タンジ島にて
Ⅲ.
その日、漁に出ていたゴロウは首をかしげた。
いつもなら魚籠に一杯も入れば大漁だった。それなのに、今日は船床にまで魚が広がっている。しかも、普段は深層部にいるはずの魚たちがごろごろと網にかかった。投げ網漁で取れる獲物は、だいたいがトビイワシやウモウエビといった小物ばかり。ときおりアサヒダイが運良く取れれば御の字である。それが、クモキリガツオやニジウツボといった大物が何匹も網にかかった。
長年この辺りで漁師をしてきたゴロウにとって、これはあきらかに異常といえた。
「んな日は、早めに切り上げるにかぎんな……」
漁師の勘で嫌なもの感じたゴロウはそう独り言ちて、最後の網を雲海に向けて投げようとしたが、ふと遠くの雲間に何かが浮かんでいるのを見つけた。
目を凝らしてみてもよく見えなかったが、これといった動きを見せないところをみるとどうも雲海生物ではないように思えた。
「んだぁ、ありゃあ?」
投げかけていた網を置き、ゴロウは不思議な浮遊物へとそろそろと近寄ってみた。
近づくにつれて、次第にそれが何であるかがわかってきた。
「こいつぁ、船じゃねぇかよ」
人影の見えない漂流する船を見つけて、不審そうな顔つきをしたゴロウ。
ときおり腐食して使い物にならない浮遊木や用途もわからない資材が漂流していることはあっても、船が形を保ったまま流されてくるなど、本当に珍しい。
修理して使えるようなら儲けもんだと思い、ゴロウはゆっくりと船を寄せていく。
「んちゅうこっちゃ、こりゃまた」
船上をのぞきこめる位置まで来て、ゴロウの口から思わず驚きの声が上がった。
なんせ、ただの漂流物と思っていた船上に、人が倒れていたのだから……。
* * *
(これは、今では思い出そうとすることもなくなった記憶)
(もう夢に見ることさえなくなってしまった、生きたお母さんの記憶)
(すこし前までは、思い出しては涙ぐんでいた姿も、今はこうして見つめていられる)
(自分が強くなれたからのか、鈍感になってしまったからのか、それはわからない)
(ただ、それはわからないけれど、今だけはこの夢に浸っていたいと思える)
(こうやってテーブルを前に座って、お母さんが料理する姿を見るのが大好きだった)
(食材をきざむ姿も、鍋をまぜる姿も、味見で指をなめる姿も、すべてが大好きだった)
(ほんとうに、大好きだったんだ……)
(とても小さなはずなのに、炊事場に立ったお母さんの背中は、すごく大きく見えた)
(まるで背中に羽が生えているかのように自由で大きかった)
(そんな厨房の巨人が大きな鍋で煮ているのは、大きな角切り肉の入ったシチュー)
(お母さんの得意料理で、母子二人の大好物)
(いまも忘れない、お母さんの味)
(またいつかお母さんのシチューをこの手で作れるか挑戦してみたい)
(たしか、最後に食べたのは八歳の誕生日だ)
(子供のころの記憶を頼りにいったいどこまでできるか、ちょっと不安ではある)
(でも、あの味だけは忘れていないから、成功かどうかだけは絶対にわかる)
(それくらい、あのシチューは忘れられない、忘れてはいけない思い出だから)
(そう、二人で暮した三年間は、もう、どこにもない思い出だから)
(世界でたった一人だけが、こうして思い出すことで、存在することが許される世界)
(それは、細い一本の糸で繋ぎとめられた、うたかたの夢)
(お父さんも、お兄ちゃんたちも、他のみんなも、だれも知らない二人だけの記憶)
(……お母さんの顔が、また見たい)
(炊事場に立ったあの人に「お母さん!」って呼びかけて、振り向かせたい)
(それなのにどうしても声が出ない)
(いや、そうじゃなくて、なんて声をかければいいのか、わからなくなってしまった)
(お母さんって声をかけるだけでいいはずなのに、「お母さん」がわからない)
(鍋をかきまぜるお母さんが、ほんとうに振り返ってくれるのか、わからない)
(振り返ったお母さんが、どんな顔をしているのか、どうしてもわからない)
(うちは、なにをしたらいいのか、もうわからない──)
* * *
まぶたを開ければ見慣れない天井がそこにあった。
涙にぼやけてよく見えずともわかる、記憶にない木板の天井。
何度かまばたきをして目の縁から涙を追いだし、その見慣れない天井を見つめながら少女は現状を省みた。
(……名前は、フィリオ。うん、これはまず間違いない、はずだ)
記憶のかぎり、すでに二十年はその名前を冠して生きてきたはずだから今さら誤りだったと言われても困ってしまう。
(……仕事は、小さいながら魔導具屋をやっている)
魔導具屋として自分の看板を持ったのは、だいたい五年くらい前のことだ。
サクラの上が初めてだったが、それでもどうにか上手くやれてきた方ではないかと少しくらい自負する面だってある。だが、当然ながら独り立ちできるまで育ててくれた師匠には頭が上がらないけれど。
──母親と一緒にいた時間より長く、私なんかと一緒にいるべきじゃない。
そう言って師匠は自らのツテを使い、この地に店をかまえさせ独立できるようにと色々手配してくれた。今の自分はあの人なくして絶対にここにいないと本心から思える、そんな人だった。だからサクラという地を選んだのも、きっと師匠なりに思うところがあってのことだったのだろう。そして、それは結果的に正解でもあった。
(……そう、今はサクラに住んでいる)
十五歳で成人し、師匠のもとを離れて、初めて独りで生きることになったのが、このサクラで本当に良かったと思っている。
優しい住人たちに恵まれ、温かな気候を求めて世界の方々を遊泳し、様々な人との出会いがあり、飽きることのない日々が待っている──それが、サクラでの生活だった。
(──そうだ! ここはサクラじゃない!)
