満月の夜に
この世界には、特異能力──略して異能と呼ばれるちからを持つ者──特異能力保持者──略して能力者が存在する。
特にこの国には、専門の研究、養成施設があり、その関係者が移住してくることも影響し、彼らの密度が高い。
能力者やその関係者専用の居住区、職業、教育機関もあるが、密度の上昇と環境の充実、どちらが先かは確かではないし、それはかなりどうでもいいことだ。
専用の施設に付属している教育機関の一つ──“学園”と呼ばれ親しまれているそこでは、異能以外についても最先端の教育、環境が享受される。そのため、毎年かなりの倍率の中から入学試験を突破し、入学してくる者たちには、知識は並で経験が少なく、常識の欠如した問題児が多かった。
入学式典を終え、クラスごとに分かれた正式な顔合わせで、浮かれている生徒たちの前に立ち、口角をつり上げたのは、朱の制服をまとう、少女にしか見えない講師だった。
ちなみにこの学園、制服の色が数種類から選択可能だが、選択肢に朱はない。
「私はあなたたちの担任であり、魔技科特殊講師のケシーよ」
魔法技術科学科──通称魔技科は、この学園が最も力を入れている教育分野である。
異能に関する研究、開発を行うための基礎を多くの実習を交えて指導するため、異能の扱いに長けている講師が多い。
「後ろにいるのは、わたしの助手をしてくれるハープとフィア。
ふざけなくても、異能の的にするなんて事が無いようにね?」
特殊講師は、非常事態に迅速に対応するために本来多くの制限を受ける異能の行使がある条件の下に限っては自由に認められている。
特に実習の多い魔技科には、特殊講師の割合が高かった。
魔法とは、仕組みがまだ殆ど解明されていない異能を総称したものの呼称だ。
「簡単な自己紹介をすると、私の異能は転移系全般。
──あなたたちの実技試験の監督も務めるから。
何か質問はある?」
ケシーは元気に手を挙げた少年を見やる。
「そこの……ケインくん?」
「はいっ
──先生の年齢はいくつですか」
「数えるのをいつからかやめてしまったから、正確なことはわからないけれど、20までは数えたわ」
生徒からのブーイング。
「ごめんなさいね。いつからか、面倒になってしまったのよ。他に誰か、いる?
──いないようね。また何かあったら、いつでも訊きに来てね。たぶんこの講義室にいるから。」
その後クラス全員が簡単な自己紹介をし、明日の試験について簡易的な説明を受けてから解散しようとしたとき、ケシーが今思い出したという風にどこからか籠を取り出した。
「1人1本ずつこのペンを配るから、私の講義の時は、必ず持ってきてね。これは約束。
誰かと交換したりとか、なくしたり捨てたり壊したりはもちろんダメよ?」
ケシーが広い講義室を見回し、自分の持っているペンを軽く振ると、生徒の座っている席の前の机の上に、1本ずつペンが現れ、籠の中のペンが減った。
結果から推測するとおそらく、籠の中のペンを同時に転移したのだろう。
「最後に、卒業するまで守ってほしい約束があります。
この約束を守ろうとする限り、私はあなたたちの無事の卒業を保証します。
──もしこの約束を守ろうとしなければ、その時は、容赦しないから。」
生徒たちの中には、笑う者もいた。
でも、笑うことができない者もいる。
それは、ある噂が原因で。
この学園には、いくつもの噂がある。
嘘らしいが本当のもの、この学園では笑い飛ばすことのできないもの、恐ろしいもの。
そのうちの一つに、ある年の卒業生に関するものがある。
* * *
ある年の新入生は、ごく一部の者しか卒業まで在学することが叶わなかったという。
