side 逃亡
辺りは既に暗く、森に住まう夜行性の動物や魔獣以外が寝静まった頃。
〈イアナッコの森〉の獣人族の居住区の一角、周囲の風景に全く溶け込んでいないプレハブ小屋の中。
一人の幼女が、寝床から体を起こした。
彼女は窓から差し込まれる月明かりに照らされた、同居人の間抜けな寝顔を見て小さく微笑んだ。
「……短い間ではあったが、悪くは無かったぞ」
そう言って、彼女の頬を軽く撫でる。
ヨージョはそして、プレハブ小屋から出て、夜の暗い森をたった一人で歩き始めた。
☆
夜の森は、言うまでもなく危険が多く潜んでいる。
深く茂った木々が、月や星の灯りを遮る。人間であるヨージョは獣人とは違い夜目が利かない。どれだけ暗闇に目が慣れたとしても、昼間のようには行動ができない。
そのため、必然的に彼女の歩みは慎重的になる。
彼女の耳に、がさごそという草木が擦れる音が届いた。そして……。
「っ!?」
その慎重に歩を進めていたヨージョの目前に、突如一匹の狼が茂みから姿を現した。
ヨージョは、びくりと肩を震わせる。
そのヨージョに、唸り声をあげる狼は素早く襲い掛かる。
開かれる咢、暗闇の中にあって、その牙は鈍い輝きを放っていた。
相対するは、非力な幼女。
本来ならば、叫び声を上げ、恐怖に涙を流しながら後退るところだ。
しかし、ヨージョはそのどれもしなかった。
――軽く体を逸らして狼の突撃を避けた後、ただ一言だけ告げたのだ。
「去ね」
その一言の効果は、大きかった。
ヨージョに襲い掛かった狼は、そのまま彼女の横を通り過ぎてから、一目散に背を向けて去っていった。
ヨージョはその背を眺めて、ホッと一息を吐いた。
スキル〈絶対命令〉。対象にある程度行動を強制させる能力だ。
魔力を持たず、耐性のないただの獣ならば、もしくは魔力量が少なく弱い魔獣ならば、今のように劇的な効果をもたらす。
ただし、それなりに魔力を有する魔獣ならば、ここまでの効果はありえなかっただろう。
効果がでるまでタイムラグがあるし、尻尾を巻いて逃げることもないだろう。精々動きを止めるのがやっとだ。
今回は運よく、無事でいられた。
今出会っていたのが魔獣であったなら。
もしくは狼の群れであったならば。
こうして生きていられたかは、分からない。
ヨージョは自らの頬を両手で打った。
油断はできない。目的地まではまだまだだ。
せめて国境警備隊の拠点に辿り着くまでは、幸運が続くことを祈るのであった。
☆
ヨージョは森を歩き続けていた。
これまでに数度、獣や魔獣の襲撃を受けていた。
しかし、幸運なことに魔力を持たない、単独行動をする獣や、動きの鈍いオークとの遭遇だったために、こうして今も無事でいられているのだ。
プレハブ小屋から出発してから、それなりの時間が経過していた。
しかし、道のりは半ばにも達していないことだろう。
もちろん油断はできない。いつ獣に襲われるか、分かったものでは無い。
……なぜそんな危険を冒してまで、なぜヨージョは獣人の居住区を抜け出し、国境警備隊の拠点に向かっているのか。
ヨージョは辛かったのだ。
自らに向けられる、悪意無き笑顔が。
ヨージョは怖かったのだ。
いずれ戦わなければならぬ彼らに、情が移ってしまうことが。
だから、逃げたのだ。
無事で済むかも分からなかったが、あのまま獣人と共に過ごすことは耐えられなかった。
だから、ヨージョは歩みを止めない。
自らの危険を省みずに。
☆
どれくらいの時間が経過したのか。
どれほどの獣や魔獣を退けたのか。
そして目的地まで、あとどれ位の距離があるのか。
ヨージョには分からなかった。
時折木々の隙間から覗く空を仰ぎ見れば、未だ星が瞬き月が顔を出す夜なのだという事が分かった。
幼い体には、ここまでの獣道を歩くのはきつい。確実に疲労が蓄積されている。
そして、先の見えない暗がりの森を周囲に気を配りながら歩くのは、もちろん精神的にもきつい。
これまでは運よく無事でいられているが、果たして今の状態で目的地に到着できるのだろうか? ヨージョの胸中に、不安が大きく息づき始める。
心身ともに弱り切ってしまっていたためだろう、今のヨージョの注意力は散漫だった。
だから、気付かなかったのだ。
周囲を魔獣の群れに囲まれていることに。
☆
ヨージョの目前に、一体の棍棒を手にしたゴブリンが姿を現した。
最低のコンディション、ヨージョは慣れない舌打ちを一つした。
しかし、ゴブリン一体ならば、退けることは容易い。
そう思い口を開こうとする、のだが……。
「んなぁ!?」
ヨージョは驚きの声を上げる。
ゴブリンの背後から、続々と現れる武装したゴブリンたち。その数は、片手では数えきれない。
これでは、対処しきれない。逃げよう、と思い背後を振り返る。
だがまたしても、驚かされる。
今度は、声も出ないほどに。
そこには、十を超えたゴブリンがいた。そして、ヨージョの周囲を取り囲んでいたのだ。
なんでこんな群れがここに? 人間一人にこの数のゴブリン? これは、妾をいたぶるつもりで……? 逃げ道は? いや、この数を相手に、スキルはどの程度通用する?
ヨージョには、いくつもの考えが思い浮かんだ。
しかし、そのどれもが、この危機を脱出できる機転では無かった。
ゴブリンは狼狽えるヨージョを見て、嗜虐的に微笑んだ。
そして、ゆっくりと彼我の距離を詰め、下卑た表情を浮かべて武器を振り上げる。
スキル〈絶対命令〉を発動しようとするも……恐怖のためか、ヨージョは声を出すことができない。
――もう、ここまでか。
ヨージョは諦観の表情を浮かべた。
低俗で下劣と言われるゴブリン。相手がこいつらでは、楽には死ねないのだろう、と覚悟を決めた。
その時だった。
鮮血が宙を舞った。
呆然と瞳を開くゴブリン。
それもそのはず、自らの腕が、いつの間にか切り落とされていたからだ。
自らの状況を把握しきる前に……痛みを知覚する前に。
ゴブリンの胸が、華奢な腕に貫かれていた。
ヨージョは、その光景を見て絶句した。
この数日、共に過ごしたその闖入者の姿を見た。驚きを隠せない。
「何故、お前がここにいるのだ……?」
目の前に突如現れたフィノに、ヨージョは尋ねた。
「話は後にゃ。まずはこいつらをかたずけにゃいとにゃ」
問われたフィノは、牙を剥きだしにして好戦的な笑みを浮かべた。




