救
それから二週間が過ぎた。
「どうなったかね」
二週間前、志波は突然旅立ちを宣言するや否や別の部屋にこもり、一時間ほどで出てきたかと思うと、荷物をまとめ、本当に家を出た。
タリムはその勢いに飲まれ、止めることもせずに志波の後ろ姿を見送った。それが最後。
それ以来、この二週間のうちに志波からは何の音沙汰もなく――そもそも連絡手段がないが――タリムはいつもと変わらぬ日々を過ごしていた。幸い、志波がいないこの二週間の間に天啓が下ることはなかった。
いつもと違うことといえば、ルイに志波のことを洗いざらい話したぐらいである。志波の熱意を知れば引かれてしまうことも想定していたのだが、これまた幸運なことに、ルイは志波の思いに感激している様子だった。キツネにとっては特定の個人から好意を寄せられるということ自体が稀であるため、ただそれだけでも嬉しかったようだ。恋愛感情はないため脈ありとは言えないが、一度会って会話をしただけの間柄にしては十分な高評価であるといえる。
しかし、志波が何故急遽あんな行動に出たのか、タリムには謎である。何か良案を思いついたことを宣言してはいたものの、本当にそんなものが存在するのか、あったとしても何故どこかに旅立つのか、わからぬことしかない。
タリムは志波が戻ってくるのを大人しく待っていた。結果として、自分は助言を請われたものの何もしておらず、家に招かれ、話を聞いて茶を飲んだだけである。自分が志波の協力者であるとは、とてもじゃないが言えない。しかし、それでもキツネの嫁入りの阻止については多少なりとも興味はあるし、志波も期待して待てと言っていたこととて、大人しく待つのが吉である。
ポカポカとした陽気の中、タリムは石碑のそばに立つ椎の木の上に寝転がっていた。ここ一週間ほど、天気雨どころか雨自体が全く降っておらず、日向ぼっこに適した晴れやかな日々が続いている。こんな日は木や塀の上に転がって日がな一日過ごすのがタリムの定番である。そして、ここ数日はこの石碑のそばの椎の木を寝床にしている。
志波がいまどこにいて何をしているのかはわからないが、彼の一番の関心事がキツネの嫁入りである以上、この石碑を確認しにくることが一度や二度はあるはずだ。だからタリムはここにいた。
日がな一日空を眺める日々である。
「――やっと見つけました」
ぼおっと空を見上げていたタリムの耳に覚えのある声が飛び込んできた。タリムは起き上がり、視線を声の主に向けた。
そこには志波が立っていた。
挨拶代わりに片手をあげ、顔には笑みを浮かべている。彼の家で二週間前に見たどの笑みとも違う、力の抜けたどこかだらしなささえ感じられる笑みだ。
「お久しぶりです。変わりありませんか」
「うん。もともと変化ない暮らしが普通だから」
言葉を返す。
その返事に、志波は何に納得したのか、ひとつ頷く。そして一度大きく伸びをし、そのままの体勢で空を見上げた。
その顔が、今日のような日にふさわしい朗らかな色を含んだ。
「いい天気ですね」
「うん」
雲ひとつない青空だ。
「もうすっかり夏ですね」
「うん」
梅雨も明け、七月も半ばに入っている。
「清々しくて困っちゃうぐらいですね」
「うん」
困るということはない。
「晴れがましいですよね」
天気の話はもういいよ。
返事がなくとも志波は喋る。
「明日も晴れると思いますか?」
知らんわ。
「キミは気象予報士にでもなったのか? ん?」
苛立ちを臆面も隠さず言う。
「当たらずとも遠からずですね。――ちなみに明日は晴れです。明後日も、明々後日も」
タリムの苛立ちに気づいているのかいないのか、志波が得意げな顔で言った。
「私の力で」
人差し指をピンと立て、含めた物言いでそう告げた。そして、もう片方の手をズボンのポケットに突っ込み、何やら白いものを取り出す。
一瞬ただのゴミの塊に見えたそれは、
「てるてる坊主……」
真っ白な布で作られたてるてる坊主だった。
ポケットの中で圧迫されたためひしゃげてしまっているが、確かにてるてる坊主である。晴れの願掛けとして軒先などに吊るすものだが、あくまで気休め程度の効果しか期待はできない代物だ。
目の前の男は、その代物を見せつけるようにしてタリムに突きだしている。
