叙
雲ひとつない青空から、大粒の雨がぱらぱらと落ちてくる。
「キツネの嫁入りだ」
通学途中の男子高校生たちは、空を仰いだ。
「飯田さん家だったっけ、嫁ぎ先。次は俺の家にも来てくれないかな」
「借家は除外されるよ」
「知ってるって。でも楽して幸せになるのには憧れるじゃん。宝くじみたいなものだし」
「その幸せにも最低限度の条件はあるからね。世知辛いけど」
「朝から暗くなるわ」
言葉を交わしあう高校生たち。その背後から、声をかけるものがいた。
「ちょいとキミたち」
はきはきとした、幼さの残る声だ。
高校生たちが振り返った先、そこにはひとりのキツネが立っていた。
顔に笑みを浮かべたそのキツネは、ピンと背筋を伸ばし、やや見上げる形で高校生たちにまっすぐ視線を向けている。衣服は全く身に纏っていないが、ただひとつだけ、首から小さながま口をぶら下げている。
「談笑中に失礼。ご祝儀いいかな?」
キツネは単刀直入に用件を切り出した。
「タリムさんか。今日は早いね」
高校生たちは、そのキツネ――タリムの言葉に驚くことも疑問を持つこともなく、促されるまま財布を取り出した。
「たまたま近くにいたからね。毎回、一番目に払う人はこれぐらいのタイミングだよ」
「あー、町の人全員だもんね。のんびりやってる暇はないか」
当たり前のこととして言葉を交わす。
タリムが両手を揃えて前に差し出す。高校生たちが各々小銭を取り出し、その手の上に置いた。
タリムの顔がより一層ほころび、
「ご祝儀、ありがたく頂戴いたします」
小銭の乗った両手を頭の上に掲げ、そのまま深々と頭を下げる。一拍を置いて頭を上げ、小銭をがま口に入れた。ちゃりん、と小気味よい金属音が響く。
「午前中はずっと集めて回るんだっけ?」
「大体それくらいだね。手分けしてるけど数が多いからねえ。――――それじゃあ、また次の機会に」
高校生たちに軽く手を振り、歩き始める。
「次は集金される側じゃなく貰う側だ!」
「だから無理だって」
高校生たちの言葉を背中で聞き流しながら、タリムは周囲に視線を巡らす。
そしてその視界に入った人間すべてに、声をかけていった。
「ご祝儀を頂戴してもいいかな?」
「あ――っ! くそ! 今日は大勝負に出ようと思ってたのに!」
ギャンブル狂いのダメ人間だろうが、
「ご祝儀を頂いても?」
「俺の昼飯のグレードが……」
嫁に頭が上がらず、小遣いの少ないサラリーマンだろうが、
「ご祝儀」
「ああ……日々の暮らしもつらいのに…………」
住む家を追われかけるほどの貧乏一家だろうが、
「ありがたく頂戴いたします」
分け隔てなく、例外はひとつもなく、平等に祝儀を頂いていく。
この町に住む人々から嫁入りの祝儀を得ることが、いまこの時間にタリムに与えられた役割である。だから片っ端から道行く人に声をかける。
「そこ行く紳士、ご祝儀を頂いていいかな?」
タリムは、眼前を歩み過ぎようとする男を呼び止めた。青年というには少々老けているが、こざっぱりとした雰囲気の男だ。
不意に声をかけられた男は驚いた様子で足を止めたが、タリムの姿を見止め、すぐにその意図を解した。この町の人間であれば、天気雨が降るこの状況でタリムに声をかけられれば、何の用件かはすぐに見当がつくものである。
ただ、男はタリムの姿を視界に捉えても財布を取り出すことはせず、
「申し訳ありませんが、お支払いする金は持っていません」
はっきりとした口調で言った。
そしてタリムが何か反応を返すよりも早く、
「いまは持ち合わせがありませんので。――――こういう場合は払わなくてもよいのでしょう?」
言葉を継いだ。
その男の言葉に、タリムは頷く。
「その通り。それなら問題ないよ。持たぬものから無理矢理徴収するものじゃなし」
「では、これで用件はすみましたか?」
「手間を取らせて悪かったね。それじゃあ――」
「それでは、ここからは私の用件に付き合っていただきたいのですが」
男が膝を曲げ、タリムに視線を合わせてきた。迫ってきたその顔は、神妙な面持ちをしている。
タリムは僅かに身を引き、疑問の言葉を漏らす。
「用件? 人間にそんなこと言われるのは初めてだよ。キミ顔見知りだっけ?」
「いえいえ、いまのようにご祝儀の集金の際に顔を合わせたことはあると思いますが、個人的な付き合いは全くありません。初対面同然です」
伝えられたその答えに、タリムは小首を傾げた。
「じゃあなに? 用件の見当が全然つかないんだけど。こっちは、祝いの気持ちだけ頂いたってことで、もう用は――」
「それは違います」
男が遮る。
「誠に申し訳ありませんが、私には嫁入りを祝う気持ちはないのです。嫁ぐキツネにも嫁ぎ先の家庭にも、憎しみはおろか嫉妬すら持ってはいないのですが、祝う気にはなれないのです。
突然こんなことを言って申し訳ありません。もちろんあなたの言っている、気持ちを頂いた、という言葉があくまでも形式的なものであり、いまこの場で大した意味を持って発したたわけではないことは承知しています。ただ――――いまの私にとってこれは重要なことなのです」
やや早口で並べられたその言葉は、熱を持っていた。
その熱を十分感じ取ってしまったタリムは、わずらわしさを抱きながらも口を開く。
「それがキミの用件に関係するから?」
「その通り! 理解が早くて嬉しいです」
男の顔が明るくなった。我が意を得たりとでも言いたげな様子だ。
