交易都市シンドア
Ⅳ.
シンドア行きの荷台は、けっして居心地の良いものではなかった。
もともと人が乗ることを想定して運搬用の荷台なのだから、乗り心地があまりよくないのは当然だった。しかし、その点は毛布や綿毛の敷物を貸し出してくれていたため、あまり問題ではなかった。
「……なんで、あなたなんですか?」
「なんだよ。いまさらそんな嫌そうな顔しなさんなって」
フィリオの不満げな声に笑顔で言い返したワイズ──そう。こうして彼が同伴していることが、彼女としては荷台の居心地を悪くしている原因だった。
別にチャラチャラとした人間が嫌いというわけではなかったが、このワイズに関してはなぜか第一印象からあまりよくなかった。いうなれば、ただ単純な毛嫌いである。
「同伴人がいるんなら、せめてサイカさんがよかったなぁ」
かくす気などさらさら見せず、フィリオはこれ見よがしにつぶやいた。
当然ながら身元不明の遭難者であるフィリオたちを、立場上そのまま単独でシンドア行きの運搬船に乗せられるわけもない。ましてや、島で聞いたように現在この辺りでは《混ざり者》に対する風当たりは強く、管理局としても警戒せざるをえないという側面もあるだろう。なりゆきとして同伴者が付けられること自体は至極真っ当である。
「フィリオちゃんも言うねぇ。でもまぁ、あいつもいろいろ忙しいし、こういう役目はオレが一番だってこと」
「あなただっておなじ職場のおなじ職員じゃないですか、忙しくしてください」
「あいつは頭を使うお仕事で、オレは手と足を使うお仕事。そうやって同じ職場でも住み分けが必要なんだよ、お嬢さん」
たしかに言うだけあって、純人でありながら背丈もあり筋肉質な体格のワイズは、サイカのように事務向きというよりは、現場の荒事向きのように見えるのも確かである。
「でも、あなたの場合、口を使うお仕事のような気がします」
「ほんと、なかなかに言うねぇ、フィリオちゃん。オレ、そういうの好きだよ」
「ごめんなさい。うちは嫌いです」
そのときガタゴトと荷台に載った荷物が音をたて、船室を揺らした。
運搬船をけん引するのは、クジラの中でも最小クラスであるソラトビクジラの二頭。この二頭の息が合わないとき、たまにこうして荷台が揺れた。
隣に置いたリュックサックに手を伸ばし、フィリオはゼンマイ式の懐中時計を取り出した。タンジ島を出て、まだ二十分ほどしか経っていなかった。
(あと五時間半くらい、このまま何事もなく平和に進んでくれることを祈ろう……)
向かいの壁際に立っているワイズから顔をそらしたフィリオは、後ろの壁に背を預けて毛布にくるまると静かに目を閉じた。同じ毛布にくるまっているハナヨもまたフィリオの真似をしてまぶたを下した。
しばらくそうして荷台に揺られていると、ガサゴソという音が周囲から聞こえた。
「──っん、ううぅぅぅ」
本当に眠るつもりはなかったのだが、いつしか眠りに落ちていたフィリオは、大きく伸びをして目を覚ました。
「ああ、起きたかい。フィリオ」
「おはよう、ドゥーレオさん。ところで何してるん?」
寝起きでかすむ眼をこすりながら、フィリオは床に並べられた湯沸かし用の魔導具や木製カップを見つめた。
「ちょうど今からコーヒーでも淹れようかと思っていたんだ。粉末品ではあるけれど、フィリオもいるだろう?」
「うん、もらうよぉ」
「ハナヨはどうなんだ?」
「ハナヨにはいいよ。コーヒーはあんまりお好みじゃないみたいやから」
今朝の朝食時、ためしにとコーヒーをハナヨに勧めてみたが一口飲んで一言。
──これは、なんかエエくない、と感じました。
そう言ってめずらしくどこか憮然とした表情で、そっとカップを戻したハナヨをフィリオは見ていたからだった。
「ワイズさんも、飲まれますよね?」
反対側の壁に背を預けて立っていたワイズに、ドゥーレオが優しくたずねた。
「いや、オレはけっこうです。お気になさらないでください」
「そうですか……タンジ島の特産品はコーヒーだと思い、昨日買ったばかりなのですが」
「だからですよ。もう飲み飽きてしまったんです」
口元に自嘲的な笑みを浮かべて、ワイズはドゥーレオの申し出を断った。
「そういや、昨日おっきなタンポポ畑を島で見たんやけど、やっぱりタンジ島の特産品なんやね、タンポポって」
「おうよ。だから、いつも種採集のときには取り切れなかった綿毛が、絶賛お空への徒競走って感じで見物なんだぜ。また時期を観光に来るといいさ」
「せやねぇ、それはちょっと見てみたいかもしれん」
ドゥーレオがフィリオに湯気の立つコップを差し出してくれた。それを両手でつつむように受け取る。鼻先をなでるように香り豊かな湯気がのぼった。
「せっかくだから、君の分も淹れておいたよ。飲めなかったらそのままにしておいてくれてかまわないから」
ワイズの分のコーヒーも淹れたようで、ドゥーレオは立ちあがってワイズへとコップを差し出した。
「すいませんね。お気をつかわせたみたいで」
苦笑しつつもワイズはそのコップを受け取った。
しばらくコーヒーを飲むだけの静かな時間が過ぎた。ズズッというコーヒーをすする音と、香ばしい湯気が狭い部屋に広がった。
簡易即席に淹れられる粉末品とはいえ、たしかにタンジ島のタンポポコーヒーは特産品というだけある気がした。酸味が少なく苦みもまろやかでコクがある、とても飲みやすい味だ。朝飲んだ時もおいしいとは思ったが、特産品と言われると余計おいしいような気持ちにさせられてしまうあたり、自分は単純なんだなと思ってしまうフィリオだった。
しかしそんなフィリオに反し、飲み飽きたと言うだけあって、ワイズは儀礼的に一口をなめるように飲んだだけで、コップを手のカイロ代わりにしていた。
「なあ、フィリオちゃんって魔導具屋をやってんだよな?」
「ええ、まぁそうですけど、なにか?」
唐突なワイズの質問に、疑り深げに眉を寄せてフィリオが口を開いた。
「いや、ふと特区の魔導具屋って武器とかも作ったりすんのかなって思って」
「おいおい、武器を作るって……」
ふぅーっと大きくため息を吐いて細目になったフィリオがワイズを見た。
「魔導具屋は武器屋さんじゃないんやから、武器なんか作るわけないやん」
「まぁそりゃそうか。聞いておいてなんだけど、正直フィリオちゃんが武器を作ってるとこなんてぜんぜん想像できないけどさ」
「そんなん当たり前やんか。ただ、自分で武器なんて作ることはなくっても、もし魔導砲杖みたいな魔導兵器を修理してってお客さんがおったら、そりゃあ直せる範囲で直してあげたりするよ、お仕事やし」
「ほうほう。それじゃあ、この道中なにか魔導具の故障があったらお願いしようかな」
「ええ。ワイズさんなら、特別に五割増しのお値段で喜んでうけたまわりますよ」
ニコリと花咲くように満面の笑みで答えたフィリオ。
「おおぉ! フィリオちゃんがオレだけを特別扱いしてくれるなんて感涙ものだね」
「……なかなかに手ごわいですね、あなた」
「フィリオちゃんには敵わないけどね」
ぐぬぬ顔のフィリオとは対照的に、不敵に口辺を上げて笑うワイズだった。
こうしてシンドア行きの運搬船は、とても平和に進んでいった。
* * *
──交易都市シンドア。
それは、ロスグラン帝国内でも枢要な位置を占める帝国東部地域の商業の中心である。
雲海から頭を大きく出した山が広がる連峰の一画に、台地のように緩やかな丘陵を見せる場所があった。そこは古くから連峰の山々を抜けて東西南北へと往来するための通り道であり、その台地が移動中の休憩地となるにしたがって、どんどんと人と物が集まるようになる。そして、いつしかそこが一帯の要衝地となるほどに栄え始め、現在の交易都市シンドアになったのだという。
そうした経緯もあり、シンドア近郊の雲海は巨大な船舶や雲海生物の往来が激しく、都市の湾口に近づくだけでも一苦労といった状態である。
いくら小さな運搬船とはいえ、騎手は細心の注意を払いつつ他の船舶の間を縫うようにして、フィリオたちを乗せた船はゆっくりと荷揚げ場へと向かった。
しかし、こうした小さな船舶の騎手は、往々にして三目種のような雲海生物と意思の疎通を可能とする者が行っているわけではない。三目種は希少な種なのである。それゆれ、この船の騎手も多聞にもれず有翼種の男だった。こうなると騎手たちの綱捌きの技量によって雲海生物を操縦して進むことになり、どうしてもこうした混み合う雲海の中を行くときは周囲と歩調を合わせた遅い足取りとなった。
「フィ、見てください。たくさんの船や未確認生物が雲の上に浮かんでいます」
運搬船の荷台にある小窓から外をのぞき、どことなく興奮しているような声音でハナヨがフィリオに声をかけた。
「そやねぇ。たしかにこうやって低い位置からたくさんの船を見るんは迫力あるなぁ」
実はフィリオにしても、普段はサクラの甲羅の上から眺めることが多く、こうした低い視点で近くを航行する船舶を見るといったことはあまりなかった。
サクラのように人の居住区となるような雲海生物は、あまりに巨大であるため都市部への接近が制限されている。というのも、人が住めるほどに巨大な生物が接岸できるような湾を造ることなどまず不可能だからだ。そのため、近くの指定停泊域で雲海生物を待機させ、船舶の行き交う湾口とは別に雲海生物特区用の荷揚げ場を設けることで寄港できるように工夫がなされていた。
