吐
志波はその日、家で読書をしながら過ごしていた。黙々と本を読み進めていたが、ふと小腹が空いたのに気づいた。時計を見れば、時刻は午後十一時をまわったところ。一度気にしてしまうと、そのままというわけにもいかず、志波は本を読む手を止めた。齢三十にして独身の身の上であるため、家の中には食材やらインスタント食品やら、食べられるものはいくらでもあったが、何とはなしに稲荷寿司が食べたくなった。
「思えばこの、稲荷寿司を食べたい、という衝動が生まれたこと自体が運命だったのかもしれません」
「キツネは年中思ってるからね」
志波は近場のコンビニに出かけ、稲荷寿司を買った。そしてその帰り道、家までの帰路にある公園の前で、ふと足を止める。志波は思った。たまには外で食べようかな、と。夜風にあたりながら似非風流人でも気取ってみようかな、と。
「思えばこの、夜風に――」
「キツネも年中あたってたりするからね」
公園のベンチに腰を下ろし、パックを開けて稲荷寿司を食べ始めた志波は、そのひとつ目を飲み込もうしたところで、何かの気配に気づいた。目を凝らして視線を巡らしてみると、背の高い遊具の上に座り込む人影を見つけた。その人影の正体を見極めるのには、目を凝らす必要もなかった。
「その人影は、人影というにはあまりにも眩い金色の衣でその身体を包んでいたからです」
人影の正体はキツネだった。町の中を歩いていれば、昼夜を問わずキツネを目にするのは珍しくもないことだが、そのときの志波の目に映ったキツネは普段のものとは違っていた。
「一目見ただけで目を、いや、心を奪われてしまったのです」
「急展開過ぎない?」
「一目ぼれですからそうもなりましょう。私の生涯で初めてのことでした」
「もう二度とないだろうね……」
心奪われた結果、志波は呆けた顔でキツネの姿に見とれていたが、さすがにその視線に気づいたキツネが志波の方を向いた。志波の姿を見止め、一瞬びくりと身体が震えたが、次の瞬間にはキツネの視線は志波の手元に落ちていた。
「好物ですからね」
「好物だからね」
夜も更けたこの時間になれば、人間だけでなくキツネも腹を空かせるのはもっともだ、と、志波はすぐさま稲荷寿司を差し出し、「ご一緒にどうですか」と声をかけた。その言葉を聞いたキツネを、何の躊躇いもなく志波の元まで駆け寄ってきた。「くれるの?」キツネの第一声はそれだった。
「その声は言葉の響きとは裏腹に、少女のものではなく、成熟した女性のものでした。それだけで私は劣情を――」
「…………」
キツネは差し出された稲荷寿司をひょいと一口で食べる。そして、好物を目の前にしたためか、志波の顔に視線を向けることはほとんどせず、一心不乱に次々と稲荷寿司を口に運んでいった。
そんな調子であっという間に稲荷寿司を平らげたキツネは、視線を上げる。志波の顔をまっすぐに見つめ、そして満面の笑みで言った。「ありがとう、おいしかったよ! お礼にキミのお稲荷さんも食べちゃおうかな!」と。
「女子高って下ネタが飛び交うって本当なんですかね?」
「…………メスしかいないからね。女子高もキツネも」
キツネはそう言ったのち、何の反応も返せずにいる志波の様子に気づくと、みるみるうちにその顔を赤く染めた。そして早口の慌てた様子で、「いやいや、すみませんすみません。ちょっと、ね。みんな言ってる定番のフレーズなの、これ。キツネ界の鉄板。ベタ。でも男性との接点なんて当然ないから、実際に言う機会はなくて。せっかくのチャンスだったし、予期せぬ稲荷寿司との出会いに我を忘れたと言うか、ちょっと興奮しちゃったというか、いや、性的なものじゃなくてね。ちょっと調子に乗っちゃっただけで――」言い訳を並べ立てた。
対する志波は、
「娶るしかない!」
「なんで?」
「まあ、あとは彼女を宥めて他愛ない話をすることを試みました。キツネと接する機会なんてほとんどありませんから緊張しましたが……。そして日を跨いだころに帰ることになり、私は彼女に名前を尋ね、また話したいという旨を伝えましたが、彼女は曖昧な言葉を返して夜の闇に消えていきました」
「好きになった理由がわからないんだけど。その他愛ない話の内容とかは重要じゃないの?」
