風呂場の怪
ざああ。勢いよく滴る水の音が風呂場の壁に反響する。落ちてくる大量の水滴で髪を濡らした。ただ一人しかいないから、その家は流れ落ちる水の音で満たされていた。他には何の音もない。
俯いて髪を洗う。椅子に座りシャンプーが目に入らないように下を向くと、視界は大半が自分の肌色で埋まっていた。いつものようにそうして洗髪していると、不意に、自身の後ろが気になった。
当然背後には何もない。そんなことは分かっている。ただこうして俯いて髪を洗っていると、時々ふと、背中をヒヤリと寒々しい感覚が襲うことがあった。なんとなく、背中の後ろの温度がほんの一度、下がったような。
以前は漠然と不安を覚えてちらと背後を見ることもあったけれど、それは当然、気のせいで。だから彼女は、不安にかられて後ろを見ることはない。
かたん。
ぴた、と髪に触れる手が止まった。扉の向こうから、何かの物音。背後の空間の温度がもう一度、下がったような気がした。きっといつもの気のせい、と髪に触れた手を動かそうとして、
…かちゃり。
―気のせいではない。凍り付いたように俯いたまま動きが止まる。背後で聞こえた。風呂場と部屋を隔てる扉のドアノブに手を掛けた音だった。
不審者だろうか、いやきっと違う、扉はまだ開いていない。性犯罪者ならとっくに扉を開けている。恨みで殺しに来ても同じこと。空き巣ならこちらに構わず部屋を物色するだろう。では背後でノブに手を掛けたまま、扉も開けずに静止するそれは何なのか。
ひゅう、細く開いた隙間から風が入り込み背に当たる。シャワーから落ち続ける水滴の音に混じってほんの小さく扉が軋む。ぴしゃ、ぴしゃ。ふたつ濡れた音がして、背後の気配が大きくなった。
じい。
背後の気配は濃くなるばかりで、それは痛いほどに視線を浴びせてくる。ただ身動きも視線を動かすこともままならない。するとそれはぬう、と体を伸ばし、肩口から顔を覗き込んできた。
「………!」
酷く細い吐息が触れる。顔をほんの僅か、上げればすぐにそれと目が合う程の至近距離。瞳は恐怖で見開かれていた。それを視界に入れようと動く眼球を意志で押さえつけ、自身の肌色をただ焼き付けるように見つめる。
ふと、ずるり、覗き込まれる肩口から動くものが差し込まれる。最初に視界に入ったのは指だった。蝋のように青白くさりとて蝋と断ずるにはあまりにも生々しい指。それはずるずると降りてきてすぐに手になり腕になる。自分の足の肌色とまるで違う青白いそれはしかし確かにつくりものの蝋ではない本物の腕でそれはずるりずるりと降りてきて足に触れようと、
「…っ!」
ばっ、と顔を上げて後ろを振り向いた。背後には誰もいない。蝋のような腕も、一瞬のうちに消え失せている。
けれど閉めていた風呂場の扉は開き、風呂場の外へと濡れた足跡が続いていた。