毎年、異能の暴走や国力低下を目的としたテロ行為などの巻き添えとなり、少なくない異能者──特に異能の扱いにまだ慣れていない新入生が亡くなるか、精神的要因により異能が使えなくなり退学していく。
だがその年は、例年にないほど多くの死傷者が発生した。
原因は、とある生徒の異能の暴走、それに伴う二次被害が主なもの。
原因となり、クラスメイトを含む多くの異能者を死傷させたその生徒は、その貴重な能力故に退学は免れ、代わりにペナルティを課されて卒業を果たしているらしい。
その生徒の異能は、かなり強力な転移系だといわれる。
転移系の中でも稀な、契約した生物を任意の座標へ転移──召喚とも呼ばれる──する能力を召喚術と呼ぶ。
その生徒が持つといわれているのは、その召喚術の中でも稀な、この世界とは異なる世界──異界から、使い魔──人型の高位召喚獣──を召喚するものだ。
その使い魔の能力が、多くの異能者を再起不能に陥らせたという。
そして、その生徒の大きな特徴が、照準をあわせるのにペンを用いるということ。
それに、約束に、なによりも重きをおくこと。
その生徒との約束を破ったものは、異能の暴走とは関係なく退学に追い込まれたという。
* * *
それは、単なる噂にすぎないのかもしれない。
その生徒の名前は明らかでないし、閲覧制限のかかっていない文献には載っていない上、知っているはずの古い教員も口を閉ざしているために真実が定かではないのだ。
噂には何種類かの続きがあり、その後学園の教師になったというものもある。
もしそれが本当で、その噂の生徒がケシーであれば、約束を守ろうとしなければ容赦しないというその言葉が、冗談ではなく命に関わるかもしれないのだ。
「守ってほしい約束は、みんなで卒業しようとすること。それだけよ」
今度は、多くの生徒が笑った。
ケシーも、ハープも、フィアも、一緒に笑った。
「では、これにて解散。
みんな、明日の試験は実習に近い形でやるから、異能を使うのに必要なものがあったら忘れないでね。
あと、今配ったペンも。」
生徒たちは、それぞれ講義室を出ていった。
このまま帰路につく者が殆どだろう。
講義室の後ろで生徒たちとケシーを見下ろしていたハープとフィアも部屋を出ようと動き出したその中で一人、動かない少女がいた。
彼女に声をかけるのは、ハープだ。
「ケイトさん、今日はもう講義もありませんが、どうかしましたか?」
「あ、ハープ先生……あの、ケシー先生について、訊いてもいいですか?」
少女──ケイトは、転移の異能を持つ。
自分、もしくは対象物を任意の座標へ転移させるだけのものであるが、汎用性も低くない。
「私に応えられる範囲でなら、どうぞ?」
「単刀直入に訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
ケイトは少し迷った後、口を開いた。
「ケシー先生は、召喚術が、使えますか?」
「使えますよ」
ハープはためらいなく答える。
「契約しているのは、使い魔──ですか?」
「いいえ。
今契約している使い魔はいません。
確か、今はなにとも契約していなかったはず。」
ハープの物言いに引っかかりを覚え、ケイトは続けて訊ねる。
「今までに、使い魔と契約していたことが、あるんですか?」
「ありますよ。」
「何柱ですか?」
「2柱、同時に。」
“柱”は、召喚獣を数える時に使う単位だ。
「……ハープ」
「フィア」
ケイトが次の質問を発そうとしたとき、フィアがハープに声をかけた。
「あんまりケシーさんの個人情報ぺらっぺら洩らしたらダメだぞー」
「このくらいいいかと思うのですが?」
「いいとおもうけども、本人がいるんだし」
フィアの示す方では、ケシーが何事か教卓の辺りをいじっていた。
「ケイトさんも、本人に訊いてみたらどう?