「そんなもの枝葉末節に過ぎません。すでに出会った瞬間に愛は生まれたのです。そしてそれこそがこの愛が本物であるという証明!」
「どういうことよ」
「恋愛感情というものはそもそも根源的に人間に備わっていたものではありません。ヒトではなく人間としての文化を育み、学習することで成立した概念です。ヒトが生来持っている愛、それは一目ぼれと言う形でしか発露しません。一目見て、この相手と子を成したいと思う気持ちこそがヒトとしての愛! よって、私の彼女への愛は本物なのです!」
「子はできんでしょ」
「しかし大義名分はあります。よって、私の愛は難癖をつけられる謂れはないものなのです」
タリムは、ふーん、と納得したのかどうか曖昧な返事を漏らした。そしてすっかり冷めた茶を一口飲む。
「ちなみにそのキツネの名前は?」
「ルイさんと言っていました」
知っている名前だ。キツネたちは年齢と言う概念をはっきりとは持っていないため正確ではないが、タリムよりもやや長生きしているキツネだったはずである。タリムの持つ印象では、凡庸で地味。別段外見的にも優れたところは見当たらないと思うし、志波が再三言っている神々しいというのも当てはまらない。
「なんで好きになったかね」
「この人は添い遂げるに値すると、そう感じたからです。なぜ感じたかは、丸一日考えても不明でした。――――愛は評論できるものではないのですから」
言って、湯呑に茶を注ぐ。
見ず知らずの人間の食事を奪い、下品な言葉を吐いて赤面する年増に魅力を感じたらしい。
本人がそう主張するならば仕方ない、とタリムは納得する。何をもってして自分のパートナーを選択するかは人によりけり、千差万別。志波がキツネに恋をしたことについては、理解は難解であるが、そういうものとして納得することはできる。
「いままで私が目にしてきた女性は、どうも商品的な女性ばかりだったのです。それこそ文化的に作られた『女性』です。世の多くの女性は形式的な『女性』に、社会の作った女性像に成ろうとします。しかし私が求める伴侶はそんな女性ではなかったのです」
「単に女に相手にされてこなかっただけじゃん」
「それは違います」
志波はぴしゃりと否定した。
「私は勉学もスポーツもある程度のことは無難にこなすことができましたし、外見も客観的に見て並み以上であることは確かなので、これまでに女性とねんごろになる機会はありました」
志波はたんたんと言葉を紡ぐ。その声色は落ち着いたもので、虚勢を張っているような様子は微塵も感じられない。
モテない残念男が人間の相手を見つけることを諦めて獣に目覚めたわけではないようである。
「ちなみにこの家に加え、市内の方にあるマンションも祖父から譲り受けたので、その家賃収入で暮らしも安定しています。たまにはアルバイトもしていますし」
「坊ちゃんかい」
「生まれが幸運なのは自覚しています。親はすでに他界していますが」
「こんな平日の朝に家にいるぐらいだからね」
時刻は昼を迎えようかという頃。キツネを家に上げて妙な恋愛相談をしている暇もあるというものだ。
タリムとしては、正直、道端でいきなり妄言をぶつけてくる狂人を相手にする心づもりでいたのだが、志波は人並み以上に幸福で順風満帆な人生を過ごしている真人間のようである。
「もう人間の恋人作りなよ」
「いえ、私にはルイさんしかいません。彼女を娶ることこそわが人生の至上命題」
「恋人作って結婚したうえでルイに嫁入りしてもらえばいいじゃん。運の要素でかいけど」
キツネの嫁入り先は完全にランダムである。実際には天啓、神の思し召しと言えるのだが、その選択の基準や条件が全く以て不明であるため、人間にとってもキツネにとってもランダムで選ばれているとしか言えない状況である。
「女にモテないわけじゃないなら、誰か見繕って結婚して家庭を作る。そうすれば嫁入りの候補にはなるでしょ。あとは神様に祈りながら嫁ぎ先に選ばれるのを待てばいい」
「そんなことはできません! 本命がいるのに、しかもその女性と添い遂げるという目的を成就するために、好意を持っていない女性と結婚など! そんな非人道的な行いできるはずがありません!」
