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いつも風の吹く雲の上で

 はじめまして、卯月之蛙と申します。

 このたび投稿させていただきます『雲海世界の少女たち~Girls on Cloudy World~』は、人類が地上に住めなくなり、雲海の上での生活を余儀なくされた世界を舞台にしたファンタジーとなります。

 そんな雲海世界で魔導師として生きる≪混ざり者≫の少女フィリオを中心に進んでいく物語。

 プロローグとエピローグを除き全5章となり、文章量的に四分割での投稿を予定しています。

 拙作ではございますが、皆様の少しばかりの暇つぶしになれば幸いです。

   ~プロローグ~



 いつも、ここには、風が吹いている。

 この場所に立って、頬に風を感じない日なんてない。

 少女が一人、風車の屋上から果てなく広がる雲海の彼方を見つめていた。

 じんわりとまぶしい光を放ちながら、空と雲の境界線に輝く丸い頭がのぞく。

 昇りゆく日の出の鮮やかな光の帯が、少しずつ闇夜を払って雲海にふかく濃い輪郭を描きだしていく。

 それは、まるでボウルの中で混ぜられるメレンゲが、どんどんと膨らんでいくような柔らかな創造の瞬間だった。

 朝日がそうして今日を作っていく調理過程を、少女の澄んだ碧眼がじっと見つめた。

 大きく息を吸えば、夜明けの冷たくて湿っぽい空気が肺の奥まで広がっていく。

 それは、新しい一日の、新しい空気。

 もちろん、朝が来たからといって、昨日の空気が今日の空気へと一瞬にしてぱっと入れ替わるわけじゃないことくらい少女だって知っている。

 それでも、朝一番に吸い込む空気はみずみずしくてどこか特別な何かを感じさせた。

 昨日が終わって今日が来たんだよ、起きなきゃだめなんだよ。

 そうやって優しく頭を撫でながら教えてくれているみたいで、起きぬけの気だるさが少しだけ和らぐように思えるのだ。

 もう一度大きく朝の空気を吸い込みながら、少女は全身で伸びをした。

 少女の見上げた先で、眼下の雲海に比べればひどく薄いスジ状の雲が、ゆっくりとした足取りで流れ去っていくのが見えた。

 そのとき、少女の白銀色の髪をさらうように強く吹き抜ける風があった。彼女の細長く先がすこし尖った耳が髪の間からのぞき、冷たい風にさらされてぴくりと動いた。

 それに呼応するかのように、廻りつづける風車が重たく軋むような音をたてた。

 並行して泳いでいた数匹のソラシロイルカが、小さく鳴いて雲海の中に潜っていく。

 そして、少女の立っている世界が少しばかり、ぐぐぐっと上下に揺れた。少女は進行方向へと向きなおる。

 そこに、小さな丘のような深緑色の何かが地面から盛り上がるように動く姿があった。その動き方を見るに、先ほどの揺れはおそらく大きなあくびでもしたのだろう。

「……おはよう、サクラ」

 少女たちを背に乗せて大空を泳ぐ巨大な亀の頭に向かって、彼女は優しく微笑んだ。

 その声が聞こえたはずもないのだが、深緑色の頭がうなずくように上下する。

 こうして雲海世界に生きる少女たちの空の一日が、今日も始まった……。



   Ⅰ.



 少女が風車から降りてくれば、いつものように中央の通りには小麦の焼けたほんのりと甘い香りが漂っていた。少女の足は、自然とその香りを追って動き出した。

 朝になれば、毎日こうして通り一帯を焼きたてパンの香りが満たした。

 当然ながら寝起きに腹をすかした者たちが、その香ばしい匂いに抗えるわけもない。だから、少女の足が自然と匂いの発生源に向かってしまうのは仕方のないことなのである。

 屋根に座ってピィピィとさえずる小鳥たちの鳴き声。食器をあつかうカチャカチャという硬質な音。パンッと小気味よく広げられる洗濯物の音……。

 そうした早朝のささめくような喧騒の中を、ゆっくりと少女は歩いていく。

 そこに、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。この通りに面した家となると、おそらくモートレッドのところの一番下の女の子だろう。

 大柄な体格をしたモートレッドが、初めてできた女の子の赤ん坊を前にあたふたとした様子で泣き止まそうと奮闘する姿がふと目に浮かぶ。

 あの無骨で大きな手が、我が子を抱きあげようとその柔肌に触れたことで、さらに幼い女の子は泣き出してしまう。そこに、あわてて駆けつける妻のエスタと二人の子供たち。そんな彼女たちが見つけるのは、泣きじゃくる赤ん坊と、眉を八の字にして困りきった表情で立ちつくすモートレッドの姿……。

 きっと八割方は正解だろう光景が脳裡に浮かび、少女はくすりと笑ってしまった。モートレッドの家庭は、そんなにぎやかで温かな朝がとても似合う家庭なのだ。そうしたやわらかな妄想に浸っている間に目的の場所は目の前だった。

 少女の前には、無骨な字で【ミランダ食堂】と彫られた看板を掲げる建物があった。

 そこは食事処に並行して宿泊所も営んでいるため、周囲の家屋に比べて一回りほど大きく、木造三階建ての造りをしていた。ともすれば黒ずんだ柱や板壁が建物の古さを感じさせることあるが、そのどっしりとした礎石と太く大きい柱と梁に支えられた店構えが、故郷の母親に会ったかのような安心感を来訪者に与えてくれる。

 しかし、こうした店構え以上に、万人の母といった包容力の根源には、店主のミランダの人間性そのものがあることを少女は知っている。

 店先に立った少女は、そこで店頭の魔導ランプに、いまだ夜光の灯が点いていることに気がついた。

 倹約家のミランダなので、普段なら夜間に店を閉めてしまえばすぐに店頭の灯は消してしまうはずだった。それがまだ点いているというのはちょっとした驚きである。

 だた、その灯った明かりに見て、少女にはふと思い当たることがあった。

 それは、昨夜ここで夕食を食べた後の帰り際の話。

 店を出た少女が店頭に下がった魔導ランプの明かりが消えていることに気づき、帰る足を止めて即席ではあったが修理してあげた。実際そのときにやったことなんて仕事として請け負うほどのことでもなく、本当に簡単な作業でしかなかった。だから、少女も店主のミランダには報告もしなかった。

 けれど、そのことにミランダは気づいたのだろう。だから、わざわざ今も明かりを点けてランプの無事を知らせようとしているのだと思う。

 少女の知るミランダとはそういう気風のある人だった。だからこそ、その明かりに気恥ずかしさを覚えつつ少女は扉に手をかけた。

「おはようございまーす」

 少女の朝のあいさつを追いかけるように、扉についた鈴がチリンチリンと彼女の来訪を一緒に告げてくれた。

「おぉ。おはよう、フィリオ。今朝はすこし早いじゃないかい?」

 カウンターの奥に立った店主のミランダが、フィリオと呼んだ少女に向けてやわらかな笑顔を浮かべた。

「うん。昨日はちょっと早めに寝たから、その分だけちょっと早起きしたんよね」

 そう言って、フィリオはカウンターの左端の席に座った。そこが彼女のいつもの席だ。

 店内にはすでに二人の先客がいた。彼らの名はオーバンとゴウドと言い、どちらも七十を超えた老人である。

「そういえば外のランプ、問題なさそうでよかったよ」

「そうそう。昨日はもう帰るってときに、わざわざありがとね。あの後もちゃんと誘蛾灯として、夜中まで酒をもとめて飛びまわる蛾を集めてくれたわ」

 ミランダはそう言って笑いながら出入り口の扉を開ける。そして、小さな背をぐっと伸ばして細長い木の棒を器用に使い、魔導ランプのスイッチを切った。

 ミランダは、純人の血に亜人である小人種の血が混ざっているため、年齢とすれば四十を優に超えているにもかかわらず、その身長は純人の十歳前後と変わらない。

 そのため、傍目に見ればこうした生活場面では不便な面が多々あるように思えたが、ミランダ本人はとくに気にした風も見せなかった。

「いつも思ってたんやけど、ランプの位置もうちょっと下げた方が良くない?」

 木の棒を片づけるミランダの背中にフィリオが話しかけた。

「なに言ってんだい。下げちまったら人寄せにならないじゃないか」

「まぁそうなんやけどさ、なんか不便そうに見えて」

「それなら、あたしらみたいな背の低い《混ざり者》でも触らず消せるように、魔導ランプの方を変えちまってくれよ」

「あっ、それいい発想かも。意外にここの住人さんたちに小人種とか子鬼種の《混ざり者》けっこういるし良い案だと思う。今度試しに作ってみるよ」

「……冗談だったんだけどねぇ。まぁできるならやっとくれ」

 そう言って呆れを含んだ笑みで返したミランダはカウンターの奥へと帰っていった。

とはいえフィリオとてミランダと同じく小人種の血を引いている。それゆえ他種の成人たちに比べれば背が低い。それでも、彼女は小人種と角耳種との混血であることもあり、純人との混血であるミランダより額二つ分ほど背は高かったが、その程度の差など日常生活においてたいした差にもならなかった。

 自分の血を思えば、今年でもう二十歳になるフィリオも、きっとこれ以上背が伸びることはないだろう。

 ミランダのような純人と亜人、もしくはフィリオのように小人種と角耳種といった亜人同士の混血として産まれた者たちを総じて、人々は《混ざり者》と呼んだ。

 この《混ざり者》という言葉を蔑称と捉え憤慨する者もいれば、それ以上に自分自身の血筋に対して憂い、妬み、呪うほどまでに憎悪を抱く者たちもいたが、フィリオやミランダのように多くの《混ざり者》たちは、自分たちのことを《混ざり者》と呼ぶことに対して抵抗感を抱かなかった。

 角耳種なら長命だけれど身体的に貧弱、小人種なら身体的に強靭だけれど身長が低い、有毛種なら身体的に機敏だけれど動物に似た容姿をしている、鬼人種なら身体が大きく力持ちだけれど額に角が生え肌は赤や青と特殊な色をしている、等々……。

 血による幸もあれば不幸もある──純人であるか亜人であるか、純血であるか混血であるかにかかわらず、それは血が持つ特性の差でしかない。

 そうした個々の差を分かつように持ち合せ、混ざり合わせた《混ざり者》だからこそ、それらをただの個性と捉え受け入れられる寛容さが多くの《混ざり者》たちには備わっているのだろう。

「おはようございます、フィリオさん」

 カウンター越しに明るい声がフィリオに向けられた。

「おはよう。ナサリンは、あいかわらず元気やねえ」

「はい、今日もナサリンは元気です」

 フィリオの前に朝食のプレートを置きながら、ナサリンは朝一番の陽光のようにニコリと笑った。その口元には子鬼種に特徴的な牙のような犬歯がのぞく。彼女もまた純人と子鬼種との《混ざり者》である。

「ナサリンの笑顔、ほんまええよね。人が泣いてようが悩んでようがこれでもかって元気くれるみたいで、うちすごい好きやで」

「あれれ。なんかほめているように見せかけて、バカにしてる感じが、ほんのりと」

「いやいやいや、ほんまにそう思うてるんやって。元気も才能やもん」

「まあ、それなら良いんですけどねえ」

 あごに手を当てて、小芝居的に眉にしわを寄せてみせるナサリン。小首をかしげたときに癖っ毛の強い栗色の髪がゆれ、髪の生え際にぷっくりと生えたこぶのような小さな二本の角をちらりと可愛げにのぞいた。

「ほら! 元気なのはいいけど、口と元気ばっかり出してないで、早くお皿出しな!」

 ナサリンの後ろを通り抜けざまに、ミランダがその尻をぱしんと叩いた。

「はーい」

 フィリオに向けてウィンクをして、ナサリンは戸棚へと向かった。その背に小さく手を振り、フィリオもオムレツを一切れ口に運んだ。

 二人して似たような低身長のため二段ほど足場を高くしたカウンターの内側で、ミランダたちはそろそろ押し寄せてくる大量の客のため朝食作りに走り回った。ときに「あれ」や「それ」だけで会話を成立させ、必要な材料や調味料を言葉にせずとも相手の手元に準備する。そんな息の合った仕事ぶりは思わず感嘆すら漏れそうなほどだ。こうした阿吽の呼吸は、まるで長年よりそった母子のようである。

 しかし、当然ながらミランダとナサリンに血のつながりはない。純人の血が混じるという点では同じだが、ともに小人種と子鬼種でまったく違う種の《混ざり者》である。ちょっとした機縁から、ナサリンがこの食堂に住みこみで働きだしたのは数年前のこと。つまり、数年前までは顔さえ知らなかった赤の他人だ。それでもこうした阿吽の呼吸を可能にするほど、二人はそこらへんの母子よりも母子らしく見えた。