──きっとハープに訊くのとおなじくらいなら教えてもらえるよ?」
「えと、……すみません、ちょっと、気になってしまったもので」
「どうしてそんなに、ケシーさんの異能について訊くの?」
「その……祖母が、召喚術を使うので、ケシー先生も同じような異能を使うようなので、興味がわいて……
し、失礼しますっ」
ケイトはそそくさと荷物をまとめると、逃げるように講義室を後にした。
「あんまり生徒をいじめないでね、ハープ、フィア」
「わかっています、ケシーさん」
「わかってますよ、ケシーさん」
* * *
翌日、まだ人が疎らな廃墟を利用した実習場で、ケイトは瓦礫に背を預けて座っていた。
早く来すぎたかな。
「ケイトさん、早いですね」
声に振り向くと、そこにいたのはハープ先生だった。
「……おはようございます」
とりあえず、挨拶をしておく。
「おはようございます。
──開始までまだ時間がありますので、お話でもしませんか?」
「はい──あの、他の先生は……?」
「ケシーさんとフィアは実習場の点検をしています。
私は生徒の数を確認する係なので、一足早くこちらへ参りました」
「そうですか……」
どうしよう。話すこと無い。
気まずい沈黙が流れるかと思ったら、ハープ先生が口を開いた。
「ケイトさん、昨日言い忘れていましたが、私とフィアは、ケシーさんの助手であって先生ではありません。
なので、先生という敬称は適当ではありません」
「えっと……?」
「なので、ハープと呼び捨てにするか、他の敬称にしてくださいませんか?」
「……ハープさん?」
「それでお願いします。」
ハープ先生改めハープさんはにっこりと微笑んだ。
「ところでケイトさん、試験の内容はご存じですか?」
「いいえ?」
「では、予習をしておきましょう」
「……いいんですか?
その、他の生徒たちには言わないのに……」
「後でみなさんに伝えることです。問題ありません。
──ペンは持ってきていますね?」
少し戸惑った後、昨日ケシー先生に配られたペンの事だと思い当たり、ウエストバッグから取り出して見せた。
「はい。よろしい。
ペンを持っていないと参加資格が剥奪されますので、持っていない方を見つけたら少しくらい試験開始に遅れてでも持ってくるように伝えてください。そうしないといきなりの退学は、私も哀しいですから」
そんなにこのペンが大事だろうか。
見たところふつうのペンだし、色も何種類かある。
「今日の試験内容は、この試験場の出口へたどり着くことです。
途中は迷路のようになっているので、数人で班をつくって協力してもらいます。」
「班……?」
そういうの、苦手なんだけどなぁ。
「勝手にこちらで異能を基準に割り振りました。
すべての班で殆ど同じことができるような構成にしてありますよ。
ちなみにケイトさんは、ケインくんと同じ班です。」
ケイン……何かしらの可燃物が存在する場で炎を自在に出現させたり操る能力をもつ、常識もそこそこある少年だ。
「瓦礫をどかしたり、積み上げたりしないと出口までたどり着けません。その過程を私たちは視ていますので、ケイトさんは心配ないと思いますが、サボっていたら減点ですよ。」
「あの、みているって、異能でですか?」
「それは秘密です。ですが、試験場内にはいくつも異能を関知する機械が設置されていますよ」
「……ハープ──さんの異能は、何ですか?」
「私の?」
「はい。」
「なんと言えばいいのでしょう……。
簡単にいうと、破壊、ですね。」
「破壊?」
そんなの、聞いたことがない。
「たとえば──、」
ハープさんは、生えていた草を掘り起こし、根が抱え込んでいる土ごと手の上に乗せた。
そして、美しい旋律を奏でた。
「このように。」
とたん、草は枯れ、土が細かい粒子となって風にさらわれた。
何が起こったのか、わからない。
これはたぶんまだ魔法に分類される異能だと思う。
「ハープッ!」
「フィア。」
ハープさんはフィア……さん?に呼ばれて振り向きながら、手に乗せていた枯れ草を地面に落とした。
