区の世話になることに満更でもないと思っているよ」
「それは、どういうことですか?」
「……すぐにわかることだから、あまり気にしないでくれ」
「ソラリオ氏の言葉は、先ほどから一方的すぎます」
「ははは。すまない。たしかにそのとおりかもしれないな」
ハナヨの指摘に声を出して笑ったソラリオと、苦笑いを浮かべたフィリオ、そしてなぜ二人が笑っているのかわからずに小首をかしげるハナヨだった。
「ところで、ワイズさんは……」
「ワイズならもうタンジ島に帰らせたよ。今回あいつがいろいろとお世話になったね」
「やっぱり、ワイズさんは帝国の人だったんですか?」
フィリオの質問に、ソラリオは感情の読めない左右非対称であいまいな表情を浮かべるだけで口は開かなかった。それ以上フィリオも聞くことはしない。
うす暗い部屋を満たしそうし始めた静けさを拭い去るように、ソラリオがおもむろに口を開いた。
「ああ、そういえば大事な要件を忘れていた。私がここにきた本題なのだが、ハナヨ君の処遇について確実とは言えないが、おそらくフィ君のもとにいられるようになるだろう」
「──それ、ほんとうですか!」
思わず前のめりに一歩を踏み出したフィリオに微笑み、ソラリオはどこか嬉しげにうなずいた。
「ああ、この場でうそなど言わないさ。ただし、私の力がおよぶ範囲などたかが知れている。だから確証はしてやれない。それでも、私のできる範囲で自身の負った責に報いたいとは思っているんだよ、いろいろとね」
「そんな、ソラリオさんに責なんて……」
「いや。この度の件において、指揮を執った者として負うべき責が私には多分にある。ゆえに、その責の一端であれ報いたいのだ、私自身がな」
「うちには、よくわかりません」
「はは。それもすぐにわかるさ」
そう言ってソラリオがからからと笑う前で、フィリオとソラリオは判然としない思いにもやもやとした表情を見合わせた。
このときのソラリオの本意が知れたのは、サクラがシンドアに逗留させられてから数日経ってからのこと。サクラに少しずつ日常が戻りだしたころだった。
サクラには、公安上の危機介入として帝国軍治安隊が常駐することが決まった。
そして、その指揮者こそ、いつも眠たげな眼をしたソラリオ・ミンディア、その人だった。
これからのサクラの未来が、いったいどのような航路を辿ることになり、いったいどこが次の目的地となるのか、そこに生きる少女たちにはまだわからない。
それでも今日も明日も明後日も、サクラは雲に満ちた世界を悠然と泳いでいく──。
~エピローグ~
いつも、ここに立てば、風が吹いている。
この場所に立って、頬に風を感じない日なんてない。
だから、今日だって、ここには風が吹いている。
二人の少女が、風車の屋上からどこまで続くかも知れない雲海の彼方を見つめた。そんな二人を十六夜の月が物言わず薄い羽衣をまとって見下ろしている。
「この世界は、ハナヨにとって知らないことばかりです」
背の高い方の少女が、ほのかな月の光に照らされて黒い陰に染まった雲海を見つめてぽつりとつぶやいた。
「それは、どんな気持ち? 嬉しい? それとも悲しい?」
眼下に広がった雲海に比べてもさらに茫洋と広がる星空を見上げ、もう一人の背の低い少女がたずねた。
「この感情に言葉を付すならば──楽しい、が当てはまるように思います」
しばし考えてから、そう言葉にして空を見上げた少女の瞳は、月や星よりさらに遠く、目に見えない何かを見ているようにきらりとした光を放っていた。
「そっか。楽しい、か」
横目で隣に立った少女を見つめ、自然と口元に微笑みがもれた。
「これから、この世界のことをもっともっと知っていこうな」
「はい、これからもフィと一緒にたくさんのことを知っていきます」
吹き抜けるひやりとした夜風が、少女たちの白銀色と黒色の髪をやわらかく散らした。
一人の少女がその場で大きく伸びをしながら深呼吸をした。それを見習うようにもう一人の少女も大きく伸びをしながら深く息を吸いこんだ。
それは、どこか寂しげに冷えた終末の空気。
けれど、その一日で温まった体を静かに冷まさせ、今日という日のお終いを知らせてくれる大切な冷たさである。
「寒くなってきたし、そろそろ寝よっか?」
「はい、そろそろ寝ましょう」
階下へ向かおうときびすを返したとき、ふと月光に沈む小高い丘のような影が目について立ち止まった少女は、静かにその言葉を口にした。
「……おやすみ、サクラ」
こうして雲海世界に生きる少女たちの空の一日が、今日も終わった……。
【了】
前書きぶりとなります、卯月之蛙と申します。
この度は拙作「雲海世界の少女たち~Girls on Cloudy World~」を最後までお読みいただき、また後書きまで目を通してくださり、誠にありがとうございます。
さて、実を言えばフィリオを主人公とした本作なのですが、本当はこれ本筋の作品として書いたものではなかったりします。雲海世界という世界観を元に別の作品を書いている途中、色々と発想が出てきてしまい、それならこれで一つ書いちゃおうという安直なことから生まれた物だったりするのです。
ですから、正直なところかなりなところで行き当たりばったりに書きなぐった点もあり「本筋より前に発表するのはどうなの?」という疑問もありました。が、書いちゃったんだから仕方ないと開き直り、こうして日の目を見るに至ったのです(でも、本筋も同じ題名で書いてるので、発表時の題名どうしようというのが目下の悩み)。
改めまして、私の文章はあまり読みやすいものではないと思いますが、こうして最後までお目通しくださりましたこと、ありがとうございました。
次回作も現在できうる範囲で頑張って書いておりますので、書きあがりましたらまたこの場で発表できればと思っております。それでは、また。