「はいよ。パン、お待たせ」

 そう言ってフィリオの前に置かれた皿には、パンが三つ。普段なら二つ。

「ランプのお礼だよ」

 フィリオが怪訝な顔を向ける前に、ミランダが先手を打つように答えた。

「そんな気い使わんでもええのに」

「そうかい、それなら一個は別の人の分にまわそうかね」

「いえいえ、そんな。ありがたくちょうだいいたしますよ、お姉さま」

 厚意へ返された厚意を無下にするほどの無粋もない。ミランダへの礼拝のポーズもほどほどに、笑顔で焼きたてパンに手を伸ばして、ご満悦に堪能するフィリオ。ミランダの焼いたパンは、あいかわらずとても美味しい。そうしてフィリオが二つ目のパンを食べ終わる頃には、すでに食堂の席は満員となっていた。

「まったく、ここは朝からうるさくてかなわないな」

 そう言いながらフィリオの隣に座ったのは、ロスグラン帝国から派遣されている政務執行官のコルド・ルーデンスだった。このような辺境の地に派遣されてこそいるが、生まれも育ちも帝都である彼は混じりけのない純血の純人である。だからこそと言うべきか、あまり特徴という特徴のない平凡な顔つきの、けれど少し神経質そうな印象を与える中年男性だった。

「コルドさん、おはようございます」

「ああ、おはよう。君はたしか、魔導具屋のフィリオくんだね」

「はい、ご名答です。朝は、いつもこの時間に?」

「いや、いつもここで食べてるわけじゃないんだがね」

「なに言ってんだい、いつものことだろ」

 いじわるく笑ったミランダが、すかさずコルドのパンと朝食のプレートを置く。

「む、いつもというのは正確じゃない。週に一度は来ないこともある」

「それを、いつもってんだよ」

 手をひらひらと振りながら背を向けたミランダに、コルドは小さくため息をついて首を左右に振った。

「ふう。ここの者たちは、何事もどうにも粗っぽくていけないな」

「はははっ。でも、たまにはそんな粗っぽさも魅力的に見えませんか?」

「見えていたなら苦労しないよ」

「うぅぅん、そうですかね。うちは好きやけどなあ。こういう粗っぽいというか何というか……こう、ゴーカイっていう感じ?」

「君は、仕事の丁寧さとその性格にひどく乖離があるようだね」

「いやはや、そうほめられましても」

「まったくほめてはいないのだが。まぁ、そういったところが特区ロクサンの住人たる所以なのだろうな」

 ──特区ロクサン。

 正式には、ロスグラン帝国指定管理居住区域・雲海生物特区第四〇六三号という。それが、フィリオたちが生活する居住地に帝国から与えられた正式な名前である。

 だが、それを生活上で耳にすることも目にすることもあまりない。

政務執行官ですら、日常的には「特区ロクサン」と略称で呼ぶほどで、正式名称は基本的に書類上で散見される程度である。

 それゆえ、住人たちには正式名称も「特区ロクサン」という名もあまり馴染みがない。しいてこの地を名のる必要がある際には、この空泳ぐ巨大亀のことを操獣者が名付けていることから、住人たちもまた親しみを込めて「サクラ」と愛称で呼んだ。

「ごちそうさまでした」

 食後のタンポポコーヒーを飲み干したフィリオは、手を合わせてから椅子を引いた。

「それではお先に失礼します、コルドさん」

「ああ、と。すまん、そう言えば」

 と口元を押さえて口に含んでいた物を飲みこんだコルドは続けて口をひらいた。

「唐突で申し訳ないのだが、執務室にある送話機の調子が最近すこし悪いようなんだ。また手の空いている時でいいから、見に来てもらえないだろうか?」

「執務室ってことは、たしか外線用でしたよね。けっこうお急ぎですか?」

「いや、こちらから外部に早々の用向きがあるというわけではないのだが、何かあった際にこちらに連絡が来ないのでは問題がある。出来れば早いにこしたことはない」

「そうですか、わかりました。では、なるべく早くにおうかがいするようにしますね」

「うむ、よろしく頼むよ」

 こうして不意に仕事の依頼を受けることがある。日々の生活の随所に魔導技術が使われている時代、サクラの上で唯一の魔導師であり、魔導具屋を営んでいるフィリオの役割は大きい。

「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」

 ナサリンに代金を渡しながら、フィリオは本心からそう告げた。

「おそまつさまでした。ところで、今日はこれからお店? それとも外回り?」

「シズクのとこに行く予定。あそこにある魔導具の定期検査に行くんだよ」

「あ、フィリオ。シズクのところに行くなら、ちょっとお待ち」

 フィリオに向けてカウンターの奥からミランダの大声が上がる。その場ですこし待っていると、フィリオの胸にミランダからバスケットが押しつけられた。ほのかに温かなそれは、おそらくできたてのパンやおかずが詰めこまれている。

「あの子、あんまりこっちに出てこないからまともなもん食べてないだろ? たまにはウチに来るように言っときな」

「ふふ。まるでお母さんみたいやね」

「やめとくれ。そんなこと言ったら、ワタシは何人子供かかえてることになるんだい」

「いいやないの。みんなのお母さん」

「みんなってことは、ゴウドじいちゃんのお母さんでもあるわけだ、すごい!」

 そう言って笑うフィリオとナサリンに、苦々しくひきつり笑いのミランダ。

 そんな、腹の中だけでなく、じんわりと心の中まで温めてくれるミランダ食堂の朝。

 まだ温もりの残るバスケットを抱いて、フィリオは店を後にした。


   * * *


 鳥類以外の空を泳ぐ生物を、人類は総じて雲海生物と呼んだ。

 ウモウエビ、トビイワシ、カミナリフグ、ソラシロイルカ、クモガクレシャチ……。

 それらは陸上生物とは一線を画するように特殊で、ときに不合理ではないのかと思えるほどに独特な姿態をしていた。

 そして、なにより、それらは空を泳ぐ。

 比喩ではなく、言葉どおりに空を泳ぐ。

 雲海の中を、すいすいと気持ちよさそうに泳ぎ、ふわふわと浮いている。それは人の力では未だ至れない、まさに魔法の領域。人類の隣人としてかなりの歳月を経てもなお、未知の領域にある生命体、それが雲海生物たちである。

 その中でもハクウンクジラやハナビラガメのように、人が生活の場とできるほどに巨大で、高度な知能を持ち、かつ意思の疎通が可能な生物が存在する。

 まるで花弁のような美しく透きとおった大きな羽根を、左右に五枚ずつはためかせて泳ぐハナビラガメ──それが、フィリオたちの住むサクラである。

 ハナビラガメの巨体の大半を占める甲羅、その中央には大きな窪みがあった。パン生地の中心を上からかるく指で押しこんで出来たかのような、ぽこっとへこんだ穴。その窪地にコケが根を張るかのごとく家屋を建てることで大空の強風から身を守り、人々はハナビラガメの上を生活の場としていた。

 しかしながら、高度な知能を持つがゆえにお互いの意思の疎通なくして、ハナビラガメとて安穏とその背に寄生しようとする者たちを許すわけがない。とはいえ、ハナビラガメに人語を介する意思疎通は不可能である。

 そこで白羽の矢が立ったのが、操獣者または紅玉の民と呼ばれる者たちだった。

 今からフィリオが向かおうとしている操獣塔、そこに住んでいるシズクがこのサクラにおける操獣者なのだ。

「シズクと会うんも、だいたい一週間ぶりになるかなぁ」

 居住区の端に造られた螺旋状の大階段を昇るフィリオは、何日ぶりにシズクと会うのだろうかと考えてぽつりと独りごとをつぶやいた。

 シズクは、基本的に操獣塔から出ない。いや、正確には出たがらなかった。

 べつに操縦者だからといって、ずっと操獣塔にいなければならないというわけではなかった。雲海生物とて生物であり、操縦者の指示などなくとも勝手に動いてくれる。そうした意味では、操獣塔を出ないのは単純にシズクの出不精が原因ということになる。

 「よっ!」と一声を上げ、自分の背丈と同じくらい大きなリュックサックを背負い直すと、フィリオは窪地の上を一路目指して階段を登っていく。

 階段を登った先には、物見台も兼ねた関門があった。そして、操獣塔へはその関門を出て、サクラの頭部付近まで行かなければならない。しかもその道中は甲羅の上を歩いていかねばならず、遮蔽物がないため風を直接的に受けるし、ごくまれではあるが小型の雲海生物が横切って行くこともある。

 関門と操獣塔の間に強固な鎖をつなぎ、そこに安全帯のフックを掛けて渡るという安全策を取っているとはいえ、人の恐怖心を根本的に拭えるものではない。それゆえ、理由もなく操獣塔を気軽に訪ねようとする者はあまりいなかった。

「すいませーん!」

 とくに息を切らすこともなく百段ほどの階段を上りきったフィリオは、門口に立って頭上の物見台に向けて大声を出した。

 数秒も待たずして関門の戸から顔をのぞかせたのは、守衛兼監視員のイバンだった。

 純血の有毛種でイヌ科と同形の耳をした聴力に優れたイバンのことなので、おそらく階段を上ってくる足音に早くから気づき、戸前で待っていてくれたのかもしれない。

「おはよう、イバンさん。今からシズクのとこに行くつもりなんやけど、安全ベルトお願いできる?」

 フィリオの言葉に小さくうなずき、イバンは戸を開けてフィリオを中に招き入れた。

 左足を軽く引きずりながらフィリオの前を歩くイバンは、過去にロスグランの帝都の衛兵をしていていたおりにその足を負傷したのだという。その後どういう経緯があったのか知れないが、いまはこうしてサクラの守衛として中老の年を迎えていた。

 イバンが手渡してくれた安全帯のベルトをフィリオは慣れた手つきで腰に巻きつけた。

「今日は、風があるから気をつけな」

 強面な上にいつも小難しげな顔をしているわりに、イバンは意外にやさしい。

「ありがとう。イバンさんは、顔に似合わずやさしいなぁ」

 それを臆することなく言葉にするあたりがフィリオらしさでもある。

「べつにそんなわけではない。単なる職務上の忠告だ」

「もう。この恥ずかしがり屋さんめ!」

 安全帯から伸びたフックを鎖に取りつけて軽口をたたくフィリオに、耳の裏をかきながらイバンが苦笑する。

「ところで、このあたりってこれだけ風が吹き抜けてるんやし、洗濯物を干したりしたらすぐ乾いたりするんやないの?」

「そりゃあ、乾くには乾くだろうが、風に飛ばされるのがオチだろうな」

「ふぅん、なんかもったいない気がするなぁ。なんかうまいことしたら、洗濯物屋さんとかできそうやのに」

「いったい門前で何をやらせる気だ」

「えぇぇ、心外やなぁ。副業として考えてあげたんやよ?」

 そこまでフィリオが言ったところで、早く行けとばかりにイバンが追い払うようにシッシッと手を振って見せた。

「もう。そんな邪険にしなくてもいいやんか。それじゃ、いってきます!」

 そう宣言してフィリオは何の躊躇もなく関門の外へと跳びだした。その背中を見送るイバンの顔は孫を見送る祖父と同じだった。

 正門の外は風が吹きすさび、フィリオの長い銀髪が空にふわりと広がった。

 安全帯に付いた二つのフックを交互に前方の鎖輪に掛けかえながら、フィリオはひょいひょいと甲羅を降っていく。

 カチャ、カチャとリズミカルな音が、吹き抜けていく風にさらわれて空に消えた。早朝に風車の上で受けた風に比べればいくぶん強まっていたが、かといって足を取られるといったほど強いわけでもない。

 フィリオにしてみれば、大きなリュックサックが向かい風を受けて、少しばかり進みづらいかなと感じる程度である。

(なんか冒険してるみたいで楽しいのに、なんでみんな嫌がるんやろ?)

