前編
その日、僕の運命は最悪の方向へと一変した。
「このグズがァ! なんで焼きそばパンの1つも買ってこれないんだよ!?」
「くっひゃっひゃ、タクト君、小鳥遊にそんなむっずかしいこと無理なんだからやらせる方が間違ってるんだよ」
「でもぉ、難しいこともやらせてあげないと成長しないっていうしぃ? マナったら超優しいっていうかー!」
あっはっはっはと薄汚く笑う3人に対して、僕はただ蹴られて痛む腹を抱えて蹲ることしかできなかった。
僕、小鳥遊葵は所謂いじめられっ子だ。僕だってできれば御免被りたいのだけど、彼らはどうにも僕を見たら殴り、蹴り、罵声を浴びせ、優越感に浸りたくて仕方がないようだった。
毎日のように屋上、校舎裏、果てはトイレの個室なんてのもあったっけ。とにかく人気のないところに呼び出されては、彼らの気がすむまで暴行を加えられるのだ。
「うぅ……ぐぅっ……」
あまりにジリジリと痛むので、思わず声がこぼれてしまう。
その声を不快に思ったのか、霧峰拓人が足を上げて僕を踏みつけようとしたその時だった。
突然に足元が怪しく光り、地面には不可思議な模様が浮かび上がっていく。まるで、漫画とかに出てくる魔法陣のような理解ができない紋様だ。
「うわっ! なんだよこれ! 小鳥遊、てめーのしわざか!」
この状況で僕に責任をなすりつけられるのって本当、すごいと思う。けど、僕は何もやっていない上に、蹴られた痛みでまだうまく話すことができないでいる。弁明のしようもない。
光は一層強くなり、気がつけば僕らの通う高校ではなく、絢爛豪華な部屋にいた。
目の前には白いひげを蓄えたまるで王様のような人が立派な椅子に座りこちらを見下ろし、僕らの周りには怪しいローブを着込んだ連中に、鎧を着て剣で武装したガタイのいい人が何人もいる。中には剣に手をかけている人もいるし、何かあれば僕らを切り落とすつもりなのだろう。
「よくぞ参られた勇者よ!」
王様が通る声でそう言い、僕らは呆気にとられ何もできなかった。
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「はっはっは! くらえー!」
「くっひゃ! タクト君! 魔法撃つからちょっと距離とってよ!」
「えぇー、タクトにやらせて上げなよぉ。今マナのパワーアップ魔法ですっごい楽しそうだしぃ?」
あれから3ヶ月が過ぎた。
僕らの関係性はなんら変わりがないけれど、取り巻く環境が大きく変わった。
まずここは日本じゃなく、アンスレア王国という異世界の国だった。
なんでも魔王という世界を脅かす存在が魔物を世界中に放ち、この世を滅ぼそうとしているそうで、それを食い止めるために勇者を召喚する古代魔法を試して見たところこれが見事に成功してしまったのだとか。
そして、その呼び出された勇者というのが、事もあろうに霧峰拓人、僕をいじめる筆頭だった奴だった。
勇者となった霧峰は剣や魔法の才能をメキメキと伸ばしその頭角を現し、3ヶ月の訓練を終えこうしてダンジョンで魔物を倒して回っている。特に聖剣なんてものを手に入れてからは、動きが見えなくなってしまったほどだ。
それだけじゃなくて、一緒に召喚された他の2人も凄まじかった。
足立稔は特に魔法の才能がすごいようで、広範囲に超強力な魔法を撃つのが得意だった。たくさんの魔物が現れた時に、彼の魔法が炸裂した時、その矛先が僕に向かなくてよかったと心から思うほどだ。
九重真奈はそのキャラに似合わず回復と支援が得意で、その膨大な魔力の量を乱暴に使い街の人に回復魔法をいたずらにかけて、巷では聖女なんて呼ばれている。
一方の僕は、何もなかった。
3人は強力な力を手に入れているのに、僕にはそういったものは一切なかったのだ。
いったい僕が何をしたというのだろう。こんな仕打ちはあんまりじゃないか。
そんな僕を、彼らは手放そうとはしなかった。召喚された日、なんの力なもない僕を、この国の人たちは戦力外だと城から放り出そうとしたのだけど、彼らは「同郷の仲間だからうんちゃらかんちゃら」なんて綺麗事を言って言いくるめ、体力のある自分たちと同じ特訓を僕にも強要した。
体力をつけるためだと鉄の鎧を着せられたまま何時間も走らされ、騎士団の連中は僕がいつ倒れるかで賭けを行なっているほどだった。