「ここ一週間、やけに晴れの日が続いているとは思いませんでしたか?」
「そうだね」
「この晴れは、私が作ったてるてる坊主の力によるものなのです!」
志波が高らかに言い放った。
それは予想していた言葉だったが、タリムはあえて疑問の声を発した。
「はあ?」
猜疑心を目一杯に含んで。
「私は旅立ってから一週間のうちに身につけたのです。てるてる坊主を用いた日照り乞いの力を」
飛び出す妄言。
タリムは取りあえず黙って話を聞くことを選択した。
「順を追って話しましょう」
志波が語りだす。
「二週間前のあの日、私はくじけかけました。ルイさんとの明るい未来のためにはキツネの嫁入りを阻止することは最低限必要なこと。しかしいくら考えてみてもその手段は思いつかず、当事者であるキツネに縋る思いで助言を頼ってみても、非情な現実を改めて認識させられただけでした。
しかしあの日、私は思いついたのです。キーワードはふたつ。『人間じゃなくなる』、『自然への対処』、そう、ただの人では阻止は不可能。ならば答えは簡単。人を超えればよいのです。その考えに至ったとき、私は閃きました。キツネの嫁入りの最も重要な要素は何か。それは天気雨です。天気雨こそがキツネの嫁入りの象徴であり、代替不可能な要素。天気雨さえ発生しなければ嫁入りは成立しえない。であれば、やることはひとつです。雨を降らせなければいい。人を超えた力ならば、それも可能なはずです。しかし、当然のことながらその時の私には雨を降らせないようにする力などない。だから私は旅立ちを決意したのです。幸い、インターネットで検索して力を身につける方法を見つけました。日照り乞いを行える方がいたのです。すぐに連絡を取り、相応の謝礼をお支払いすることを条件に、力を教えていただくことも快諾され、一週間の訓練を経て、無事にこうしててるてる坊主による日照り乞いの力を身につけたのです」
一息にそこまで言って、志波は話を終えた。本人はすっきりした顔をしているが、タリムの方はそうはいかなかった。
「それ効くの?」
てるてる坊主を指差す。顛末を聞かされても、疑念は晴れない。てるてる坊主は、形が崩れていることも相まって神秘性も何も感じられない。
「現に晴れています」
空を指差す。
そんなもの偶然の一言で片づけられるだろうに。タリムはそう思ったが口には出さなかった。顔には出ているだろうが。
「疑っていますね」
「うん」
「この力が確かなものだということは、天啓が下りた時に証明できます。天啓の翌日には必ず天気雨が降るはずですから。この一週間は力を試しただけ。本番は天啓が――!?」
志波が言い終える前に、不意に石碑が光を放った。二人とも反射的に顔を覆う。目を開けていられないほどの眩しい光だ。
そして一瞬の間を置き、光は急激に収束した。
「いまのはまさか……」
驚いた顔で、志波が石碑に視線を向ける。と、その顔から驚きの色が消え去り、代わりに険しい表情が浮かんだ。
石碑を見下ろす形だったタリムは、椎の木から飛び降り、志波の隣に立った。同じようにして石碑を見ると、そこには名前が刻んであった。キツネの名と、イエの名。
キツネの嫁入りの天啓が下りたのだ。
「……初めて見た」
思わず声に出た。タリムは天啓が降りる瞬間を目にしたことなどなかった。天啓は日や時刻に規則性がないため、狙ってみることができないし、積極的に見ようと思うものでもないからだ。人間の中にはその瞬間を目にしたいと望むものも少なからずいるが、直接目にしたものは両手で足りるほどだろう。
「ついに来ました」
微かな志波の声が、タリムの耳に届いた。仰ぎ見た先、志波の顔は険しいままだったが、その口ははっきりと笑みの形を作っている。
「私のてるてる坊主の力、存分にお見せしましょう!」
空を仰ぎ、声高に宣言する。
そしてタリムに向き直り、右手を上げ、
「すみませんが、作業に専念しなければならないので私は家に帰ります! 明日、我が家で会いましょう!」
力強く言い放ち、走り出した。
去っていくその後ろ姿に、タリムは疑いの視線を向けずにはいられなかった。
翌日、タリムは志波の家にいた。二週間前と同じ場所に座り、窓越しに雲ひとつない青空を眺めている。なぜこんな日に、タリムの定番である日向ぼっこをしていないのか。その理由のひとつは志波に会いに来たため。