 と心の中で不思議がるフィリオだったが、操獣塔の前に着くまでに、自分の感性を疑ってみるという発想には結局いたらなかった。


 操獣塔の前は、今日も静かだ。

 サクラの頭部付近には、操獣塔以外の建物は何もない。

 ここは隣人なき場所──いや、正しくは唯一の隣人がサクラだけの場所である。

 居住区に建てられた家屋と違って風を直接受けるため、操獣塔は基礎も甲羅に深く打ち込まれ、しっかりとした石レンガ造りをしていた。それが来訪者にどこか冷たい印象を与える。

 分厚い木戸についた無骨なノッカーを、フィリオは三度打ちつけた。

 ……なんら反応はない。

 もう一度ノッカーを打ちつける。今回は先ほどより力強い音が辺りにひびいた。

 しかし、数秒待てども、なんら反応はない。

「……ぜったい寝てやがるな、あいつ」

 今日の朝に訪問することは、昨日のお昼頃に送話機で知らせてあった。そのときには「わかった」とシズクも言っていた。それは確実である。

 つまり、シズクは約束を忘れて眠っているということだ。

 ふう、と大きなため息を吐いて、後ろ手にリュックサックへ手をつっこんだフィリオ。取り出した手に握られているのは、L型に曲がった丈夫そうな金属製のものさし。それを木戸と石レンガの壁の間に差し入れると、器用に止め木のかんぬきを押し上げた。

 何度も同じことをしているために、すでにコツを掴んでいる様子がその姿には如実に表れていた。つまり常習犯である。

「おじゃましまーす」

 そう言って悪びれる風もなく、フィリオは木戸を押し開いた。

 踏み場もないほどに本やら空き瓶やら種々雑多な物が散らかった屋内を、頭上の採光用の窓から射しこむ光がやわらかく照らしていた。

 開いた戸に押された小瓶が、ころころと転がって壁にコツンと当たった。

 踏んでも支障がなさそうな場所を足で押しあけながら、フィリオは家主のもとを目指して荒野を行軍していく。一路目指すは、前方のベッドでこんもりと膨らんだ小山。

「シッズクゥゥ!」

 そう叫ぶが早いか、フィリオはベッドに向かってダイブした。

「ぐえ……」

 フィリオの下敷きとなった布団の下から、つぶれたカエルのような声がした。

 そこでふと背中が重たいなと思ったフィリオは、今さら自らが重たいリュックサックを背負っていることに思いいたる。

 しまったという顔で、フィリオはそっとベッド脇に寄ると布団を持ち上げてみた。

 そこには枕に半ばほど顔をうずめて、恨めしげな三つの眼がフィリオを見ていた。

「……ええっと。おはよう?」

「……ほかに、言うことは?」

「ごめん、ください?」

「……はい、いらっしゃい。もう一声」

「ごめん、あそばせ?」

「あんたはお嬢さまか。だめ、もう一回」

「ごめん、こうむる?」

「──こうむるなよ!」

 と叫ぶや布団を跳ねあげたシズク。掛け布団がかるく宙を舞った。

「おお。朝からシズクのテンションが高い!」

「誰かさんのおかげで爆上げだよ、こんちきしょう!」

 ぷりぷりと怒ったシズクが枕を投げた。

 ぽふっと顔に当たった枕をフィリオは胸で抱きとめる。

「もちろんつぶしてもうたことは謝るで。ごめんな」

 そう謝りつつもフィリオは枕をシズクの顔に当て返した。

「でも、シズクかて悪いんやで。朝に行くって昨日言うたのに起きてないんやもん」

「たしかに朝とは聞いたけど、この時間は早えーよ」

「ぜんぜん早くないやんか。あっちのみんなはもうだいぶ前から起きてるで」

「あっちはあっち。こっちはこっち」

「いやいや。あっちも、こっちも、どっちも朝やで」

 ふいに飛び出した、ちょっとリズミカルな一節に、ちょっとの沈黙がおりる。

「ふふふっ」と、どちらからともなく二人は笑っていた。

「なんだよ、それ。くくっ……」

「もう。ほんなことより、うちが来るんわかってるんやから、ちょっとは片づけといてや。お仕事できへんやんか」

 ひとしきり笑ってから、フィリオはベッドから下りるとリュックサックを置くために床に適当な空きスペースを作った。

「それが逆なんだなぁ。フィが来るのがわかってるからこそ、片づけないのだよ」

「……? うち、べつに片づける気ないで?」

「こらこら、遠慮しなさんな。前はせっせと片づけてくれたじゃん?」

「ほらぁ、前は遊びに来たんやから片づけくらいしたげるで。でも、今日はお仕事やし」

「えええぇ、そんないけずしなくても……」

「いけずやのうて、教育的指導やでぇ」

 そんな軽口を叩きながらも、フィリオはてきぱきと仕事の準備に取り掛かる。

「あ、忘れるとこやった」

 リュックサックから取り出したバスケットを、フィリオはベッドの隅に置く。

「なに、それ?」

「宅配サービス。ミランダさんからの贈り物」

 そう言ってバスケットを開けて見せると、中にはトビイワシのオイル煮やキャベツの酢漬けが入った小瓶、そしてパンが入っていた。

「うわっ。なんかすごく申し訳ないな」

「そういうときは申し訳ないと思うんやなくて、ありがとうって思うべきやと思うよ」

「たしかに、うん……そうかもしれない。あ、お金わたしておくよ」

「あかんよ。うちは受け取らんから」

「また、そんないけずなことを」

「ちゃうちゃう。またこっちにシズクが来て、自分の手でミランダに直接渡すんが大切やと思うからやもん」

「……そうやって、いつも変に正論ばっかり言う。ほんと、フィはいけずだよ」

「いけずやのうて、教育的指導やでえ」

「……それ、もうわかったから。でも、せめてありがとうって、ミランダさんに伝えておいて」

「うん、もちろん」

 シズクが朝食をもしゃもしゃと食べている間に、とりあえずフィリオは作業する場所を作るため、まずテーブルの周りや据え置き型の計器類の周囲を最低限片づけにかかった。

 なんとなくシズクの思惑にのせられているような気もしなくはないが、仕方がない。

 そんなフィリオを尻目に、ベッドの端に腰かけておいしそうにパンを頬張るシズク。その額にある第三の眼も、どこか満足げに細まって笑っているように見えた。

 第三の眼──それは、三眼種の額にある、横開きの紅色の瞳のこと。

 三眼種は、亜人の中でも数の少ない種であり、他種との交配が成立しない種としての特性があるため《混ざり者》も存在しないという、純血だけの稀少な種である。

 そして、シズクたち三眼種をなによりも特殊な存在たらしめているのが、彼女たちの持つ精神感応という力にある。

 精神感応または思念交流と呼ばれる三眼種の特殊な能力は、言語を使用した他者との直接のやりとりを介さずして意思の疎通を可能とする力であり、それは人のみに及ばず等しく知能を有するものたちにも効力を発揮する強力なものだった。つまり、この力によってシズクはハナビラガメのサクラと意思の疎通を行い、雲海を航行する操獣者たる役割を担っていた。

 しかし、それだけ強力な能力は持たざる者たちに、ある感情を与えた。

 ──心を読まれる。

 いつか、どこかで、誰かが発したこの一言は、いつしか三眼種を忌避の対象とした。

 たとえ、それが誤解の産物であったとしても、すでに人心の澱の中に埋もれてしまった感情を今さらきれいに拭い去ることが果たして可能だろうか。畏敬と恐怖、敬いと妬み、有用と有害、そうした近しくもさかしまな感情が、今も三眼種たちの前には横たわってしまっていた。

「ねえ、すごく今さらなんだけどさ」

 キャベツの酢漬けを食べた指をペロッとなめて、シズクがフィリオに話しかけた。

「今さらなことって、なに?」

 対物探知機の外装を取り外して点検する手を止めず、フィリオは背中で問い返した。フィリオの手元では魔導回路が青白い光を淡く放っていた。

「フィは、なんで私のこと怖くないの?」

「ん? なんで、シズクが怖いん?」

「だって、心の中が読まれるかもしれないって、みんな思ってるよ」

「ほんまに、今さらって感じの話やなぁ」

 ちらりとシズクの方を見てから、また作業に戻ったフィリオは答えた。

「シズクに伝えたいなあって、うちが思ってることしか伝わらんやん?」

「うん、そうだけど……」

「しかも、シズクがうちに触っておかんと何もわからんやん?」

「まあ、そうですけど……」

「だったら、それでなにが怖いん?」

「だって、みんなは……」

「それとも、そうやってシズクが教えてくれたことはウソなん? みんなが正しいん?」

「──っ! そんなわけないじゃん!」

「だったら、なにが怖いん?」

「…………」

 口を一度小さく開けたあと、シズクは黙りこんでしまった。

 外で吹く風の音がいやに大きく部屋の中にまで聞こえてきた。

 ふぅと盛大なため息を吐きだしたフィリオは解体した魔導具を置き、足もとに転がった物も気にせず、ずんずんとベッド脇へと進んだ。その足がシズクの前で止まる。三つの眼が不思議そうにその姿を見上げた。

 にこっと笑い、シズクの顔をやさしく包みこむように両手でつかんだフィリオ──と同時に、しっかりとその頭を固定する。

 瞬間的にシズクは危険を察知した、がすでに遅かった。

 ゴツンッ、という重たい音。フィリオの頭突きがシズクの頭頂部に直撃した。

「いったい!」

 眼尻に涙を浮かべて、シズクは抗議の視線をフィリオに向けた。

「……心の中、読んでみ」

 瞳を閉じてシズクの頭に額を押しつけたまま、フィリオが静かに語りかけた。

 不満顔を隠そうともしないまま、シズクは両目と紅色の第三の眼をゆっくりと閉じた。

『ごめんな、痛かったやんな』

『ほんっとに、痛かった! 目から火が出た! 死んだかと思った!』

『おおげさやなあ。でも、うちも痛かったから、おあいこやで』

『自分でやっておいて、おあいこも何もないでしょ!』

『その前に、うちを叩いたんはシズクやもん』

『叩いてなんかないじゃん!』

『さっきのシズク、友達のこと試すみたいなこと言うてた。それって、人のこと叩いて反応見て、その人を値踏みしてるんと一緒なんやで』

『……え』

 そこでシズクの頭を包みこんでいた温かな両手と額が離れた。

「ほらっ。痛かったけど、怖くなかった」

 そう言ったフィリオの満面の笑みに、シズクはどう返したらいいのか分からず、いまにも泣きそうな、けれど恥ずかしくも嬉しそうな、そんな不思議な笑顔をうかべた。

「それにな。シズクの言うみんなは、ここに住んでるみんなではないよ」

 やさしく微笑んで差し出されたフィリオの小さな手を、シズクはそっと握った。その手をぐっと握り返して、フィリオはシズクをベッドから立ち上がらせた。

 二人が並ぶとシズクの方が頭一つ分大きく、見た目にしても年下でありながらシズクの方がずいぶんと大人びている。

 だが、こうして差し出してくれるその小さな手が、実はどれほど大きなものなのか、シズクはいつも思い知らされてばかりだった。

「せやから、これからみんなのこと、もっと見てあげて」

 そう言って、はにかむように笑うフィリオに、シズクは同じくはにかんだ笑みを返して、小さくうなずいた。


 ──そのとき、ブォンブォンという重低音が部屋にひびいた。


 すでに動作点検も終わっている対物探知の魔導具の前に駆け寄ったフィリオが、怪訝そうに眉を寄せて地図や羅針盤、魔素観測器等を見比べた。

「この辺りに浮遊島があるなんて聞いたことある?」

 傍まで寄ってきていたシズクにフィリオが問うた。テーブルに広げた地図の一点をその指がさしていたが、そこにはなんら表記のない空白があった。

「ううん、どうだろう。私は聞いたことないけど」

「そうやんなぁ、うちもぜんぜん聞いたことないし。かというて、魔導具の故障でもなさそうやし……。とりあえず、サクラに少しだけゆっくり航行するように言うといて」

「わかった。ついでにサクラにも聞いてみるよ」

「うん、お願いそうして」

 うなずいたシズクは、さっそく床板に取り付けられた小さな扉を開けてサクラの肌に触れた。三つの眼を静かに閉じたシズクの周りには、どこか触れがたいような静謐な空気が広がった。

 少しばかり眼前の魔導具たちとにらみ合いをしていたフィリオだったが、唐突に望遠鏡を手にして屋上へとつづく梯子を昇った。その勢いのまま天井扉を押し開き、頭の中の地図を頼りに未確認浮遊物を探して望遠鏡を覗きこむ。

 辺り一面を覆い尽くす雲海の中、目的物を探すことはむずかしい。なにより、今回の浮遊物はサクラより下方の雲海内部にあるようだった。

 だがそんな心配をよそに、すぐにフィリオの目はある一点に集中した。

そこには、渦巻くようにうすい雲が立ち上げて、雲海の一部に凹みを作り出している個所があった。望遠鏡の倍率を上げて、その中心部に焦点を当てていく。細めていたフィリオの眼が、なお眉を寄せて細められたあと、ぱっと開いた。

「──あ、浮遊島だ」

 あっけらかんとしたフィリオの声。

 その声は、吹き抜けていく風にさらわれて、すぐに空のどこかに消えてしまった。



   Ⅱ.