その一点に思い至り、唐突に布団をはね上げるように起き上ったフィリオ。
そこで目にしたのは、ベッド脇に座って目をつぶった女性だった。
「……ハナ、ヨ」
たどたどしく呼びかけた声はとても小さかったのに、その目がゆっくりと開かれた。
「おはようございます、マスター」
ハナヨの声を聞くことで、寝起きの靄がかっていた思考が晴れはじめ、フィリオは現状にいたるまでの経緯を少しずつだが思い出した。
「うちら、生きてるんやね……」
「はい、マスターは生きています」
そのままの姿勢で身体を軽く動かしてみたが、どこにも痛みは感じなかった。
「ハナヨはどこも怪我とかしてない?」
「はい、どこも故障していません」
フィリオの記憶がたどれるのは、アンカーの接続部を蹴りこわし、ハナヨに抱きとめられたこと。そして、真っ白で濃厚な雲海に飲み込まれ、呼吸もままならなくなり、どんどんと意識が薄れていくのを自覚する数分間。
それ以降このときまで、ただ不思議な夢を見ていたようなふわふわとした感覚があるだけで、現実ではいったい何が起こったのかまるでわからなかった。
今さらながら周囲を見わたしてみたが見慣れないのは天井だけでなく、部屋全体がまったく見覚えのない場所だった。木造の一室は種々雑多な生活用品にあふれ、いまもここでだれかが日々の生活を営んでいることがよくわかった。
「ここが、どこかわかる?」
「はい、タンジ島というところです」
「……タンジ島?」
聞き覚えのない島の名前にフィリオは眉をひそめた。
「でも、どうしてハナヨがそんなことを知ってるん?」
「はい、ドゥーレオ氏とゴロウ氏が話しているのを聞きました」
また知らない名前がでてきたが、そんなことよりも──。
「ドゥーレオさん、生きてるんやね! ハナヨはそれ見たんやな!」
前のめりになりつつハナヨの手に手を重ね、息せくようにフィリオが問うた。
「はい、ドゥーレオ氏は生きています。およそ十二分前までこの部屋にいました」
「そっか。それは、ほんまに良かった……」
大きなため息が思わずもれて、強張っていた肩の力がふっと抜けきった。
そのとき、ギィィと重たげな音を立てて、部屋に一つだけの扉が開いた。そこに姿を現したのは、八割方白色のゴマ塩頭をした、純血の子鬼種と思しき老人だった。
「──おいや! 目が覚めたん! からだ、いけるんかい?」
ベッドに起き上がったフィリオを見て、その老人は目を抜いて驚いた。
「はい、このとおり大丈夫です」
急ぎ足で近寄ってくる老人に向けて微笑みながら、両手を何度か開閉させて見せた。
「ほおほお。ほれはよかった。ほんまよかった」
くしゃりとしわを寄せて笑ったその顔は、本当に心配してくれていたのだということを教えるに十分だった。きっとすごく良い人なのだろう。
「わたしたちを助けてくださったのは、ゴロウさん、なのですよね? ほんとうに、ありがとうございました」
座っている状態で頭を下げられる限界まで低頭して、フィリオは心から感謝を述べた。
「んなこたぁ、あんたみたいな娘っ子が気にすることじゃなかぁよ。たいへんだったんはあんたん方やかんね」
たとえこうして方言がきつく正確な意味を捉えられているか分からずとも、ゴロウの思いやりは身にしみて伝わり、フィリオはまた頭を下げてしまった。
「ほれ、こん水飲んどき。ごめんな、そっちん娘さん。あんたんため持ってきた水、起きたん子あげるし、また持ってくんでえ、ちょっと待っちんね」
そう言ってゴロウは、手に持っていた木製のコップをフィリオに差し出し、ベッド脇のハナヨには申し訳なさそうな視線を向けた。当のハナヨはフィリオを見て反応せず、状況を理解できているのか外目にはわからない。
「ハナヨは、飲み水いる?」
ゴロウに礼をしてから差し出されたコップを受け取り、フィリオはハナヨに聞いた。
「いえ、現在、給水する必要はありません」
「とのことですから、この子の分はお気持ちだけいただいておきます」
「んな、水くらぁで遠慮するこたない。すぐ持って来んで、待っちんね」
言うが早いか、ゴロウはにこりと笑顔を浮かべ部屋を出ていった。
部屋が、唐突に静かになった。たった二分と経っていないのに、それ以上の何かを部屋に残していったように感じた。
「ほんまに水はいらんの?」
フィリオは身体を起こしてベッド脇に足を降ろした。
「はい、身体機能を保全するための水分に不足はありません」
「そっか。それでもまあ、せっかく持ってきてくれるみたいやし、補充できる余裕があるんだったら、水をいただいておきなね」
「はい、そうします」
素直にうなずいたハナヨに微笑みかけ、コップの水をぐいっと飲んだ。久方ぶりに喉を通った水は清涼で、とてもおいしかった。
「マスター、ゴロウ氏の話し方は変わっています。ときに理解できないことがありました」
めずらしくハナヨからの自主的な発言だった。
「ああ、地方訛りのことやね」
「地方訛り?」
「そう、地方訛り。しかもゴロウさんのは、けっこう癖のある特殊なやつみたいやから、うちでも全部はわかってないよ。いうて、うちかて地方訛りがあるしね」
「マスターの話し方も変わっています。ですが、文脈から推論することで理解できます」
「推論が必要でも、とりあえず意味が伝わってるなら良かったよ。ちなみに、うちのは西方訛りってやつ。ただしエセの西方訛りやから、共通語とごっちゃで、ちゃんとした西方訛りとは言えんのやけどね」
「マスターは、今のように地方訛りで話すときと、共通語で話すときがあります。ゴロウ氏とは共通語で話していました」
「それはね、時と場合によって使い分けているのですよ、ハナヨさん。わたしも立派な大人のレディですから」
「立派な、大人の、レディ。マスターは、すごいということですね」
冗談めかして言ったものの、ハナヨが思いのほか真面目に受け取ったため、フィリオはその肩透かしに苦笑した。そのうちに、冗談というおふざけの概念もハナヨに教えてあげたいなと思うフィリオだった。
そこまで話したところで、ゴロウがハナヨのための水を持ってまた部屋に戻ってきた。
フィリオは、そこでゴロウに自分たちがここに至るまでの事の顛末をたずねた。
ゴロウの話によれば、フィリオたち三人を乗せた漂流船を見つけたのが、今日の早朝の漁のおりだったそうだ。その際、船内に倒れた三人を見つけて声をかけたが反応がなく、死体かと思って近づこうとしたときにハナヨが突然起き上がったのだという。
「……んときゃあ、ほんに金玉ぁ縮こんだんねぇ。死んど思とんもんが立っちんね、驚かんもんないわな」
「それじゃあ、ハナヨがゴロウさんに状況を説明して助けを求めたわけなんやね?」
「いえ、ハナヨは救助の要請だけを行いました」
「救助の要請だけって、いったいなんて言うたん?」
「救助を要請します、と述べました」
とてもハナヨらしいと思いつつ、やっぱりかと納得したフィリオ。
「では、ゴロウさんは見ず知らずのまま、わたしたちを助けてくださったのですね」
「いやぁ、船引いて岸ぃ行っとうとき、あんたらん中んおっさんが、岸ぃ着く前に目え開けたんに、そんにあんたらんにあった話してんよ」
おそらく、船を引いて岸に向かっている際に、途中でドゥーレオが目を覚まして、自分たちの境遇を説明した、ということなのだろう。
「それではゴロウさんがおっさんと呼ばれている男性、名はドゥーレオというのですが、その方はどちらにいらっしゃるんでしょうか?」
「おお、そいや、あんさん起きたん教えんの忘れとったん!」
そう言うが早いか、ゴロウはどたどたと部屋を出ていった。ドゥーレオにフィリオが目覚めたことを知らせに行ったようである。
別段もうフィリオも起きて行動することに支障はないため、居場所を教えてくれさえすれば自分の足で歩いていくことも問題ないのだが、ゴロウが気づかってくれているようなので、その思いやりに甘えることにした。
しばらくしてドゥーレオが部屋にやってきた。ゴロウはついて来ていなかった。
「無事なようで、本当によかった」
部屋に入ってくるなり、ドゥーレオはベッド際まで歩み寄ってフィリオの手を握った。
「うちこそドゥーレオさんの姿を見て、やっと安心できたよ」
その手を握り返し、嬉しそうに笑顔を浮かべたフィリオ。
「でも、ごめんなさい。うち一人だけ長く倒れてたみたいで」
「いや、そうでもないさ。私が目覚めたのだって小一時間前といった程度だ。たいした差ではない」