「ハナヨちゃんってさ、見た目より子供っぽいっていうか世間知らずっていうか、そんな感じがあるよな」
小窓に向かって二人して見入っていた背後から、ワイズが興味深げな声を上げた。
「なに? ハナヨに文句でもあるん?」
そのワイズの発言に、じろりとフィリオがジト目で向きなおった。
「いやいや、べつに文句なんてないさ。ただ、正直言って見た目と中身がフィリオちゃんとハナヨちゃんは、入れ違いになってる気がするなぁって思っただけ」
「それってどっちに対しても、すっごい失礼な発言やと思うで」
「うっ、たしかにそうだ。今のはごめん、オレの失言だった。ほんと申し訳ない」
そう言ったワイズは素直に自分の非を認め、二人に対してきれいに頭を下げた。
ワイズという人物は、こういうところがあった。一見では傍若無人に見えても、実はちゃんと相手に誠実に向き合っている。そうした側面が端々に垣間見えて、フィリオも第一印象の嫌悪感だけで毛嫌いしきってしまうことができず、ワイズの評価をなかなか定めることができずにいた。
「でも、実際ハナヨちゃんって、お嬢さまだったりする?」
「それを聞いて、あなたはどうするつもり?」
「トーゼン、逆玉狙いですね!」
「ほんま、サイテーやな……」
やはりワイズの評価は、どうにも定まらない運命のようだった。
その後、どうにか無事に荷揚げ場に着き、乗船員たちはやっとの思いで陸に立った。
フィリオが港に立って大きく伸びをしたかと思えば、シンドアの港湾職員が即座に駆けつけてきて乗船員たちの身元確認が行われた。
本来なら、手元に帝国発行の特区民たる身分証があれば話は早いのだが、このような事態になるなどまったく思ってもいなかったため、フィリオもドゥーレオも持っているわけがなかった。当たり前だがそれさえ持っていればタンジ島でも話はもっと簡単だったのだが致し方ない。
とはいえ、これでは身元不明の不審人物でしかなく、渡航許可がおりる可能性は低い。だが、そこは同伴したワイズが先頭に立ってうまく対応してくれた。そして何よりも大きかったのは、クラドオン王国管理局局長ソラリオのサイン付き身分証明があることで、ある程度の立場が保証されたことである。
ただしこうした前例が多々あるわけもなく、サインの真偽を確認するために対応に当たった職員たち数人が近くにある港湾支局の建物と外を行ったり来たりと忙しそうに走りまわった──結果として、どうにか上陸許可がおりた。
そうした身元確認と同時並行して、税関史らしき職員によって荷揚げ品のチェックも行われ、埠頭の上は人と物であふれかえるように賑わいでいた。
内容物の検査が終わり、リュックサックを返してもらったフィリオは、それを背負い直しながら辺りを見渡した。
多くの往来がある中で、ドゥーレオは検査中なのか手ぶらになった腕を組み、港湾支局の壁面に背をつけて目をつぶっていた。近くにも似た姿をして休む人が数人いた。彼らはきっと船の長旅に疲れてしまった人たちなのだろう。
そこでふと目をやった荷揚げ場で、世話になった船長と目が合ったフィリオは、おもむろにそちらに向かった。船長も近づくフィリオに笑いかけた。
「船長さん、この度はほんとお世話になりました」
王国管理局の要請とはいえ前日の申し出であるのに、こころよく乗船を許してくれた商船の船主に対し改めて礼を言う。
「いやいや、なんも気にすることないで。あんさんら乗せたところでうちが損することはないし、むしろ管理局からお金くれるくらいなんやからな。あんさんらは荷物と違って税がかからんからむしろええわ。まる儲けやで」
「それでも、無理を聞いてもらったことに違いないし、ありがとうございました」
「そりゃ、こっちこそ律儀にありがとさん」
商人らしい金勘定の上での発言とはいえ、フィリオたちからすれば感謝するにこしたことはない。彼女たちの立場を考えれば、自分たちが《混ざり者》であることを理由に断られることだって十分にありえたのだから。
そうした状況を顧みればこうしてうまく乗船できたのも、きっとソラリオ直々に口を利いてくれ、その上でワイズという管理局の者が同伴してくれたことによって乗船許可の糸口につながったのだろう。本当に彼女たちには頭が上がらない。
フィリオがそうして船主と談笑している間、ハナヨはというと初めて見るシンドアの街並みに興味深げな視線を向けていた。
見るからに重量のある人造石によって造られた建造物が林立した街並み。
タンジ島とは比較にならないほどの群衆が行き交う大通り。
知識としてフィリオに教えられていたが、初めて実際に見る多種多様な人種の姿。
反対に、知識として持ってすらいない荷揚げ場の雲海生物たち。
それら新たな情報の波は、ハナヨにとって好奇心といって差し支えない何かを刺激されていていた。
「どう、はじめてのシンドアは?」
船主のもとから帰ってきたフィリオが、ハナヨの横に立って楽しげにたずねた。
「とても刺激的です」
「ほうほう、刺激的とな。では、どのあたりが刺激的なのでしょう?」
「初めて見る人種のこと、初めて見る雲海生物のこと、建築物の様式や外観等、それらすべての初見となる情報がとても刺激的です」
「それは、なんかエエな、って感じ?」
「はい、なんかエエな、という感じです」
「そっか、それはうちとしても、なんかエエなって感じ」
フィリオはニコッと笑い、その笑顔を見たハナヨもすこし満足げだった。
「おい、二人ともそんなところにいないで早く行くぞ!」
先まで進んでいたドゥーレオが振り返って、まだ突堤のあたりで戯れていたフィリオたちに呼びかけた。その隣ではワイズが何か考えるように真面目な顔つきをして、周囲へと目を配っている様子だった。
「はーい!」
大きくドゥーレオに手を振って、二人は小走りに駆けだした。
そうしてフィリオたち一行がまず目指したのは、シンドア中央港湾事務局。そこはフィリオがタンジ島から送話機によってサクラの寄港状況を確認して無下に断られた組織である。だから、次は送話機で教えられないならば直接確認してやろうというのが今回の主な目的だった。
ただし、フィリオが送話機で港湾事務局の職員と話した感じを思い出せば、それらがそうそう上手くいかないだろうことは想像に難くなかった。
(はてさて、サクラがもう着いてくれてるんが、一番良いんやけどな……)
フィリオは中央港湾事務局に行く道中、先行き不安な状況に小さなため息をついた。
「……フィリオ、すこし良いかい?」
フィリオに歩幅を合わせゆっくりと隣を歩いていたドゥーレオが小声で話しかけた。シンドアに着いてからのドゥーレオは、フードとストールで耳や顔を隠し、《混ざり者》であることを隠すようにしていた。時勢が時勢だけに、それが正しい対処法なのだろう。
前方を行くワイズに警戒したような目を向けながら話しかけてきたドゥーレオに、フィリオは不思議そうな表情を向けた。
「港湾事務局には私とワイズさんの二人で入るようにする。だから、君とハナヨは事務局の外で待つようにしてくれ」
「どうしてなん?」
「おそらく私たちが遭難者だということを話せば、中央港湾事務局の所管事務でないといえ簡単な身元調査くらいされる可能性がある。そのときハナヨに直接聴取をされるのは避けたいだろう?」
「まあ、それは確かに。でも、直接会わんでも大丈夫なんかな?」
「その辺りは彼が近くにいようがどうとでもなる。私もだてに年だけを取っているわけではないさ」と言ってドゥーレオは不敵に笑った。「それに、さいわい彼はハナヨの出自について詳しく知らないからな、以前に寄港した街のスラムでサクラの住人として引きいれた娘ということにすれば間に合う。スラム出身ならば早々に身元を調べることもできん」
「うぅん、まあドゥーレオさんがそれで行けるっていうなら、それでいこか」
「ああ、任せておいてくれ」
ドゥーレオはそう言い残すと、前を行くワイズの横に並んで歩きだした。
「聞こえてた、ハナヨ?」
「はい、フィとハナヨはシンドア中央港湾事務局の前で待機します」
「うん、よろしい」
期待と不安の両面に天秤をゆらゆらと揺らしながら、フィリオたちはシンドア中央港湾事務局へと向かって行った。
「……遅いよなぁ」
シンドア中央港湾事務局は石造りの大きな建物だった。その前に設けられた石階段に腰を下してフィリオとハナヨは、残り二人の帰りを待っていた。
中央港湾事務局は、上陸時に対応した港湾支局の親玉にあたるものであり、あのときの職員たちと違ってここには帝国本部から出向したエリート職員たちが詰めているのだとワイズが話していた。そのことを考えれば、交渉も一筋縄ではいかないのかもしれない。
「ドゥーレオ氏とワイズ氏が建物に入ってから、およそ二十分が経過しています」
「うそだ。一時間くらい待ってる気がする」
「いえ、うそではありません。一時間ではなく、今二十一分が経過したところです」
こうして待っている間、二人してボーっと前の通りを眺めていた。