ハープさんの手から放れたとたん、その枯れ草もまた、細かな粒子となって風にさらわれてしまった。
「点検は終わったの?」
「不用意に能力を行使するな!」
暢気に問うハープさんに、鬼気迫る形相で詰め寄るフィアさん。
対照的な両者は、どこか似ていた。
浮き世離れした、現実味のないその容姿だろうか。
それとも、まとう雰囲気だろうか……。
「フィア、怒るのはダメよ。
ハープも能力を容易に使ってはダメ。」
そこへ、ケシー先生がフィアさんの後ろから姿を現した。
「点検は、一通りすませたわ。
──生徒はどのくらい集まった?」
訊かなくても見わたせば一目瞭然なことを、ケシー先生はハープさんに問うた。
「まだケイトさんだけですよ」
「そう。……遅いわね。
──あ、ケイトさん、おはよう。」
「おはようございます……。」
なんだか、ケシー先生の瞳の焦点が合っていないような気がする。
そこへ、一人の男子生徒が息を切らして駆けてきた。
「ジーン君、おはよう。
──どうしたの? 息を切らして」
その生徒──ジーンは、念動を使い、ものを動かすことができた。
「途中で、事故っちまって──」
彼は途切れ途切れにそう言った。
「他に誰かいたの?」
「何人か、ばったり会って──したら、なんか、岩が落ちてきて……」
「みんな、ペンは持ってる?」
「ペン? ──あぁ、これのことか。どうでしょう、わかりません」
ジーンはポケットからペンを取り出した。
「少し借りるわね」
ケシー先生はそれをとり、軽く振った。
すると、負傷した数名の生徒が折り重なるように現れる。
「ありがとう、ジーンくん」
そう言ってペンをジーンに返すと、ケシー先生はフィアさんの名を呼んだ。
それだけでフィアさんには何かが感じ取れたようで、ハープさんと協力して一人一人寝かせていった。
「ジーンくん、あの場にいたのはこのこたちだけ?」
「あと、カースとニレムも……他にも女子がいたと思う」
「そう。」
ケシー先生は自分のペンをどこかから出現させると、それを軽く振った。
すると、負傷した数名と戸惑っている生徒たち──それに先ほど転移されてきた生徒、ジーン、ケイトを合わせるとクラス全員が試験場前の集合場所に集まった。
「ペンを持っていないこは、次同じことをしたら無事の卒業を諦めなさい」
そう言い放つと、ケシー先生は追加で転移されてきた方の生徒を一人ずつ寝かせる作業にとりかかった。
私も手伝おう。
「ケシー先生、私も──」
「並べるのを手伝ってちょうだい」
怪我人を並べると、フィアさんが時々怪我に手を当てながら診ていく。
フィアさんの能力は、治癒か、再成か、そのあたりなのだと思う。
「フィア、危ないのは?」
「サン、ナレア、それにニレム」
「救護室へ運ぶわ」
またケシー先生がペンを振ると、サン、ナレア、ニレムの3人の姿が消えた。
「今日の試験は中止。
一週間後の夜、怪我のない者は実習をするからここに集合。
ペンを忘れないように」
「先生、ここ、どこですか」
ケインが訊いた。
「集合場所よ? でも急に転移してごめんなさいね。
じゃぁ、みんな自宅近くまで転移するから」
ケシー先生がペンを振ると、無傷の生徒たちが姿を消した。
ケイトは一瞬の浮遊感の後、目を開けるとそこは自宅の玄関前だった。
せっかく早くに集合場所に着いたのに、あっさりと転移されてしまったみたい。
次は一週間後──家に入って暦を確認すると、満月の日か。
* * *
「──今日は満月ね。
ということで、夜の実習にはもちろん私も行きますから。」
ケシー先生は、昼間の別の先生の講義を受けてからいったん帰宅しようとした私たちの元へわざわざ訪れると、そう言った。
やはり、焦点が合っていないような気がする。
「あの……ハープさん、ケシー先生について、訊いてもいいですか?」
講義室を訪ねると、ケシー先生は外出中とのことで、ハープさんだけがいた。
「ケシーさんは生徒に沢山興味をもってもらえているようですね。
──なんですか?」
「ケシー先生って、目が悪いんですか?」
「いいえ。本来そんなことはありませんよ?