近くにあった椅子を引き寄せて、ドゥーレオはフィリオの前に座った。
「なんせ、あの非常事態の中あれだけの大立ち回りをしたんだ。一時間ほどの差で目を覚ましただけもすごいと思うぐらいだ」
「べつにそこまでのことをしたつもりもないんやけど……それで、あれからどれくらい経ったん?」
「浮遊島の崩壊があったのは、だいたい昨日の夕刻ごろだったと考えれば、そこから約半日が経過していることになるだろう」
「そうなんやね……まだあんまり現実感がなくて、まだ半日なのかもう半日なのかよくわからへん」
「あれだけいろいろあったんだ、それも仕方ない。今は少しでも休んでおくことだ」
「……ごめんなさい。お気づかいありがとう」
フィリオはそう言って小さく息を吐いてから、並行して座っていたハナヨの太ももに向かって倒れるようにこてんと頭を乗せた。唐突に膝枕する形になったハナヨだったが、何をするでもなくじっと腿に乗った頭を見つめた。
「ところでここってタンジ島って言うんやろ? それって、どの辺りにあるのん?」
「私もゴロウさんに聞いた程度のことしか知らないが、クラドオン王国の管理区内にある浮遊島のようだ」
「クラドオン王国かぁ。たしかシンドアもクラドオン王国に近かったけど、タンジ島ってどのあたりにあるんかな?」
「さあな、私もタンジ島を今日まで知らなかった身だからよくわからんよ」
「そっか。でもさ、難破した辺りってそんなに潮流風が強い雲海域でもなかったし、そこまで遠くに船が流されたとも考えられへんよね」
「いや、雲海内は存外に強い流れがあったりする。雲海に潜った時間がある以上、どこまで流されたか知れたものではないだろう」
「ああぁ、たしかにそうかもしれない」
「そのあたりも含めて、島の管理局あたりで確認せねばならない事柄だろうな」
そう言ってため息とともに首をぐるぐると回したドゥーレオの肩が音をたてた。
「これから考えるべきことも、やるべきことも山積みだな、まったく……」
言わずもがな、現在のフィリオたちは遭難者という立場である。どうにか早急にサクラへと帰還するために、行動の優先順位を考え、有効な手段を模索しながら的確に行動していかねばならなかった。
「サクラの人らは、いまごろ心配してるやろうね。もしかしたらまだあの海域を捜索してくれてるかもしれんし。うちらがここにいてるでって早く言ってあげな……」
「そうは言えど外線用の送話機となれば、こうした小さな島ならばあったとして管理局にせいぜい一台といったところだろうな」
「やっぱり結局は、管理局にすべてゆだねられるわけやね」
二人して眉を上げ、小さく鼻でため息をもらした。
「とりあえず、今はゴロウさんが魚を市場に卸しに行った足で、管理局の方に話をつけに行ってくれている。私たちも今のうちに状況を整理して、どう自分たちのことを管理局に説明するかを考えておかねばならないな」
フィリオとドゥーレオ、そしてハナヨの三人の打ち合わせが始まった。
懸案事項の一つであるハナヨについては、フィリオとドゥーレオで意見が一致していたこともありすぐに決定した。
「どうして、ハナヨは擬人だと名乗ってはいけないのですか?」
今後自分のことを擬人と名乗らないように、とフィリオが言ったとき、初めてハナヨが明確な質問をしてきた。
「えっと、擬人って現代ではすごく特別な存在なんよ。だから、ハナヨが擬人やってわかったら、どこに連れて行かれるかわからんし、今は隠しておこうってわけ。わかる?」
「はい、不利益を被らないためだということがわかりました」
「うん。今はそれでよし!」
クラドオン王国はロスグラン帝国領内の自治区にあたる。しかし、帝国領内とはいえ王国の管理区内でハナヨが捕縛でもされようものなら、研究対象として使われるならまだしも、もっと先鋭化した形で利用される可能性すら考えられた。ハナヨのような希少な古代遺産は、帝国法治下である事実など捨ておかれるほどに政治的な毒薬となりえた。
「というわけで、ハナヨ。今から、うちをマスターって言うんはやめにしてな」
「どうしてマスターと呼ぶことを止める必要があるのですか?」
「マスターとか主人って言葉は、ハナヨもわかってると思うけど、主従関係にある者たちが使う言葉やろ? うちとハナヨは、主人と従者の関係ではないやんか」
「いえ、マスターはハナヨを起動しました。ハナヨはマスターの従者です」
「いやいやいや、小鳥の刷り込みやないんやから」と言ってから思わず苦笑してしまうフィリオ。
「ハナヨは、ハナヨ。これからは誰か一人に縛られんと、一人のヒトとして生きていくことになるんやから、うちをマスターって呼ぶんはダメ、わかった?」
「はい、マスターをマスターと呼ぶことが不適切だということはわかりました。では、どのようにマスターを呼べば良いのでしょうか?」
「うぅん、そやなぁ」
目を閉じて自分が普段どう呼ばれているかを考え、ふとシズクの顔が浮かんだ。
「……それじゃあ、フィってことにしよっか? これからうちら二人はお友達ってことで話を進めていくから、その方が親近感あっていいと思うし」
「はい、マスターを改めフィと呼称します」
「うん。それじゃあ、あらためてよろしくね、ハナヨ」
「はい、よろしくお願いします、フィ」
にこりと笑いかけたフィリオに、ハナヨの表情が本当にすこしだけ柔らかく微笑んだようにフィリオには見えた。
その後、個別に質問があったとしても対応できるように遭難の原因や現場等、大まかながらフィリオたちの間で意見のすり合わせが行われた。もちろんハナヨの立場についても考えられる範囲で即席ながら物語を作って人物像を作り上げた。
ちょうどそこに、どこか緊張した顔のゴロウが帰ってきた。
「すまんけんど、一緒にこっちゃあ来てくれんかえ?」
とても申し訳なさげにそう告げたゴロウに従い、フィリオたちは屋外へと出た。ゴロウの後をついて船場の近くまで行くと陸揚げされた彼女たちの空泳船があり、その前に二人の男が立っていた。
「その者たちが、件の遭難者というわけか?」
どこか横柄な印象の高調子の声で、着飾った服の中年男がゴロウに問うた。
「んです。こん三人です」
ふんっと鼻を鳴らした男は、店頭に並んだ商品の品定めでもするかのようにフィリオたちを一人ひとりと見回していく。
「なるほど、やはり《混ざり者》どもか……いや、そちらの背の高い娘は、みすぼらしい格好こそしているが、どうも出の良い者に見えるな。おい、漁夫。あの娘は何者だ?」
ハナヨを値踏みするように見つめながら男が問うたが、ゴロウは首をかしげるばかりで困った顔をしてドゥーレオに視線をやった。
「いえ、彼女も特徴こそ出ていませんが、私たちと同じ角耳種の《混ざり者》です」
「はは。そうか、やはり美しいだけでどこか品がないのも頷けるな」
まるで侮蔑の色を隠そうともせず冷笑が浮かべ、男は口元をみにくく歪ませた。
こうした《混ざり者》に対する差別意識は、純人にかぎった話ではなかった。
フィリオたちのような《混ざり者》は、往々にしてそれぞれの純血の者たちから疎まれ蔑まれる傾向にある。当然すべての者がそういう意識をもっているわけではなかったが、帝国に生きる者の常識としてなのかそうした傾向が強くみられた。一般的にこれを純血至上主義といった。
純血至上主義──それは、純人であれ亜人であれ、すべての人型の種において、ひとしく持ちうる共通の思想だった。その根底にあるのは、どの種の者たちも自分たちの種が最も優れているのだという思いである。その思いが、純血性を尊ぶ意識を生み、結果として混血が純血に劣るものだという意識へとつながってしまったのが、この純血至上主義の本質だった。
加えて、この男のように純人を神々と同じ姿をした神の末裔のごとく考え、多数派たる純人こそ至上と捉えた偏執的な者たちもいる。それだけ純人と亜人、純血と混血という構図は、根深い歪みを人々の間に与えていた。
「それでは、今からいくつか簡単な質問をさせていただきます」
中年男の後ろに控えていた、管理局の事務官らしき眼鏡をかけた若い男が、これ以上の男の発言を遮るかのように一歩前に出てから口を開いた。
「皆さまへの質問に入る前に、まず私どもから名乗らせていただくことにします。こちらにおられますのは、タンジ島領主のクラドオン王国第四爵位ガイロゥ・エス・ソドミオン様になります」と言って後方の中年男を紹介した眼鏡の男。
「そして、私はタンジ島王国管理局局員のサイカ・イーミアスと申します」
