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『2666』感想垂れ流し(ネタバレ有)

作者: Gakio

※誤字や表記揺れがありますが、めんどくさいので直してません。読みにくくてすみません。


『2666』とボラーニョの存在を知ったのはいつだっただろう?大学時代にはもう、『重力の虹』や『世界終末戦争』と同じく、いつかは必ず手に取らなければいけない名著という印象だった。けれど大学図書館ではこの本を立ち読みした記憶がない。入っていたかどうかすら定かでない。

雨の夜、僕はほかの本を探しに市立図書館に向かった。この図書館は地元の亀岡市立図書館とは比べ物にならない蔵書数で、海外文学の棚の前のソファに深く腰かけて本棚を眺めているだけで生きていてよかったという気分になってくる。こういう街で子供の頃育っていたら色々違っていただろうと無い物ねだりをする。でも『金閣寺』を初めて手に取ったのは亀岡市立図書館だし、彼女と出会ったのも亀岡だし、今でも彼女はその図書館でモームやドストエフスキーを読んでいるわけだ。日本に生まれ日本語を読むことができることで僕は文学と出会った。それだけで充分だ。

『2666』は装丁が素晴らしい。背表紙にタイトルが横書きで入ってる。横書きで入るほど分厚い本なのだ。

ストーリーはいきなり、文学の話だ。フランス人の男が、ベンノ・フォン・アルチンボルディというドイツ語文学の小説家を崇拝している。この架空の作家アルチンボルディの研究者がほかに三人出てくる。みんな各国の大学教授だ。三人は男、一人は女。彼らは経済的に豊かだ。存命の作家の研究で博士号が取れるのは日本とは立場が違うように思うが、みんな外国文学の教授なのだ。フランス、イタリア、スペイン、イギリス各国でその国ネイティブの学生にドイツ語を教えるだけで需要があるのだろう。

小説家自身に関心を持つというのは、僕の人生の常だ。現に僕はこれを書いてるつい1時間前に2666を図書館に返しにいき、ボラーニョコレクションの他の本、鼻持ちならないガウチョという短篇集とアメリカ大陸のナチ文学を借りてきた。そしてガウチョでボラーニョと思しき人物が重い病気にかかり、死が目前に迫っているという場面で暗い気持ちになった。僕は22年生きていて、非常に身近な人物の死をいまだ体験していない。そしてそのことが、自分の人間としての思考の仕方や、小説を書くための素質として、足りないものだというふうに思っているのだが、そのような不幸に見舞われていないことを幸福に思うべきのような気もする。

ブコウスキーは『パルプ』で、


「昔は」奴は言った。「作家の人生の方が、書いてるものより面白かった。いまじゃ人生も書いたものも、どっちもつまらん」


と書いている。まさにそれ、ということがあり、こんな面白く胸にささる小説が書ける人間、に関心の対象が向くものだ。アルチンボルディの研究者たちは、アルチンボルディに会うことを目論む。

そんなふうに楽しみながら第一部を読み終えたが、第二部では舞台も人物もがらりと変わる。同じ作家の他の作品を読んでいるようで、実際5つの別々の小説と捉えることも可能な内容だった。

だから一部ずつ詳細に感想を述べるべきだろう。今一番印象に残っているのは五部のアルチンボルディの部だが、それは最後に読んだからというのもあるだろうし、一部で提示されていた謎の作家の半生が分かるというミステリーの解答編的要素があるのだ。


内容の感想ではないが、読書中常に僕が考えていたことは、もう自分が小説を書く必要がないのではということだった。完璧な、あるいは完璧だと錯覚させられる長篇を読んだ時、僕はしばしばこういう気持ちにさせられる。僕の書きたいこの世界の真実、幻想、夢、恐怖、怒り、悲しみは、全部あると言っていい。美しい女とセックスする喜び、頭のいい女とおしゃべりする喜び、小説を読んだり小説について語ったりする喜び、若い女の膣と肛門を犯すという、非社会的欲求が提示する嫌悪感と共感、銃殺される現実、病死する現実、生まれる奇跡、そういうものたちだ。自分が小説を書く必要がないという考えは、大江健三郎の名言、偉大な人が多く生きたのに、なぜあなたはなお生きようとするのか?という問いによって、深刻に考えることはない。