そしてもうひとつは、雨が降っているからである。
「結局降ったね、雨」
茶をすすりながら、向かいに座る志波に顔を向けた。
「……そうですね」
そこにあるのは既に見飽きている笑みだった。
「まだ力が足りなかった、それだけのことです。なんだかんだで付け焼刃のようなものでしたからね」
日照り乞いは明らかに失敗しているのだが、焦る様子も取り乱す様子もなく、落ち着いている。
「まだ私には最後の手段が残っています。これはひとつの賭けでもあるのですが……」
「まだやるの?」
「やりますよ。次は二段構えです。――それが成功したとき、私の目的は達成されます」
タリムは「ふーん」と、気のない返事をする。
「明日その方法を実行します。この時間に、またここに来ていただけませんか」
さらに翌日、タリムは志波の家、その玄関に立っていた。
見上げれば、そこには青空が広がっている。昨日の天気予報では降水確率九十パーセントだったが、志波のおかげなのか、昨日とは異なり雨は一滴も降っていない。正真正銘の晴れだ。
ドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。
「……」
そのまましばし待ったが返事がない。ドアの向こうからは僅かな物音さえ聞こえてこなかった。
「志波ぁー?」
声をかけながら、タリムはドアノブに手をかけてみた。造作もなく、ドアが開く。
「おいおい」
大成町は都会とは言えない町ではあるが、家を留守にする時に鍵をかけずにおけるような田舎でもない。
「入るよー」
タリムは一応用心して玄関の敷居を跨いだ。家の中を見回しても妙な気配はない。これまでに二度訪れた志波家と見た目に違いはない。だからタリムは中に進んだ。向かうのは居間。タリムはそこにしか入ったことはないし、そこ以外にも用事はない。
徹夜でもして眠ってしまっているのだろうか。そんなことを考えながら、しかし用心の心は持ったまま、タリムは居間のドアを開けた。
そこには志波がいた。
しかしその志波は、タリムが見慣れた姿の志波ではなかった。
「……おいおい」
志波は宙に浮いていた。その首から、一条の縄が天井に向かって伸びている。その先は、昨日はなかったはずの太い杭に結ばれていた。
志波は天井から吊り下がっていた。
「…………絶望した?」
目の前の光景にそんな言葉が漏れた。驚きをあまり感じていないのは、元来人間に対する興味が薄いからか、それともキツネだからだろうか。
現世に絶望して首を吊ったのか、しかし結果は成功であるはずだ。今日は晴れている。
タリムが視線を落とすと、テーブルの上に書置きが置いてあるのが見えた。文面はシンプルなものだ。
『日照り乞いの最後の手段。それは、命を代償にした一世一代のてるてる坊主』
「――人間てるてる坊主が最後の手段かい」
タリムは呆れた声を出す。
超自然的な力、呪術や神通力と呼ばれる類のものは、代償としてその生命力やら命そのものを失うことで力を増すのが、古今東西の常道だ。少なくともタリムの知識ではそうだ。生贄を用意することで本来ありえない奇跡を起こすことが可能になる。
志波はその常道を正確に、迷いなく行ったと見える。
ただし、
「成功しても得るものはないでしょ」
呟いたタリムの耳に、耳障りな音が飛び込んできた。
それは窓を打つ雨粒の音。
「失敗してるし……」
「――誠に遺憾ですね」
居間に声が響いた。
それは突然だった。驚いたタリムが辺りを見回す。周囲には誰もおらず、気配すら感じられない。
「そんなにきょろきょろしても誰もいませんよ。喋っているのは私です。志波です」
声に促され、タリムは吊られたままの状態の志波の遺体を見た。
「あーっと、その私じゃありません。それはもう死体です。完全に死体。もはや物でしかありません」
声はなおも居間全体に響いている。それは確かに志波のものではあるが、その声の出処が分からない。
「どこにいる? どこから喋ってるの?」
「どこ、と言われると、なんと答えたものかちょっとわかりませんので、まずははっきりと今の私の状態をお伝えします。――私、いま家になっています。家と一体化しています」
返ってきたのは、にわかには信じられない答えだった。
