チカンを撃退する。
――翌日。
「おはよう。カノウケイイチロウ」
口が勝手に動く気持ち悪さと、自分の声で慧一郎は起こされた。
「夢じゃなかったんだ……」
「その通りだ」
端から見ると一人芝居のように慧一郎は会話をしていた。
(声に出さないでください)
(ああ、そうだったな。すまない)
思念で謝られ、彼はもやもやっとした気持ちになりながら、体を起こす。
いつもの癖で時計に目を向け、悲鳴を上げたくなった。
(遅刻だな。遅刻)
(まだ遅刻ではありません)
ヒューにそう答えながら、慧一郎は洗面所に向かう。
いつもより一時間も遅い目覚め。
しかし、それでも始業時間より一時間半も早い。
自宅周辺から会社周辺の駅まで電車に乗って三十分。徒歩も合わせれば片道四十五分の通勤時間だった。
ラッシュアワーにぶつかるのが嫌で、彼はいつも二時間半前に目覚め、早めの電車に乗り、会社の近くの公園で朝食を済ませる。
朝食は買い置きしている菓子パンに安売りしていた缶コーヒー。
それが彼の定番の朝だ。
だが、今日は朝食を食べる余裕はなさそうだった。
(ラッシュアワーか……)
(カノウケイイチロウは人が多いのは嫌いなのだな)
(はあ)
同居宇宙人のヒューに律儀にそう返しながら、慧一郎は歯磨きを終える。
そして顔を洗おうとしてふと気づいた。
「え??」
鏡の中に見たこともない人物が写っていた。
髪色と目の色は同じだが、輪郭、目の形、唇の形すべてが違っていた。
こんな顔であれば、人生得をするだろう、そんなハンサムな男が驚いた顔をして、慧一郎を鏡の中から見返している。
まさかと思いつつ、彼が頬を触るとその人物も同じ動作をした。
「ええ??まさか、僕なの?」
「カノウケイイチロウ。どうしたのだ?正真正銘君だぞ」
質問したわけではないのだが、混乱している彼にヒューは淡々と答える。
「これは僕じゃない。僕の顔じゃない!なんで?ヒューさん。なんてことしてくれたんだ。これじゃ、誰も僕だってわからない!仕事にもいけないよ!」
余りの驚きと衝撃に思念ではなく、言葉はすべて声になる。
「あ。その顔は君ではなかったのか。大丈夫。元に戻せるぞ。どんな顔だったのか、写真でも見せてくれないか」
洗面所で肩を落とし、絶望に打ちひしがれる慧一郎に少しだけ同情したように、いつもよりやわらかい口調でヒューはたずねた。
唇が勝手に動き、声を発する。
その気持ち悪さを堪え、慧一郎は立ち上がり、鞄の中から会社のネームタグを取り出す。それは社内の身分証明を備えており、写真がついていた。
「なるほど。このような顔なのだが。ちょっと鏡を見てくれるか」
(声を出さないでください。気持ち悪いので)
(あ、すまない。忘れていた)
本当に忘れていたのか、そう文句を言いそうになるが、顔を元に戻してくれるのが先だと、慧一郎は静かに洗面所の鏡の前に立つ。
顔をつねられる感覚が一瞬だけした。
その瞬間で、彼の顔は変化していた。
(あ!自分の顔だ)
(そうか。よかったな。私の体は変幻自在だ。どんな顔にでもしてあげられるぞ。ちなみに手などもこのように変化可能だ)
慧一郎の安堵した様子に調子に乗ったのか、彼の手がぐにょっと変化して、タコ足のようになる。
「ひぃいいい。やめてください!!」
自分が映画の中のエイリアンになったような気がして、慧一郎は悲鳴を上げる。
「そうか。これは嫌いか」
その反応を見て、ヒューは手を元の形に戻した。
(……もう何もしなくてもいいです。あと声を出すのもやめてください)
(すまない。わかった)
本当に反省しているのか、慧一郎は少し怒りを覚えながらもう一度鏡を確認する。
顔は自分の顔のままだった。
大きく息を吐いて、彼は洗面所を出た。
ふと目覚まし時計を見ると、すでに八時。
完全にラッシュアワーに重なる時間だった。
(すまないな)
(もう。いいです)
慧一郎の思念を読み、ヒューは謝る。
それを彼は受け流して、支度を整えるとアパートを出た。
大嫌いなラッシュアワー地獄。
久々の押し寿司体験を味わいながら、慧一郎は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
宇宙人と同居生活。
早く終わらせたいと切実に願わずにはいられなかった。
(カノウケイイチロウ。あれはなんだ?)
彼の不満だらけの気持ちはヒューにただ漏れのはずなのだが、懲りた様子もなくヒューはそう聞いてきた。指も勝手に動かされ、慧一郎の不満はさらに増した。
しかし、指先の光景を見て、眉を潜める。
中年の男が女子高生のお尻を撫でていた。
(あの女人は嫌がっているようなのだが、やめさせないでいいのか?)
(………)
慧一郎に迷いが生じる。
ここで止めるべきか、面倒からは遠ざかるべきだという迷いだ。
(放っておいていいんです。嫌なら彼女自身が言うべきだから)
慧一郎は後者を選び、逃げるように視線を逸らす。
しかし、同居の宇宙人は違った。
(君は迷っていた。しかも止めるという選択が正しいことも知っている。どうして止めないんだ?あの女人は嫌がっているではないか)
「その手を離すのだ」
慧一郎が気づくよりも早く、体と声は動いていた。動きが取れないはずの満員電車の中で、女性の元へ素早く移動し、言葉と同時に男の手を掴む。
「何をするんだね。君は!」
「あなたは先ほどその女人の体を触っていた。しかもその人は嫌がっていた」
「何を!」
恥ずかしさを誤魔化すように中年親父は声を荒げた。
当事者でありながら、傍観者のようになっていた慧一郎は、男が拳を振り上げるのを見た。
しかし、丁度よく電車が駅に到着し、男は逆切れさながらに舌打ちすると電車を降りていった。
数人乗客が降りたが、新しい乗客が乗車し、電車は再び走り出す。
助けた女子高校生と隣同士になり、慧一郎はどうしていいかわからずに手摺を掴み、視線を逸らす。
無責任なことにヒューは問題解決と思ったのか、だんまりを決め込んでいる。
「あ、あのありがとうございました」
「……いえ」
女子高生は、黒髪の可愛いより綺麗という言葉が似合う女の子。
ぺこりと頭を下げられたが、慧一郎は短く答えただけだった。
彼自身は彼女を助けるつもりはなかった。
だから礼を言われる筋合いはなかった
次の駅で女子高生が降り、慧一郎は息を吐く。
(どうして何も言わないですか?あなたが助けたんですよ。僕ではなく、あなたが)
ヒューが何も言わないので、そう問いかけた。
(君も助けるつもりだっただろう)
(まさか。僕は助けるつもりはなかった。知っているでしょう?)
(それでも助けるほうが正しいとは知っていた。私の行動を止めることもしなかった)
(僕が気づくよりあなたの行動が早かっただけです。今度から僕の体を勝手に動かすのはやめてください)
慧一郎が怒りを込めて思念で伝えたが、ヒューは答えなかった。