ハナヨは表情にこそ見せないが、通りを行き交うあれこれが初めて見聞きするものばかりであり、何事にも興味津々といった体である。たまにフィリオに自分から質問をしてくるあたりが、その証明といえるだろう。
対するフィリオは、どのように中で話が進んでいるのか気になって、ぼうっと目前の往来に視線だけを置いていた。
だが、それでも自分たち──というよりフィリオへ向けられる往来の視線が、あまり好意的でないことは何となく伝わってきた。タンジ島で耳にしていたように、やはりこのシンドアにおいても《混ざり者》に対する警戒心が強いことが嫌でもわかってしまった。
見た目の上では銀髪をした小人種にめずらしいか弱げな印象といった程度で、なかなか《混ざり者》とは見えないフィリオであるのに、そこまで周囲から警戒されてしまうあたり、それだけ皆が疑心暗鬼になって相手の種に敏感になっている証拠だといえた。
(スカーフでも巻いて耳くらい隠した方がいいんかな)
フィリオがそう心の中で考えたとき、後ろの分厚い木戸が音を立てて開いた。
まず顔を見せたのはワイズ、そしてドゥーレオがそれに続いた。
ドゥーレオの顔はとくに変化がなかったが、ワイズの表情は見るからに不機嫌だった。
「──ちっ! 本気で融通の利かない連中だよな、帝国の役人ってやつらはよ」
フィリオの前に立つなり、ワイズは声量も抑えずに悪態をついた。まだ近くに戸前の番兵がいるというのにお構いなしである。
「いや、こうなることは元より想定できたことだ」
そう言ったドゥーレオの顔には怒りや呆れも現れず、ただただ相手に対する諦観からの無表情がその心情を物語っているようにも思われる。
結局のところ、中央港湾事務局において得られたものは事実確認だけだったようだ。
サクラは現在寄港していない、サクラの現在地情報を知らせることはできない、サクラへと送話機以外を使った私的に利用可能な連絡手段は存在しない──以上、三点が明確にされただけだったという。
言うなれば、一の石につまずき、つづく二の石にもつまずき、さらに三の石にまでつまずいて、次に立てなおす暇もなく追い出されてしまったという感じだろうか。
「あいつら、照会したい特区の住人であることが証明できなければ不正利用につながるため答えられない、とかぬかしやがるんだぜ。ほんと馬鹿にしてんのかって思わないか? こっちは遭難者だってことでお願いしに来てんだぞ」
まるで我ことのように憤りを爆発させるワイズ。以前までの言動もそうだが、ワイズは帝国の役人に対してあまり良い印象を持っていないことがうかがえた。
「ワイズさん、お怒りになるのもわかりますが、そう言ったことは場所を変えてからにしましょうか」
かえって遭難者として当事者のはずのドゥーレオの方が冷静で、周囲の目を気にして場を移すように働きかけた。
「……ああ、すんません。移動しましょうか」
シュンという音が聞こえそうなほどすぐに熱を冷ましたワイズを連れ立って、ひとまず近くの広場まで移動したフィリオたちは今後について話し合うことにした。
「こうなると、うちらにできることってけっこう限られてくるよね」
フィリオのやるせない一言に、ドゥーレオとワイズもうなずいた。
「そう悲観してばかりもいられまい。とりあえずまず一つ目の条件として、サクラがシンドアに来ることを信じて待つということだが」と言って浅く息を吐きだしたドゥーレオ。
「ここが本来の目的地だったとはいえ、確実に今も向かってきている確証はない。そのうえ、それがいつになるか定かではない点がある」
「そうは言うても、サクラが来る可能性はここが一番高いと思うよ? それに、来るんを待ってるうちに、送話機でサクラが寄港できそうな近くの町とか島に来てるかどうか確認するくらいはできるんちゃう?」
「そりゃあ、たしかに地方ならシンドアの堅物連中と違って寄港の有無くらいは送話機でも教えてくれる可能性があるけど、それでもなかなか難しいと思うぞ」
「でも、タンジ島だったら教えてくれるんやろ?」
「そりゃまあ、教えるだろうな」
「ふふん、そういうことやと思うで」
してやったりの顔をフィリオに向けられて、ワイズは苦笑した。
「それでは他に今できることは考えられるか?」
「うぅぅん。あと他にできることがあるとすれば、北の方から来た船に乗ってた人らにサクラを見かけたかどうか聞くとかどうかな?」
「ふむ、そうだな……たしかにハナビラガメが近郊で何匹も居合わせるということなど滅多にないことだから、情報としての価値は十分にあるだろう」
「それじゃあ、ひとまず泊まるとこさえ確保したら、送話機班と聞き込み班の二手に分かれて行動するんでいいんちゃう?」
「ああ、私もそれでいいと思うよ」
そこでドゥーレオがふとワイズの方を見た。
「ところでワイズさんはいつまでこちらにおられる予定なんです?」
「皆さんが無事に特区に帰られるまでお付き合いする予定ですよ。送話機で管理局へ毎日の報告義務っていうお耳付きですがね」
「だが決着するのがいつになるか分からないのに、それでも良いのですか?」
「いえ、気持ちの上では善意でやってますが、これも仕事上での行動です。あくまであなた方の身元を確定させてからでなければ帰るに帰れないわけですよ」
「なるほど、ただのおもり役というわけでもないわけだ」
「すいませんね。そういうことです」
「でも、せっかくおるんやし一緒にサクラを探す手伝いはしてくれるんやろ?」
「もちろん。そっちの方は仕事でなくとも善意だけでいくらでもしてやるさ」
そう言って笑った顔は、たしかに彼の嫌う帝国の役人には到底つくりえないだろう笑顔に他ならなかった。
* * *
ワイズの身分があるためだろうか、フィリオたちはすんなりとシンドアでの宿泊先を確保することができた。
おそらく、たとえ王国管理局が発行してくれた身分証明書を持っていたとしても、フィリオたちだけでは、こうも容易に宿泊先を決めることはできなかっただろう。遭難者という不確かな立場の上に、《混ざり者》として疎まれる存在なのだからおおよその結果は見えていた。
宿場で男女別に分けて部屋を取った四人は、不要な荷物を部屋に置いて外へ出た。
街での行動は、部屋割りと同じ男女二手に分かれることになった。
そこでフィリオとハナヨは公衆利用の送話機屋に向かい、残るドゥーレオとワイズがハナヨの目撃情報の聞き取り調査に向かう手筈で方々へと散開した。
フィリオたちは宿屋を出る際に女将から聞いたとおりの道順で、近場にある送話機屋を一路目指して進んだ。
「サクラは、どれくらいで見つかるでしょうか?」
そうして二手に分かれてすぐ、ひさしぶりのハナヨの声を聞いた。
あまりハナヨが発言しないのは、他者がいるときはあまり話さないように、とフィリオがハナヨに指示してあるからだ。今のハナヨでは世間ズレした失言がありそうだからという理由だったが、正直フィリオとしても非常に心苦しい指示だった。
「そやねぇ。ほんま早く見つかったらといいんやけど、こればっかりは相手の行動次第やからなんとも言えんのよなぁ」
「もし別の場所にサクラがいることがわかった場合は、どうするのですか?」
「その場合はサクラにうちらの現在地の伝言を頼めんかお願いするんが妥当かな」
「しかし、それはシンドアの役人が応じませんでした」
「まあね。ただ役人って言うても、タンジ島のサイカさんみたいにうちらのこと色々考えて動いてくれる人もおるから、うまくいけば教えてくれると思うよ」
「先ほど、ワイズ氏も教えてくれると言っていました」
「あれはかなり特殊な人やから、例に挙げるんはどうかなと思うけど」
フィリオがそう苦笑したところで、無事に『ダンレオ公衆送話機』と看板を下げた建物の前に二人は立った。看板には店名の他に『外線あり』と記されている。
「よっし、それじゃ行ってみよっか!」
一度大きく息を吐いて、フィリオはフォレオ公衆送話機の戸を開いた。
「──やっぱり、あかん! どこも教えてくれへん!」
そう叫んだフィリオは椅子の背もたれに体重を預けるようにして、ぐでぇーんと擬音がつきそうなほどに手足を投げだした。すこし前にもどこかでこれと似た発言をして、同じ姿勢をとったような気もしたが、たぶん気のせいだろう。
「なんでどこもかしこも、ほしゅぎむ、ホシュギム、保守義務の一点張りやねんやぁ……」
「保守義務というのは、何を保守する義務なのですか?」
フィリオの隣に座ったハナヨが、すこしだけ同情しているような声音で質問した。
「うぅぅん、えっとどう言えばええかな……サクラみたいに人が住んでる雲海生物は人が住む特区っていう扱いなんやけど、雲海生物って動くやんね?」
「はい、雲海の上を移動しています」
「そう。だからその上にある人も物も常に動いてるわけで、それって公安上も商業上もかなり重要な情報なんよね。たくさんの人と物が動いてるっていうんは、たくさんの力とお金が動いてるってことと同じやから。というわけで、簡単には特区の現在地とかを問い合わせできんように情報の保守義務っていうんがあるんやけど。でもやで、でもちょっとくらいはさぁ、こっちの立場も考えてほしいわけですよ、ハナヨちゃーん」