「──では、まず確認として、帝国への報告を行う前に我々の手で調査をする、という方向でよろしいか?」

 ここは、サクラの居住区にある帝国特区管理局の一室。

 サクラ──正式名称、ロスグラン帝国指定管理居住区域・雲海生物特区第四〇六三号の監督権を持つ特区長ヒース・ゴルドランの一言に、帝国から出向している政務執行官のコルド・ルーデスンスは首肯して答えた。

 会議には、自警団長のモートレッド、最年長にして相談役のオーバン、そして発見者であるフィリオが同席した。

 本来ならば、末席とはいえ帝国貴族たる特区長の邸宅に赴くべきところだが、ヒース自身が他者をあまり私邸に入れたがらないこともあって、普段から会議等のおりは、こうしてコルドが駐在する帝国特区管理局を利用することが多々あった。

「……ふむ。それでは状況についてだが、たしかその浮遊島には建造物のような物が見えたということだったね、フィリオさん」

 あごひげを撫でながら柔和に微笑んだヒースが、第一発見者に詳しい報告をうながした。

「はい、たしかに正体不明の浮遊島に石造と思われる建造物を確認しました。一見しただけでも、建物の構造は現在の一般的な様式とはかなり異なったものと見受けられました。ただし、遠くより確認できるだけでも、すでにその大部分が倒壊していることがわかっています」

「倒壊しているとはいえ、現在の帝国文化圏とは違う様式で建てられた廃墟であることがわかる、と……その他、目立った建物などは見られなかったのかい?」

「はい、とても小さな浮遊島ですので全容をうかがうのは容易であり、その建造物の他は数本の樹木が見られただけでした」

「すでに雲海生物の巣になっている、というようなこともなさそうなのかい?」

「はい、遠方からの、それも大まかな確認しかしておりませんので、不確かな部分もありますが、視認した範囲において危険な雲海生物等は認められませんでした」

「ふむ、では直接確認した君の所感として、その浮遊島はなんだと思う?」

「はい、誠に申し訳ありませんが、これといった断定しうる情報が少なく、判断するに困難であると言わざるをえません。ですが、おそらく雲海の深層部において停滞していた浮遊島が、何らかの事由により浮上してきたのではないかと推測することはできます」

「であれば、かなりの時を経た古代の遺物の可能性もある、ということかな?」

「はい、もし先ほどの仮説が正しいのであれば、《黒明の刻》以前、またはそれに準ずる物である可能性もあります」

「……と、いうことだが、コルド政行官はどう思うね?」

 ヒースとフィリオの会話を、すばやい筆致により記録していたコルドが手を止めて、小さくせき払いをしてから口を開いた。

「はい、現在確認できている範囲では、帝国の記録にこの雲海域における浮遊島の存在は確認できておりません。それゆえ、憶測の域を出ないとはいえ、フィリオ氏の意見に疑義をはさむ余地はないものと思います」

「なるほど。ただし、この推測が正しく《黒明の刻》以前の遺物であったとすれば、当該浮遊島は相応の価値を有するものということになるが、帝国としてどのように判断される?」

「はい、仮にそれだけの遺物であったならば、浮遊島を含めたすべてを帝国が接収の上、調査および研究の対象とすることになると思われます。そのためにもまず事前に調査を行い、帝国本部への報告をまとめる必要性があります」

「では、現在は、第一発見者である我ら特区の領有ならびに所有権が認められているということでよろしいのか?」

「はい、法規上は、正式な登録がなされるまでは、第一発見者に雲海浮遊物の一時的であれ領有権ならびに所有権が付与されます。特別の権利者が自領地として領有権を有するような雲海域であれば別ですが、この雲海域はそれに該当しないため、そのままの処理がなされることになります。これは居住可能な浮遊島であっても同様に適用されると考えられます」

「やはり、その口ぶりからして、このような未確認の浮遊島が発見されることは帝国としてもあまりないのだね?」

「はい、私の浅薄な知識では近年聞き及んだことがございません。私見ではありますが、大航海時代以降、雲海上に人の目が届かぬ場所も少ない現状、なかなか新発見もないものと思われます」

「まぁ、そういうことになるのだろうね。さて、ここまでの話をお聞きになって、オーバン翁はどのようにお考えになりますか?」

 今までの成り行きをどこか楽しげに眺めていたオーバンが、白毛の眉を上げてヒースの顔を見た。齢八十に迫ろうという、純人と有毛種の《混ざり者》であるオーバンは、そのタヌキに似た顔を柔らかに崩して言葉をつむぐ。

「長生きすればいろんなことがあるもんだが、なかなかに珍妙な事態に出くわせたものよな。もう少しワシも若ければ、若気の冒険心がここぞとばかり燃えておっただろうよ」

「そうですね。たしかに、未知との遭遇は常に我々に好奇心を与えてくれるものです」

その場にいる者たちが内心で思っていた心情を言葉にされたことで、全員の口元が苦笑ぎみにゆるんだ。

「だがの、若さゆえの冒険心は、いつも人を盲目にさせてしまいがちだ。たとえば、もし浮遊島の中に、人が──言うなれば古代人が生きておったら、どうするつもりだね?」

 そこで、不意に放たれた言葉の一矢に、出席者たちの注意がオーバンに集中した。

「領有権だなんだと勇んで言っておるがの、いくら古代の浮遊島とて過去に人が作り上げた物にちがいない。いまもなお誰かの物であるということを忘れてはおらんか?」

 オーバンの言葉にしばし眉をひそめて思案した後、ヒースがコルドに問うた。

「コルド政行官、翁が言葉にされたことが現実となった場合、我々としてはどのようなことが想定される?」

「はい、たとえば古代人と呼びうる何者かが、まだ浮遊島に生存していた場合ということですか?」

「ああ、それでかまわない」

 ヒースの質問に少しばかりの一考を持って、コルドが答えた。

「はい、現行法を前提とすれば、当該浮遊島の先住民が帝国民ではないということをもってしても、その占有的な居住権を侵害することは、正当な理由なくして禁じられます。ですが、古代人という現行法の枠外にある存在に対して、現行法をどのように適用するのか、そもそも適用することが可能であるのかどうか、その判断を私が行うには困難な事案であると考えます」

「つまり、先住民が存在した場合の対応はどうなる?」

「はい、もし対話が可能であれば、その場では今後の対応について双方の意思を伝達し合った上で、こちらは帝国本部に早急に連絡することになるかと思います」

「対話が不可能であった場合は?」

「はい、それは相手方の出方にもよるとは思われますが、第一には身柄の保護を優先的に行うようになるかと思われます」

「ふう……まあ、状況から鑑みるに、そう可能性の高いことではないと思うが、そちらの方向も想定した上で、君も対応策を考えておいてくれ」

「はい、承知しております」

 そこでヒースは目をつぶってため息を吐きながら首を振った。そして、自警団長を務めるモートレッドに目を向ける。

「と、いうわけだ。自警団の者たちにも活躍の場があるかもしれない。想定される範囲でかまわない、十分に注意して調査に同行してやってくれ」

 その言葉に、モートレッドは大きく頑強な体を折り曲げるようにして、恭しく一礼することで応えた。

 その後、フィリオから浮遊島の魔素濃度や島の外部強度の想定値等の報告を経て、調査団の人選および上陸方法や日時などが打ち合されると、準備に取り掛かる者たちがいるため早々に会議は解散となった。


   * * *


 ゆっくりと眼前に近づく、未開の地たる謎の浮遊島。

 その姿が近づくごとに高鳴る胸の鼓動を抑えきれず、接岸用の空泳船に乗ったフィリオは、そわそわとした様子で目的地の細部に目を走らせていた。

 朝方にフィリオによって未知の浮遊島が発見されて以降、去りゆく風のごとく振りかえる間もないうちに事態は進展していった。

 島を発見してから数時間と経っていないのに、いつのまにか調査団の一員として空泳船に乗っている自分の現状を顧みるに、フィリオ自身すくなからぬ驚きを感じていた。

 しかし、そうした驚きや戸惑いといった感情はフィリオだけでなく、空泳船の他の乗組員においても大同小異である。

 政務執行官のコルドを中心に、サクラに駐在している学者ドゥーレオ、自警団からはモートレッドとオルトバン、そして第一発見者であり魔導師であるフィリオの計五名が調査団として召集された。この調査団は相談役のオーバンの意見を参考にして、ヒースの名の下に編成された。

 だが、そうして調査団が結成されたはいいが、皆に通達があった二時間と経たぬうちに彼らはすぐに応召され、数分程度のミーティングを経たかと思うと、もうすでにその身は船の上という性急さだった。言い換えれば、それだけ未確認の浮遊島発見は一大事なのだということができる。

「ほんとうに、あの島の周りに吹いている風は大丈夫なのか?」

 どこか心配げな声を上げたのはドゥーレオである。

 純人として見れば三十歳前後に見える外見こそしているが、長命な角耳種との《混ざり者》であるため、実際には六十歳を超えた人物だったりする。

 彼がどのような経緯があってサクラに住みつくことになったのか知れないが、古代および近代の技術研究を行う上で雲海生物のように世界中を渡ることは有益なのだと語るのをフィリオは聞いたことがあった。あまり人好きする人物ではないうえ、どこか人を避けるようなところのあるドゥーレオのことを詳しく知る者はあまりいなかった。それでも同じ角耳種の《混ざり者》ということもあってか、フィリオにはどこか他の者たちとは違った一面を見せた。

 そんなドゥーレオが心配するように浮遊島を周回して吹く風は、島の周囲の雲をすり鉢状に落としこんで渦巻き、一目には危険なように見える。

「うん、大丈夫。実際の風速としては見た目ほど強くもないし、魔素濃度も規定値内やから問題ないよ」

「フィリオがそういうのだから大丈夫なのだろうが、やはり身構えてしまうな」

「前から思ってたけど、ドゥーレオさんってけっこう心配症やね」

「年をとったら、フィリオにもわかるさ。だいたいの年寄りがそうなるんだよ」

 不安そうなドゥーレオを尻目に、空泳船は旋回する風の壁を抜けて、すり鉢状のゆるやかな穴に入っていった。

 吹きまわる風はけっして強いものではなく、船の進行にもまるで支障はなかった。

 それに、たとえ島への道中で進退きわまったとしても、サクラから長く丈夫なワイヤーが船尾につなげられているため、それを巻き上げることで緊急時には帰還が果たせるように次善の策は講じられていた。

 だが、人が、雲海上であまりに脆弱な存在であることはなんら変わらない。

 たとえば、すこし大きな雲海生物が船体に体当たりなどしようものなら、フィリオたちの乗った小型の空泳船など容易に転覆してしまうことだろう。いくら安全ベルトをしているとはいえ、絶対の安全など保証されていない。

 そして、もし雲海に放り出されれば、その者に待ち受ける運命など語るまでもない。

人は雲に乗れない──その摂理こそが、この雲海に満ちた世界において、何よりも人の脆弱性なのである。つまり、人にとって雲海を渡るということは、死を常にとなりの同行者にしていることに等しい。

 それゆえ、モートレッドたち自警団員のように前方の浮遊島だけでなく、上空や雲海内に意識を集中し、不意の危機の襲来にそなえて緊張した姿を示してこそ正常なのであり、フィリオのように近づく未知の世界にばかり興味を示している者の方が異常だった。

 そうして次第に浮遊島へと近づいていく途上、声量を増幅する魔導具を使ってコルドが船上から何度か声を上げたが、島から返ってくる反応はなんら見られなかった。

「……やはり、先住民などいないのだろうな」

 そう独りごちたコルドの顔には安堵したような、けれどどこか落胆しているようにも取れる不思議な表情が浮かんでいた。

 その後もこれといった障害はなく、調査団を乗せた空泳船は浮遊島に無事接岸した。

 モートレッドの手を借りて空泳船から降りたフィリオは、踏みしめるように割れた石畳の残骸に足をのせた。第一発見者ゆえなのか、不思議な感慨が胸にこみあげた。

 調査中に船が風に流されないよう陸揚げし、自警団員が固定用のアンカーを打ちこむ作業にかかった。その間にコルドは白煙灯を上空に向かって掲げた。サクラに残る者たちに無事上陸したことを報せるための合図だった。幸いにも浮遊島の周辺と違って島内は無風に近いほど凪いでおり、白煙は上空に向かってまっすぐに伸びていった。