両目ともに通常時の裸眼の視力は2,7だそうです」
どうしてそんな端数まで知っているのか少し気になるけれど、仲がいいようなのでそれほど気にとめるようなことでもないのだろう。
「普段は、ちゃんと見えているんですか?」
「殆ど見えていないはずです。」
ハープさんは迷うことなく言い切る。
でも、ケシー先生は通常時の裸眼の視力はいいってさっき言っていたし、何か異常があったりといった様子には見えない。
「──……どうしてですか?」
「そういう呪いですから」
「呪い……?」
「学生時代に、少しやらかしてしまいまして──」
「ハープ」
また、ハープさんの言葉を遮ったのはフィアさんだった。
さっきはいなかったのに、どこからでてきたんだろう?
「どうしました? フィア」
「話の腰を折るようで悪いけれど、あんまりケシーさんの個人情報を洩らさないようにって言ったよね」
「あぁ、これは話さない方がいいことだったのですね」
「そういうこと」
「で、では、最後にいいですか?」
「何ですか?」
「ケシー先生は、目が見えなくて、どうやって世界を把握しているんですか?」
「主に、音ですね。
他の振動や、とにかく視力以外の感覚があれば、世界は案外容易に把握できるのですよ」
* * *
夜──実習は、何をするのかと思ったら、森の見回りだった。
最近は森の周辺でたびたび不審者が目撃されるらしい。
「何事もないといいけど、何かあったらペンを振ってね」
そういって、ケシー先生は自分のペンを軽く振ってみんなを見送った。
生徒たちは先週の試験で分かれるはずだった班に分かれ、少しの間森の中を見て回る。
異常があった場合は班の中に1人はいる、遠隔通信系の異能を持つ者がケシー先生に報告することになっていた。
* * *
そろそろ何事もなく見回りを終え、ケイトとケインのいる班が針路を集合場所でもあった試験場へ向け始めた頃、どこかで大きな音がした。
とっさにそちらへ振り向くと、ケインは炎を幕のように展開した。
それに当たって何かが燃え尽きる。
「何か来る!」
そう言ったのは、ジーンだった。
私はとっさに、転移を使った。ある指定座標に進入するものを、別の指定座標に送るものだ。
何かが引っかかった感触。
「とりあえず、みんな、集合場所へ!」
班長のような役割の男子生徒がそう言うと、私たちは固まって走り出した。
「順番に、私が転移する!」
走りながら、あらかじめ決めておいた順番に一人ずつ、試験場前へ転移していく。
残るはケインと私だけとなった時、ケインが倒れた。
今まで走りながら、時々炎が障害物を散らしていた。もちろんやったのはケインだ。
だからかなり消耗したのだろう。
一旦引き返してケインに触れ、転移させる。
私は一度使うと連続では転移を使えないから、走った。
枝に引っかけてすりむいたり、に木の根につまづいて、こける。
それでも走り続けようとした。でも、背後に何かの気配を感じ、足が動かなくなった。
ウエストバッグの中のペンを取り出すことも思い当たらず、もう次の転移が使えるのに、とっさに、異能を使うことなんて忘れて、腕で顔を覆って目を閉じてしまった。
でも、予想した衝撃は襲ってこなかった。
かわりに、初めてではない不思議な感覚に襲われた。
一瞬の浮遊感のあと、熱を奪う硬い地面を感じ、目をやると、下は岩場だった。
背後にも目をやると、一段高いところにはケシー先生と、その両脇にハープさんとフィアさんが立っていた。
ケシー先生の持つペンが私に向いていたから、きっと、ケシー先生に転移されたんだと思う。
眼下には、私がさっきまでいた森があった。
ここは、森を見下ろす岩場らしい。
「ケイトさん、怪我はない?」
「……──」
応えようとしても、声が出なかった。
まださっきの緊張が抜けていないみたいで、呼吸も苦しい。
「フィア。ケイトさん、大丈夫かしら?」
フィアさんが降りてきて、私を素早く観察した。
「大丈夫みたいだ」
背をさすってくれる。
「そう? 呼吸が荒いけれど」
「すぐに正常に戻るよ。
──ケイトさん、落ち着いてね」
辺りには、風の音しか聞こえない。
まるで、ついさっきまでのことが夢だったように。
そう思うと、ゆっくりと、落ち着いてきた。
「──他の、みんなは……」
「約束を守ろうとしている生徒は、皆安全な場所へ転移済みよ?