ある時は魔法の訓練だと言って見ることも感じることもできないものを使えるようになれと言われ、できないと答えると鈍器のような分厚い本で殴られた。
ある時は剣の特訓だと言い、木剣で骨が折れるぐらいに殴られ続けた。
ある時は霧峰に剣の試合をさせられボコボコにされたり、足立が魔法の練習だと僕を的にして魔法を放つことがあった。
そこまで来たらいくらでも逃げようがあるはずなのに、それを彼らは許さなかった。九重真奈の回復魔法はどんな傷でも治してしまう。癒してしまう。心はちっとも癒されないのに、癒されてしまうこの身体が恨めしい。
最初は「こんなクズに回復魔法なんて」と霧峰拓人も言っていたが、「えー、だってこっちの方がずぅっと楽しめるしぃ?」と九重真奈が言うと、それもそうだななんて勇者も、魔術師も、聖女も、騎士団も王も王妃も宮廷魔術師もメイドも執事も貴族も誰も彼もが惨めな僕を見て笑っていた。
「お、宝箱はっけーん」
迷宮の中で、宝箱を見つけた霧峰拓人がそう言う。
弱いはずの僕がなんでこんなところまでいるのかというと、単純に荷物持ちだ。彼らがダンジョンに潜るために必要な荷物を僕が全て背負って持っている。勇者である彼には【アイテムボックス】という目に見えない空間に荷物をしまうスキルがあるのにもかかわらず、だ。ただ、僕が苦しむ顔が見たいだけでこんなことをさせているんだろう。
「うっひゃっひゃ、レアアイテムでもあったか!?」
「えぇー、ちょっとちょっと、マナにも見せてってばぁ」
3人が宝箱に夢中にはなっているけれど、僕は休む余裕もない。少しでも周りを警戒しておかないと、魔物に不意打ちをされてしまったら僕はすぐに事切れてしまうだろう。その時に彼らが僕を助けてくれるなんて保証は、どこにもありはしないのだから。
結局のところ、今回の迷宮攻略はその宝箱を見つけたところで撤収となった。
宝箱の中身を見た時の3人の顔に、嫌な予感はしつつもそれに逆らえるわけはなかったのだ。
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それは迷宮から帰って来た夜のことだった。
自室まではさすがの彼らもやってこないんだけど、今日はなぜか3人お揃いでやってきた。
「やぁやぁ小鳥遊君、いつも荷物持ちご苦労様! 今日はそんな君を労いに来たんだ」
霧峰がわざとらしい笑顔でそんなことを言う。後ろにいる足立と九重も作り笑顔がひどい。
思わず怪訝な顔をしてしまうと、その場にあったテーブルをばん! と叩き、
「小鳥遊のくせに調子乗ってんじゃねーぞ? 俺たちからの施しだから、黙ってそれを飲めよカスが」
と言って怪しい液体の入った小瓶をそこに置いた。
「くっひゃ! ちょっとタクト君、もうちょっと我慢できなかったの!」
「でもぉ、あの顔見たらぁ、キレるの我慢できないよねぇー!」
そう言って3人とも汚らしく笑い始める。
ここで飲むのを拒めば、殴る蹴るの暴行を加えられた後で無理やり口にねじ込まれるんだろう。
それを考えればさっさと飲んでしまった方がいいだろう。きっと、死ぬような毒なんかじゃないとは思うし……
小瓶なので量は少なく、一口で全て飲みきってしまった。ニヤニヤと見てくる3人が気持ち悪くて仕方がない。
「飲んだよ。今日はもう遅いし僕も寝るからはや、く……」
用も済んだだろうから帰らせようとすると同時に、身体の内側から燃えるように熱さがこみ上げてくる。あまりの熱さに身をよじり悶え苦しんでしまう。
それが面白かったのか、3人は一層笑い声をあげる。けれど、そんなことも気にならないぐらい今はこの身体の熱さをどうにかして欲しかった。
「お前の飲んだそれ、なんなのか教えてやろうか? 性転換薬って言うんだってよ! こんな面白いもん、とりあえず飲ませて見るしかないっしょ!」
「くっひゃっひゃ! タクト君マジで悪魔! 魔王もたじたじだわー!」
「超ウケるんですけどー! あっははははは!」
3人が愉快そうに笑っているけれど、僕はそれどこじゃない。全身を襲う熱気が、身体を内側から作り変えていくのがわかる。骨はゴリゴリと軋み、関節の位置がおかしくなっていく。苦しみから出る呻き声が、だんだんと自分のハスキーな声ではなく、甲高い嬌声のような声に変わってゆく。苦しみから逃れようと頭を振ると、短髪にしていた僕にはない長い髪が顔に当たって鬱陶しい。