サイカの対応は非常に事務的であるのに、領主と紹介されたガイロゥに比べれば、よほど親しみやすさを感じさせるから不思議だった。それゆえ彼らの紹介を受けて自然と頭が下がってしまった。
「初めに、皆さまのお名前と人種をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」
「それでは、私が代表して答えます」と小さく手を挙げたドゥーレオ。
「私の名はドゥーレオと言います。人種は角耳種と純人の混血です。となりの小柄な女性がフィリオ、角耳種と小人種の混血。そして、奥の女性がハナヨ、角耳種と純人の四分混血となります」
三人にちらちらと視線を向けつつ、サイカはその答弁を手元のボードに書きとめる。
「では、皆さまのお住まいは、どちらだったのでしょうか?」
「雲海生物特区……えー、四〇六三号です」
確認の意図でドゥーレオがフィリオを見れば、その視線に気づいたフィリオが小さくうなずく。
「四千番台ということは、雲海生物のハナビラガメにおける特区ですね」
「ちっ、貴様らは《混ざり者》の上に、帝国の特区民か」
サイカが筆記する後ろで、ガイロゥが苦々しげに舌打ちをした。
「……そこの漁夫に聞いた話によると、本日の早朝あなた方は、こちらの船で漂流していたところを救助されたということですが、どうして遭難するに至ったのですか?」
「それについてですが」と発言し、コホンと小さく咳をしてからドゥーレオは言葉をつないだ。
「先日、私たちは雲海生物の航路上に大型の未確認浮遊物を発見しました。遠目には詳細がつかめなかったため、接近して確認を行おうと空泳船を出したのですが、その途上において唐突にクモガクレシャチの襲撃にあってしまったのです」
「ふむ、クモガクレシャチですか……」
眉間を軽く寄せてドゥーレオを見たサイカ。それでもなんら臆した風も見せず、ドゥーレオは平然として続きを語りだした。
「ええ、そうです。このクモガクレシャチなのですが、不意に雲海の深部からやってきたかと思うと、狙いすましたかのように母体と連結したワイヤーに食らいついてきました。そして食いちぎったワイヤーを咥えて雲海を潜航しようとするシャチに対し、皆の力を合わせて命からがら追い払うことができました。ただ、結果的にはこうして皆が意識を失ってしまったのですが、幸いにしてこの地に流れ着けたというわけです」
ドゥーレオがすらすらと説明した内容は、当然ながらまったくの嘘でしかない。
「なるほど……そうですか。それは、本当に災難でしたね。聞くだけでも生きた心地のしない壮絶な体験だったことがわかります」
「いえ、今も生きているのが不思議なほどです」
答弁を聞き終えたサイカは労いの言葉を述べて、後方にある船へと振りかえった。
「ところで、なぜこのようにアンカーの設置場所まで破損しているのですか?」
サイカが指さす船の側部は、フィリオが足蹴に破壊したアンカーの接続部だった。
「それは抵抗した際に打ち込み式のアンカーでさえ武器にしようとしたからです。とはいえ、このアンカーによる一撃、ヤツの体に刺さったまでは良かったのですが、攻撃後も奴の体から抜けず、雲海内を最悪の形で引きずり回される結果をまねきました。どうにか接続部を破壊することで逃げおおせたのですが……」
こうしてよどみなく語ったドゥーレオの言葉だが、実は事前に皆で打ち合せた内容を超えた話だった。それなのに彼は何も困惑した様子もなく話しきってしまった。フィリオは内心で驚きつつ彼の独演を聞いていた。
「そうですか……こちらから返す言葉もなくなるほどに、壮絶な状況だったことがわかります」と言って破損した船を撫でつつ、ため息をついたサイカ。
「しかし、疑問点があるとすれば、それだけのことをあなた方三人だけで行ったのですか?」
当然といえば当然の疑問。それだけの大事を、細腕の男一人と女二人でやってのけるなど想像するに難しい。
「……ええ。実際には、あと三名乗り込んでいました」
すこし黙してから、沈痛な表情を浮かべてドゥーレオが口を開く。その言葉にフィリオは下を向いて下唇を噛んだ。
「申し訳ありませんが、その方たちのお名前もお聞かせください」
変化した空気に気づき、サイカは抑えた声音で後をうながした。
──特区駐在の政務執行官コルド・ルーデンス、そして自警団員のモートレッドとオルトバン。そうして三人の名前と役職をドゥーレオが告げる中、家の片隅に縮こまって嵐が過ぎ去るのを待つ少女のように、フィリオは目をつぶり身体を強張らせた。
「なんと、帝国出向の役人まで死んだのか! これはなかなかの大事だな!」
場の空気などお構いなしに、おかしげに笑ったガイロゥが粗野な言葉を吐きだした。瞬間、小さな舌打ちがサイカの口からもれたが、ガイロゥはまるで気づきもせず卑しい好奇心をもって興奮した様子で笑っていた。
「本来この場にいるべきはずの方々がいないこと、まことに残念でなりません」
ガイロゥの非礼の謝罪も兼ねてだろうか、サイカは長く黙礼をした。
「その思いが、空に散った者たちに届くことを祈るばかりです」
そう応じたドゥーレオは、端からガイロゥの存在など見ることなくサイカに声をしかけた。ドゥーレオの対応にどちらの立場とも言えないあいまいな笑みを返してから、サイカはこれからのことをドゥーレオと相談し始めた。
ある程度の方針が固まったところで、フィリオは傍で身を縮めて小さくなってしまったゴロウへと物言わず寄った。この場に来た当初からオドオドとして居心地の悪そうにしていたゴロウが、すこしだけ安心したように笑った。管理局の役人どころかこの島の領主までいるのだから、それが島民として当然の反応なのだろう。
「あらためてこの度は助けてくださり、本当にありがとうございました。ゴロウさんはわたしたちの命の恩人にほかなりません」
「んなん、気にせんでえぇよ」
眼前で手をひらひらと振るゴロウはどこか恥ずかしげだ。
「そうだ! たとえばご自宅に故障した魔導具とかってありませんか? 簡単な物ならすぐに修理できますよ?」
「んなん、ほんに気にせんでええんよ。んだら、まだこん島にちっとばおるんやったら、またワシんちに寄っちんねぇ。えぇ魚採っとくんに、食べさしちゃあよ」
「ありがとうございます。うち、魚好きやから嬉しいです。でもそれじゃあ、かえってお礼することが増えちゃうから、うちにできることしたいんですけど」
「んやんや、んだけ、気にせんでえぇ言うこっちゃ、な?」
「……ほんと、ありがとうございます」
優しく柔和に笑ったゴロウに対して、フィリオも申し訳なさげに笑い返した。
「フィリオ、これから管理局に私たちを連れて行ってくれるそうだから準備しなさい。そこで管理局長と面談をさせていただけるらしい。うまくいけばその場で送話機も借りられるかもしれない」
「うん、わかった」
その言ってドゥーレオの言葉に頷いたフィリオは、眼前のゴロウに改めて礼をした。
「家にちゃんと帰れたら、一番ええんにな。頑張りんね?」
「はい、本当にありがとうございました」
そう言葉にして、フィリオは深くふかく頭を下げた。
* * *
「──やっぱり、あかん! つながらへん!」
そこは、タンジ島王国管理局の通信室。
フィリオは外線用の送話機を前に、椅子の背もたれに体重を預けるようにして、ぐでぇーんと擬音がつきそうなほどに手足を投げだしてしまった。
彼女がこうなってしまった事の次第はとても単純だ。
サクラに向けて通話の接続を送話交換手に願い出たまではいいが、何度接続を交換手が試してみたがサクラとの接続がどうにも確立できないという。
こうした外線用の送話機は、一度帝国の中央送話機関につながり、そこを経由して各地の送話機とつながるという構造になっていた。それゆえ、対応した交換手が嘘でもついていないかぎり、送話機がつながらないという問題の原因は、受け手であるサクラにあるとみて間違いない。そこで考えられるのは、あの浮遊島崩壊のあとでサクラに何か良くないことがあったか、あるいは単なるサクラ側の送話機の故障か……。
呆然として天井を眺めていたフィリオだったが、ふとある言葉を思い出した。
それは島を離れる日の朝、ミランダ食堂でフィリオに向けてコルドが言った言葉──唐突で申し訳ないのだが、執務室にある送話機の調子が最近すこし悪いようなんだ。また手の空いている時でいいから、見に来てもらえないだろうか?