「正確には、私の魂が家に宿った、憑りついた状態だと思われます。専門的な知識がないので勝手な推測ですが」
自分のことだというのに、いまひとつ正確でない曖昧な言葉が返ってくる。
しかし、志波の言っていることは、現状を表すには正しいようだ。目の前には志波の遺体があるが、確かに彼の意思はいまこの場に存在している。タリムともしっかりと会話が成立しており、録音したものなどではない。
「なんでそんなことになってんの?」
「それは単純なことですよ。死んだときに、その場所自体や近くにあった物に霊体が宿ったり、残り続けたりすることはよくあることじゃないですか。オカルト話として。あまつさえ私の場合は、それを願いながら死んだんですから、このような結果になるのは当然。というよりも、ならない方が困りますよ」
志波の答えに、タリムは目を見開いた。
「願ったの? なんでよ」
「言ったじゃないですか、最後の手段は二段構えだと。命を代償にしたてるてる坊主が一段目。家に憑依状態になるのが二段目。家に憑りつけるかどうかは、実際にできるものなのかもわかりませんでしたから、本当に賭けでしたけどね」
「いやいや、賭けかどうかの前になんで家に憑りつくの? 何のために?」
不意に居間に静寂が訪れた。しばしの間を置き、志波が答える。
「ふふふ、それこそが私の最後の手段。――――ルイさんにこの家に嫁入りしてもらおうという計画なのです!」
相変わらず勿体ぶった言い方をする癖がある。
「ルイさんと添い遂げるのが困難を極めるということはわかりました。そして、嫁入りを妨害し続けることが現実的に不可能であることもわかりました。ならば、妥協するしかありません。当初の目的とは多少異なっていようとも、どうにか妥協できるラインで良しとするほかないのです。だから私はそのラインを、新たな目的を設定したのです。この家に憑りついてルイさんと仲睦まじい生活を送る、と」
声はすれども、当然志波の姿はこの場にはない。天井から下がるものを除けば。しかし、タリムには身振り手振りを交えて、志波が熱弁する様がまざまざと瞼に浮かんだ。それほど志波の声には感情が込められていた。
「これならば愛情も何も感じない女性と結婚する必要はなく、人の道を外れずに済みます。概念的なものであるイエになることはできないので、直接の婚姻関係にはなりませんが、家族の中の夫よりは、建物である家の方がより嫁入りしたキツネとの仲は親密なものである気もします」
最後の部分は、それはもう単なるイメージでしかないんじゃないか、とタリムは思ったが、それを口にはしなかった。その声を聴く限り志波はいま満足している。自分が導いた結果に心から満足しているのだ。それに横やりを入れるのは無粋な気がした。
理解は難解だし、共感もできないが。
「キミがそれでいいならいいけどさ、その目的を達成するには、ルイがこの家に嫁入りしないといけないよね」
「その通りです」
「でもこの家には家族がいないよね。家庭がない、すなわちイエがない」
「すでに手筈は整えてあります。名義は祖父に戻し、貸し家にしてもらえるよう連絡しておきました。あとは入居者を待つだけという状態です」
志波が得意気に答える。
しかし、タリムはひとつ大きなため息を吐いた。
「…………こんな家に住む人おらんでしょ」
「えっ!?」
しばし、居間に沈黙が流れた。
「そんなに汚い家じゃないと思うのですが。それはまあ確かに古いことは古い――」
「家が喋るじゃん」
「…………」
「地縛霊のついた家なんて誰も住みたくないよ」
「いやいや、喋ることは否定しませんけど地縛霊はひどいですよ。別に恨み辛みを抱えているわけでもなし」
「同じでしょ。この家は一般的には幽霊屋敷と呼ばれるものだよ」
「本当ですか?」
「キミはいまなんだい?」
「家です」
「その中身は?」
「幽霊」
「本当だろ?」
「本当ですねえ」
他人事のようにしみじみと言う。現実逃避をしたがっているのだろう。
「格安でもダメですかねえ」
流石に諦めが悪い。キツネに恋して死ぬだけの男ではある。
「家賃の安さに飛びついて幽霊に包まれて生活することを受け入れるのは、貧乏な学生かフリーターが関の山じゃない? 子供のいない夫婦でも難しいよね、多分」