「ねえ、ドゥーレオさん。これ見て」

 一方、船の近場を見て回っていたフィリオは島の岸辺を指さして、同様に興味深げな目を周囲にくれていたドゥーレオに声をかけた。その指の先では、岩肌の見えた地面に細かな亀裂が走り、樹木と下草の根が宙に浮いて風に揺れていた。

「ここらへん、なんとなく最近になって崩れたって感じに見えへん?」

「うむ……陸地の岩に比べ、岸壁はあまり風化していないように見えるな。たしかに崩落して日が経っていないのかもしれない」

「ってことはさ、もしかしたらこの島が雲海の中から浮き上がって来たんは、島がけっこうな範囲で崩れて軽くなったんが原因、っていう風に考えられへん?」

「なるほど、その可能性は十分に考えられるだろう。ただ魔導技術における問題として、浮遊島の揚力というのは自重が軽くなればそれだけ高まるものなのか?」

「雲海への浮揚技術自体が魔導式で再現できてへんから確実とは言えんけど、過去の実験結果だけでいえば変化するみたいやで。かといって、この浮遊島がどの時代のどんな技術で浮かんどるんか分らんから何とも言えんけど」

 フィリオは苦笑気味に笑ってちろっと舌を出した。

「そろそろ建物の方に行こうと思うが、どうかしたのか?」

 背後からコルドが近づいて、岸辺に立っていた二人に話しかけた。

「いや、この島がどうして今頃になって浮上してきたのか、ちょっとした仮説をフィリオから聞いていたんだ」

「ほう、それは興味深い。その件については詳しくわかり次第、あとで報告してもらえるかな、フィリオくん?」

「もちろんかまいませんけど。でも、単純に島が崩れて軽くなったからかもしれないねって話だけですよ?」

「……島が崩れて、軽くなった?」

 そこで、コルドはフィリオたちの立った先にある岸壁に目をやった。

「ということは、いまも崩落の危険があるということではないのか?」

「ああ、そういえばそういうことになりますね」

 今さらはたと気づいたとばかりに、フィリオはノーテンキに答えたが、となりに立った二人の顔がひきつった。

「──みな、ただちに調査を開始するぞ!」

 どこか焦りを含んだコルドの号令が辺りにひびく。

目的の建造物に向かう調査団員たちの足取りもすこし足早になり、その表情にも緊張感が増したように見えた。ただし、その中でも一人の少女を除いて、という但し書きを添える必要はあったが……。


 彼女たちの眼前にあるそれは、言葉どおりに廃墟と呼ぶに相応しかった。

 建物の出入り口だったのだろう正面の壁の空洞は、その半分ほどが倒壊した瓦礫に埋もれ、屋根の七割ほどはすでに崩落してしまっていた。

 きっと倒壊前には訪問客に悠然としたその巨躯を誇示してみせていただろう遺構も、いまでは路傍に横たわる捨て犬のようにうら悲しい。

 警戒しつつ先行するモートレッドの足元で、ジャリっという音がした。屋内へとつづく空洞の前は、瓦礫に混じって風化してうすく濁ったガラス片が散らばっていた。

「ここはきっと大きなガラス戸やったんやろうね」

 比較的大きなガラス片を拾い上げて、フィリオがぽつりと言った。

「そうかもしれないが、この雲海の上でこんな大がかりなガラス戸を設置するなど、狂気の沙汰と言わざるをえないがな」

 手にした魔導ランプに明かりを点けながら、コルドがめずらしく冗談めかして言った。

「とはいえ、だからこそそうした雲海上での常識など存在しない時代に建てられた物かもしれない、という推測もたつわけだが……」

「ああ、その推測どおり、これは地上で作られた物である可能性は十分にあるだろう」

手ごろな大きさの瓦礫を一つ持ち上げて観察しながら、ドゥーレオが口を開いた。

「建材として使われているこの混合土による人工の石材だが、あきらかに現在製造されている物よりも重たい。こうした重量のある石材は、地上世界における古代文明の遺物の特徴だといえる」

「では、この浮遊島は地上世界の文明の遺産だということですか?」

「さあ、現時点で確証などできようもない。ただ、この建物は地上世界における文明の遺物かもしれないという可能性だけの話だ」

「ねえ、でもさ、地上世界の文明ってことは、《黒明の刻》以前に造られたものってことになるんよね?」

「そうだな。《黒明の刻》以前か、またはその直後といった場合もあるだろう」

そう言いながら、ドゥーレオは手にしていた石をカバンに入れ、次にフィリオに向かって布の載った手をさし出した。その上にフィリオがガラスを置くと、そのまま布に包んで同様にカバンへと収めた。

「ただ、いかんせん地上で栄えていた古の文明について、未だに私たちは何も知らないでいる。いや、どれだけ知っていないのかさえ知らないままだ。むしろ、そうした知識は、地上に住む魔人どもの方がよほど持っていることだろう。そういう意味では、正当な古代人の生き残りは奴らなのかもしれんな……」

「そんな悲観的にならんでも、知らへんって良いことでもあると思うよ? だって、知らへんことがたくさんあるって、まだまだ知れることがたくさんあるってことやんか。それって、知れる楽しみがまだたくさん残ってるってことでもあるもん」

「ははっ……本当に、フィリオは良い性格をしている。それこそ、うらやましくなってしまうくらいに」

「てへへ、そんなにほめなくてもいいのに」

 はずかしげに笑ったフィリオの頭に手を置いて、ドゥーレオは孫ほど年の離れた彼女を温かくも寂しげに見やった。

「すいません。ドゥーレオさん、ちょっとよろしいですか」

 すこし離れた先で魔導ランプをかかげたモートレッドがドゥーレオに声をかけた。その呼び声に応えて、ドゥーレオとコルドがモートレッドのもとに歩み寄った。

 一人残ったフィリオはうす暗い屋内を、あらためて見渡してみる。

 屋根の崩れ目から射してくる日の光に、舞い上がった小さなほこりがきらめいた。久方ぶりの訪問客にほこりたちが喜んで踊っているかのようだ。

 部屋を見回していたフィリオの眼が、ふと一点に止まった。その眼の先には、山積みの瓦礫の隙間に、奥へと続いていそうな空洞があった。近づいてみても、まっくらな闇が寝床にしている様子がわかるだけ。フィリオは身軽に瓦礫の山を登って、穴の中に魔導ランプを差し入れて覗きこんでみた。

 やはり、そこにはまだ建物の奥につづく通路が隠れていた。

「フィリオさん、あまり一人で先行しないでくださいね」

振りかえると、出入り口の前に立って全体に目を配っているオルトバンの困り顔があった。まだ自警団員になってあまり日こそ経っていなかったが、団長も信頼をおいた若手である。

「うん、わかってる。ちょっとのぞいてるだけ」

 瓦礫の端に手をついて、ランプを持った手をオルトバンに向けてひらひらと振りつつ、楽しげに笑ったフィリオ。その姿にオルトバンは苦笑を返した。

「あっ。フィリオさん、うしろっ!」

 いたずらっぽく笑ってこそいたが唐突にかけられたオルトバンの声に、フィリオも反射的に後方を振りむいしまった。


 ──その瞬間、手をついていた瓦礫が穴側へと崩れた。


 最後に見たのは、驚愕した顔のオルトバンが彼女に向かって走り出す姿だった。

軽くなる身体。

 崩れていく瓦礫の無機質なのに動的で大きな音。

 真っ暗だった天井に、魔導ランプの明かりがゆらゆらと影を映した。

 このときになってやっと自分が落ちているんだという実感がわく。

 その自覚を待っていたかのように、すぐに尻を地面に打ちつけた痛みが全身を駆けた。

 つぶった目の奥が真っ白になった。「痛い!」と叫ぼうとしたはずなのに、その声は開いた口の奥から出てこられなかった。


 ──なにせ、口を開こうとした次の瞬間には、尻もちをついた地面が崩れたのだから。


 ふたたび軽くなった身体。

 今度は、崩落する音もあまり聞こえなかった。

 どんどんと遠くなり、暗くなっていく天井。

 また落ちてるんだなぁ、というどこか他人ごとのような感覚でそれを見つめた。

 二度目の浮遊感に慣れてしまったのか、あるいは心構えがあるからなのか、なぜか身体に緊張はなかった。さっきよりずっと長い浮遊感がつづく。

 そして、ついに衝突の瞬間がやってきた。

「──ぐえ!」

 今朝方、別の人物の口から漏れだした声と同じ、つぶれたカエルのような声。

 しかし、想像していたよりも、ぜんぜん痛くなかった。それは、背中のもりもりに物を詰めたリュックサックが下敷きになってくれたおかげだった。くわえて不幸中の幸いだったのは、彼女の上に大きな瓦礫が落ちてこなかったことである。

 落ちた世界は、常闇と呼べるほどに暗く、全てを飲みこむほどに静かだった。

 そんなフィリオだけの孤独な世界に、頭上から大声が降り注いできた。

「……ィリオ! フィリオ! 大丈夫か!」

 見上げれば、天井を背景にして覗きこむモートレッドの顔が見えた。

 すぐに声を上げようとしたがうまく発声できなかったため、何度か咳をしたり唾を飲みこんだりして喉を元気づけ、フィリオはやっとの思いで叫び返した。

「うぅ……うん! だいじょうぶだよぉ! へぇーきぃ!」

「本当に大丈夫なのか! 怪我して動けないとかないのか!」

「うん、ぜんぜん問題ないよぉ! うち、けっこう丈夫やからぁ!」

 その言葉どおり、フィリオにこれといった怪我はなかった。

 事実、小人種は子供のような見た目に反して、他の種に比べ非常に頑丈だった。小人種の子供っぽい背丈に加えて、角耳種に特有のはかなげで華奢に見える容姿をしたフィリオだったが、その実は存外に打たれ強く丈夫な身体をしているのだ。

「それなら良いんだが……どれくらいの深さかそこからわかるか!」

「あいよお、ちょっと待っててなあぁ!」

 暗闇の中でも慣れたもので、落下の衝撃で消えてしまった魔導ランプの下部を手探りで開き、ズレてしまっていた魔蓄体をセットし直すと、フィリオはさっそく再点灯を試みた。幸いにもどうやらランプ自体に故障はなかったようで無事に点灯した。

「これくらいの深さやでえぇ!」

 頭上から見下ろしているモートレッドに向かって、フィリオは魔導ランプを左右に振って合図した。緊張感の欠けた声が深い闇の中に反響する。高さだけでなく、声や音の反響具合からして、落ちた場所はかなり大きな空間であることが知れた。

「かなり深いな……手持ちのロープで届くか?」

 後ろに控えているオルトバンに声をかけてロープを受け取り垂らしてみたが、ロープはフィリオの手が届く位置までまるで足りなかった。

「すまん! ロープを延長できる何かを探すから、すこし待っていてくれ!」

「うん、ぜんぜん気にせんでええよ! うちも、上に行ける道ないか近く調べてみるし!」

「何があるかもわからないんだ! 絶対に遠くに行くんじゃないぞ!」

「だいじょーぶ、わかってるって!」

 そう叫びあったあと、フィリオは常闇と評したくなるほどの闇に向けて魔導ランプを照らしてみたが、案の定というべきか、光の当たる範囲に壁は見当たらなかった。

 いまのように、ひびく声も音もなくなってしまうと、世界はひどく静かだった。

 フィリオは近くに落ちていた小石を四方の暗闇に向かって投げた。

 初めに投げた三つの方向からは、石がそのまま床に落ちて転がっていく音がした。しかし、最後に投げた方向からは、何かに当たった石が、また自分に向かって転がり帰ってくる音がした。とりあえずフィリオの進むべき方向は決まった。

 歩きだす前に、微弱ながら光を落としてくれる頭上を見上げて、自分が戻るべき場所を確認してから、フィリオは暗闇に向かって足を踏み出した。

 その足が、二十八歩を数えたところで壁に突き当たった。

 意匠を凝らした彫刻の一つもない、無機質な石造りの壁だった。

 触わればひやりと冷たく、まったく凹凸のない滑らかな表面。しかし、その無機的な空虚さは、かえって文化的といえる何かを感じさせた。

 壁面に右手をつけ、ゆっくりとした足取りでフィリオは歩きだした。

 静謐とした空間に、一歩いっぽと踏みしめる足音がいやに大きくひびく。

 どこまでも続くかのように思えた無個性な石壁に、ちょっとした変化があった。今まで引っかかりの一つもなかった壁の一画に、四角い凹みのある場所を見つけたのだ。

 後方を振り返り、落下地点との距離を確認する。そう離れた距離ではない。

(……なんとなくドアっぽい気がするけど、なんだろ?)