今度は前方の机に額をゴツンと当てて、うなだれたフィリオ。そんな彼女の頭にぽんっとハナヨが手をおいた。
「これからまだ送話機を使ってサクラの照会をかけるのですか?」
「うぅぅぅぅん、正直これ以上遠くに連絡しても意味ないし……」
未確認の浮遊島を発見した時に確認した地図を頭に思い浮かべ、考えうる範囲で事故現場からシンドアまでの同心円状にある人の居住地、その中でも送話機による連絡が可能な先にはすべて問い合わせたつもりでいる。
総数として四件と少なくはあるが、それ以上となると確実に現時点で到着しているとは考えづらい場所にあった。もし考えられるとすれば、シンドアを目指す前の出発地点であるコーエツの町だが、そことてかなりの距離があり、引き返しているのだとしても今この時点で着いているとは考えられない。つまりは……。
「ざんねんやけど、いまはもう送話機で連絡とるような場所はないと思う」
「では、これからどうするのですか、フィ?」
時間を確認すれば、ドゥーレオたちと別れてまだ一時間と経っていない。
今から聞き取りに合流することも考えられるが、おそらくフィリオとハナヨでは足元を見られてしまい上手く行かないだろう。
フィリオは見た目が少女そのままのうえに《混ざり者》であり、ハナヨにしても見た目は大人の純人の女性だが中身がまだ産子といえる状態なのだ。これでは聞き取り調査もままなるまい。
「そうやねぇ、どうしよっか? なんかある、ハナヨ?」
「はい、ハナヨに提案があります」
「──え?」
思いがけないハナヨの発言に、フィリオはガタッと椅子を揺らした。冗談で話を振っていたため、ハナヨが自分から提案してくるなど想像だにしていなかった。
「なになに? 教えておしえて?」
興奮に身をのりだすフィリオの勢いに、ハナヨは少しばかり身を引くようにして後方に体をそらした。
「フィとハナヨが、サクラを直接探してみてはどうでしょうか?」
「ん? ちょくせつ、さがす?」
言っている意味がよく理解できず、首をかしげてしまったフィリオ。いったいどのように探すというのだろうか。
「はい、サクラは順調にいけばすでにシンドアに着いている頃だとフィは言っていました。ですから、現時点で着いていなくとも近くまで来ている可能性があります。フィとハナヨでそれを探すのです」
「──そっか、それ!」
灯台下暗し。ハナヨの指摘は、まさにそれだった。
雲海を見わたせる高台に立ち、望遠鏡を覗きこむだけの、たったそれだけのこと。
そんな単純で、当たり前のことが思いついていなかった。
先手、先手と思うばかりに物事を複雑化させてしまい、結果もっともありえる可能性を見落とし、もっとも簡単な方法を取っていなかった。
「ハナヨ、あんたほんまに最高やわっ!」
フィリオはそう叫ぶと椅子から跳びあがりハナヨを抱きしめた。うまく事態を飲みこめてはいないようだったが、フィリオが嬉しそうにしているため、ハナヨも満足そうにその胸に抱かれていた。
「よっし。それじゃ、さっそく行動開始やね!」
思ったが吉日とばかりに、フィリオはハナヨの手を引いて椅子から立ちあがらせた。
四件分の送話機代を受付で支払い、フィリオたちは店の外へと急いだ。実りのない結果であったうえ、あまり長距離の送話ではなかったはずなのに、思いのほか高くついたのは今後の勉強代ということにして納得するフィリオだった。
大通りに戻ってきたフィリオたちは、まず雲海を見わたすのに適した場所をさがすことにして歩きだした。
二人の歩いている通りは西から東に向けて下り坂になっている。ずっとその大通りを道なりに下っていけばフィリオたちが上陸した港があった。しかし、いまは北の雲海を眺めることが目的であり、目指すは北側のどこか高い場所である。
「あそこはどうでしょうか?」
そう言ってハナヨが指さした先には、街中にはすこし不似合いな灯台のような高い円柱状の建物が見えた。大ぶりな石垣の上に建てられたそれは、たしかに北の空を望める位置にあり、登られるならばもしかすると北の空を見られるかもしれなかった。
「いいかもしれない。ちょっと行ってみよっか」
早足に建物の方へと近づいてみると、灯台と思っていた建物は、街を見下ろす時計塔であることがわかった。ちょうどこの通りの真ん中くらいに位置していることから、きっとこの時計塔がシンドアの住人たちの日常生活を司っているのだろう。
「でも、これってうちらでも登れるんかな……」
はぇーっと感嘆詞をもらすように時計塔を見上げつつ、フィリオがつぶやいた。
足元の石垣とは違い、時計塔は小さな石レンガを組み上げ、壁面に様々な亜人種や雲海生物と思われる彫像も据えられた、とても緻密で意匠豊かな建造物だった。そうした種々雑多な造形はシンドアの自由を尊ぶ気風とよく合っていた。
「登れなければ、別の場所を探します」
フィリオに倣ってはぇーっといった様子で時計塔を見上げるハナヨが真面目に答えた。
そんな二人のそばを、子連れの純人女性や年老いた有毛種の男たちが、微笑ましげに見つめて通りすぎていった。きっと旅行客か田舎からのお上りさんと思ったのだろう。実際には遭難者というだけで、田舎者であることに間違いはなかったが。
「まさにハナヨの言うとおり、とりあえずこの時計塔に登れるか聞いてみよか」
そう言って笑ったフィリオは、時計塔の正面に向かって歩き出した。
だが、歩きだして数歩といかずフィリオはある点に気づき、こう理解した──この塔は絶対に登れるな、と。
なんせ時計塔の正面の壁に料金表が貼られていたのだから……。
「大人二人でお願いします」
フィリオが受付台に二人分の料金を置く。
「うん? 嬢ちゃん……」とそこまで言ったところで窓口の男は、すぐに大人二人分の通行チケットを手渡してくれた。「階段長いから途中で倒れたりしないようにね」
男にかるく会釈して時計塔の入口をくぐり、フィリオがハナヨにさっそく話しかけた。
「さっきのが小人種あるあるです」
「小人種あるある?」
「そ、まず確実に子供に見られます」
「背が低いからですか?」
「正解」
そこですこし考えるように固まったハナヨが口を開いた。
「擬人あるあるがあります」
「おぉ、なになに?」
「確実に人間に見られます」
「いや、それ当たり前やん!」
思わずぷっと噴き出してしまったフィリオ。ハナヨ本人は冗談のつもりはないのだろうが、こうして真面目に言うからこそ余計におかしかった。ハナヨとしても、フィリオが笑ったことにちょっと嬉しそうな様子を見せた。
ひとしきり笑ってから、大小二つの少女の影は、時計塔の螺旋階段を登りはじめた。
時計塔の石造りの階段を登りながら、フィリオは自分の店の風車塔の螺旋階段を思い出していた。もちろんこんなにきれいに整備された石造りではなく、薄汚れた薄い木の板でできた安普請ではあったが、それでも愛着ある我が家にちがいない光景だ。
たった三日ほどしか離れていないはずなのに、こうして思い出せば本当にひどく懐かしく感じてしまうから不思議である。
吹き抜けの頂上を見上げて、早くサクラに帰りたいな、とフィリオは自然と思っていた。そんなフィリオの感傷をまさか感じ取ってのことなのか、隣を歩くハナヨが口を開いた。
「フィは、シンドアに初めて来たのですか?」
「……どうして、そう思ったん?」
「フィが先ほどこの塔を見て感嘆していると感じたので、初めてなのかと思いました」
「ああ、なるほど。でも実はシンドアに来るん自体は、これでたぶん三回目ぐらいじゃないかな。っていうても、いつもは北の港に上がるからこっちの東西の大通りに来るんはあんまりなくて歩きまわってないんよね」
「つまり、フィはこの時計塔を見るのは初めてなのですか?」
「そうやね。たぶん遠くの方から目にしてたかもしれんけど、ちゃんと見たんは今日が初めてやと思う」
「それでは、時計塔に入ることは、これが初めてなわけですね?」
「うん、それは確実にハナヨと同じで初めて」
「そうですか。ハナヨと同じなのですか」
そうつぶやいたハナヨの口元が、すこしだけ微笑むように笑った気がした。
確実にハナヨは人間らしくなってきている──ハナヨのやわらかな横顔を見つめながら、フィリオはそれをつよく感じた。
だが、フィリオはそれと同時に思うのだった。
ハナヨの隣に立つ者として、自分は本当にふさわしいのか、と。
こうして今だからこそハナヨに教示する立場にいるが、フィリオとてたかだか二十年しか生きていない若輩者である。その上に、魔導師を名乗ってせいぜい五年程度の駆け出し者が、ハナヨのような完全自律型人形という稀有な存在を手元に置くことの分不相応くらい、彼女自身理解しているつもりだった。
それでも魔導師の端くれとして人一倍に好奇心や探究心だって持っているし、ハナヨを起動したという意地と責任だって感じている。だからこそ、今こうして隣を歩いている自分が彼女に対して何をしてあげられるのかを、どうしても考えずにはいられなかった。
そこまでを滔々と考えて、どうも思考が消極的な方向にばかり進んでいることを自覚したフィリオは、勢いよくパシンッと音を立ててその両頬を打った。
となりを歩いていたハナヨは、当たり前だが何が起きたのかわからず、注意深くじっとフィリオの動向を見つめた。