苦しみは続いていくが、それが落ち着く気配は一向にない。
「城のアイテム鑑定士に見せたら、半日ぐらいは身体を作り変える時間がかかるんだとよ。明日の朝ぐらいにでも見にくるからせいぜい気張れや」
「くっひゃっひゃ! タクト君教えてあげるなんてやっさしー!」
この苦しみが後半日も続くのか。
霧峰達は笑いながら部屋を出ていくと、外側から鍵をかけた。僕は誰の助けも呼べず、この部屋から出ることもできなくなった。もっとも、この城の中に僕を助けてくれたりする人はいなく、熱気を帯びたこの身体で逃げ出すなんてのは到底不可能なわけなんだけど。
延々と続く苦しみに、ついに事切れた僕は気を失い、眼が覚めた時にはただの少女となっていた。
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少女の身体にさせられ、それまでの扱いが改善することはなく、それどころかよりひどいものになっていた。
朝はメイドに水をぶっかけられて叩き起こされ、そのまま訓練をさせられる。
少女の身体になった僕は以前にも増して体力はなくなり、今までの訓練で得た筋力はなんだったのか思うほど貧弱な身体になっていた。それなのに出ているところは出ているのが恨めしい。女としては魅力的な双丘なんだろうけれど、それが自分にあってもなんの感慨もわかない。
訓練場を何周も走らされ、倒れると騎士に介抱される。介抱されるなら今までよりも扱いが良くなったように思えるが、なんてことはない、介抱と言う名の強姦だ。
勇者である霧峰拓人から許可をもらっているんだろう。少女になって1日目には騎士団に放り込まれてレイプされた。今思い出しても気が狂いそうになる。破瓜の痛みに泣き叫ぶもうるさいと殴られ、恐怖に怯え声を抑えたまま騎士に身体を委ねる。
気持ち悪くて気持ち悪くて何度も死にたくなる。けれど、それは許されなかった。
行為の最中は薬を盛られる。いわゆる媚薬であるが、中毒性があり麻薬のようなものでもあった。それが僕の思考を奪い、快楽の波へと誘っていく。何度も何度も欲望の捌け口にされ、僕の意思とは無関係に僕の身体はそれを受け止める。薬でぐちゃぐちゃになった身体と精神は、行為が終わった後に九重真奈に癒される。聖女の癒しの光は、薬で乱れた僕の意識を正していき、正常になった僕の頭は先の行為を思い出すとひどい拒絶反応を起こす。何度も何度も嗚咽に苦しみ、飲まされたものを吐き出そうとしてしまう。それを見た九重が鬱陶しそうに、あるいはストレスを発散するかのように僕を殴りつけ、聖女とはいえ魔物と戦っている彼女と僕とでは力の差がありそのまま気絶させられる。
そして朝が来ると、行為の所為でひどい匂いをしている僕にメイドが水をかけるのだ。「汚らしい雌豚、早く匂いを落としてください」ってさ。
そしてついには王や貴族、宮廷魔術師までもが参加し始めた。いつしか僕の部屋は地下牢へと移っていき、そこが行為をするだけの部屋となっていた。
「へっへっへ、いやぁ、あのクソガキの訓練なんて面倒だと思っていたけどよ、こりゃあ役得ってもんだぜ。元がクソガキだと思うと気が楽ってもん、よっ!」
「てめぇ中に出してんじゃねぇよ、後に使うやつのことも考えろよ」
「へへっ、こいつの具合がいいのが悪いのよ」
騎士団の連中が容赦なく僕の中に欲望をぶちまける。もう、何かを感じることもなくなってきた。薬を飲まされた状態では思考もまともに働くことはない。舌を噛んで死んでやろうかとも思ったけれど、そんなことをできる体力すらなかった。
そのうち思考することをやめてしまい、僕はただ人形のように男達の性のはけ口と、女達のストレス発散の道具と成り果てていた。
そのうちに、騎士団にも飽きられ、霧峰達は王宮から旅立ち本格的に魔王を倒すための旅に出て行った頃、1人の貴族が俺の身柄を預かって行った。
その貴族、アルフレッド侯爵はかなりのキワモノで地下牢でぐったりと倒れていた僕に奴隷の首輪をつけ自分の屋敷へと連れて帰った。
奴隷の首輪とはその名の通り奴隷につけるための道具で、その首輪をつけた主人に対して絶対服従になってしまう最低最悪の道具だ。侯爵は僕にそれをつけると、普段は侍女として屋敷内の仕事をさせ、夜になると呼び出して欲望の限りを吐き出してきた。