このテクストに詰め込むボラーニョのスタンスが大好きだ。

この作品は、セックスと死が書かれていると思った。一部のリズノートン、五部のブービス夫人(男爵令嬢)は、複数の男と性的関係を持つ。

僕が個人的に嫌いな「読書好き」がいる。それは、こういう読み方をしている人間そのものが嫌いということではなくて、あくまでその人の読み方が嫌い、ということなのだが、月100冊読んでます〜タイプと、文豪ストレイドッグスなどの影響で太宰とかだけよんで誰でも彼でも文豪と呼び桜桃忌なんかに行ったり文学館に行くようなタイプ。こういう奴らがボラーニョを読んでどう思うのかは知らないが、少なくともボラーニョが描いてる小説内の人物がいざ現実にいると、キモいとか変わってるとか思うのじゃないか。なぜならそういう奴らは自分で物事を考えずマスコミの情報を鵜呑みにして生きているプリテンダーな訳で、多分脳みそが金平糖でできてるんだと思う。でそういうタイプの人間は不特定多数の人間とのセックスを良くないものだと考えている。

この作品ではセックスばかり出てくる。ステキな女性は複数の人間と関係を持つということがはっきりわかんだね。なぜかというとセックスは快感だからだよ。第1に恋愛は幻想だ。ひとりの人間としか愛せないなんてありえない。だから配偶者がいても複数の人間と関係を持つ人物を平然と描いているのが第一に好きだ。でそのことで悩んだり死んでしまうボヴァリーみないは話にはもちろんならない。

でもそれを公言してそればかり言ってるのは嫌悪感。なんでだろうと考えると自分がその人とはできてないという嫉妬なのだろうか?

でも人の一生を考えたらセックスして死んでいく、それだけではないか。それで後に子供が残る。ノルウェイでも緑が父がなにも残さなかったといい、僕が君が残ってるという。あれが好きだ。


たくさんの人が死んでいき、死ぬ前にセックスをする。セックスをめぐる話だ。


第一部で受けた印象は、僕とは住む世界が違うということだった。学会で世界中を飛び回り、クレジットカードで買い物し、ホテルのバーでマルガリータを飲む。僕はマルガリータを飲んだことがない。マルゲリータなら食ったことがある。あんまり好きじゃない。イタリアンのピッツァよりアメリカのピザが好き。そんなことはどうでもいい。マルゲリータを飲んでみたい。

まあそういう金持ちの話で、それはそれでありだと思っていたら、というか最後のリズノートンの選択というか運命にはそれなりに驚きとエンタメ小説のような愉快さがあったのだが、二部でそうじゃなくなる。いや、二部はまだ、その兆候がある。哲学の教授だから。本を洗濯物みたいに吊るすというモチーフが絶対的にいい。良すぎる。神。そしてその娘、美人の娘。妻はエイズで死んだ。セックス大好きの妻。セックス大好きの妻をセックス大好きという理由で軽蔑しないアマルティファーノ。

第三部ではこの娘、JDロサ・アマルティファーノが再登場する。

最初主人公フェイトは黒人だと気づかせない書き方になってる。途中で気づく。ふええとなる。ウディアレンの話になる。そう。結構そういうサブカルチャーが出てくる。覚えてる限り出てきた実在をあげると、カフカ、マン、ヘッセ、グラス、サリンジャー、マイケルジャクソン、デンゼルワシントンなんかが出てきたはず。それから日本の貞子。マイケルジャクソンがアフリカ系アメリカ人であるということを僕は忘れがちだ。これがはっきり認識できたのは大学に入って前期にとった、黒人音楽の講義だった。マイケルジャクソンのbadなどの歌詞には黒人としてのアイデンティティとしか思えないものが詰め込まれているという話を聞いた。マイケルは肌の色が白くなる病気を患った黒人なわけだ。これがややこしくしていて、僕の母親みたいな無知な人間に金をかけて美白整形したんだというような誤解を生ませる。2666発表当時、マイケルジャクソンは存命だ。