「突然おどろかしてごめん!」
そう言って笑ったフィリオの顔は、雲のない晴天のように澄んでいた。
「……うん。うちやってハナヨと一緒で、まだまだ全然この世界のことを知らないんよ。そやから、これから二人でもっともーっと、この世界を知られるように頑張ろうな」
「はい、フィと二人で頑張ります」
「よしっ! それじゃあ、頂上まで競争やっ!」
そう叫ぶが早いか、フィリオが昇り階段を駆けあがった。一瞬状況を把握できなかったが、すぐにハナヨはフィリオの言葉の意味を理解し、彼女を追って駆けだした。そうして息を切らせて追いかけ合う二人の姿は、まるで仲の良い姉妹そのものだった。
一般開放された展望台までフィリオたちは止まることなく駆けあがってきた。厳密にいえばまだ時計塔は上に続いているが、一般客が登れる最上部がこの展望台ということになる。
この展望台には、四方に大きく開放された露台がある。そのため常に光が射しこむようになっており、部屋全体がとても明るかった。それに壁や床、欄干などの意匠も凝った造りをしていて、床の中央には大きく方位記号まで彫られていて方角に迷うこともない。いつの時代に造られた物かわからないが、この時計塔は観光地として確かに一見の価値あるものだろう。
だが、悲しいかな人気があまりないのか、展望台に二人以外の姿はなかった。
そんな静かな展望台に、膝に手をついて肩で息をするフィリオ。それとは対照的にハナヨは平然とした表情でそんなフィリオの肩に手を置いていた。
「……ハナヨって、やっぱり、肺とか、呼吸器っていうんは、ついてないんかな?」
「はい、呼吸器はありません。しかし、内部熱の調整のために外気の吸引および放出を行うようになっています」
「……ほおぉ。なるほどねぇ。また、サクラに帰ったら、身体のこととか、いろいろ教えてや」
「はい、もちろんです」
フィリオの息が落ち着いてきたところで、二人は北向きの露台へと向かった。
露台に近づいていけば、次第に広がっていく眼下の街並み。
赤い瓦屋根が山並みをつくって奥へ奥へと広がり、そのところどころに煙突や物見台が春先のつくしのようにぴょこぴょこと頭をのぞかせる。そして、赤い波間のその遠景に、まっ白な雲海が空の境界どこまでもあふれていた。
「初めて見おろした雲海の世界は、どう?」
欄干に手をおいてフィリオが振り仰いだ先には、言葉も発さずにただただ熱心に世界を眺めやる無垢なる少女がいた。じっと見つめるその視線が捉えた情景は、いったい彼女の中でどんな言葉と合わさっているのだろうか。そんなハナヨの無色な心に寄り添いたくて、フィリオも同じ景色に視線を移して静かに世界を見下ろした。
「ここから見える海は、ハナヨの言葉として知る海ではありません」
しばらくしてからハナヨがぼそりと口を開いた。
「ハナヨの知ってる海って、一面に水が広がってるやつやんね?」
「はい、ハナヨも実際に見たことはありませんが、見渡すかぎりに塩分を含んだ水をたたえ、周期的に満ち引きがあり、最果てに水平線を望むことのできる存在です」
「でも、この世界の海はこの雲海なわけで、しかもその雲海をさっきうちらは渡って来たわけなのです」
「はい、その事実は理解しています。しかし……」
「理解はしてても、その実感がなかった。そんな感じ?」
「はい、まさにフィの表現が適切です」
それは、きっとハナヨに心があるという証拠。けれど、それをあえて言葉にして伝える気がフィリオには起きなかった。そのことをハナヨ本人に自覚してほしかったから。
「もっと、世界が知りたくなった?」
「はい、もっと世界が知りたいと思います」
「うん、よかった。それじゃあ、ハナヨはもう少しここからの景色を眺めておいてくれていいからね。うちはそのうちにサクラを探しておくから」
「ハナヨは、サクラを探さなくても良いのですか?」
「手伝ってもらいたくても、残念ながら望遠鏡が一つしかないのだよ、ハナヨくん」
フィリオはそう言って腰のポシェットから小型の望遠鏡を取り出して見せた。
「では、ハナヨは目視で探してみます」
「ハナヨの眼って、もしかして望遠機能があったりするん?」
「いえ、ありません」
「……っていうか、サクラがどんな姿してるか知らんよね?」
「はい、知りません」
「ざんねん。ハナヨくんを街の監視員に任命します」
「……はい、ハナヨは街の監視員に任命されました」
そう言ったハナヨはどこかしょぼんとした様子でシンドアの街を見下ろした。そんな反応もますます人間らしくてフィリオはすこし笑ってしまった。
フィリオは一息吐いて望遠鏡に片目に当てると、ここに来た本来の目的を開始した。
上空は晴れわたり、日が沈むまでまだまだ時間はある。簡単に眺めただけでも空平線のどこにも視認を阻むような迷い雲は見ていない。もしシンドアにちゃんと向かってきているなら、きっとこの北の空のどこかにサクラはいるはずだった。
丸く切り取られた視界の中で、小さくだがタンジ島と思える影を見つけた。フィリオの記憶が正しければ未確認の浮遊島があったのは、タンジ島よりも東のはず。ゆっくりと見落としがないようにタンジ島を起点に広い雲海を探していく。
動く黒い影を見つけては息を飲み、すぐに倍率を上げて確認する。
しかし、目にするのはハナビラガメよりもっと小さな雲海生物の影ばかり。
これで見つからなければ、サクラがシンドアに向かってきている可能性はとても低い。
丸い視界がどんどん東に行くごとに、フィリオの心に焦りが生まれ、積もっていく。
それだのに、白い雲の上に、あの見慣れた大きな亀の姿が現れてくれない。
望遠鏡を握った右手に力が入る。そうして少しずつ増していく力の強さが、サクラを望む強さに比例していた。
だが、自分の身体が完全に東を向いたとき、フィリオは力を抜いて望遠鏡を下げた。
サクラは、見つからなかった。
もう北東を過ぎたあたりからフィリオもわかっていたが、納得するまでに時間がかかった。ただその時間が、北東から望遠鏡を下すまでの時間として必要だっただけ。
「ハナヨ、シンドアの街はどう? なんとなく都会的できれいやろ?」
沈みそうな心を隠すように、フィリオはことさらに明るい声でハナヨに話しかけた。
そんなフィリオに対して、ハナヨは一点に向けて指をさして答えた。
「フィ、あの雲海生物は何と言うのですか?」
シンドアの街並みや建物じゃなくて雲海生物の方に興味を持ったことに、フィリオは苦笑しつつその指の先を追った。
ゆっくりと近づいてきているとはいえ、まだそこまではっきりと見えない何かは、不思議な動きで雲海を泳いでいる。
それは左右の大きな羽を悠然と揺らめかせ、吹きつける風をうけて踊るようにこちらへと進んで来る。
「──ッ!」
開こうとした口から言葉も消えて、フィリオは即座に望遠鏡を目に当てた。
それは、思っていたより、ずっとずっと近くにいた。
はじめはぼやけた輪郭だった。
倍率を少しずつ切り替え、次第にはっきりとした姿が見えはじめる。
白くやわらかな雲海に、ぷっくりと盛り上がった小山があった。
その山裾にうすく透き通った桜色の大きな花びらが五枚ずつ、左右にひらひら揺れる。
それを形容するならば、雲の海を流れる桜の花弁。
フィリオがその姿を見間違えようはずがない──まさしくそれがハナビラガメだった。
「ハナヨ……あれがハナビラガメ。うちらが探してるサクラやわ」
そう言ってフィリオが差し出した望遠鏡に、ハナヨが手を伸ばした。
「あれが、サクラなので──」
──ハナヨの言葉はそこでたち消え、とどろく爆音がそのあとの言葉を飲みこんだ。
耳が痛むほどの爆発音が風に乗って世界を走りぬけ、地面が激しく上下に揺れた。それは、あの浮遊島が崩壊したときの爆発的な音と揺れ方によく似ていた。
時計塔がぐらりと大きく揺れ、とっさに欄干に手をついて屈みこんだフィリオを、ハナヨはさも当然のように自分の胸に抱きこんだ。
だが、次につづく爆発も震動も起きず、その一度きりでぱたりと止んだ。シンドアの街が静まり返っていた。
その一瞬の沈黙が過ぎると、眼下の街は次第に騒然とした賑わいに満ちた──「おいっ! どうした、さっきの爆発なんだ!」「知らねぇよ! なんか港の方から音がしなかったか!」「お母さん、足すりむいたぁ!」「なんだ、何があった!」「ちょっとあんた、重たいんだよ! はやくどきなさいよ!」「どこだ! どこで爆発があったんだ!」「おい、あっちの方から煙が出てないか!」「何があった! テロかっ!」「爆発? 爆発って、これ地震で揺れたんじゃないの!」「おばあちゃん! おばちゃんしっかりして大丈夫、大丈夫!」……。
眼下の下町は、よく事態もわからないまま混乱の坩堝といった状況にあった。
しかし、時計台という高所にいたフィリオとハナヨにはある物が見えていた。
フィリオたちの視線の先はシンドアの東側──彼女たちが上陸した港の辺りだった。そこに黒褐色の土煙が花開くように広がり、ゆらゆらとくすぶる黒煙が空に昇っていた。
「……あの場所で、何があったのでしょうか?」
フィリオを胸元にぎゅっと抱いて、ハナヨは空に昇っていく煙の根元に目をやる。
「ごめん。うちにも、ぜんぜんわからん……」