(うそやん、確実にそれが原因やんか……)
あのときの依頼が、こうした形で牙を向くことになろうとは想像できるわけもない。
せっかく送話機の使用許可が下りたのに、この結末はなんとも納得しかねる事態にほかならない。フィリオの後方に控えて、事の成り行きを記録している管理局員も、どことなく同情するような表情でそんな彼女の背を見ていた。
クラドオン王国も帝国領に他ならないとはいえ、その関係性には微妙なものがあった。けっして表だった仲違いや険悪さはないものの、歴史的背景や政治的判断から、王国が帝国に絶対的な服従関係にあるというわけではないのだ。
そのため、こうして帝国直轄地たる特区に連絡しようとする通信について、当然ながら警戒されるのは仕方がなかった。それなのに管理局員の立ち会いの下とはいえ通信許可を受けて連絡したにもかかわらず、こうして見事な空振りに終わってしまったのは痛手に他ならない。
ご愁傷様とでも言いたげに、立ち会った管理局員の一人がぽんっとそんな彼女の肩を叩いた。だが、せっかく送話機の使用許可がでているのだ。この程度で簡単に引き下がるわけにもいかず、次善の策に打って出るフィリオ。
「あの、次は交易都市のシンドアに接続させていただけませんか?」
「……シンドアに?」
「はい。サク──わたしたちの乗った雲海生物は、シンドアを目的地として航行していました。予定された航行速度では現時点で到着しているか微妙なところではありますが、事故の報告もありますしその速度を速めている可能性が考えられますので」
「なるほどなぁ。それじゃあ、ちょっと局長に確認してみるんで、お待ちください」
立ち会う局員のうち記録係でない方が、隣室にいる管理局局長に確認に行ってくれた。残った年かさの局員とフィリオの目が合うと、なぜか苦笑を浮かべてため息をついた。
実際のところ事前の航行予定を考えれば、順調に行って到着は早くとも明日の早朝になるだろう。加えて、浮遊島を調査していた時間、行方知れずのフィリオたちを捜索する時間があったとすれば、いまだ航路上にいると考えるのが妥当である。
しかし、それでも一縷の望みをかけて連絡を試みる。それは雲海に落ちそうな者が必死に近くの何物でも掴もうとするのと同じだった。
ちなみにハナヨはというと、大人しくちょこんと椅子に座って、必死に考え動き回るフィリオを見たり、周囲の器機や道具類を見たりと意外に楽しそうにしていた。
しばらくして、先ほど出ていった管理局員が帰ってきた。
無表情でフィリオの前まで歩いてきた局員は、彼女の肩に手を置いて残念そうに首を左右に振る──フィリオが悲しげな表情を浮かべると同時に、その顔がニコリと笑った。
「シンドアへの送話、問題ないってさ」
局員のいたずらにすこし動揺したフィリオだったが、口をふくらませて抗議の視線を送りつつも、すぐに送話機へと向かった。
再度つながった交換手に告げた宛先は、交易都市シンドアの中央港湾事務局。
今度こそ正常に接続され、目的とした場所に連絡がつけられた。送話口で要件を告げたが──結果までは、幸運とはいかなった。
通常の港湾を利用する一般船舶ならば教えられるが、特区の寄港状況については送話機によって教えられないということだった。
それでも、フィリオはくじけることなく即座に頭を切り替える。
次に「それでは」と切り出したフィリオは、自分たちが遭難者であることを説明し、到着しているかまたは今後到着するだろうサクラの住人に彼女たちの現在地を、それがダメならばせめて生存していることだけでも教えてほしいと伝えた。
だが、受話口から返ってきたのは「不可能」の一言。
「私たちは、伝言版でもなければ便利屋でもない。貴君も帝国民であるならば、然るべき常識を持ち、適切な手続きを踏んで事を為すようにしなさい」
にべもない言葉を打ちつけるように放って、一方的に接続は切られてしまった。
「ひゅうぅ、やっぱり帝国の役人ってのは地方の港湾勤務であれ、徹頭徹尾に帝国人って感じだなぁ。おっかねぇ」
先ほどから妙にお気楽な調子で話しかけてくる管理局員が、またもぽんぽんとフィリオの肩を叩きながら呆れるように言った。
「サクラに駐在していた政務執行官のコルドさんは、もうすこし融通が利いたし、もっと愛嬌だってありました」
自分の知る帝国役人の顔を思い浮かべ、フィリオは抗議するようにそう口を開いた。
「そりゃあ、いくら地方つったところでシンドアくらいの大きな都市にもなれば、腐っても帝国中央官庁からのエリート組だろうしな。特区の駐在役人さんレベルとは、帝国人としての質が違うってことだろうなぁ」
「そんな言い方って……。それを言うなら、あなただって他のお役人さん、たとえばサイカさんなんかと比べたら全然ちがうじゃないですか、同じ王国のお役人さんなのに」
「まっ、こちとら、帝国直轄じゃなく王国の役人だからさ。サイカみたいに真面目なのもいればオレみたいなのもいるわけだ」
子供をあやすかのようにフィリオの頭に手をのせて笑った若い局員を、彼女は頬をふくらませて上目使いににらんだ。
「そんな怒るなって。そういや、さっき話題に出たサイカとオレ、ちなみに同期だったりするんだぜ。あいつは嫌がるけど、けっこう仲良いし」
「──おいっ、ワイズ! お前はまず局長に状況報告だろうが!」
記録係をしていたもう一人の、おそらくは上司か先輩だろう局員が怒鳴った。
「りょーかい。ダニスさんもそんな怒んなくても良いじゃないっすか」
そう言ってワイズと呼ばれた局員は背を向けたが、フィリオに顔だけを振り向かせた。
「そうそう。さっきダニスさんが言っちゃったけど、オレの名前ワイズって言うんだ。今後ともよろしく、フィリオちゃんにハナヨちゃん」
ピュッと風を切るように額の前で手を振って部屋を出ていくワイズの背中に、フィリオは立ち上がって声をかけた。
「その報告っていうんに、うちも一緒に行ったらあかんのかな?」
その真剣な声音にワイズはダニスを見た。その視線を受け、しぶしぶといったようにため息をつき、ダニスはワイズに向かって犬を追い払うように手を振った。そんなダニスに対して一礼をしてフィリオはワイズの背を追い、その彼女の背に遅れまいとハナヨも立ち上がった。
節約のためだろうか王国管理局の薄暗い廊下を、ワイズを先頭にフィリオ、ハナヨとつづいた。古びた床板がときおり軋みをあげた。ワイズの足が他より多少大きなドアの前で止まる。そして、静かだった廊下に大きくノックの音が響いた。
「ワイズ、報告に参りました!」
にわかに部屋から小さく「入れ」と声が聞こえてきた。
三人が入室した部屋には、大机に向かい合う形でドゥーレオと二人の局員らしき男性たち、そして一人の女性──その気だるげな表情でフィリオたちを迎えたその女性こそ、タンジ島王国管理局局長であるソラリオ・ミンディアだった。
フィリオはワイズに促されるままに、先刻の送話機のよる結果をソラリオやドゥーレオに報告した。本来ならばワイズが報告すべきはずのことをフィリオが話すことになったのも、「自分が話すより当人が話す方が真実の言葉に近いと思います」とワイズが彼女に投げやったからに他ならない。
そんなフィリオの前に控えている管理局長のソラリオは、なんと言えばいいのか、とてもつかみどころのない人物だった。
外見のかぎりでは、三十も後半といった年の純人の女性だろう。しかし、大きな涙袋を眼下に従えた目を眠たげに細め、まばたき以外にこれといった微動もせず、身体の節々から力を抜いて机と椅子に体重をあずけた彼女は、どうにも年相応に見えない退廃した空気を周囲に放っていた。
「……と、以上がこの度の通話によって得られたことです」
当たり前といえば良いのか残念といえば良いのか虚偽報告するほどの内容もなく、フィリオは此度の通話した内容をつまびらかに報告して、じっと相対するソラリオを見た。
眠たげな目は変わらずに、何を考えているのか腕組みをして天井に視線をやるソラリオに、部屋にいたフィリオやドゥーレオ、その他ワイズたち局員はじっとそんな彼女の次の反応を待った。
「すまん。フィリオ君とだけで話をさせてくれないか」
そうして天井に向けていた視線を戻したソラリオは、フィリオ以外の周囲の者たちに視線をやった。その声量は弱くも語気は強く、周囲の者たちが彼女を見た。どう反応すれば良いのか困惑した者たちの間で場の空気が一時止まった。
「聞こえなかったか? 全員、少しばかり席を外してほしいって言ったんだけど」
「──っと、ほらほらフィリオちゃん以外は部屋を出るよ」