 ためしに表面をかるく押してみようと指先が触れた──と、思ったそのとき四角く区切られた壁が横すべりに開きだした。

(自動開閉式のドア?)

 自動で開閉する扉そのものは、現在の魔導式においても存在する技術だった。

 ただ、実際に帝都の一部で運用されてこそいるが、設備面および魔力効率面からあまり広く普及した技術ではない。それがこのような荒廃した浮遊島の地下に存在していた。

無音に近く、滑らかに開いていた扉が、壁面に収納されるようにして静止した。これがどのような技術により稼働しているのか、一見しただけのフィリオにはわからない。

(でも、こうして動いてるってことは、島の動力はまだ活きてるんやね……)

 扉の奥に目をやると、どうやらその先は小部屋になっているようだった。

 フィリオは近くにあった適当な大きさの瓦礫を手に取って、自動開閉式の扉と壁の間に固定するように置いた。いざというときの閉じ込め防止策である。

(──よしっと。では、いざ参らん!)

 一息入れて勇むように部屋の中に踏み入ったフィリオだったが、すぐに目に跳びこんできたソレに、ぽかんと口を開けてしまった。

 壁際に並んだ何らかの装置と思われるスイッチやメーターが並ぶ魔導具っぽい何か。

 床に散らばった用途の分からない道具や白い紙の群れ。

 そして、それらに囲まれて部屋の中央にある──ソレ。

「……ひと?」

 それは、思わずフィリオの口からもれ出た一言。

 部屋の中央に設置された台、その上に人に見える何かがのっていた。

 その何かはこちらに足の裏を見せて、眠るように仰向けになっている。

 そろりそろりと近寄っていくフィリオだったが、突然後ろでガタンっという音がして飛び上るように振りかえった。

 自動開閉式の扉が、閉まり止めにぶつかる音だった。

「やめてやぁ、もおぉ。寿命縮まるてぇ……」

 愚痴を言うようにため息をつき、また前方に向きなおったフィリオ。だったのだが、吐き出した息も飲みこんでその体が硬直した。

 振りかえった先、仰向けだったはずのソレが、半身を起して座っていたのだから。

「──ッ!」

 言葉にもならない声をもらして、フィリオは思わず一歩を飛びすさった。

 しかし、起き上った姿勢のまま、その人物──白く簡素な服を着た女性は、ただ虚空を見つめてぶつぶつと何かを小さくつぶやき続けていた。

「えっと……あのぉ、どないしたんですかぁ?」

 一瞬身構えたものの、相手に何の動きも見られないことから、フィリオはまたゆっくりと女性の方へと歩み寄る。その間も、謎の女性は近づく者にまるで気がついていないかのように、瞳孔の開ききった焦点の合わない眼を前方に向け、ささやくように何かを話しつづけていた。

「……ごうフェーズ終了。第二適合フェーズに移行──衛星接続に失敗──原因不明──五秒後さいせつぞ……」

 次第に鮮明に聞こえてきた女性のつぶやき。

 耳にするだけではそのつぶやかれる言葉に理解できない単語も多くあったが、それ自体は現在使用されている共通語であることはわかった。

 延々と独り言をつぶやきながら周囲を顧みようともしない女性は、こうして生きているにもかかわらず、どこか無機質で生物としての何かをなくしているように感じた。なにより、その首もとにつながれた魔導力線と思しき導線やほのかに発光している瞳が、彼女から生物性と呼びうる物をうばって見せた。

 そのとき、ふとフィリオはある一つの想像に行き着く。

(これって、たぶん完全自律型人形や)

 完全自律型人形──それは、現代の魔導師たちが語るところの一つの魔法である。

 魔導具と同様に無機物を素として造られた、他者の意思を必要とせず自律的に活動することのできる人型の人工生命体。それを、魔導師たちは完全自律型人形と呼んだ。

 古代文明の遺産、喪失した技術、魔導式で未だ至ることのできない魔法の領域。

 いろいろな言葉がフィリオの頭に去来したが、どの言葉をしても現状を語るには現実感に乏しいものばかりに思えた。

 そんな現実感に欠けているにもかかわらず、ちゃんと目前に存在している何かを、フィリオはじっと見つめた。

 周りの暗闇の色を塗りこんだように真っ黒な髪の間から、不自然なほどに濁りのない瞳がのぞき、その下で玉のような艶を見せる唇を小刻みに動かしつづける姿は、あまりにも不備なく完結されすぎていて、生物として言いようのない違和感があった。

 完璧すぎるがゆえの不自然さ、とでも言うべき不思議な感覚だった。

「……ん?」

 女性の足首に光る何かを見つけた。明かりを近づけてよく見てみると、その女性の足首に銀色のプレートのついたアンクレットが巻かれていた。

 そこには[No.0874]という数字、そして読み取れない文字が見えた。

(まあ、たぶん識別番号か何かなんやろな)

 そう心の中でつぶやいて、ちょんっとプレートを指で軽くはじいた。

「──セットアップ終了」

 先ほどまでの声とどことなく雰囲気が違ったような気がして、中腰のままフィリオは女性の顔に目を向けた。

「──これより起動します」

 その一言は今までのつぶやきと違い、生きた者としての力強さを感じさせる声だった。

 虚ろだった瞳の中で、次第に瞳孔がしぼんでいき、そこに光が宿っていく。

 そして、このとき初めて、二人の目が合った。

「えっと……なんやろ、その、はじめまして?」

「はい。はじめまして。マスター」

 これが二人の出会いだった。

 魔導ランプの明かりを間に、二人はしばらく見つめあっていた。緊張からひざが震えてしまっているのか、世界がすこし揺れている。

「……ねえ。じぶんって、完全自律型人形なん?」

 先に沈黙を破ったのは、フィリオだった。

「かんぜんじりつがたにんぎょう、という言葉がわかりません」

「うぅぅぅん、せやなぁ。じゃあ、あなたは、人に造られたものですか?」

「はい、ナンバー・ゼロハチナナヨンは、人が造った物であります」

「そっか。やっぱり、そうなんや……」

 想像していたとおり、この少女とも女性とも形容できる人型の存在は、おそらくフィリオたちが言うところの人工生命体、完全自律型人形なのだろう。フィリオとしても初めての完全自律型人形との対面であるため、どのようにコミュニケーションを取ればいいのか分からなかった。

(でもまぁ、とりあえず人と同じで問題ないよな?)

 どうせわからないのならと、そう結論づけるあたりが、フィリオらしさでもある。

「えーと、自分がどの時代に造られたか、とかそういうのはわかる?」

「いえ、情報管理主体との原因不明の接続不能状態が継続中であり、ナンバー・ゼロハチナナヨンの個体情報は取得できておりません」

「ということは、自分のこと、なにもわからないってこと?」

「はい、自分という言葉が個体情報のことを指すのであれば、自分のことはなにもわかりません」

「じゃあ、個体情報以外でわかることは?」

「はい、現在搭載されている機能についてわかります。総合統制機構、自我形成機構、一般恒常性機構、一般感受性機構、基礎身体動作機構、一般情動性機構、基礎論理機構、基礎言語機能、汎用性学習機能の以上であり、当該状態をもって一般的な初期状態となっています」

「……ごめん、そのあたりは今聞いてもよくわからないから後々くわしく聞くとして、つまり、自分が何者かもわからないってことで、いいのかな?」

「いえ、ナンバー・ゼロハチナナヨンは、自分が擬人であるということを理解しています」

「ぎじん?」

「はい、なぞらえる、真似る、似せるという意味の擬に、人間、人類という意味の人と書いて擬人と読みます。人が作り上げた人のことであります」

 初めて聞く「擬人」という言葉に眉をひそめたフィリオだったが、以前なにかの文献でその言葉を目にした気もする。それでもとりあえずの理解として、魔導において完全自律型人形と呼ぶ存在が、当時はおそらく擬人と呼ばれていたのだろう。

(そういえば、師匠もどっかでギジンっていう言葉使ってた気がするかも……)

 自分の記憶を色々と探りながら、フィリオは初めて見る人工生命体と自称する何かをじっと見つめた。

 純人の女性だと言われてもまったく疑わないだろう容姿こそしているが、目の前で自分の首もとにつながった導線を引き抜く姿を見ていると、やはり人が作り上げた存在なのだと信じざるをえない。

「そう言えば、さっきから自分のことをナンバー・ゼロハチナナヨンって番号で言うてるけど、やっぱり個別の名前がないってこと?」

 よくわからない場所でよく理解できていない存在といるにもかかわらず、すでにその環境に慣れて始めたフィリオは、気になっていたことをあけすけなく聞いた。

「はい、特定の個体識別名はありません。ナンバー・ゼロハチナナヨンは、ナンバー・ゼロハチナナヨンです」

 アンクレットに記されていた[No.0874]はやはり彼女の識別番号だった。

「けど、それやと長ったらしくて、うちも呼びづらいしなぁ」

 下唇を人差し指でトントンと叩きながら思案するフィリオを、不思議そうに見つめるナンバー・ゼロハチナナヨン。しかし、数秒とせずにフィリオの眉が上がった。

「うん! せやったら、番号のお尻が八七四やし、ハナヨにしよっ!」

「ハナヨ?」

「そう、ハナヨ。可愛らしくて、じぶんの見た目にも似合ってるし。ハチナナヨンで、ハナヨちゃん!」

 きっとこの場にシズクがいたら「安直すぎ」と毒づかれているかもしれないと思いつつも、フィリオはけっこう気に入っていた。

「つまり、そのハナヨと言うのは、ナンバー・ゼロハチナナヨンに与えられた個体識別名ということでしょうか?」

「識別名というか名前とういか、あだ名というべきか……でもまっ、とりあえずうちはこれからあんたのことをハナヨって呼ぶけど、良い?」

「承知しました。ナンバー・ゼロハチナナヨンは、このときをもってハナヨと呼称します」

「うん! それじゃ、あらためてよろしくね、ハナヨ!」

「はい、承知しました。マスター」

「あ、それそれ! うちのこと、マスターっていう──」

 ──そこにつづく言葉が口から飛び出ようとした瞬間、世界が激しく揺れた。

 唐突な激震に態勢を崩したフィリオは、台の縁に手をつき片膝をつくことで耐えた。

 地面を巨大な鎚で叩きつけたかのような破壊音。

 固定されていないあらゆる物が倒れ、地を離れて跳び、地をはうように転がった。

 いつの間にか台から飛び降りていたハナヨが、その身を守るようにフィリオの肩を両手で抱いていた。けれど、やはりその手に人の温もりは感じられなかった。

 数秒といった程度で、その壮絶な揺れは治まったものの、まだ微弱な揺れが不気味に地に足をつけたすべての物を揺らしつづけていた。

「──っつあぁあぁ、びっくりした!」

 肺にためこんでいた空気を一気に吐き出して、フィリオが大きく口を開いた。

「でも、ありがとう、ハナヨ。うちはもう平気やで。あんたこそ大丈夫?」

「はい、大丈夫です。問題ありません」

 抱き留めてくれていた手に触れて感謝を述べたフィリオに、当然とばかりに表情も変えずハナヨは無事を告げた。

「さっきのすごい揺れって、なんなんやろ? もしかして、崩壊が始ったんかな?」

「崩壊とは、何ですか?」

「えっと、今うちらのいるこの場所なんやけど、なんか壊れだしてるみたいなんよね」

「現在の所在地が、壊れだしている」

「なんか心当たりとかあったりする? どっか故障したとか、動力が切れたとか」

「心当たりはありません。故障したかどうかわかりません。しかし、この施設の備蓄動力量の残余は、先ほどハナヨが起動シーケンスを終了した時点で枯渇状態にありました。可及的速やかな補給要請が、施設管理システムから出ている状況であることを報告できます」

「そっかぁ──って、それ絶対あかんやつやん!」

 と言うが早いか、フィリオはハナヨの手を取ってドアへと走り寄った。

「いえ、そこまで性急になるほどで……」

 そう言葉をつむごうとするも、引かれる手に従ってハナヨも遅れまいと走った。

 幸いなことに先の揺れにも負けず自動開閉式の扉はすんなりと開き、素直に二人を送り出してくれた。


「──リオ! 無事なのか! おいっ、フィリオ!」

 もとの大部屋へと飛び出した時点で、頭上からモートレッドの声が聞こえた。

 この大きな空間に響きわたるほどの声量は、驚くとともにすこし呆れるほどだった。だが、それだけ心配してくれてもいるのだ思うと感謝せずにはいられない。

「うん! だいじょうぶ! そっちも問題ない?」

 モートレッドに負けじと精一杯に叫び返したフィリオ。見上げれば激しい揺れで崩壊したのか、フィリオが落ちた時よりも穴が一回りほど大きくなっており、そこからモートレッドの半身が見えた。