志波は大仰に腕を振るい、声を荒らげた。
「それにキツネはそのイエの夫に嫁ぐわけではありません。あくまでイエに嫁ぐもの。伴侶にはなりえない」
「妥協しようよ」
「まだ妥協する段階ではありません」
きっぱりと言った。その目を見るに、折れる気はさらさらない。
「でもどんだけ頑張っても相思相愛は無理だしさ。キツネには恋愛感情も性欲もないし」
これは重要な点である。そもそもキツネには生物学的な括りでいうところの雌しか存在しない。純粋な生物ではなく精霊的な存在であるため、性別が定義されるかは議論の余地があるが、身体的特徴からは雌だと言える。
そしてキツネは生殖行為を行わない。嫁入りを行ったキツネは、そのイエでの生活を数年経ることで腹に子供を宿すが、それには要因となる行為が何ひとつ必要ない。そのイエの人間と交わる必要などないし、何らかの儀式が行われることすらない。何の脈絡もなくただただ自然に腹に子を宿すのである。
キツネはこのような存在であるため、そこに恋愛感情は勿論のこと、生物には必須である性欲すらない。
「親愛の情ぐらいはあるけど、性欲は皆無。他の感情はなんとなくわかるけど、エロ系のムラムラだけは全然理解不能だし」
下ネタを理解することはできるが。
「だから、ルイさんが私を好きになってくださることはないと」
「餌付けもしたし、好意的に思われることはあるだろうけど、キミみたいな『本物の愛』を抱いてくれることは永久にないね」
タリムの言葉に、志波はうなだれた。
方策を考えてどうこうできるレベルの問題ではない。種の違いというものは大きな壁になる。それも異文化交流でどうにかできるものでもない。本能的に無理があるのだ。
出会ってからここまで、腰は低いもののどこか自信に満ちていた志波が、いまはさすがに気落ちしている様子だ。
タリムはそう思ったが、しかし俯いた志波の顔、その口元から「くっくっ」と静かな笑いが漏れた。
「狂った?」
「狂っていません」
志波が顔を上げる。口元には自嘲するような笑みが浮かんでいる。
「いまおっしゃられたことは私も想定していました。なにせ恋に落ちたのは一か月前ですからね。人間とキツネの恋など私も聞いたこともありませんでしたし、様々な推測は済ませています。そしてその結果としてひとつの結論に至ったのです――嫁入りを阻止する、と」
言ううちに笑みは消えており、志波はこれまでにないほど真剣な表情でタリムを見ていた。
「恋愛感情はあくまで学習で得たもの。ならばルイさんにも恋愛感情を芽生えさせることは不可能ではないはず。長い年月が必要となるでしょうが、一縷の望みはあります。そしてそのためには、ルイさんをどこぞのイエに軟禁状態にされるわけにはいかない」
タリムに言い聞かせるように言葉を並べる。
「だから初めからそれを頼んだのです。ルイさんと結ばれる方法ではなく、嫁入りを阻止する方法を教えていただきたいと。それなのにいつの間にかこの恋を諦めさせよう諦めさせようという方向で話をして……」
志波の目に不満げな色が見えた。はっきりとは言わないものの抗議の意思は明らかだ。
しかし、タリムが志波の恋を諦めさせる方向に話を持っていこうとしているのには理由がある。
「嫁入りを阻止する方法なんて見当もつかないね」
この大成町に、キツネの嫁入りを阻止しようとした輩などいたことがない。キツネが嫁いだイエを羨んだり妬んだりする人間は少なからずいるが、そんな連中も嫁入り制度自体を廃止したいわけでは勿論ない。
「どっかのイエに嫁いだとしても、家の外には出られるし軟禁状態じゃないでしょ。嫁入りしてもしなくても追いかけ続ければいいじゃん」
タリムの言葉に、志波が目を剥いた。
「そんなのいいわけないでしょう! 嫁ですよ、嫁! 嫁ぐんですよ! 現実的には精神的にも肉体的にも交わりがないとはいえ、嫁に行くという事実は事実なのですよ。自分が思いを寄せる相手が誰かのもとに嫁ぐことを静観することなど私にはできません!」
「その独占欲は理解できなくもないけどさ」
「だから阻止してみせます!」
「それは無理だって」
タリムは大きく息を吐いた。