ソラリオの不機嫌そうな言葉が出たと思いきや、ワイズがへらへらと笑いながら、同室にいた者たちに退室をうながした。ドゥーレオがフィリオに心配げな視線をくべつつ、ハナヨの背を押して退室していった。
ざわついた声も引き、管理局の手狭な一室で管理局長のソラリオとフィリオだけが顔を見合わせた。
「フィリオくんも、色々とたいへんだったようだね」
二人だけになった部屋で、口辺に苦笑を浮かべたソラリオが労いの言葉を述べた。先ほどまで見せていた権力者たる面影もなく、それはまるで近所の親しいお姉さんのような気さくさだった。
「いえ、そのようにお気づかいくださるだけで今までのことも報われる思いです。ありがとうございます」
なぜ自分だけが残されたのかその意図がわからない。それゆえ、どうにか相手の真意を探ろうと形式的な対応を続けるフィリオ。そんな相手の応対を前に、ソラリオは残念とばかりに口辺に浮かんだ苦笑を強めた。
「フィリオ君──いや、もう面倒だしフィ君で良いか」と、勝手に納得したようにうなずいたソラリオがそこに言葉をつなぐ。
「フィ君には、そんな上辺の回答じゃなくてもっと正直なところを聞きたいんだ」
「正直なところ、ですか?」
「そう、正直なところ」
どこか満足げにうなずき、ソラリオは机に両肘をついた。
「フィ君は、自分の住んでいた特区が好きかい?」
「……はい、もちろん好きです」
「では、なぜ好きなんだい?」
「えっと、唐突になぜと聞かれると……」
しばらくの間、フィリオはあごに手を当てて天井を見上げた。対するソラリオは組んだ手にあごをのせ、次の相手の言葉をじっと待った。
「そうですね。一番は、住み心地が良いことです」
「ほぅ、住み心地がいい?」
「はい。うちにとって初めて自分で持ったお店もあるし、住んでいる人はみんな良い人だし、吹く風はいつも気持ちがいいし、世界のいろんな場所に行けるし……それに、ミランダさんの食事が美味しいんです」
「ふふ、なるほどね」と言って小さく笑ったソラリオ。
「だが、陸地に住めるものなら住みたいと思ったりしないのかい?」
「いえ、とくに思いません。むしろサクラそのものが自分の家みたいで、別の場所になんて移り住みたいという発想すら出てこないくらいです」
「そうか。それならば一刻も早く帰りたいと思っていることだろうね」
「はい、心から」
あまりにもまっすぐな少女の視線と言葉を受けて、ソラリオは組んでいた手をほどいた。
「それならば、微力ながら私にできることをしてあげないといけないな」
そう言った顔はあいかわらず眠たげなのに、どこか日が明けたばかりの早朝のようなすがすがしさがあった。
「局長さんがええ人でよかったねぇ」
管理局で紹介された宿に向かう道中、フィリオはのほほんとした口調でつぶやいた。
フィリオとソラリオが話し終わった後、事態はまたたく間にソラリオの指揮で転がり始め、翌日のシンドア行き定期運搬船に便乗させくれるということで話がまとまった。
「そうだな。純人の王国役人にしては、なかなかに話の分かる人だった。そして、なによりシンドアとそう離れた距離になかったことが幸いしたな」
「そやね。ほんま、それが不幸中の幸いではあったよね」
タンジ島とシンドアは、そう速くはない運搬用の雲海生物でも六時間程度の距離にあるようだった。それゆえ、こうして交易都市との交易のため定期的に運搬船が出ていることも、彼女たちにとっては幸運な材料となった。
管理局を出て一分とせず宿に到着した一行は、二部屋を取って男女別々に分かれた。のだが、部屋について早々やはり聞いておくべきだろうと思ったフィリオは口を開いた。
「いまさら当たり前のこと聞くみたいやけど、ハナヨって女の子やんね?」
「はい、自我は人間の女性を基に構成されています。身体も人間の女性を基にモデリングされたものです。よって、ハナヨは女の子だといって差し支えないと思います」
扉の脇に立って手持無沙汰に待機していたハナヨがはきはきと答えた。
「まぁ、そりゃそうやんな。逆にその見た目で男やって言われても困るわ」
想像していたとおりの回答だったとはいえ、本人の口から確認できたことで何となく安心できた。まあ、性別なんて無い、という回答も考えてはいたのだが。
「これからどうしよっか?」
そう言った直後、フィリオのお腹からクゥーッという犬の甘えるような音がした。それもそのはずで、難破してからこれまでゴロウの出してくれた水以外何も口にしていなかったのだ。腹が鳴るのも仕方がない。
「……ごめん、今から外に行って何か食べよっか?」
ちょっと恥ずかしげに申し出たフィリオに、当然とばかりにハナヨはうなずく。
「ハナヨは、フィが行くところならどこでもついて行きます」
その純粋な反応ゆえ、へんな恥ずかしさが増したフィリオだった。
連れだって宿を出た二人は、島の中心と思われる通りまでやってきた。そこは昼時ということもあってか、多くの人出に賑わっていた。
「ウサギ、イワシ、トウモロコシ、タマネギ……その他識別不能の物が焼かれる匂いであふれています」
「そやなぁ、ほんま良い匂いやなぁ……」
通り沿いの屋台からは魚や野菜の焼ける匂いがただよい、食堂だろう店の前で立ち食いしている農夫や工夫らしい筋肉質な男たちが談笑しつつ昼食を頬張っている。
「おっと、よだれが出てきた」
じゅるりと音を立てて今にも漏れだしそうな唾を飲みこんで、フィリオは近くの焼き魚売りの屋台へと近寄った。
「ごめんなさい、何本か買おうかと思うのだけど、帝国貨幣で買えるかしら?」
フィリオがそう言って声をかけると、純血の有鱗種だろうトカゲのような鱗の肌を光らせた店主は、店台から見下ろすようにして彼女を見つめた。
「まぁ、使えるっちゃ使えるが……嬢ちゃん、見ない顔だけど《混ざり者》かい?」
「うん? そうだけど、なんか問題ある?」
「あぁ、そうかぁ」
そう言った店主は難しげな顔をした後、フィリオの後方に立ったハナヨに気づいた。
「ところで後ろの姉ちゃんは知り合いなのかい?」
「ええ、知り合いというかお友達ですけど」
「そうか。まぁ純人が付き添いなら問題ないだろ。どれを何本いるんだい?」
不審げな顔をしつつも、とりあえず四本の魚串を注文したフィリオ。
「ねぇ、この島だと《混ざり者》は、買い物とかできなかったりするの?」
店主が焼き場で焼き置きしてあった魚を温めなおしている間に、フィリオが感じていた疑問を口にした。宿屋の時にも、管理局から発行された身分証明の書類の提示を行うまでどこか主人が渋るような素振りを見せていた。
「いやぁ、べつにそんなわけでもないんだが……」
そう語る店主だったが、どうも歯切れが悪い。悪意があってというよりは申し訳なさげな感じがした。
「最近、この辺りでも血種決起同盟のテロ騒ぎが多くてな。《混ざり者》に対して、あまり好意的に接すると世間体がよ。すまんな」
「気にしないで。べつにおじさんが悪いって言いたいわけじゃないから」
後ろめたげに四本の魚串を差し出した店主に、これでもかという笑顔を見せてフィリオはそれを受け取った。
店主の語った血種決起同盟とは、《混ざり者》の地位向上と全人種平等を旗印に掲げて武力闘争を行う過激派の地下組織だった。古くから公にも認知こそされていた組織だったが、近年になってその活動が異常なほどに過激化し、体制の者たちばかりでなく一般市民の純人や純血に対する無差別テロまで行うようになってしまった。
それゆえ、こうしたフィリオのような無関係な《混ざり者》にまで、日々どんどんとその風当たりが強くなってしまっていた。
そうした血種決起同盟や《混ざり者》を取り巻く世間の目のありようについて、フィリオは焼き魚にムシャリとかぶりつきながらハナヨに話して聞かせた。
店主の話もあった手前、あまり人目のつかない脇道に寄って二人は食事をしていた。
「差別や偏見とは、どれほど時が経とうと無くならないのです」
ハナヨは、フィリオのそうした《混ざり者》の現状を聞いて第一声にそう告げた。
「あれれ、ハナヨってそういう昔の記憶あったのん?」
「いえ、差別や偏見といった言葉の持つ意味が、ハナヨの造られた時代とまるで同じだからです。ハナヨの造られた時代も人種、出生、貧富をもとに、人間同士が差別と偏見を生じさせていたようです」
「……そっか、なんにも変わらないんやね。どれだけ時が経ったとしても」
そこで、ちらりとハナヨの手元を見ると、まるで手をつけられていない魚串を見つけた。
「ハナヨ、それ食べなよ? あったかい方が断然おいしいんやから。それとも、魚とかは食べられへん?」
「いえ、いただきます」
そう言ったハナヨは、小さく口を開けて魚の背にかぶりついた。
「どう、どう? 初めての食事の感想は?」