「ああ、いま近くにこそいないが、オルトバンが付いている。だから他の者たちも大丈夫だろう! いや、フィリオ! 横のやつはいったいどうしたんだ!」

 フィリオと手をつなぎ並走するハナヨを見とがめたモートレッドが、あまりの驚きに一際大きな声を上げた。

「それはあとで説明する! それより、この子に聞いたんやけど、もしかしたらこの島はもう危ないかもしれへん!」

「それは十分承知している! さっきの揺れは尋常じゃなかったからな! おそらく別ルートで進行中の三人も、危険を感じてそろそろ引き返してくるだろう!」

 だが、そこでモートレッドが苦々しい顔をした。

「だが、すまん、まだロープの代わりになるものを見つけられていない! 別動隊の者たちが何か持ってきてくれるかもしれん、すまないがもう少しだけ待ってくれないか!」

「船とかに非常用のロープとかないのかな!」

「当然、船上は調べた! それに先の揺れがあるまで、船のアンカーワイヤーが使えないかと必死にやってみたが、あまりに接着が固くてまったく取り外せなかったんだ! ほんとにすまん!」

「そんなん、いいよいいよ!」

 と言いつつも、フィリオはどうしたものかと思案した。

「ロープが、必要なのですか?」

 そのとき、ハナヨがフィリオに問いかけた。

「うん、そうなんよね。うちがこの上から落ちてもうたから、また上に行くためにロープかそれっぽい何かが必要って状況なんよね」

「ロープに似た、何か?」

「そう、ロープみたいに長い物なら何でもいいよ」

「それでは、コードなどはいかがでしょうか? 先ほどまでマスターとハナヨが部屋に、コードが十本を超えてありました」

「コード? って──ああ、魔導力線! ハナヨ、自分最高やな!」

 そう言ってフィリオはハナヨの手をぎゅっと握った。それにどう反応すればいいのか分からない様子のハナヨだったが、眼前の主が嬉しそうにニコニコと笑っているのでどこか満足そうだった。

 モートレッドにその場で待つように叫びあげたフィリオは、さっそく今一度ハナヨと出会った部屋を目指して走った。その後ろを遅れまいとハナヨも追っていく。

 暗闇の中だったが迷うことなく部屋につき、ハナヨがコードと呼んだ導線を三本ほどすばやく引き抜いた。バチリッと導線の切れ目から火花が散った。このとき急いでいるとはいえ、なるべく柔軟性があり強度の高そうな物をちゃんと選んでいるあたり、意外にも冷静なフィリオだった。

「モートレッドさん! そっちにあるロープ、こっちに落として!」

 次に、モートレッドの元に駆け戻ったフィリオは、ロープそのものを下に投げ落すよう頭上に向かって指示した。

「どういうことだ! ロープを落として大丈夫なのか!」

「うん、大丈夫! こっちで用意した導線にロープを結束するから! そしたら手ごろな瓦礫を重りにして、そっちに投げるつもり! それを受け取って!」

「意図はわかったが、そこから投げてここまで届くのか!」

「うん! これくらいやったら、きっと平気やと思うよ!」

「本当に、頼もしいかぎりだな。よし、受け取れっ!」

 丸められたロープがモートレッドの手を離れ、ほの明るい天井を背に降ってきた。頭上から落ちてくる救世主の影が、とぐろを巻いた蛇のように見えた。そんなどうでも錯覚は捨ておいて、すぐさまフィリオは落ちたロープを拾い上げると作業に取りかかった。

 片手にロープの端を持ち、もう片方の手に導線を持ってぎゅっと結ぶ。そして次に導線同士をしっかりと結びつける。そしてまたさらにもう一本もぎゅっと結ぶ。仕上げにすべての結束部分を思い切り、ぎゅーっと引っ張って出来上がり。こうしてフィリオの力でも解けないのだから心配ないだろう。

「マスターはとても器用なのです」

「ありがと。でもハナヨ、器用なんて感覚わかる?」

「いえ、わかりません。ハナヨができないことは器用の範疇です」

「ふふっ、なるほどね」

 ハナヨと話をしながらも、フィリオは手を止めることなく、投げやすく重りに適した大きさの瓦礫にぐるぐるとロープを巻きつけていく。そしてそれを巻き終えると、すぐに頭上のモートレッドに大声で合図を送った。

「いつでもいいぞ!」

 即座にモートレッドの顔が穴からのぞき、大きな声が頼もしく上から降り注いできた。

 不幸中の幸いというべきか、狙うべき穴は激しい揺れによって大きくなっている。かといって、のぞきこんでいるモートレッドの顔にぶつけられるくらい正確に、しっかりと投げきるつもりだ。

 瓦礫を右手に持ち、そこに左手を添える。それを胸元でぎゅっと握りしめ、狙いをしっかりと見据えた。

 ひゅーっと音が漏れるほど、息を肺いっぱいに吸い込む。

 そうして呼吸をピタッと止め、左ひざを目一杯に大きく上げた。

「──せぇの!」

 前に大きく踏みこんだ左足が地面を噛み、右腕が空間を切り裂くように振り切られる。

 そして、ビュンという音を残して瓦礫がロープを引きつれて虚空を飛んだ。

 下から見上げれば、まるで天を昇っていく蛇のように見えた。落ちてくるときはとぐろを巻いていた蛇がよく成長したものだなと、場違いにもしみじみ思ったフィリオ。

 ハシッ──という音がした。

 その音こそ、見事モートレッドが投擲物をつかむ音だった。

「さすが最高の投擲だ! フィリオ!」

 満面の笑みを浮かべてモートレッドが叫んだ。

「あれ? けっこうギリギリやんか。もっと力入れるべきだったんかぁ……」

 投げた当人のフィリオは、モートレッドに手を振り返しながらも、きれいな放物線を描いて上の陸地にのせるつもりで投げていたため、ちょっと複雑な気持ちでいた。送り手と受け手の気持ちの相違だった。

上層で引き上げる準備をモートレッドがしている間に、フィリオはハナヨの腰を抱いてぐいっと持ち上げてみた。

「何をしているのですか?」

「うん? ハナヨの体重がどれくらいかなと思って」

「重たいのですか?」

「いや、ぜんぜん。擬人っていうても普通の人と同じ、見た目どおりの重さって感じ」

 そっとハナヨを地面に下ろす。実は見た目に反して重たかったりするのかもしれないと思っていたためちょっと拍子抜けした。

「フィリオ! ロープ行くぞ!」

するすると垂れ下がってきた救命ロープを、フィリオがハナヨに巻きつけていく。

「それじゃあ、ハナヨ。両手で力いっぱいここの部分を握っておいて」

「承知しました」

 自分の身に何が起きるのか理解していないはずだが、ハナヨは素直にうなずく。

「先にこっちの子行くから、お願い!」

「おう、了解した!」

 その言葉についで、五十㎏を超えたハナヨが抵抗なく順調に引き上げられていく。

 あらためてモートレッドの馬鹿力に、フィリオは感嘆してしまうばかりだった。

 小人種も見た目に反して力持ちといえたが、《混ざり者》とはいえ鬼人種の血を引く者たちの力は、本当に馬鹿げた領域にあるのだと知らされた。

「よし、つぎだ!」

 無事にハナヨが階上に上がり、またロープが下りてきた。

 リュックサックを体の前面に抱くように掛けなおして、フィリオはしっかりと体をロープで固定した。モートレッド曰く、リュックサックと同時でも問題ないそうだ。

「それじゃあ、お願い!」

 そう叫びあげたと思うと、待ってましたとばかりにフィリオの体が宙に浮いた。

 不安定に揺られる不思議な浮遊感。まるで自分が物にでもなった気分がした。このときにさっきのような激しい揺れが来たら真っ逆さまに落ちるんだろうなあ、と他人事のように思いつつ、フィリオは眼下を見下ろした。少しずつ離れていく地面に、なんとなく名残惜しさがあった。

(そういえばハナヨの部屋にあった物、何でも良いから持ってくればよかった……)

 後悔先に立たずとはよくいったもので、ぶらぶらと宙に浮きながら、フィリオは悔しげにくちびるを尖らせるのだった。

 無事に二人を引き上げ終わったモートレッドも、さすがに息を切らしていた。

「……ふぅ、ほんとうによかった。ロープの代わりが見つからないときはどうしようかと思ったが、本当によかった」

 モートレッドの口から心底といった体の安堵の深いため息がもれた。淡い紅色の皮膚をさらに紅潮させて、モートレッドは嬉しげに口角を上げて笑った。

「こちらこそ、本当にありがとう。うちがこんな所に落ちんかったら……」

「いや、あれは調査中にふざけたオルトバンが悪いんだ」

 その言葉を口にして、一転モートレッドの顔が険しくなった。

「フィリオが無事だったからよかったものの、本当にすまないことをした。あとであいつには始末書と謝罪文を書かせるし、まず会ったら直接謝罪させるから、お前からもしっかり叱ってやってくれ」

「いやいやいや。謝罪文とか出さんでええから、ほんまに。そんなんされたら、かえってうちの気が引けるわ」

 思わずフィリオは苦笑してしまう。オルトバンのことを責める気持ちなど、本当にさらさらないのだから。

「そんなことより、早くみんなと合流してこの島から出よう? ハナヨの話を聞くかぎりだと、この島の残りの動力量がかなり少ないみたいやし」

「動力量が少ないってことは、落ちるってことか?」

「うん。最悪の場合、浮遊島が崩壊するか、地上に墜落するかって感じ」

「それは本当か! すぐに引き返すぞ!」

 三人は連れ立って瓦礫の山を登り、初めに調査団が侵入した広間へと向かった。フィリオが転げ落ちたときよりも、すこしだけ瓦礫の山がゆるやかになっているのは、先の揺れで崩落したからだろう。

「ところで今さらだが、お前の連れてきた女の子は何者なんだ?」

「ああ。ごめん、説明まだやったね」

 崩れた瓦礫の山をモートレッドの手を借りながら登りつつ、フィリオが答える。

「あの子、実はああ見えて擬人っていう、昔の人が造った人工生命体やねん」

「おお! 人工生命体とは、そりゃまたすごい発見だな。こうして見ただけじゃ、ただの純人と何も変わらんのに」

「うん。ほんまにすごい発見」

「お前を助け出すまでに彼女に話しかけてみたんだが、どうにも話がかみ合わなくてな。やはりそういう事情があったんだな」

「今この子は生まれたての子供みたいな状態らしいから。まだちょっと人っぽくないところがあるみたい。あ! そういえばハナヨ、自分からこの人にあいさつしてみ」

「はい。こんにちは、ハナヨです」

「ああ、こんにちは。俺はモートレッドだ、よろしくな」

 そう言ってハナヨの手を引っ張り、瓦礫の上まで持ち上げるモートレッド。

 されるがままに引き上げられ、きょとんとした顔のハナヨ。

「やっぱり、いろんな意味でまだまだぎこちないな」

 そう言っておかしげに笑ったフィリオ。

 三人で広間に帰ってきたが、まだそこには他の調査団員の姿はなかった。

 モートレッドが言うには、この広間から正面に伸びた通路の途中に階下に向かう階段をみつけたそうで、そちらの方からフィリオの落ちた空洞に向かえないかどうか、調査も兼ねて残りの三人が向かったのだという。

「あれだけの激震だ。危険を察知して帰還してきていると思いたいが……もしかするとフィリオの救助活動を優先させているか、あるいは瓦礫によって通路を塞がれたか、負傷したか……」

 そう言ったモートレッドの表情は、当然ながら重たく苦々しい。

「それなら、早く呼び戻しに行こうや」

「いや、呼び戻しに行くだけで三人も必要ない。お前たちは船の方で待機していろ。フィリオの力なら十分にアンカーくらい抜けるだろう。皆が来たらすぐに脱出する準備をしておいてくれ」

そこまで言って、モートレッドはフィリオの方へと向きなおる。

「ただし、いざとなったら──わかっているな?」

 真剣な眼差しがフィリオを見つめた。

「……わかりたくはないけど、とりあえず頷いとく。でも、絶対にみんなで帰ってきてや」

「そんなこと言われずとも。ハナヨは、フィリオのことよろしくな」

そう言ってフィリオとハナヨの頭をくしゃりと撫でると、モートレッドは正面通路に駆け出した。その大きな背中が見えなくなるまで、フィリオはその場を離れなかった。なおも島は揺れつづけている。