「それがわかっても、キミの用件自体は全く見当がつかないよ。さっさと言ってくれ」
「わかりました」
男が腰を落とし、地面に膝をついた。そして深々と頭を下げ、言った。
「キツネの嫁入りを阻止する方法を教えてください!」
タリムの口がへの字に曲がった。
大成町にはキツネがいる。
彼女たちはただ町に居る。人とも動物とも積極的に交流することもせず、悠々自適にただただそこに存在している。
ただし、そんなキツネたちもひとつだけ密接に人と関わることがある。それがキツネの嫁入り。
町の一角、とある神社に鎮座する一基の石碑。町の大多数の人間には名前も知られていない何とかいう神様が祭られているその石碑に、何の前触れもなく天啓が下る。石碑にはふたつの名前が刻まれる。ひとりのキツネの名前とひとつのイエの名前。名前を刻まれたキツネは名前が刻まれたイエに嫁ぎ、十年の月日を過ごす。それがキツネの嫁入りである。
キツネが嫁いだイエには幸福が訪れる。具体的に何が起こるのか、それは当人たちにもわからないが、とにかく幸福が約束されるのだ。無病息災、家内安全、商売繁盛、交通安全、学業成就、なんでもござれである。
町に住む人々に幸福をもたらすこの嫁入りとキツネたちの存在は、その始まりを知るものがひとりもいないほどはるか昔から存在するものであり、町の住民すべてが受け入れている習わしである。皆、年に数度訪れる、ちょっとした運試し程度のものとして捉えている。
だが、志波俊之介にとってはそうではなかった。
彼は、キツネの嫁入りを容認するわけにはいかなくなってしまったのである。
「お茶は飲まれますか」
「うん。冷めてれば」
タリムは男――志波俊之介の住まいである一軒家に連れてこられていた。
突然の申し出にいささか狼狽えたものの、とにかくお願いだから手を貸してほしいと、公道で土下座をする勢いで頼まれたため、取りあえず了承した。タリムに限らず、キツネは基本的に暇を持て余しているため、今日のように祝儀を集める役目でもない限りは、工面するまでもなく時間を取ることはできる。だからこうして、一旦祝儀を集め終えてから家に招かれたのである。
だが、タリムは目の前の男が言う用件、頼みごとに対して乗り気ではない。何かをお願いされるのも時間を取られるのにも、別に不満はないが、その内容には不満、というか面倒臭さを感じていた。
「どうぞ。まだ飲めませんが」
志波がテーブルの上に湯呑を置く。ゆらりと湯気が昇っている。
その湯気を目で追いながら、タリムは口を開く。
「なんで嫁入りを阻止したいの? 損も得もないでしょ」
それは率直な疑問である。
志波が口にした、キツネの嫁入りの阻止、という言葉を、タリムは生まれて初めて耳にした。キツネの嫁入りは、この大成町に古くから存在するものであり、いつの時代からどのようにして始まったのかも分からない習わしである。その習わし、そしてキツネたちはこの町に確かに存在するものであり、町の人間にとっての日常である。準備がいるわけでも金がかかるわけでもないこの習わしは、全く以て廃れることもなく連綿と続いている。
だから、このキツネの嫁入りを阻止しよう、廃止しようという人間などこれまでに出てきたことがない。そうする理由がないのだ。
「それがあるのです。残念なことに」
志波が湯呑を取り、口元に持っていく。
「見当がつかないね」
「簡単なことですよ。人を何かに駆り立てるに足る理由なんてそう多くはない。私の理由もありがちなものです」
「というと?」
「愛です」
言って、志波は湯呑の中の茶を一息に飲み干した。タリムの目の前の湯呑はまだ湯気がゆらゆらと揺れている。熱かろうに。
志波は湯呑を置き、タリムをまっすぐに見る。
「愛です」
「誰との? いまは亡き奥様とか?」
タリムは部屋をぐるりと見回した。外観もそうだったが、住んでいる当人同様にこざっぱりとした様子である。ひとりで住むには十分すぎる広さを有している。
「結婚したことはおろか、交際の経験すらありません。この家は祖父から譲り受けたもので、独居の身です」
「じゃあ想い人ができたのか」
「その通りです」
「それがなんで嫁入りと関係するの?」
「相手がキツネだからです」
タリムは口を閉じた。
嫁入りの阻止、なんてことを聞いたことはないが、それと同様、人間がキツネに恋をしたなんてことも聞いたことがない。
なぜなら、
「キツネって…………獣じゃん。キミは動物を性的な目で見るのか?」
「動物じゃありません。キツネです。狐ではなくキツネ。この両者は大きく違う。キツネには神々しさがあります。その体毛と同じ金色のオーラをその身に宿しているのです。そしてその目には理知的な輝きがあり、獣のものとは似ても似つかないものです。キツネは、動物はおろか、人をも超えた存在なのです。だから私は、動物には欲情しませんがキツネには欲情するのです。――ちなみに今現在、あなたにも少なからぬ劣情を催しています」
志波の目に理知的でない光りが宿る。タリムは思わず目を逸らした。
だが、その目からは志波が嘘を言っていないことが見て取れた。それだけ真剣な眼差しをしてはいる。それはわかる。
「物好きとしか言えんねえ」
「自分を卑下するのは、一般的に言って悪い癖だと思いますよ」
「そうね」
「それで、私と彼女の馴れ初めをお話ししたいのですが」
「うん。興味はさほど湧かないけど聞くだけ聞くよ」
「あれは一か月前のことでした――」