わくわくとした表情のフィリオに対し、とくに表情を変えることなく咀嚼するハナヨ。飲みこむタイミングが分からないのかと心配になるくらいに十分噛みしめてから、ハナヨはゴクンと喉を鳴らして嚥下した。
「まだ情動理解が及んでいないため判断しかねます。その上で、おそらくこの感覚がおいしいという感覚なのだろうと理解しました」
「つまり、なんかエエなって感じたわけやね?」
「はい、なんかエエな、と感じました」
「うん、きっとそれがおいしいって感覚だと思う。それを覚えといてな」
そう言ってにこりとフィリオに笑いかけられたハナヨの頬が、すこしだけ柔らかにゆるんだように見えた。
「あれ? フィリオさんとハナヨさん、このようなところでお食事ですか?」
唐突に声をかけられ、驚いて振り返ったフィリオの目の前にいたのは、王国管理局局員のサイカだった。手に持った鞄からパンの頭が見えるあたり、昼食を買い出しに来たのだろう。
「あ、サイカさん! えっと、遭難の手続きではいろいろと取り計らっていただいたようで、たいへんお世話になりました」
「いえ、やるべきことをやっただけのことですので、お気になさらないでください」
これ以上の礼も謝罪も受け付けないと主張するかのように、サイカは胸の前で右手を広げてみせた。
「そんなことよりも、現地検証の際は、当方こそ色々と申し訳ありませんでした」
かえってサイカの方が、フィリオとハナヨに対して頭を下げた。
「こちらこそ、謝っていただくことなんて何も……」
「いえ、同席した領主があのようなお見苦しい態度と数々の失礼な言葉を吐いてしまったことは、当方の非でもあります。本当に申し訳ありませんでした」
この人はすごく真面目ではあるけれどとても芯の通った誠実な人なのだと、フィリオは思わざるをえなかった。どことなくその人間性は、帝国と王国という所属こそ違えど同じ役人のコルドに似ているような気がした。
「こちらこそお礼をいうべき立場なのですから、謝られるのは少し違います。それでも気に入らないというのなら、わたしのお礼とあなたの謝罪で相殺ということで」
「ありがとうございます。あなたが聡明な方でよかった」
そう口にしたサイカは、すこしだけ口辺をあげるように微笑んだ。
「あの、ところでわたしたちの聴取とかって、もう終わりなんですよね?」
「ええ、そうですね。これから追加して何かを行うという予定はありません」と、そこまで言ってからサイカは少し目を細めた。
「実はちょうどその聴取の内容について、少しばかりお話ししておきたいことがあります」
「どうしたんです、あらたまって?」
不思議そうな顔をして見上げるフィリオに、コホンと咳をしてからサイカが話しだした。
「船の難破原因についてあなたたちは、クモガクレシャチが襲ってきたとおっしゃられていました。ですが、事実はそうではないはずです」
サイカの発言に不意に眉を上げて驚きそうになったところをどうにか耐え、フィリオは平然さを装うように微笑んで口を開いた。
「えっと、それはどういう意味でしょうか?」
「はっきりと申し上げますと、クモガクレシャチは基本的に雲に擬態することで獲物に近づきます。そして、不意を突いて獲物の腹に初撃で食らいつき致命傷を与えるという狩りの習性があります。つまり、報告のようにワイヤーにまず食らいつき、船体にまるで被害が及ばなかったというのは、正直なところありえないと考えられるのです」
そこまでをはっきりと言い切ったサイカの発言を聞いて、フィリオは息をのんだ。確実に目の前の役人は、自分たちの虚偽の報告について疑念を抱いている。それはどう考えても明らかだった。
「……それは、わたしたちが嘘をついていると言いたいわけですか?」
どうにか焦る気持ちを落ち着けて、サイカの反応を見るように言葉をつないだフィリオだったが、相手がどう反応するか正直なところ気が気ではなかった。
当然のことながらドゥーレオとある程度の打ち合わせをしているとはいえ、どこでほころびが生じて自分たちの立場が危うくなるか分からない。なによりフィリオたちは身元の証明が難しい立場なうえに、《混ざり者》の一団なのである。
「あっいえ、すいません。そう警戒しないでください」
だが、サイカの反応は想像していたものとはあまりにも違った。むしろ、サイカの方がフィリオのそうした警戒した反応に困惑している様子さえ見せた。
「私は、フィリオさんたちの報告に疑義をはさんで、その真実を追求しようとする意思はまったくありません。それは私の本懐ではないのです」
そう口にしたサイカは、彼らしくなくあせった様子さえ見せて、どう告げたものかと思案するようにあごに手を当てた。
「これから先、おそらくあなた方には帝国からの聴取が待っていると考えられます。その際、さきほど指摘した内容で虚偽を疑われてしまう可能性もあると思うのです。こちらで答弁された内容が虚偽であるかどうか、私はこの点について追及するつもりはまるでありませんが、来る帝国の聴取に際しては、先に指摘した点を考慮して答弁されることを推奨したいというだけなのです」
「……どうして、そのような助言をしてくださるのでしょう?」
サイカの助言はとてもありがたいものだった。感謝すべきことに違いない。
しかし、その意図がまったく読めなかった。なにより、虚偽を疑っていながらそれを追求すらせず処理してしまうような、そんな仕事ぶりを示す管理局局員には、到底サイカは見えなかった。疑いを色濃く浮かべたフィリオに対して笑みを返してから、サイカはハナヨが口をつけた魚串に目をやった。
「ハナヨさん、その魚おいしいですか?」
「はい、なんかエエな、と思える味です」
「はははっ。そうですか、それはよかった」と声に出して笑ったサイカ。「いま口にされている魚は、きっとゴロウさんが採った魚です。この通りの屋台に卸している魚の大半は、長年ずっとゴロウさんの手によるものなんですよ」
そう言ってサイカはフィリオを正面から見た。このときになって初めて管理局局員としてではなく、本当のサイカという人物の顔を見たようにフィリオは感じた。
「あのとき、ゴロウさんに頼まれてしまったんです。どうかあの子たちを悪いようにしないでくれ。ちゃんと元の家に元気に帰してあげてくれ。そう頼まれました」
「そんなことを、ゴロウさんが」
「あまり他言すべきことではありませんが、あの方は奥様だけでなく、息子さん夫妻までも船による事故で亡くされてしまったそうです。きっと、難破した船に倒れ伏したあなたたちを見て、思うところが多分にあったのではないでしょうか。かくいう私にも、その気持ちが少しばかりわかるように思うのです」
「……サイカさんが、ですか?」
「ええ。実をいうと私の生まれは小さな漁師の家だったもので、いやでも雲海上での悲しい出来事を、目にも耳にもしてきました。だからなのか、ゴロウさんの気持ちやあなたたちの立場に、私なりに思うところがあるんです」
やわらかな声で語られたサイカの告白に、フィリオの身体から身構えるような強張りがいつしか自然と消えていた。
「種明かしになりますが、私がクモガクレシャチの特性に詳しかったのも、そういうわけなのです。漁師にとってクモガクレシャチは天敵のようなものですから」
きっと仕事の上では見せることはないだろう笑みをサイカは見せた。その笑顔を前に、一瞬でも彼に疑いを抱いてしまったことをフィリオは恥じた。
「ごめんなさい。ほんとうに何と言えばいいのか……感謝の言葉も、見つかりません」
「このような場合は、ありがとう、が適切だと思います、フィ」
「そうやね、ハナヨ」と言って笑ったフィリオ。
「サイカさん、本当にいろいろとありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
笑顔のフィリオとサイカは、ぎゅっと握手を交わした。
* * *
昼食を食べ終えたフィリオたちは、タンジ島内を散策することにした。
目的はハナヨに自分の目覚めたこの世界を知ってもらうことにあった。明日にはこの島の何倍という人が行き交い、背の高い建物が林立するシンドアへ向かうことになるため、その予行演習の意味合いが強い。
屋台が立ち並んでいた通りを一歩奥に入れば、日々の生活臭に満ちた居住区につながっていた。左右の建物の間にロープを張り巡らせ、そこに所狭しと干された洗濯物がぱたぱたと旗を振るように風に揺れている。カンッ、カンッという小気味のいい金属音がひびくあたり、路地のどこかに鍛冶屋か廃材屋でもあるのかもしれない。