志波はひとつ唸り、しばし黙る。
嫁入りの対象になるイエは、一組の夫婦と一人以上の子供を有していることが条件となる。古臭い日本的イエ観念に縛られた条件ではあるが、子孫繁栄のみを目的とした場合、これらは確かな必要条件である。
「誰かいい人いませんか? この家に住んでくれそうな人」
いかにもおずおずといった風の、志波の声が響く。
「そんなの知るわけないじゃん」
「だってキツネは皆さんご祝儀の集金で町中の人に会うじゃないですか」
「分担するから町民全員を知ってるわけじゃないし、数回あったぐらいで覚えられるわけもないじゃん。よっぽど特徴があったら別だけど」
「特徴はあるじゃないですか。お金に困っていそうな人。それもいまにも住む家を追い出されるぐらいの人。なかなかインパクトのある特徴じゃないですか」
「そんな悲惨な人を覚えときたくないよ」
志波の願いを一蹴し、その声を遮断するように瞼を閉じた。
死んでまで目的を遂げようとしたのに、残念ながら見通しが甘かったようだ。家に憑りつけたという幸運には恵まれたものの、ここからさらに、幽霊屋敷に住んでくれる変わり者の住人が見つかるという幸運はなかなか起きないだろう。
タリムもここまで付き合った手前、どうせなら志波に目的を達成してもらいたいという思いはある。しかし助けようにも助けられない。キツネの嫁入りを願う人間は多くいるが、だからといってこんな家に住むという条件を飲むのは少数だろうし、そもそもこの家にキツネが嫁入りするかどうかは全くの運任せだ。となれば、やはりどうしようもないぐらいに金銭的に困窮した者しか……。
そこまで考えた時、不意に脳裏にある光景が浮かんだ。それはつい最近の記憶。
タリムはおもむろに瞼を開いた。
「――いたかも、悲惨な人」
一週間後、タリムは石碑のそばに立つ椎の木に登り、仰向けに寝転がっていた。空は快晴。大成町ではよく見る、雲ひとつない青空だ。
タリムはいま、穏やかな日々を過ごしていた。この三週間ほど、些細なものではあったが、志波の件で普段感じないような不安や心配の思いを得ていたため、精神的に疲れていた。人間にとってはとうに慣れてしまったようなものかもしれないが、タリムにとっては疲れた。おまけに、一週間前には人探しで町の中を駆け回り、肉体的にも随分とくたびれた。
ただ、その甲斐もあって、現在志波の家には住人がいる。
『いやあ、助かりました。アパートを追い出される寸前だったもので。身分不相応な住まいはやっぱり駄目ですね』
引っ越しが住んだその日、わっはっは、と豪快に笑いながら父親が言った。母親も娘も、志波との歪な同居状態を許容してくれるようだった。
彼らはとある貧乏一家。
名前も知らない、素性も知らない、ただタリムの記憶に残っていた、とある貧乏一家。
タリムが志波からの嘆願を受けたあの日、偶然会っただけの祝儀を貰っただけの家族だ。顔見知りでもなんでもないこの家族の存在をタリムが思い出したことは、志波にとって幸運だった。そして、この家族が金銭的に逼迫しているのはもとより、いまや家に憑りつく幽霊である志波の存在に寛容でいてくれるような人々であったことは、さらなる幸運だったといえる。この二つの条件をクリアしなければ入居は成立しなかったのだ。
かくして、志波の家にはイエが成立した。条件は整っている。
志波もタリムも、この三週間のうちに人事は尽くした、あとは文字通り天命を待つだけである。
ここまで手を貸せば、タリムも志波の目的の成就を願うほかない。多少なりとも情は移っているし、ここまでやってきたことが無駄になるのも癪だ。人間とキツネの恋自体が成就するなどとは全く以て思っていないが、両者が人並み以上に幸せな生活を送ることはできるはず。そのためにも、ルイには志波の家、もといあのイエに嫁いでもらわなければならない。
そんなことを考えながら、改めて空に昇る太陽を見上げる。柄にもなく、というか生まれて初めて天に願った。
その時、不意にタリムの背後から光が走った。天啓が下りた合図だ。
タリムは腰を上げ、石碑の前に降り立った。そして刻まれた文字を眺める。タリムの口元に志波のものによく似た笑みが浮かんだ。
志波俊之介の幸福は始まったばかりだ。