ハナヨの不思議と落ち着く胸元に抱かれながら、正直にフィリオは答えたのだった。
* * *
東の湾岸にある荷揚げ場の周辺は、すでに騒然とした空気に包まれていた。
治安警備隊が現場を囲っているため近づくこともままならず、埠頭をのぞめる場所は黒山の人だかりだった。
騒ぎ立てる野次馬の話を聞くかぎりでは、港湾支局が爆発テロにあい、なおもテロリストたちが建物内で籠城して抵抗しているのだそうだ。もしシンドアへの到着時間が一時間ほど違っていたならば自分たちがテロに巻き込まれていた可能性もあったのだと思い、フィリオは言葉もなく唾を飲みこんだ。
「……何が起こっているのか、うまく見ることができません」
人垣を前にハナヨがひょこひょこと背伸びをして、騒動の渦中を見てみようと苦心しているものの、前方にいる有毛種や鬼人種といった大柄な男たちの背に阻まれてうまく見ることができずにいた。
「ハナヨ、そんなに無理して見るもんでもないよ。こんな悲しいこと」
フィリオはというと、その横で群衆の中に埋没してしまわないようハナヨの服の裾を掴んで周囲に気を配っていた。これだけの騒動なのでおそらくドゥーレオやワイズもここに向かってきているだろうと思ったからだ。
その思い通りといったところか、人だかりとは逆方向でこそあったが、遠くの街角にワイズらしき姿が見えた。しかし、ワイズはフィリオたちのいる一群を一顧だにせず、別の何かに気を取られているように建物の物陰に立っていた。
そんなワイズに声をかけに行くべきかフィリオが迷っていると、歓声とも怒声ともいえる大きな騒ぎが周囲から巻き起こった。
「どうしたん? なんかあった?」
一生懸命に背伸びをしていたハナヨにフィリオが問いかけた。
「犯人が捕縛されたようです」
「うそ!」
「いえ、ウソではありません──いえ、やはりウソです」
「んん? 結局どっちなん?」
「先に捕縛されたと言ったことがウソでした。正しくは、犯人を殺すことで身柄を確保したようです」
そこでまた人垣の前方から、大きな怒号や悲鳴があがった。周囲の喧騒をもれ聞くには犯人の遺体が建物の外に放り出されたことによる反応のようだ。
正直なところ聞いていてあまり気分のいいものではないため、人だかりからひとまず出ようとフィリオはハナヨの手を引いた。そうして二人の去り際には、すでに多くの伝聞が広がりだし、人垣のどこかしこから実しやかな言葉があふれだしていた。
「犯人は、やはり《混ざり者》どもみたいだぞ」「純人も混じっていたとか聞いたが、本当なのか?」「んなわけねえだろ、どうせまた血種決起同盟の連中だ」「ねぇ、支局の人たちってみんな殺されちゃったのかしら?」「気をつけんと、まだ武装したやつらが近くにいるかもしれんぞ」「あんなやつら見つけ次第ぶち殺してやれ!」……。
人混みをどうにか抜け出し、フィリオたちは東西をはしる大通りの端までやってきた。
ちらりとワイズを見かけた街角に目をやったが、すでにそこに彼の姿はなかった。
「……これ、正直すっごいまずい状況かもしれん」
そう言って大きくため息を吐いたフィリオは肩を落とした。
「なにが、どのようにまずい状況なのでしょうか?」
フィリオと手をつないだまま、きょとんとした表情でハナヨが問うた。
「今回の事件の真相がどうであれ、きっと《混ざり者》に対する風当たりが今まで以上にひどくなるんは確実。その上に、こんな事件が起きてしまったら外部との渡航が厳重化されるんは必至やと思う。どう、かなりまずくない?」
「はい、かなりまずいと思います。シンドアに居ることが難しいにもかかわらず、出ることも難しい状況です」
「さすが、ハナヨ。まさにそういう状況」
言葉にして整理し、改めて自分たちの置かれた状況の悪さを実感した。
だが、この程度のことでやっと微かに見えた希望の糸を見逃すような道理はない。
もう一度大きくため息を吐いてから、次は深く息を吸いこんだフィリオは、ハナヨの手を強く握ってその一歩を踏み出した。
その足が目指すのは、サクラたち特区が空泳船を出して寄港するはずの北の港。
本来であればドゥーレオたちと合流してから行くべきところだが、集合時間までまだ一時間近くある。彼らを探して街中を歩きまわる時間がおしかった。それにもしかすれば、どこかでサクラの目撃情報を聞きつけ、すでに北の港に行っているかもしれなかった。
北の港へとつづく第二南北通りは、東西に伸びた大通りに比べて人通りが少ない。しかも今は爆発騒ぎがあって東側の港に多くの人が出払っているため、通り全体がどことなくうら寂しくなってしまうほどに閑散としていた。
「北の港に向かって、いったい何をするのですか?」
「北の港にある港湾支局から、サクラの情報をもらえんかなと思ってる」
「けれど、シンドア中央港湾事務局では教えてくれませんでした」
「まぁうん、たしかにそうなんやけどな。かというて目視できるくらいの距離やし、たぶん教えてくれると思うんやけど……というかそう思いたい」
ハナヨの指摘は正しい。いくら中央港湾事務局でなく港湾支局であるとはいえ、同じ組織である。無理なものは無理と言われてしまうかもしれない。あそこに見えてるんやからちょっとくらい教えてや、と駄々をこねたところで結果は同じ可能性もある。それでもやれることはやってやろうとフィリオは心に決めていた。
一般の船舶が入港する東の港に比べれば、雲海生物特区からの乗り入れ船や小さな漁船の停泊地となっている北の港は静かなものだった。朝方や夜間の漁帰りの漁船を迎える時間帯はそれなりに賑わうものの、こうした昼日中は猫の通り道といった体である。
とはいえ、サクラの寄港地として何度かこの北の港の地を踏んでいるフィリオにとっては、こちらの方が東の港より馴染みがあり落ち着いた。
港湾の入り口に立って、フィリオは雲海を眺めやった。陽光に靄をくすぶらせた雲海上に、小さく黒い影が二つ三つと見えた。だが、そのどれがサクラなのかはよくわからなかった。
「どの建物が港湾支局なのですか?」
道の真ん中で立ち止まってしまったフィリオにハナヨが質問した。
「ん? ああ、港湾支局はあれやで」
つないだ手をかかげフィリオが指さした先には、船着き場の南手にある建物の中で、そう大きくない焼レンガ造りの古びた建物だった。
「それでは行きましょう」
「うん、せやね」
そう言ってうなずき合ったフィリオたちは、その建物に向かって歩き出した──と、その瞬間、強い力でフィリオの腕が掴まれ、あらぬ方向に引き寄せられた。
あまりに一瞬のことで、その場に踏みとどまることもできず、フィリオとハナヨは引っ張られた勢いのまま通り沿いの物陰に引きずりこまれた。
事態を飲みこんだフィリオがすばやくハナヨの手を離し、自分の腕をつかんだ手から逃れるために激しく身体を暴れさせようとした。
「──おい、ちょっと待った!」
しかし、フィリオが抵抗するよりも前に掴んでいた手が離れ、相手が声を上げた。
「……ワイズ、さん?」
落ち着いて見上げれば、胸の前に両手を上げて制止する格好のワイズが立っていた。
「ああ、驚かしてしまってすまなかった。だけど、なんで君たちがこんなところにいるんだ?」
そう言ったワイズの表情は、どことなく険しく戸惑いとも疑いともつかないあいまいな色合いでにごったものだった。
「それはこっちが言いたいんやけど。なんでワイズさんがこんなとこにおるん?」
フィリオにしても唐突に物陰へ引きずり込まれたかと思えば、詰問するような調子で問いただされたことに眉をしかめずにはいられなかった。
「いや、別段こっちの方には聞き込みのためにやって来ただけだが」
「それじゃあ、サクラがもうすぐそこまで来てるんは知らんんと来たわけ?」
「……それは本当なのか?」
「もちろん。そんな意味もないウソやつかんって」
フィリオはサクラ発見までの経緯を簡単にワイズに説明した。
「そうか。ここまできてやっと朗報らしい朗報を聞けた思いがするよ。とりあえずおめでとうと言っておくね」
説明を聞き終わったワイズが微笑んだ。そこには先ほどまであったはずの険しさがまるで見当たらなかった。
「うん、ありがとう。だからこそ、サクラが寄港してきてるんやし、北の港湾支局だったら何か教えてくれんかなと思ってこっちに来てみたわけなんやけど……」
「なるほどね。だけど、残念ながら港湾支局に君が行くことはやめた方がいい」
「どうしてそんなこと言うん?」
「考えても見てくれ。さっき君も見たと言っていたが、東の港湾支局で爆発テロが起きたばかりだ。しかも犯人は混血者の手によるとされている。この状況がどういったものか想像できるだろう?」
ワイズの言わんとすることを思い、フィリオは眉間にしわを寄せた。
「……つまり、今うちが港湾支局に行くんは危ないってこと?」
「まさにそのとおり。もしいま君が港湾支局に行ってシンドアに近づいてくる特区のことを聞き出そうとしたとする。そのとき、相手は混血者であることを理由に君にいらぬ嫌疑をかけて、その身柄を拘束してしまうことなど想像に難くない」
「それだったら、うちらはどうしたらいいって言うんよ」