それだけならまだ良かったのだが、このころになると常日頃から意識的に女としてしっかりと振る舞うようにと言われ、心も身体擦り切れた私はもうそれを緩慢に受け入れていた。僕という男が使う一人称を使うなと私と言うようにさせられ、女としての立ち振る舞いや常識を身につけさせられた。
私にはもう何も残っていなかった。元より何をする自由もなく、人権すら奪われ娼婦の真似事をさせられた挙句に、男だったというちっぽけなプライドも、この首輪に奪われた。もう涙すら出てきやしない。感情すらも失ってしまったのかもしれない。……私はどうして、未だに生きているんだろう。
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半年ほど過ぎたある日のこと、同室の奴隷仲間であったナターシャにこっそりと声をかけられた。ナターシャは魔族の奴隷で、どうも2ヶ月ほど前に霧峰達が捕まえたようだった。魔族だからすぐに殺せと言われてはいたが、見目麗しい見た目とサキュバスという種族特性故に侯爵様が奴隷にして連れて帰ってきたのだ。
「あなた、ここから出たいと思わないの?」
「…………」
私は何も答えなかった。ここから出ても生きて行く手段なんて身体を売るぐらいしか思いつかなかったからだ。それならばここでこうしているのとなんら変わりはないと思う。相手が侯爵様かその辺の冒険者かという違いだけだ。
けれど、そんな私のことは無視してナターシャは語る。
「私はね、ここを出たい。そして、あのうざったらしい侯爵に復讐してやるのよ。いくらサキュバスだからってあんなヒキガエルみたいな奴の相手なんてごめんよ。何度殺してやりたいと思ったかわからないわ」
ナターシャは小声で、だけどはっきりと怒気をはらんだ口調でそんなことを言った。
復讐、か。私だって、できることならそうしたい。けれど、私には何もできないのだ。力も魔力もなくて、奴隷の首輪で意思すらも奪われる。そんな状態で何ができるというのだろうか。
……けれど。
「……したい」
「え?」
「私だって復讐したい。あの侯爵も、私をこんな世界に呼んだ魔術師も国王も、集団で犯しまくってくれた騎士団の連中も、何よりも私を何度も殴って蹴って、挙げ句の果てにこんな身体にしてくれたあいつらを殺してやりたい!」
「ちょっ、声が大きい!」
自分でもびっくりした。私にまだこんな感情が残っていたんだと、そんなことにびっくりした。
自然と大きくなっていた声をナターシャが口を塞いでくれた。どうやら他の使用人には気付かれていないようだ。ホッとしてため息を1つついた。
「アオイあなた、毎日死人みたいな顔をしていたけれど、そんな元気があったのね」
「自分でもびっくりしたよ。私の心は死んでいたと思っていたのに」
それから、ナターシャと色々な話をした。元々男だって話した時は大層驚かれたけれど、「そんな風に見えないのは首輪とか侯爵のおかげかな」なんて言われてまた気持ちが沈んでしまいそうになった。
ナターシャも噂程度に私のことは知っていたようで、だけど私の身の上話を深くしてあげると、泣きながら辛かったねっていって抱きしめてくれた。人の温もりってこんなに暖かかったんだなと、久しぶりに思い出した。
「決めたわ。あなたも一緒に魔族の国に行きましょう。最悪私が養ってあげるから!」
「魔族の国に行くって、この首輪がある限りどうしようもできないでしょう……。でも、連れ出してくれるなら、ナターシャといっしょだったらどこでもいいよ」
魔族の国ということは魔王がいる。この世界を滅ぼそうとするような存在がいるところの近くなんて、冷静に考えれば行くだなんて思わないのだけど、この時は本当に、ナターシャと一緒だったらどこに行ってもいいと思えた。
「決まりね。明日は忙しくなるから、遅くなったけど今日はもう寝ましょう」
そしてその翌日。夜のお勤めの最中にそれは起きた。
遠くの部屋から爆発音が聞こえてくる。聞こえた直後に、屋敷の警備をしていた騎士が部屋の側まで駆けてくる音も聞こえ、私はそこらに投げ捨てられ、近くにあったシーツを身体に巻きつけた。侯爵様もガウンを羽織り、ドアのそばで騎士と話をしている。
「一体なんの騒ぎだ」
「はっ、賊が侵入してきました。すぐに処理いたしますが、大規模な魔法を使ってきましたので、念のためにこちらに」