──もちろん、ケイトさんが試験場前に転移したこも」
「怪我も皆、大事無い」
「守ろうとしなかった生徒は、自分で対処しています。
──対処できない方が多そうですが」
森のどこかで、悲鳴が上がった。
閃光があがった。
夜行生ではない鳥が飛び立った。
ペンを振るものは、誰もいなかった。
* * *
「満月の夜には、決して、外へ出てはいけないよ」
おばあちゃんは、幼い私によくそう言った。
「どうして?」
「月の悪魔が、出るからね」
そう言われると決まって、私は尋ねるのだ。
「お月さまに、あくまがいるの?」
「お月さまにいるのではなくてね、お月さまのちからを悪いことに使う悪魔のことよ」
その悪魔は雲のない満月の夜に活発に動き、生者を見つけると酷いいたずらをするのだという。
時にそれは、命にも関わるほどのものらしい。
「お月さまに、あくまはいないの?」
「お月さまは、ライナ様が護っているでしょう?」
私は頷いた。
ライナ様は、死者の魂を死者の国のある月へ導き、綺麗な魂になるまで生きていたときの行いに応じた暮らしをさせる神様の名前。
「だから、悪魔はいないのではないかな」
最も悪い行いの者は、死者の国から追放され、酷い仕打ちを受けるのだという。
その酷い仕打ちを耐えた後ならば、死者の国へ行くことが認められるのだそうだ。
「じゃぁ、お天道さまにいるの?」
「お天道様は、ダルモ様が護っているでしょう?」
私はまた頷いた。
ダルモ様は、綺麗な魂を死者の国から生者の国へ生まれ落ちる命へと導く神様。
生者の国の入り口は太陽にあり、そこで魂と命をなじませてからこの地上に生まれ落ちるのだそうだ。
「だから、綺麗な魂に悪さをしないように、ずぅっと見張られていて、居心地が悪いのではないかな」
「じゃぁ、どこにいるの?」
「この地上にいるんだよ。
いつもは森に隠れていてね、満月の夜には、悪さをしにでてくるんだよ」
だから、満月の夜には外へ出てはいけないよ。
もし出なければいけないようなことがあっても、森へは絶対に、近づいてはいけないよ。
おばあちゃんは繰り返し、私にそう言って聞かせた。
でも私は、月の悪魔なんて今まで信じていなかった。
でも、本当にいたんだ。
悪さをする悪魔なんかじゃなくて、悪者を退治するヒーローみたいな人が。
つい、笑いがこぼれてしまった。
あんな寓話を、どうして今、思い出すのだろうか。
「ケイトさん、笑ってるの?」
森を見下ろしたケシー先生に訊かれるけれど、笑いが止まらなくて、まともに返事ができなかった。
「ねぇ、ハープ」
「何ですか? ケシーさん」
「もしかして、ケイトさん、笑っているの?」
「笑っておりますね」
ハープさんが笑った。
「……ねぇ、もしかして、ハープも笑ってるの?」
ハープさんは、応えず、笑い続ける。
フィアさんは、怪我人の治療に行ってくる。と言って、姿を消してしまった。
「ケイトさん、ハープ、笑ってない?」
「笑ってますっ」
やっと少し笑いが抑えられるようになって、私は応えた。
そのまましばらく、私とハープさんは意味もなく笑いあっていた。
「ねぇハープ。笑っているのはいいけれど、まだ終わっていないのよ?」
ケシー先生は、森を見下ろしたまま言った。
「ふふっ──そうですね──」
どこからか爆発音が聞こえるけれど、ハープさんは笑うことをやめられないようだ。
「ちゃんと義務は果たしてくれるの?」
「もちろんですよ」
「僕もいるからね」