フィリオはワイズの言葉に反発するように彼をにらみつけた。それが理不尽な憤りだとわかっている。けれど、その気持ちが抑えられなかった。
ワイズが自分のことを気づかって言ってくれていることは理解できた。そう心ではわかってこそいたが、自分にまるで関係のない方角から向かい風を受けて、フィリオは目の前の人物に不本意にも強くあたってしまった。
「すまないが、望遠鏡を貸してくれないか?」
そんなフィリオにワイズはその手を差し出した。虚をつかれたフィリオだったが、ポシェットから望遠鏡を取り出してワイズに渡した。望遠鏡を手に建物の物陰から数歩だけ出たワイズが北の雲海を眺めた。
「サクラという特区を見たというのは、こっちの方角で合ってるか?」
「うん。だいたいそっちの方で合ってると思う」
しばらくワイズは望遠鏡をのぞいて雲海上に目を向けた。その後ろ姿を見ていると、不意にフィリオの両肩に何かがのった。振り仰げば肩に手をのせて見下ろす形のハナヨと目が合った。フィリオは右肩に乗った手に自分の左手を重ねた。
「……たしかに、ハナビラガメがいる」
望遠鏡をのぞきながら口を開いたワイズが大きく息を吐いた。
「おそらく、これぐらいの距離ならあと一時間もせずにこちらに着くだろうな」
「けど、さっきの話を聞くかぎり、すぐにサクラに戻るなんてことできんよな?」
「残念ながら、それは無理だろう」
そう言ったワイズは望遠鏡から目を離し、フィリオに礼を言ってそれを返した。
「最悪の場合は、寄港自体を許してくれないなんてこともあるかもしれない」
「寄港を許してくれないって、そこまで厳しくなるの?」
「いや、これはあくまでも仮定の話だ。ただ、あの特区は故障によって送話機による接岸応答をせずに寄港してきている状態なのだろう? そうなるとおそらく規定の区域に達した時点で旧来の回光信号を送るなりして、シンドアに送話機の故障くらいは説明するだろうが……」
「でも、今のシンドアの状況が状況だけに、そんな不審な特区の接近は許されないかもしれない……」
「まさにそういうこと」
ワイズの意見は、あまりに妥当だ。雲海生物特区は往々にして《混ざり者》たちの主だった居住区となっている。それゆえ、《混ざり者》たちを中心として結成された血種決起同盟の暗躍が危惧されている時に、そのような不審な雲海生物が渡航の許可を求めたところでその許しが簡単におりようはずがない。
「それでも、うちらがシンドアにいることだけは、どうにかサクラに知らせな……」
口元に手をやって考えこむフィリオを見つめ、ハナヨはその肩を抱いた。
「いまさらの確認になるが、回光信号をできるような人が君の特区にはいるか?」
「どうだろう。帝都で衛兵をしてた人がいるから、あの人ならたぶんできると思うけど」
そこまで話したところで、フィリオはその一点に光を見た。
「そっか。回光信号でこっちから信号を送れば、伝えられるかもしれんのやな」
「そういうことだ。特区が回光信号を使えるなら、逆もまた然りと言える。現状考えうる範囲で、それがもっとも現実的で可能性の高い方法だろう」
フィリオの意見にワイズもうなずき同調した。
「ただし、今はシンドアがこんな状況にある。もし回光信号のやりとりをしているなんてことが知れたら、それこそ事態は最悪の方に転がり出すと見ていい」
「うん、それだけは絶対に避けなあかんよね」
「そうだ。だからこそ、最低限の交信で状況を説明する必要がある」
またも越えるべき問題ばかりが目前に積みあがり、もうすぐ先にあったはずのサクラの背が見えなくなってしまいそうになる。しかし、それは少なくとも事態が動いているといことの表れでもある。それは待つだけの時間よりずっと良かった。
「考えるべきは伝達する時期や場所、内容なんかもそうだが、それ以上に回光信号を送るための投光器自体をどう準備するかという問題が出てくる」
「どうだろ。投光器の部分は、たぶんそんなに問題にならんと思う」
真剣な顔で思考を巡らしていたワイズに、フィリオは余裕のある声音で答えた。
「いったいどういうことだ?」
「さて問題です。うちは何屋さんでしょう?」
「……はは。なるほど、そういうことか。フィリオちゃんは魔導師さんだったな」
「そういうこと。持ち合せの道具と一部買い揃えれば、そこは解決できる問題だからきっと大丈夫」
フィリオの力強いうなずきに、ワイズも久しぶりの笑顔を見せてうなずき返した。
「うっしゃ! それじゃあ、フィリオちゃんはすぐに投光器の作成に取りかかってくれ。オレはその間に特区に対する情勢を調べつつ、連絡に適した場所を探しておく」
「りょーかい!」
元気に声を出したフィリオに、けれど少し心配そうな表情を返したワイズ。
「おそらく街の方はフィリオちゃんたちにとって、けっして安全といえるような状況じゃない。気をつけて行動してくれ」
「わかってる。でも、ありがとう」
素直に感謝を述べて、フィリオはハナヨの手を取るときびすを返したが、もう一度ワイズの方に首を振りかえらせた。
「ところでドゥーレオさんとは一緒じゃなかったん?」
「……いや、聞き取りの途中で二手に別れてからは見かけていないよ」
「そっか、なんにもなかったら良いんやけど」
不安げに眉を寄せつつワイズに対して後ろ手に小さく手を振ってから、フィリオたちは宿場に向かって歩き出した。そんな彼女たちの背中に手を振り返す視線には、重たく固い粘土を押しつぶし、ぎゅっと丸めこんだような硬さがあったが、それを知る者はその場に一人もいなかった。
無事に宿場へ帰ってきたフィリオは、さっそくリュックサックの中を漁り、使えそうな資材や魔導工具を取り出すと床に並べた。それらを前に座って、一つひとつと手に取って状態を確かめていく。
タンジ島にいた時点で、リュックサックの中身については確認しており、幸いなことに浮遊島で高所から落下して下敷きになったにもかかわらず、大半の資材や魔導工具に目立った損壊や故障がないことは知っていた。
ついでに宿へ帰ってくるまでの道すがら場末に見つけた屋台で、制作に必要になるだろうと買い足しておいた資材もかたわらに置く。
その屋台の店主は気前がいいのか、はたまたフィリオを《混ざり者》と思わなかったのか、嫌そうな顔や不審げな顔もせず商品を売ってくれた。愛想のない有毛種の老人でこそあったが、遠巻きに嫌悪したような視線を向けてくる往来の人々とは大違いだった。
「これらを使って投光器をつくるのですか?」
フィリオの後ろに立ったハナヨが、床に並べられた見なれない一群を物珍しそうに見下ろして口を開いた。
「そのつもりやけど、正しくいえば投光器みたいな物に創りかえる、って感じかな」
「つくりかえる?」
「そう。言葉どおり、創りかえる。ってことで、ハナヨ。部屋の木窓を閉めてくれる?」
「はい、わかりました」
そう言ってハナヨが通り沿いにある木製の窓を閉めると、部屋はうす暗闇に沈んだ。窓の隙間から漏れ射した光がふわふわと宙に踊るほこりを白く映えて見せた。
そんなうす暗い部屋の中、フィリオの手が魔導師として動き出した。
その手元にあるのは、使い古された携行用の魔導ランプ。
それをカチャカチャと硬い音を立てながら器用に解体していく。
こうしたほのかな明かりだけで作業することに慣れているのだろう、その手つきにはまるで迷いがなく、魔導ランプは次々と各部から離され部品となり床に広げられた敷物の上に並べられていく。そうして解体された魔導ランプから、一枚の金属質な四角く黒い板が取り出された。
フィリオは、やわらかく瞳を閉じて半眼となり、ゆっくりと肺に息を送りこんでいく。
それは深呼吸というよりも少し浅く、けれど一定の調子で空気を吸いこむ。
しばらくして彼女の左手にのった板に、如実な変化が現われた。
先ほどまで何もなくつるりとしていたはずの板の表面に、幾何学的な文様や言語と思しき文字列がほの明かりとなって浮かび上がりだした。
後ろに控え見守っていたハナヨは、目前のその光景を魅入られたようにじっと見つめた。
そこですっと呼吸が止まり、脇に置いてあった一本の棒が右手に握られた。それは一目にはペンのようにも見える。しかし、棒の先にインクの黒い濁りはなく、代わりに非常に小さく透きとおる水晶のような球が一つ付いていた。
その細い棒先が板に触れると、あとはまるでそこに流れでもあるかのように自然と右手が動きだした。
棒の先が触れ表面を撫ですぎて行くそのあとを追うようにして、微かな光の線が黒い板の上に新しく現われた。文字を書くように、されどときに絵画を描くように、右手が指揮し、それに呼応して光が踊った。
しばらくして静かに動きが止まり、ゆっくりと不思議なタクトが黒板から離れた。
ほの暗い部屋の中に、ふたたび呼吸の音が戻り、左手の板状の部品から光が消えた。
時間にすれば、ここまで二分にも満たなかった。
しかし、そこにあった光景は、見た者に悠久を思わせるほど心奥の何かに触れ、過ぎていく時を忘れて魅入らせる何かを秘めていた。それは擬人として生を受けたハナヨも例外ではなかった。
「……ハナヨ、もう窓開けてくれていいよぉ」
部屋の中に残っていた静謐とした空気の余韻に似合わない声で、フィリオがすこし疲れたように言った。
「……はい、わかりました」
