【3】特別の証
帰り道、手をつないで歩く。
もう私は十八で、兄様は二十六だ。
そんな歳ではないと思うけれど、当然のように兄様が手を差し出してくるから、いつも手を繋いで帰っている。
「……ねぇ兄様。私達は鬼なんかではありませんよね?」
東雲の言っていたことが、どうしても頭から離れない。
本当は兄妹かどうかのほうがよほど気になったのだけれど。
違うよと返ってくるのを想像するだけで……とても恐ろしくて、聞けるわけがなかった。
「この国の人達は、人間以外の生き物をまとめて鬼って呼ぶからね。大きなくくりでは、ボクは鬼ってことになるのかも」
兄様はちょっと考えてから呟く。
――ボクらではなく、ボク。
そう、兄様は言った。
それはとても小さなことだったけれど、まるで私と兄様は違うのだと言われているようで胸が苦しくなる。
「ねぇ、もしボクが鬼だとしたらどうする?」
顔をのぞき込んで、冗談めかした様子で兄様が言う。
「兄様は鬼なんかじゃありません! 優しい兄様が鬼のわけないんです。鬼は私達を害する生き物で、相容れない生き物なんですから!」
鬼と呼ばれる辛さはよく知っていた。
強く強く否定すれば、兄様は目を見開く。
鬼を倒して、国を守る兄様が鬼だなんてそんなことは間違っている。
家では少しだらしないところのあるけれど、誰よりも強くて、格好よくて、優しい。
兄様は、自慢の兄だった。
「……そんなに怒らなくてもいいのに」
東雲の言っていたことを否定するように、普段にはない強さで言えば、驚かせてしまったみたいだった。
あっけに取られている兄様の手を、そっと握りしめる。
兄様の手はそれほど大きくない。私と同じくらいしかなかった。
小さい時は大人の手だと感じていたけれど、もう追いついてしまっていて。
そのことがまるで東雲の言っていたことを肯定するように思えて、苦しくなる。
「兄様も私も人間です。鬼なんかじゃありません。だから、そんなことは言っちゃダメです!」
「シーナは……本当に鬼が嫌いだよね。昔から強い退鬼士になるんだって言ってたし、もの凄く頑張ってるものね」
「……それは」
別に鬼に好きも嫌いもない。
倒すべき相手だと、幼い頃から言い聞かせられてきたからそうしているだけ。
頑張っているのはただ単に、兄様の隣に立つのにふさわしい人になる為だった。
「弱虫のままじゃ……いられないですから」
兄様にはまだまだ及ばない。
あまりにも大きすぎる目標が恥ずかしく思えて、いつか兄様の相棒になりたいんですという言葉は胸の中にしまう。
少し照れ混じりにいえば、兄様は頭を撫でてくれる。
そうやって撫でられるのがとても好きだった。
「そう言えば、最初出会った時のシーナは泣いてたよね。ボクに会えたのが嬉しいから泣いてるんだ、なんて強がり言ってさ」
兄様が思い出したように笑う。
頭を撫でていた手が、頬をなぞった。
兄様の目は赤紫の不思議な色をしていて、猫のように瞳孔が細い。
両手で顔を固定されて、じっと見つめられれば妙な気持ちになった。
「……シーナ、好きだよ」
「私も兄様が大好きです」
兄様はいつだって、私を好きと言ってくれる。好きと言われるのが嬉しくてそう返せば、はぁと兄様が溜息をこぼした。
「最初は兄様って呼んでくれるのが嬉しかったんだけどなぁ……」
常に笑顔を絶やさない兄様の、滅多に見ることのできない困り顔。
どこか苦しげで、痛みをこらえているようにも見えて不安になる。
「兄様?」
「そろそろ家に入ろうか。肌寒くなってきたしね!」
明るく言った兄様は、もうさっきまでの雰囲気を引きずっていなかった。
「兄様は兄様です。私の、大切な兄様ですから!」
ぐっと手を掴んで、振り向いた兄様の目を見て訴える。
「……そうだね。ボクはシーナの兄様だ」
兄様は少しの間の後にそう答えて、私の頭を撫でてくれたけれど。
何か、大きな間違いをしてしまったような気がして。
その日はよく眠れなかった。
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今日はお休みだったので、買い出しに行くことにした。
目的は日持ちのする食料と、新しい衣類だ。
昨日眠れなくて延々と考えた結果、兄様とこの国を出ようという結論が出た。
兄様は渋るだろうけれど、この国は私達に優しくない。
四方を海に囲まれているから、外に出るのは難しいかもしれないし、苦労もするかもしれないけれど、兄様と一緒なら何も怖くはなかった。
兄様はなぜか、私を故郷に連れていきたがらない。
故郷は遠いから、旅をするには私はまだ子供だとか、まだ早いとか。
色々理由をつけてはぐらかされてきた。
兄様が困った顔をするから、私もそれ以上は聞かなかった。
でも本当は、気づいてた。
私が本当の兄弟じゃないから――兄様が故郷に連れていってくれないってことに。
それを直視する勇気がなかったから、ずっと触れなかっただけだ。
東雲は意味のない嘘をつくような奴じゃないから、昨日言っていたことは真実なんだろう。
兄様と兄妹じゃないなんて認めたくはないけれど、いつまでも目をそらして泣いてるわけにはいかない。
兄様は優しい。
優しいから、あの日私の兄様になってくれた。
家族のいない私が大切にしていたあの手紙が、兄様が書いたものじゃないことも、本当はちゃんとわかってた。
私が兄様を望むから、兄様は兄様でいようとしてくれている。