第四部は女性連続殺人の話になる。ここだけ読むのが速読みたいになってしまった。小説の文章という感じではない。解説などを読むとこの叙述はボルヘス流ということらしい。ボルヘスを読まずしてなんとなくわかった気になる危険な解説。でもこういうのって仕方ないと思うんですよ。世界史の授業とか、その人物の人柄とか何も知らないまま名前と、業績だけ覚えさせられた。受験生はそういう風に学んで、暗記量で大学に合格できるか決められた。仕方ない。社会が悪い。

ここでも51歳の女性精神科医が男と快楽のセックスを重ねる。私が美しいのは努力しているからで、男が惹かれるのは努力して手に入れた見た目だというのは救いのない真実で暗い気持ちになる。ブサイクに生まれるのと美人に生まれるのでは違う。これは間違いない。神がいるならみんな美男美女に作ればいいじゃないか。

叙述は、女性の名前、年齢、職業、身長などとともに、「膣と肛門の両方をレイプされていた」という文章が執拗に繰り返される。こういう文章は深く考えれば考えるほど胸糞悪くなるから、記号のように、受けとるのだけど、書いてる方は平気なのか。強靭な精神の持ち主なのか、レイプ願望があるのだろうか。レイプ願望があることを非難はできない。世の中にはレイプもののAVが好きな人間がいる。僕の彼女もそうだと言ってた気がする。僕はあれは女の子が可哀想で好きじゃない。ハーレムものがいい。

とにかくボラーニョは変人で、2666のレビューで誰かが写真から変人でだと思ってたけど読んでやっぱり変人だったと言っていた。どうして終電を逃すことを親に怒られるとかほざくインキャの女に文学が分かるだろう?

だから僕はこの本が好きな人とは握手したい。でもその人たちは小説と現実を分けて考えているんだと思う。僕はそうでなくて、小説的な妄想はすべて現実に起こり得ると考える。新幹線で人を刺しても、─それが22歳で僕と同じように眼鏡をかけていたことは驚かされたが─、何も不思議だとは思わない。みんな人くらい殺したくもなるだろう。

第五部の男爵令嬢とインゲボルグは、僕の大切な友人二人を思い起こさせた。

こういうことを考えたら、今読んだというのは大きな意味があるだろう。僕は大学の2年まで童貞だった。童貞の時の小説の読み方は、今とは全然違っていた。劣等感を慰めてくれる文学が好きだった。だから簡単にセックスするような小説は、一部の例外を除いて嫌いだった。『異邦人』も、ムルソーが女と海に遊びに行ったりしたので嫌いだった。

そんな時にこれを読んでも、分かるわけなかっただろうと思う。僕は自分に当てはめて読むので、女性の書いたもので楽しめたものは少ない。作者が男性だから楽しめる。その点この本の女性読者は、どういうところが面白いんだろう?

しかし僕は、ある女友達にこの本をオススメする手紙を書いた(東京での新生活の報告とともに)。

『2666」を読んだのは一回だけだ。でもまた読み返すと思う。何度も何度も読むと、新たな発見があるだろう。ノルウェイの森だって、1回目はそんなに詳しくなかった。無人島に持っていくならこの本じゃないかと、くそ陳腐なことを考えた。

これからボラーニョコレクションを読んでいく。図書館にあるが、自分で手元に欲しいと思う。

とにかく圧巻だった。


ここまで読んでくださりありがとう。誤字と表記揺れが多すぎる。暇があったら直すけど、面倒くさいのでこのままアップ。こういうのを本当の雑文というんだ。丁寧なリプの最後に長文雑文失礼しますとかほざく奴に伝えたい。

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