ハナヨが窓を開けると、部屋全体に広がっていた薄い暗闇が窓外の光に追われ一目散に消えていった。けれど、不思議と明るくなった部屋の中でこそ、先ほどまで見ていた光の帯の形が残像となって瞳に映っているようにハナヨは感じた。
「どうだった、初めて見る魔導回路の精製工程は?」
一休みのため、フィリオは創りかえたばかりの魔導回路を太ももの上にのせ、両手を後ろの床に置いて座りなおした。
「すいません。なんと形容すれば正しく表現できるのか、ハナヨにはわかりません」
「いやいや、そんな堅っ苦しく考えんでもええんやけど」
ハナヨの回答に思わず苦笑してしまったフィリオ。かといえ、あの精製工程を初めて見てまったく感じ入るところのない者はそういないことを、フィリオも知っていた。なにより彼女自身も初めて見たときは言葉を無くした口だったから。
「そこにある板状の物が魔導回路というものなのですね?」
ハナヨが指差した先には、すでに光を失った何の変哲もない四角形の黒い板。それをフィリオは摘みあげるようにして自分の眼前まで持ち上げた。
「そうやでぇ、これが魔導回路というものなのです」
「今はなにも見えませんが、先ほど魔導回路に光の線が見えました。あの光は何だったのですか?」
「えっとな、あの光自体は魔素を光らせたものなんやけど、って魔素については前にちょっと話したから覚えてるやんね?」
「はい、覚えています。魔素は空気と同様に不可視の存在であり、あまねく世界に飛散しているものであります。そして、現在人類が動力として活用している重要なものでありながら、高濃度になれば魔素は人体を害するものであります」
「おめでとう、ハナヨくん大正解です。ハナマルをあげちゃいます」
「しかし、先ほど不可視であるはずの魔素が見えていました」
「うん、魔素は本来見えないんやけど、それをちょっとだけ見えるようにすることもできたりするのです。そうやって魔素を可視化できる力の有無ってところが、うちみたいな魔導師になれるかどうかの重要な資質になるってわけ」
そこまでを話してから、フィリオは手招きで呼び寄せたハナヨの手のひらに魔導回路をのせた。ハナヨがしげしげと手元に視線を落としているうちに、かるく勢いをつけて姿勢を正したフィリオは作業を再開した。
「ハナヨにも、フィのように魔導師の資質はあるでしょうか?」
しばらくフィリオの作業を黙って見ていたハナヨがぽつりと口をついた。
「ええぇ、どうなんだろう? 擬人にもそういう力って発現したりするんかなぁ?」
解体した魔導ランプの部品を組みなおしたり、新たな部品を付け替えたりと作業の手を止めずにフィリオはすこし笑った。
「そやな。じゃあせっかくやし、ちゃんとサクラに帰ってゆっくり時間が取れるときにでも調べてみよっか?」
「はい、ハナヨは魔導師の資質があるか知りたいです」
「お、いいね。いい意気込み」
そう言ってフィリオが手を差し出せば、少しばかり考えてからハナヨはその意図を理解し、持っていた魔導回路を相手の手のひらにのせた。その姿にフィリオは微笑んだ。
「そういえば説明してなかったけど、うちがさっきこの魔導回路に光の線で描いてた絵みたいなんがあったやろ? あれが魔導式っていう魔導回路を動かすための特別な言語なんやけど、不思議な形やなかった?」
「はい、魔導式……とても不思議な形でした」
「あの一目見てもよくわかんない不思議な形をしたのが、魔導式。魔素を動力にして色んなものに働きかけて色んなことをしちゃおう、っていう魔導理論を実現するために考案された言語。それが魔導式っていうもの」
「先ほどフィが光の線を描いていた行為が、魔導式を描くということなのですね?」
「そういうこと。ああやって魔導式を組んで、今回だったら光の進む方向を変えたり光の量を変えたり、そんなことをしてたわけ」
そう言いきってから、フィリオは解体前より一回りほど大きくなった魔導ランプを床に置いて眺めた。かと思えば、またすぐにそれを手に取って前後左右から見てみたり、裏返してみたりと忙しなく動いた。
「フィは、やはりすごいのですね」
「いやいやぁ、そんなにほめられると照れちゃいますよぉ」
何をもってすごいと評したのか不明ではあったが、ハナヨの言葉にフィリオは満更でもなさそうに照れ笑い浮かべた。
「さて、それではそろそろ試運転してみますか」
一通り点検をし終えたフィリオは、投光器として生まれ変わった魔導ランプを壁に向けスイッチを押した。
カチッという音がして、一際明るい光線がランプの先からまっすぐに走り、宿屋の壁を煌々と照らした。
その光は、窓外の陽光が入ってきているにもかかわらず、しっかりとした輪郭をもって壁の上に光の丸い円を作っている。これだけの光量があれば雲海生物の停泊域くらいまでの距離なら問題なく届くだろう。
次に、カチッ、カチッと点灯ではない別のスイッチを何度か繰り返し押した。そのスイッチが押されるたび、光源の前に取り付けたシャッター部分が開閉して、壁に走った光線が点いたり消えたりと明滅した。これでシャッター部分がすばやい操作にも対応できていることを確認できた。
「ふぅぅ……とりあえず、完成って感じかな」
できあがった投光器代わりの魔導ランプをかたわらに置き、フィリオは座ったまま全身のコリをほぐすように伸びをした。
「お疲れさまです、フィ」
「ありがとう。でも、実際これくらいの作業ならそこまでの疲れはないよ」と言ってフィリオは笑う。「どちらかというと作業疲れというより、ちゃんと起動してくれるかなとか、発光体の部分が改変後も持つかなとか、そういう気疲れの方があったかな」
「しかし、ランプの改造は成功したのですね?」
「うん。多少の不安はあるけど今回くらいは持つだろうし、一応成功といえる範囲」
「おめでとうございます」
「いえいえ、ありがとうございます」
フィリオが笑いかけると、ハナヨも彼女を真似るようにほんの少しだけ口辺を上げて微笑んだ。
ふと手元の時計を確認すれば、作業を始めてから一時間ほどが経過していた。
「これからワイズ氏のところに戻るのですか?」
「どうかな、あのときに一時間もせずに着くだろうって言うてたし、もう少しここで待ってみて来んようだったら戻ってみよっかな」
「はい、わかりました」
そう二人が今後の予定について打ち合わせたところを見計らったかのように、ほんの少しの間をおいてドアをたたく音がした。
だが、そのノックはあまりにも弱く小さな音しかしなかった。
室内のフィリオたちがその音でドアに注意を向けると同時に、ドア下の隙間から何かがすばやく床を滑りこんできた。
よく見れば、それは一通の封筒だった。
即座にフィリオは立ち上がってドアを開けたが、すでに通路には人影もなければ足音一つなく、さっきまで人がそこにいたことさえ疑いたくなるほどに静まっていた。
「この封筒は、ワイズ氏からでしょうか?」
床に落ちている封筒を見下ろしつつ、ハナヨが不思議そうにフィリオに問いかけた。
「ううん、たぶん違うと思う。今からうちらがしようとしてることは、たしかに他言できんことやけど、こんなに回りくどいことする必要ないと思うもん」
フィリオは抱いた警戒心をゆるめることなく、そっと封筒を拾い上げた。
封筒はとても軽く、おそらく内容も便せんが一枚といったところだろう。大きく息を吐いてから封筒を開くと、はたして中には一つ折りの便せんが一枚だけ入っていた。ゆっくりと封筒から便せんを取り出した。
そこには走り書いたように所どころ乱れた字で、たった三行の単文が書かれてあった。
だれが読もうとも、きっと数秒とあれば読み切れる文章である。
「──うん?」
それなのにフィリオの第一声は、人の理解が及ばなかったときに思わず口からもれ出てしまう、そんな間投詞だった。
【サクラ咲く、枝渡り敢行】
【月影の下、部屋に月の使い】
【新たな同伴人警戒せよ、当紙焼却のこと】
たったこれだけである。たったこれだけを、便せんの中央にこっそりと隠すかのように小さな文字で書いていた。
差出人の名前はどこにも書かれていない。
しかし、この時点でフィリオ宛に手紙を出す者など、一人しか思い浮かばない。
内容にしてもフィリオたちの現状を知らない者が一目見ただけではただの怪文でしかなかったが、落ち着いて読み返せば彼女にはそこに書かれた内容がおおよそ理解できる気がした。
だが、問題と思えたのは三行目の前文。
「……新たな同伴人警戒せよ、って言われても」
新たな同伴人とは、きっとワイズのことだろう。
つまり、差出人はフィリオたちにワイズを警戒するよう忠告している。
このような怪文まがいの手紙で意思を伝えねばならず、ワイズに対するあからさまな猜疑心をもって警告してくる心情を思い量るに、フィリオは言葉を無くした。
「どうしたのですか、フィ?」
手紙を開いてからずっと複雑な表情でその場に固まってしまったフィリオを、ハナヨは寄る辺ない船のように不安定な様子で見つめた。
「うちらはどうしたものだろうね、ハナヨちゃん……」
だが、そんなハナヨに気づきつつも、このときのフィリオはまだあいまいな微笑みと、あいまいな言葉でしか答えられなかった。