どこからか、フィアさんが姿を現した。
「あらフィア、怪我人の治療は?」
「応急処置は終えた。」
「そう、じゃぁ2人とも、お願いね?」
ケシー先生はペンを握らずに手を伸ばした。
「ええ。」
「うん。」
ハープさんとフィアさんはそれぞれの足下に出現した魔法陣に呑まれ、姿を消した。
長く語り継がれている噂によると、卒業生が少なかったあの年のあの生徒の契約していた浮き世離れするほどに均整のとれた対の使い魔は、希望と絶望という、対の名を持つという。
能力も、それと同じものらしい。
「──ハバホーフ──ハバスフィア──おいでなさい」
その声に呼ばれ、ケシー先生の背後に出現した大きな2つの魔法陣からは、ハープさんとフィアさんによく似た使い魔が姿を現した。
とてつもなく大きい。
──使い魔の体の大きさは、殆ど使える魔法に比例するから、この2柱はかなり影響力の強い魔法が使えるということにつながる。
「残りをお願い」
ケシー先生が告げると、ハープさんに似た使い魔は笑みを浮かべ、頷いた。
フィアさんに似た使い魔と手を繋ぐと、大きく大気を吸いこみ、美しい旋律を奏で始めた。
──これは、ハープさんの声だ。
フィアさんに似た使い魔も美しい旋律を奏で始め、きれいなハーモニーがあたりを包んだ。
「ケイトさん、すぐ終わるから、そこを動かないでね」
ケシー先生のその言葉通り、それはすぐに終わった。
美しい旋律は、数分で終わった。
辺りから、音が消えていた。
「──ハープ、やりすぎていない?
フィア、ちゃんと護れている?」
ハープさんに似た使い魔は、頷いた。
「たぶん。」
フィアさんに似た使い魔はきれいな声で、そう言う。
その声を聴くと、何か、体の中から暖かいものが湧いてきた。
「まだ余韻が残っているわね。
もうちょっと魔法を洗練させなさい」
「いいじゃないか。僕の魔法は害はないんだし」
フィアさんに似た使い魔の大きな顔が、ケシー先生に向いた。
「あなたとハープの魔法は繋がっているんだから。
ハープの魔法は害でしかない」
ケシー先生が軽く手を振ると、どこからか現れたペンがその手に収まった。
「もう還りなさい」
ケシー先生は言いながら、ペンを振る。
魔法陣に吸い込まれるように、2柱の使い魔は姿を消した。
──そういえば、ケシー先生には、今契約している使い魔がいないって言っていた。
でも、前に契約していた使い魔は2柱いたと。
あの2柱は、その2柱だったのだろうか。
「僕たち、ケシーさんの言葉に縛られないんだよ」
「私たち、ケシーさんとの契約は解消しましたよ」
すぐにどこかから、ハープさんとフィアさんが姿を現した。
やはり、あの2柱の使い魔に似ている。
「もし解約してなかったらあっちに還すのに」
ケシー先生が、子供みたいにむくれた。
それを笑って見守るハープさんとフィアさんに挟まれて、まるで親子みたいだ。
「……先生は、あの生徒だったんですね……。」
「ケイトさん、あのって何?」
つい声に出してしまったみたい。
「ケシーさんが問題児だった頃の噂じゃないかな?」
「ケシーさんの悪名の高いあの噂のことでしょう?」
ハープさんとフィアさんが顔をつきあわせて言った。
「……ケイトさん、正直に言って。
あなたは何を噂で聞いたの?」
私はとても、正直に言うことはできなかった。
ハープ→ハバホーフ
フィア→ハバスフィア
ケシー→ラケシス
作中の人物の名前については、愛称→フルネームと、このようになっております。