「ハナヨは、どうすればよいですか?」

「……うん、いまから船の方に行くよ。ついて来て」

 ハナヨにやさしく微笑みかけたフィリオは、心に広がりそうな不安を振りきるように体を反転させ一歩を踏み出した。


「なぜか雲がハナヨよりも下にあります」

 屋外に出てハナヨが初めに発した言葉がこれだった。この言葉をもってしても、やはりハナヨは地上文明の遺産であることが知れた。

「やっぱりハナヨにとって雲の上にいることは不思議?」

「はい、雲の上にいるのは不思議です。人は、地上にいる存在だと認識しています」

「でも残念でした。うちらの生きている世界は雲の上なんです」

 フィリオのその言葉に、ハナヨはあらためて周囲の雲海を眺めやる。擬人の瞳がこの雲海の世界を映して、何を思うだろうか。地上で生きることが常識の世界で生まれ、雲海で生きることが常識の世界で目覚めたハナヨ。その差異は古代人の生き残りでもいないかぎり、現代において彼女たち擬人ぐらいしか感じえないものだった。

「ちょっと強めに締めたけど痛いところはない?」

「はい、痛くありません」

 いつ何があっても良いように、まずハナヨを空泳船に乗せて安全ベルトを締めた。続いて自分はともかく荷物だけでも先に固定しておこうとリュックサックを固定する。

「モートレッド氏は、どうしたのですか?」

 当然ながら状況を理解していないハナヨは無邪気に問うた。

「うちらの他にもこの島に来てる人がおって、その人たちを呼びに行っただけ。そのうち帰ってくるから気にせんでいいよ」

 アンカーはまだ抜いていない。もしまた大きな揺れが来たら流されてしまうおそれがある。ぎりぎりまでフィリオはアンカーを外すつもりはなかった。

「ハナヨは、呼びに行かなくてよいのですか?」

「うん……うちらは、みんなが帰ってくるんをここで待つんがお仕事」

 本心でいえば、自分も彼らの救助に向かいたい。だが、去り際に頭におかれたモートレッドの手の重みが、フィリオをその場に押しとどめていた。

 二人がこうして仲間の帰還を待っている間も、断続的に強めの揺れが起こり、その発生する頻度もあきらかに早まっていた。

「ねえ、ハナヨって擬人についての知識ってあるん?」

 唐突にフィリオはハナヨに質問した。何もせず焦りばかり募らせてしまうことを嫌う思いが、ふとした思いつきを彼女の舌にのせていた。

「はい、基本的事項のみ知識として持っています」

「たとえば食事をしたりするとか?」

「はい、擬人は食事を取ることが可能です。人間と同じく食事により摂取した食物を動力へと変換することができます」

「えっ、それって何でも食べたら動く力に変えられるってこと?」

「いえ、何でもというわけではありません。しかし、人間が基本的に食物としてしていない物でも動力変換可能な物は多数あります」

 ホエェといった感じに口を開けて感心していたフィリオだったが、ふと気になることがあった。

「ちなみにさ、そうやって口に入れたもので動力変換できなかった物っていうんは、どうやって体から排出されるん?」

「はい、経口摂取後、動力変換できなかった物は、不要物として口腔部より排出されます」

「なんか、すごく効率的というか合理的といか……でも、正直あんまり想像したくない光景やな、それ」

 そうフィリオが苦笑したとき、ズドンという重い爆発音が建物の方角から聞こえ、その音を追うように彼女たちに微かな揺れが伝わってきた。それは今までの揺れとは違い、施設の地下が崩落したような揺れ方だった。

 それゆえ、なおさら不安と焦燥がフィリオの心をゆっくりと蝕んだ。

 だが、すぐにまた島が大きく揺れ、フィリオは空泳船の船体に手をついて耐えた。

 時が経ち、揺れが強さを増すほどに、どんどんと積もっていく焦燥感。

 その焦りのやり場もなく、じっと廃墟を見つめるフィリオの前に、動く影が現れた。

 それを目にした瞬間、フィリオの足は船の縁についた手を押して駆けだしていた。

「おーいっ!」

 手を振って近寄っていくフィリオ。

 その声に驚いた顔で向き合ったのは──ドゥーレオだった。

「おぉ……フィリオ。君は、無事だったんだね。本当によかった」

 だが、安堵のため息をもらすドゥーレオにつづいて屋内から現れる人影はなかった。

「ドゥーレオさんこそ、無事だったんやね!」

 ドゥーレオのもとまで走り寄ったフィリオは安堵の表情を浮かべつつも、屋内の方へと目をやって別の影を探した。

「なぁ、他のみんなはどうなったん? モートレッドさんもドゥーレオさんたちを迎えに行ったはずなんやけど」

「それは本当か? モートレッドになんて会っていないんだが」

 そう言ったドゥーレオは確認するように建物の奥へと目を向けるが、当然ながらモートレッドの姿などあるわけがない。

「私もさっきの揺れがあるまで、地下ではぐれた他の者たちを探し回っていたんだが、まるで見つからなくてな。だから、てっきり先にこちらに帰って来ているのだと信じていたのに……」

「じゃあ、コルドさんたちは、やっぱりまだ建物の中なん?」

「ああ、残念だがおそらくそうだろう。早く君を助けようと地下で三者に分かれて捜索し始めた矢先、一際大きな揺れに襲われたんだ。それで天井の一部が崩落したせいで、全員はぐれてしまった」

 そこまでドゥーレオが話したところで、まさにその大きな揺れがまた浮遊島を襲った。よろめいたドゥーレオを支え、フィリオは今にも崩れかねない建物から距離を取った。

 外壁の崩れる音、地面の割れるような鈍重な音、足もとから響く崩落の音……そうした浮遊島の崩壊を告げる音の群れに、世界はどんどんと満たされていた。

 揺れが少し治まると同時に、フィリオは建物の中に向かって走り出そうとした。

 だが、その手をドゥーレオが必死の形相で掴んで離さなかった。

「ドゥーレオさん、離して! うちが呼びに行ってくる!」

「だめだ! モートレッドが行っているんだろう! あいつに任せるんだ!」

「いやや! あの人が行っても帰って来れんってことは、絶対に何かあってん!」

「フィリオ!」

 パチンッと音をたててドゥーレオはフィリオの頬を両手で挟みこみ、その顔を自分の方へと向きなおらせた。

「モートレッドはなぜ君に残るように言ったと思う! その気持ちを踏みにじるようなことをするというのか!」

「でも! でも……!」

 フィリオはドゥーレオの顔を見返しながら、懸命に歯を食いしばる。その頬は、今にも激情の堰が切れそうなほどにわなないていた。

「彼らを信じるんだ、フィリオ」

「…………」

 わななく唇をぎゅっと閉めて黙したフィリオはドゥーレオの手を引いて、空泳船の方へと歩き出した。もう誰の手も離すものかという意思を示すかのように、その手は強く握られていた。

 空泳船に向かう途上で、船に乗ったハナヨを見つけたドゥーレオが驚きの声を上げた。見知らぬ人が平然と船に乗っているのだから当然のことだろう。フィリオが、擬人という人工生命体、現代で魔導師がいうところの完全自律型人形であることを教えると、まさに驚嘆という言葉が当てはまるような反応を示した。

「こうやって近くで見ても、純人の娘にしか見えんな。説明されてもなかなか頭として納得しきれないほどだ」

 空泳船に乗りこんで安全ベルトを締めながら、ドゥーレオは身近でハナヨを観察しながら、なおも半信半疑といった体を見せていた。そうして顔を近づけたり離したりするドゥーレオを逆に観察するハナヨは、鼻を少し引くつかせて不思議そうな顔をしていた。

「モートレッドさんも、よく似た反応してたよ」

「そりゃそうだろう。だれだって驚かされるよ、こんなこと」

 そんな光景にすこしだけ微笑みを浮かべたものの、フィリオはまだ船に乗りこまずに心配げに建物の方に目を向けた。

 フィリオの脳裏に、エスタの姿が浮かんだ。

 優しくて、美人で、料理上手で、産まれもって少し身体が弱かったけれど、それでも三人の元気な子供を産んで、きっと今も温かな料理を作って夫の帰りを待っているだろう、モートレッドの自慢の奥さん。

 そんな二人が作りあげた温かな家庭が、今まさに壊されかねない瀬戸際にある。

(……みんな、お願いやから無事に帰ってきて)

 ぎゅっと力のかぎり手を握りしめ、思いのかぎり心の声で皆の名を叫ぶフィリオ──だが、世界は非情にも、彼女の思いに激しい揺れで応えた。

 今までとは比べものにならない震動が、浮遊島のすべてを揺るがした。

 一瞬にして、地面が、建物が、生命が、その島のすべてが激震の囚われ人となった。

 何もそこに立ちうることなく、誰もそこに立つことを許されず、揺られるままに揺られ、壊されるままに壊された。

「フィリオ!」

 空泳船の縁に倒れかかったフィリオを、その細腕でドゥーレオが船上へと引き上げた。火事場の馬鹿力なのか想像以上の力強さだった。

「──はなしてやっ! おねがい、はなしてっ! みんなが、まだっ!」

 弱々しくもまだ、島に戻ろうともがいたフィリオの眼前で、彼女の希望を潰すかのように、瓦解した石壁が大きな土煙を上げた。一度崩壊が始まってしまえば、流れる水のごとく留まることはなく、崩壊が崩壊を呼び、すべてを飲みこむようにして崩れ落ちていった。

 そして、そこに残されるのは、立ちのぼる土煙と、何物も平等に飲み干した大穴。

 フィリオの身体から一息に力が抜け、伸ばしていた手が、なにを掴むこともなくゆっくりと下がった。

「すまん! フィリオを頼む! 抱きとめておいてくれ!」

 ハナヨの胸にフィリオを預けて、ドゥーレオは大揺れの船上を必死に物色した。緊急をサクラに知らせるための赤煙灯が、船に備え付けてあるはずだった。

 だが、激しい揺れと、募っていく焦りが、その手元を狂わせる。


 ──刹那、空泳船に乗った者たちの身体から、ふっと重さが消えた。


 空泳船を停泊させていた地面がついに空へと崩れた。

 調和を失って乱流する風が、船をあおり搭乗者に強く吹きつけた。

 ミシッという重たく鈍い音が船体からもれた。眼下ではアンカーを打ちつけていた岩石が船体を引っ張って落下し、他方で船尾のサクラとつながったワイヤーがその進行を遅らせていた。その結果、空泳船が悲痛なうめき声をあげたのだ。

 だが次の瞬間には、限界まで引っ張られたサクラとの緊急用ワイヤーがはじけ飛ぶように切れて宙を踊った。それでもアンカーを固定された岩石に引っ張られ、空泳船は雲海を潜航しようとする。

「──ッ!」

 そのことに気づき、悲壮な顔をしたドゥーレオが安全ベルトをぎりぎりまで伸ばしてアンカー部に向かおうとした、その前を一つの影が──フィリオが走りぬけていった。

 その瞳は、しっかりと前を見つめ、天上の陽光に明るく光っていた。

「くっそぉぉぉぉぉぉ!」

 声のかぎりの叫びは、雲海の中を風に乗って広がった。

 アンカーの接続部へと向かう途中で拾い上げたバールを、フィリオはすべての思いのたけを込めて、叫び声とともに振り降ろした。

 ガンッ──バールの先が、溶接された金属に刺さった。

 しかし、接続部はまだ外れない。それを見たフィリオは、即座に大きく右足を上げて、全力でバールの突き刺さった場所を蹴りぬいた。後先も考えていない、彼女の全力の一撃だった。

 そのとき、きらめく金属片となった接続部と切り離された鎖が空に舞った──と同時にその勢いのまま、行き場をなくしたフィリオの身体がふわりと宙に浮く。

 焦った表情の一つも見せず、フィリオは静かに目をつぶった。

(みんな、ほんまにごめん……)

 あれだけ全力を出したのに、体から力が抜けるのは一瞬だった。

 重たかった自重が消えて、天に昇っているかのような錯覚。

 落ちているはずなのに、飛んでいるような不思議な感覚。

 空を飛ぶっていうのはこういう感覚なのかもしれないな、という新しい発見ができた。

 あとは落ちていくだけ、そう思ったのに──何かが、腕に触れた。

 フィリオが目を開けた途端、柔らかな何かに全身が包まれた。

「……ハナヨ」

 フィリオが最後に見たのは、ハナヨがぎゅっと力一杯に、自分のことを抱きとめてくれている光景だった……。



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