「いいからさっさと片付けてこい」
そんなやりとりをしているうちに、騎士の断末魔が多く聞こえるようになってきた。
私はどうでもいいと考え、次は山賊にでも輪姦されるのかと考えていた。
けれど、起きていたのはもっとすごいことだった。
「ひっ、ひぃぃ! なんなのだ貴様らは!」
この部屋にその賊とやらが入ってきた。侯爵様は丸腰なので後ずさって逃げている。
「お初にお目にかかります。ヴァンパイアのイレーネと申します。まぁ、2度と会うこともないと思いますがよろしくお願いします」
「アオイ! 助けにきたわ!」
暗がりでよく見えないが、ヴァンパイアと名乗った女性の横にナターシャの姿がある。
助けに来たといっているから、彼女は最初からここに助けが来ることを知っていたのだろう。
「アオイ! 貴様奴隷ならワシを守らんか! この抱かれることしかできないグズが!」
侯爵様がそう叫ぶ。私はその声に逆らうことができず、ベッドの側に護身用に置いてある短剣を持ち、それをナターシャに向ける。
「ひひっ、ナターシャ! 貴様も何をしているんだ。そのヴァンパイアを取り押さえてワシを守らんか!」
けれど、ナターシャは動く様子はない。
ナターシャの前に立った私にはわかる。彼女は、奴隷の首輪をつけていなかった。
「ナターシャ、彼女がそうなのですか?」
「はい、例の目的の少女です。ただ、私個人としても助けてあげて欲しいのですが」
「ええ、もちろんです。こんなに非人道的なことが許されるはずがありませんもの」
イレーネという女性が指をパチンと鳴らす。私の首についている嫌なものがピキリと音を立て、そして砕け散った音が聞こえた。
誰に何を言われなくても、わかる。私の首から奴隷の首輪が外れたのだ。さっきまで侯爵様だと思っていたものが、薄汚い豚にしか見えなくなる。
イレーネさんに頭を下げ礼をして、私は後ろを振り向いた。
侯爵はしきりに「あいつを殺せぇぇぇ!」と叫んでいるが、すでに外の音は聞こえてこない。きっと騎士は全滅してしまったのだろう。
「な、何をしておる。貴様は恩を忘れたのか。それとも王宮の地下牢にまた放り込まれたいか! 勇者殿と違って、貴様のような何もできんクズはワシの言うことを素直に聞いとけばいいのだ!」
侯爵は叫ぶ。けれど、私の耳には届かない。
手には短剣があった。相手は地面に這い蹲り、すでに壁際まで後ずさっている。窓から逃げようとしていたが、黒い影のようなものに壁に貼り付けにされてしまった。
ふと見ると、隣にはナターシャがいた。彼女の手にも短剣がある。
「アオイ、これは私の獲物でもあるんだから、独り占めはダメだよ」
「……あぁ、それは、ごめん。じゃあせーのでやろうか」
「やめろ! 貴様ら、主人の命令が聞けないのか! 魔族や役立たずのくせにワシを殺すつもりか! はなせぇぇぇぇぇぇぇ!」
侯爵の声がうるさい。ナターシャは私の言葉に頷くと、短剣を頭の上に振りかぶった。私もそれに続く。
「侯爵様、今日までお世話になりました。後、エッチは下手くそだから気持ちよくなかったです」
「私も、お世話になりました。あの地下牢から出してくれたこと、ナターシャと出会えたのはあなたのおかげだと思います。でも、私をこんな風にしたことは許せないので、死んでください」
どちらからともなく、せーのと掛け声を合わせる。
2人仲良く心臓に短剣を突き立て、グリグリと抉る。侯爵の胸元から、まるで花が開くかのように染みが広がっていく。こふっ、かはっ、と呻き声を出し、口から血を垂れ流し白目を剥き侯爵は死んだ。
初めての人殺しは、あっさりと終わってしまったけれど。不思議と達成感がこみ上げて来る。
そうか、これが復讐なんだ。自分がされて来た仕打ちを何倍にもして返してやる。これが復讐なんだ。
侯爵の汚い死体を見る。口角が釣り上がっていくのが自分でも分かる。久しく忘れていた感情が、ふつふつと湧き上がって来る。嬉しい? 楽しい? 違う、もっと何か、恍惚とでも言えばいいのだろうか。
「……あっはぁ」
何人にも輪姦された時にも出なかった甘美な声が自然と口から溢れる。
人を殺してこんな感情が出て来るなんて、やっぱり私の心はおかしくなってしまったんだろう。
けれど、この快感はどうにも忘れることができなさそうだった。