歩きすぎていくたびに鼻を刺激するにおいは何とも複雑で、犬の小便だろうかアンモニアの臭いがするかと思えば、昼食を作っているのだろう屋台とはまた違った良い香りがするなど、一言ではどうも形容しがたいものが広がっている。けれど、それゆえにここに人が住んでいるんだという感慨を与えもした。
人種のそれぞれ違う三人の子供たちがワイワイと騒ぎながら、フィリオたちの横を大通りの方へと駆け抜けた。その顔は一様に屈託ない笑顔でとても仲が良さそうに見える。
「この時代には、色々な身体的特徴を持った人間がいます」
通り過ぎていった少年たちを目で追っていたハナヨが、フィリオに向きなおって言った。
「そうやね。小人種に角耳種、有毛種に有鱗種。他にももっとたくさん人種があって、みんなそれぞれに個性とか特徴があるねんで」
「たとえば、どのような個性や特徴があるのですか?」
「うぅーん、せやねぇ。たとえば、うちは小人種と角耳種の混血なんやけど、小人種はすごく背が小さいって第一の特徴があるんよね」と言って自分の頭頂部をぽんぽんと叩いてみせるフィリオ。
「でも、身体がすごく丈夫で、実は見た目以上に力持ちだったりする。それで、その反対にちょっと身体が弱くて細身な代わり、長生きやし魔素に対する耐性もけっこうあったりするんが角耳種っていう人種なんよね。ちなみ、角耳種って言うくらいやから、耳の先が尖ってるっていう特徴が一番わかりやすい点かな」
「小人種と角耳種について、その特徴は理解できました。その他の人種についても、その特徴を教えていただけますか?」
「うん、もちろんそれは良いんやけど、またゆっくり時間が取れるときにしよっか? なんでもかんでも話してたら、けっこう時間かかちゃうやろうし」
「はい、いつでもかまいません」
こくんと素直にうなずいたハナヨに対して、フィリオはある疑問を口にした。
「それなら逆に質問なんやけど、そうやって質問してくるってことは、やっぱりハナヨの時代にはうちらみたいな亜人はおらんかったってことやんね?」
「はい、亜人という人種は存在しませんでした」
「そっか。でも、そうなるとハナヨが生まれた時代よりも後になって、亜人っていう存在が生まれたってことになるんやね」
「はい、そう考えられます。ですが、ハナヨの言語知識の中に、類似した容姿の存在は確認することができます」
「どういうこと?」
相手の発言に思わず立ち止まったフィリオにならい、ハナヨも足を止めた。
「小人種というのはドワーフ、角耳種というのはエルフ。先ほどフィが説明した特徴と一致した容姿をした存在は、以上の言葉で表すことが可能です」
「でも、それってハナヨの時代にも亜人は存在してたってことになるんじゃないの?」
「いえ、現実に存在はしていません。それらは空想上の生物として存在しているのです」
「く、空想上?」
「はい、空想上あるいは神話上と呼ばれる世界において存在するとされた生物です」
「あかん、ごめん。ちょっとすぐには理解がおよばんわ……」
「はい、ハナヨにもまだうまく理解することができません」
二人して路地に立って頭を抱えた。平然とした顔こそしているが、地面の一点を見つめるその様子からハナヨも必死に頭を使って考えているように見えた。ちょっとした小話程度に話しだしたことだったのに、思いのほか考えるべきことが多くなってしまい、二人とも思案顔のまま路地に立ち止まっていた。
「……ん?」
そうして考えているとき、少し離れた路地裏から姿を現した人物に見覚えがあり、一度思考を止めてフィリオは眉を寄せた。
手足の長い痩身で、すり足でどこか頼りげな歩き方。さらさらながら癖っ毛の横髪から少しだけのぞく先が小さく尖った耳。それは、昨日今日とずっと見つづけて見慣れてしまった横顔──それらの特徴を総合すれば、どう見てもドゥーレオに違いなかった。
声をかけようとフィリオが手を上げかけたところで、ドゥーレオと思しき男は足早に向かいの路地裏へと入っていった。路地に立った彼女たちにまるで気づいた素振りもない。
「どしたんやろ、ドゥーレオさん?」
顔を見合わせたフィリオとハナヨは互いに首をかしげた。とりあえずドゥーレオの消えた路地裏の前まで二人で行ってみることにした。
二人してのぞきこんだ路地は、とても道幅が細く薄暗かった。人影が路地に消えてそう経っていないにもかかわらず、そこにドゥーレオの姿は見つからなかった。近くに横道もないことからどこかの建物に入ったことがうかがえる。
ドゥーレオが言っていたかぎりでは、初めてこの島に来たはずなので知り合いがいるとは考えづらい。それなのに、このような場末も場末にあたる路地裏に、こうして訪れるような場所があるとは意外だった。
「なぁ、ハナヨ。さっき前を通ったん、ドゥーレオさんで間違いないよね?」
「はい、先ほどここを通ったのはドゥーレオ氏で間違いないと考えます」
互いの言葉にうなずき合い、フィリオたちは路地裏に入っていった。
路地裏に入った時点で、つんとした肉や卵といったタンパク質が腐ったような変な臭いが鼻をついた。質の悪いレンガや漆喰によって造られた壁面を見ながら、近くの四軒の門戸を見て回る。
しかし、そのどれもが何らかの店の入り口というようには見えず、むしろ一般家庭の裏口のような様相でしかなかった。それゆえ、島外の人間であるドゥーレオが簡単に足を踏み入れそうな建物にはどうも思えない。
唯一変わった点を挙げれば、先ほどの喧騒に満ちた路地のすぐ近くだというのに、この路地は異様なほどに静かで、生活感というものがまるで見られないということだろうか。
「やっぱりドゥーレオさんちゃうかったんかな? どう思う、ハナヨ?」
「いえ、目撃した人影は、ドゥーレオ氏だったとハナヨは考えます。この通りの臭いもドゥーレオ氏に近いものです。それゆえに、この路地に面した四つの建物のいずれかにいることが推察されます」
「この臭いがドゥーレオさんって、それけっこう失礼やと思うよ」
ハナヨの発言に苦笑するフィリオ。けれど、何が失礼に当たったか分からずハナヨは小首をかしげた。
「とは言うても、どのドアにしても初めて島に来た人がなんの躊躇もなく入っていけるやつには思えんのやけど……ほんますっごい不思議」
考えうるとすれば、王国管理局で紹介された場所であったり、島の誰かから教えてもらった場所であったり、というところだろう。
「まぁ考えてわかることでもないし、また今度聞いてみればええかな」
そう言い残してフィリオが後方へと振り返ったとき、路地裏の曲がり角にサッと人影が走ったように見えた。
「──?」
不思議に思い曲がり角まで走って戻ったが、すでに走り去るだれかの後ろ姿も、そこに誰かがいたという様子もなかった。
「なんかおかしなことが続くな、ハナヨ」
「はい、なんかおかしなことが続きます」
二人で仲良く首をかしげ合い、フィリオとハナヨは路地を抜けて島の散策に戻った。
その後は、けっして広くない島であるため、全体を回るのにそう時間はかからなかった。
黄色の高級絨毯を広げたように一面に咲き乱れたタンポポ畑を眺めたり、昔ながらの手法で仕込む古い造り酒屋を覗いてみたり、宿への帰りがけにハナヨ用のこじゃれた街娘風の服を買ったりと、フィリオたちはタンジ島を観光で訪れているかように充実した時間を過ごした。
そうして宿屋に帰った後も二人だけの時間の中で、大まかにではあるがフィリオはこの世界のことについてハナヨに話して聞かせた。
なぜ人類が雲海の上で生きるのか──その原因となった魔素という存在、そしてこの魔素を世界に広めた《黒明の刻》と呼ばれる古の伝承について。
あとは、その後の人類の歩み、国家、文化、人種、《混ざり者》、雲海生物……そうした色々なことを種々雑多に話していった。
やはりハナヨはそれらの言語的な知識はまるで持ち合わせていないようで、そこからもハナヨが《黒明の刻》以前の遺物であることは確実といえた。
「感想として最も適した言葉は、おとぎ話の世界である、とハナヨは考えます」
話の一段落でフィリオが感想をたずねると、ハナヨからそう返答された。
「そっか……おとぎ話の世界」
ベッド脇に向かい合って座り、魔導ランプの淡い光に陰ったハナヨの顔を見ながら、フィリオはやわらかく笑った。昼ごろに亜人を空想上の存在とハナヨが言っていたことを思い出し、そこにつながる糸を見つけたようで不思議と納得できた。
「でも、この世界は、おとぎ話の世界やなくて現実の世界なんよな。だから、ちょっとずつでもこの世界のことを知って、経験して、楽しんでくれたら良いんやけどね」
「はい、ハナヨはフィと一緒にこの世界のことを知って、経験して、楽しんでいきます」
そのハナヨの言葉にもう一度ちいさく笑い、フィリオは魔導ランプの明かりを消した。