そして、湯呑に残っていた茶を全て飲み干し、またひとつ大きく息を吐いてから、志波をまっすぐに見る。
「まずキツネの嫁入りの全工程をおさらいしようか。ある日石碑に天啓が下る。その翌日に一日を通して天気雨が降る。キツネが嫁ぎ先を訪れ、嫁入りの挨拶をする。家のものは稲荷寿司でキツネを迎える。他のキツネが手分けして祝儀を集める。それを嫁ぎ先の家に持っていく。金を受け渡す。それで終了。たったそれだけ。それぞれの手順には条件とかも特になし。茶々を入れることすら無理」
志波から反応は返ってこない。タリムの次の言葉を促すように、ただ黙っている。タリムはさらにひとつ息を吐き、口を開く。
「選ばれたキツネを軟禁して、家に行けないようにする?」
「そんな非人道的なことはしません」
答えはすぐに返ってきた。
次。
「選ばれた家の人間を皆殺しにして嫁ぎ先自体をなくする?」
「そんな非人道的なことはしません」
次。
「選ばれた家そのものを破壊して嫁ぎ先自体をなくする?」
「そんな非人道的なことはしません」
次。
「集められた祝儀を強奪する?」
「そんな非人道的なことはしません」
「そう。それで正解」
タリムが考えた阻止の方法はこの程度のものだ。そしてそれができない理由は、志波の返答が物語っている。阻止するにはイコール非人道的な力業が必要になる。志波とは出会って数時間の間柄でしかないが、自分の欲望のためにそんなことができるような人間でないことは明白である。
それに、実際に行動に移したとしても無駄になるだろう。これまでの嫁入りの歴史の中で、石碑に名前を刻まれたキツネとイエに関係するものに不幸が訪れたことはないらしい。そしてこの幸福状態は嫁入りが成立する前、名前が刻まれた瞬間から成立するのだ。そんな幸福状態のイエに対して、嫁入りの阻止なんていう不幸中の不幸を起こすことなどできる訳がない。
「いまあげた方法を取れば、阻止するのに成功したとしても、キミの考える真っ当な人間じゃあなくなるでしょ。そうはなりたくないよね?」
タリムの問いかけに、志波は沈黙で答えた。
せっかく相談を持ちかけたというのに、期待外れの助言しかできず申し訳ないが、無理なものは無理だ。キツネの嫁入りは、伝統的な風習というよりはひとつの自然現象である。
「人間は文化を発展させて発明もして、それでも自然にはなかなか勝てないでしょ。いま降ってる雨に対しても、傘をさして雨を防ぐっていう不完全な対処しかできないわけだし。人間の力じゃどうしようもないことはあるんだから」
タリムは窓から外を眺めた。嫁入りの日特有の天気雨がいまもなお降り続けている。
自然現象は人間の作った風習や伝統とは異なる。完全に断ち切ることも抗うこともできない、ただ耐えるか逸らすか弱めるか、そんな対処しかできないものだ。一人間がどうこうできるものではない。嫁入りもしかり。
しかし、
「なるほど」
不意に志波が口を開いた。タリムが窓から視線を戻す。
「要は人として、人間のまま挑もうというのが駄目だということですね」
「ん?」
突然放たれた志波の言葉の意味がわからず、聞き返す。
志波の視線はテーブルに落ちており、その一点を見つめながら、自分の中の推測を確かなものにするために言葉を紡いでいるように見える。
「キツネの嫁入りという自然現象。いや、超自然現象に人の浅知恵で挑もうというのが馬鹿だったということです。超自然には超自然。それしかない」
「…………」
やはり意味がわからない。
タリムは思わず小首を傾げた。その様子に気づくこともなく、志波は顔を上げ、
「ありがとうございました。あなたのおかげで妙案を思いつきました。これで嫁入りを食い止められるかもしれない」
硬く右の拳を握った。その顔には笑みさえ浮かんでいる。
タリムは傾げた首をそのままに、
「なんで?」
その声が聞こえているのかいないのか、志波はおもむろに立ち上がった。
「そうとなったらこうしてはいられません。いまの私ではこの案を実行に移すことはできない。早く準備に取りかかなければ」
そして、タリムに向かって宣言した。
「私はしばらく旅に出ます。可能な限り早く帰ってきますので、期待してお待ちください!」