嘘を突き通すために、故郷に帰ろうとしないし、私を連れていってはくれない。
例え血がつながっていなくたって、兄様のことを兄として慕っていると伝えよう。
そして、故郷に一緒に連れていってもらおう。
兄様を起こさないように家を出て、故郷への旅支度を済ませることにする。
私の押しに兄様は弱い。
覚悟を見せて、決意が揺るがないことを伝えれば、わがままを聞いてくれるはずだ。
「シーナ、今日はお客さんがくるから、夕食は豪華に四人分でお願いできるかな?」
寝ていると思っていた兄様に後ろから声をかけられ、心臓が跳ね上がる。
朝が弱い兄様は、いつも私が起こすまで起きない。
なのに、今日は珍しく自分で起きたみたいだった。
「わかりましたけど……珍しいですね?」
「最近、鬼の世界との空間が繋がりやすくなってるでしょ? それでそういうことに詳しい兄さんを呼んだんだ」
ふふっと笑って兄様がそんなことを言う。
「兄様の、兄様?」
「うん。本当は父さんが空間を正してくれたら手っ取り早いんだけど、面倒なことになる可能性が高いから、次に詳しい四番目の兄さんに来てもらうことにしたんだ。五番目の兄さんも一緒に来るってさ。シーナは、他の兄弟にずっと会いたがってたでしょ?」
他の兄様達が会いに来る。
それは、予想もしてなかった展開だった。
「兄様は、私を他の家族に会わせたくないのかと思ってました……」
「心外だなぁ。本当はシーナのこと、すぐにでも皆に紹介したいくらいなんだよ?」
本音を漏らせば、兄様は苦笑する。
「シーナは今から買い物に行くところだったんだよね。ボクも一緒に行くよ」
「えっと……じゃあ、お願いします」
少し悩んでから兄様の申し出を受けることに決めた。
明日も休みだし、旅の支度は明日すればいい。
それよりも他の兄様達に会えることのほうが、よっぽど重要だった。
そうだ、兄様の兄様達に事情を話して相談すれば、協力してくれるんじゃないだろうか。
それはとてもいい案のように思えた。
「あぁ、忘れてた。出かける前に、シーナにこれをあげる」
玄関先で兄様が振り返って、私の手の平に首飾りを乗せた。
紅の鱗のような飾りがついていて、触れれば鼓動するように紅色が色味を変える。鮮やかなその色に思わず見入った。
「綺麗……」
「気に入ってもらえたならよかった。付けてあげるね。特別なものだから肌身離さずに持ち歩いて、なくさないようにするんだよ」
耳元で兄様がそんなことを言いながら、首飾りを付けてくれる。
「特別って、高価なものなんですか?」
「一つしかないって意味で特別。これを付けていれば、兄さん達もシーナが自分達の妹だってわかると思うから」
愛おしげに兄様が私の頬に触れてくる。
くすぐったくて身をよじれば、その手が離れていく。
それを少し寂しく思った。
「シーナがボクの特別だっていう証だよ」
満足げに兄様はそう言って、私を眺める。
兄様の特別……。
その言葉に嬉しくなる。
私が兄様の妹でいたいと願っているように、兄様も――私を望んでくれている。
そう思ったら、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「ちょ、ちょっとシーナ、何で泣くの!?」
「私、兄様の……妹でいて、いいんですよね? 例え、血がつながってなくても……本当の兄弟じゃなくても。兄様の妹でいてもいいんですよね?」
兄様が息を飲んだ音がした。
「本当は気づいてたんです。最初から。でも、兄様の妹でいたかったから、見ないふりをしてました」
しゃくり上げながら言えば、兄様が震える体を抱きしめてくれる。
「……血が繋がってなくても、兄だって思ってくれるんだ?」
「当たり前です……兄様はいつだって、私の大好きな兄様ですから」
「そっか、嬉しいな。でも、ちょっと複雑な気分だ」
ちゅ、と兄様が涙の残る目元に口づけを落とす。
「ふふっ、くすぐったいです兄様……」
戯れに髪や頬に、兄様の唇が触れる。
子供にやるみたいだと思いながら、それを受け入れていたら。
その唇が、軽く私の唇に触れた。
「にぃ」
戸惑いから兄様と口にしようとすれば、唇に人差し指を押し当てられる。
「ごめんね、シーナ。ボクはシーナのこと、随分前から妹だなんて思ってないんだ」
それはどういうことなのか。
ぐるぐると回る頭の中で、情報が整理できない。
目の前の兄様は、見たことがない顔をしていた。
もう一度兄様の顔が近づいて、口づけてくる。
いとおしむように頬を手で包み込まれて、その体温を間近で感じた。
熱い舌が私の口の中でうごめいて、くらくらとして。
今起こっていることが現実なのかすら、わからなくなる。
ゆっくりと兄様の唇が離れていく。
「ちょっと予定より早いのが残念だけど。もう……一緒にはいられないね」
そう、兄様は悲しげに呟く。
くったりとした私の体を抱きしめた兄様の体は、少し震えてるみたいだった。
「シーナの側にいたくて、嫌われたくなくて、いっぱい嘘をついてきた。でも、シーナを愛してるのだけは本当だから。それだけは信じて?」
何か言おうと口を開く前に、強い眠気が襲ってくる。
術を使われたんだと気づいても、抵抗することもできなくて。
「ごめんね、シーナ。本当は……ずっと一緒にいたかったよ」
最後に見たのは、初めてみる兄様の泣き顔。
泣かないでと手を伸ばすこともできずに、私の意識は闇に落ちていった。